突然の叩きつけられるような衝撃と共に、全てが一気に砕け散る感覚を受けた。
いや、正確には、再び『現実』に引き戻されたのだ。
──あの、悪夢のような現実に。
込み上げる激しい嫌悪感に突き上げられ、恭介はよろよろと立ち上がると洗面台に突っ伏した。
しかし何も入っていない身体から出るものがあろうはずもなく、水だけが音を立てて流れていく。
ここへ来て何度同じ行動を取った事だろう。それ以前に、あれから何日経ったのだろう。
思い出そうとしても全く思い出せない。記憶を呼び起こすのを身体が拒否しているのか、それとも本当に頭が考える力を無くしてしまったのか。
今の恭介にはそんな事はどうでも良かった。それすら考えようとしなかった。
──思ッタヨリ 傷ガ 深イ
自分では、自覚していなかったにも関わらず。──そう、全く自覚はしていなかった。
あの時、倒れた兄を抱き起こした自分の中に、もう一人何の感情も湧かない自分がいた。
そのもう一人の自分自身は、極めて冷静に何の感情も交えずに事の次第を見守っていた。
何故自分は涙を流しているのだろう?
何故こんな処で一人座り込んでいるのだろう?
この事態そのものは大した事ではない。いずれ迎えてもおかしくない結末。
父の幻影を払拭出来なければ、当然考えられる結末だ。
故に大丈夫だと思った。こんなことになってしまったが、大丈夫だと。しっかり自分自身を保ってこの事態を乗り切れると。
ただ、少しだけ自分で考える時間が欲しかった。
冷静な自分に対し、動揺をし気持ちを押さえ切れない自分がいるのもまた事実。
落ち着く余裕を自分に与えてやる必要性があった。
その為に、ここへ潜り込んだ。
無論、誰にも一言も告げずに。
ここなら落ち着いて考え事も出来る。頭の中で事態を整理する事も出来る。
そう思い、まず手始めに洗面台の前に立った。
そして鏡に映る自分の姿を見た。
その瞬間、自分の内心の奥深くで一気に押さえていた何かが爆発した。
えぐられるような胸の痛み。絶え間無く襲い来る絶望感と虚脱感。
落ち着く事、まともに考える事、立つ事歩く事すらままならず、夢と現実の狭間を繰り返し行き来した。
冷静であると思われた自分自身は、ただの逃避に過ぎない。
そんなことにすら気付かない程、事実は恭介の上に重く重く圧し掛かっていた。
それが、現実。
少し考えれば火を見るより明らかであったはずだ。
忌野の、父霧幻の意志があれ程までに強いものだと。
しかし実際それを認識できたのは、闇の中、炎に照らし出されて立つ雹の姿を見た時だった。
何故もっと早く気付くことが出来なかったのだろうか。父の特別な教育を受けた雹が、何の後遺症もなく普通の生活を送る事が出来ようはずもない。何よりも当たり前の事なのに。
なのに何故考えが及ばなかったのか。
先の周りを震撼させた事件の後、雹の様子はわずかずつだが変わっていった。昔の、まだ一緒に修業をしていた頃の、優しい兄に戻ったような気配さえ見せていた。
時折厳しい目をして空を睨んでいる事もあったが、それでも希望を持てるような状態にはなっていた。
それなのに、父の意志は滅ぶ事なく雹の深層に確実に巣食い、刀を通して蝕み続け、ついに雹を乗っ取り、破壊や殺戮への衝動という形で表面へと噴出した。
優れた能力を持っていたが故に、父の特別な修行を受けた兄。
その兄には到底及ばなかったので、せめてその兄の助けになるようにと教育された弟。
もちろん弟は兄に従う事を疑わなかった。
違う世界の存在──現実の社会というものを知るまでは。
あの時兄の、雹の考えに離反して自分の思うままに行動した事が、間違いであったとは思えない。
そこで真実という物を知る事が出来たのだから。
ならば自分はどうあるべきだったのか。
恐らく雹は自分の中に巣食う闇の部分を知っていたのだろう。
この結末も、薄々予測はしていたのだろう。
しかしその事を恭介に一切漏らす事はなかった。
全て一人で背負い、父の支配の下に倒れた。
自らの持つ闇を、恭介にすら一言も漏らさず一人で抱え込んだ理由は、やはり自分の元を離れた恭介を信用していなかったのだろうか。
それとも──。
恭介はわずかに顔を上げた。目の前にある鏡に、ぼんやり反射している影は一体誰であろう。それすら理解できない。
鏡に映るは、魂のない傀儡か。──もしくは兄の幻影か。
恭介はそのまま床に崩れ落ちると、再び闇の中へと堕ちていった。
夢を見た。
それは、今までの夢とも現実ともつかない闇のような悪夢とは少し違っていた。
恭介は 何故か駅のホームに立っていた。
周りにも数人、男女が同じようにボンヤリと立っていた。
その顔に生気は無く、また表情も無い。ただ無気力にそこにいる。
そのホームへ、色あせた電車が全く音を立てずに滑り込んできた。
人は全く乗っていない。ここが始発だからだ。
電車のドアが、やはり音もなく開く。
するとホームにいた者達はゆっくりと、しかしそれを待ち焦がれていたかのように一斉に電車に乗り込み始めた。
もちろん、恭介にも乗る権利はある。
恭介は何となく理解していた──この電車の行き着く先を。
ここの駅の外に出ると、線路に平行して道が存在するはずだ。
真っ直ぐな道ではない。途中枝分かれしていたり、険しく進むのに困難な処もある。
しかしその道は、確実に何処かに向かって通じている。
一方、電車もまた、確実にある場所に向かって線路を延ばしている。
但し、こちらは行く先が決まっていた。
全てが存在しない「無」へと。
恭介は迷っていた。
乗れば楽になる。それは判っている。
──でも。
ふと、恭介は自分の両手を見た。
疲れていた。本当に疲れていた。ここまで来て、自分の手には何も残っていない。──全く、何も。
一歩踏み出し、電車の中に足を踏み入れれば全てが終わる。それで終止符が打てる。
ふいに、その気持ちを後押しするかのごとく、電車の発車時刻を示すベルがホームに鳴り響いた。
いや、このベルも他の音と同様に聞こえてこない。しかし確実に心の奥底で時刻を告げている。
その聞こえない発車音に導かれ、恭介は半ば夢遊病者の様に足を踏みだそうとした。
その時、突然肩を捕まれると同時にぐっと後ろに引っ張られる感じを受けた。
バランスを失い、たまらず後ろによろけて尻餅をつく。
電車のドアはそんな恭介を待つこともなく目の前で無情に閉まり、その受付を締め切った。
恭介は驚いて周りを見渡した。
しかしホームには誰もいない。何の姿も見えない。故に誰が引っ張ったのか判らない。
ホームにいた人間は、恭介を除いて皆、電車に乗り込んでいた。
生気の無かった顔は更に精気を失い、最早個体の判別もつかなくなっていた。
それらの乗客を乗せ、電車は行き先へ向けて緩やかに発車した。
全てを放棄した人を、全て放棄すべく、無へ。
恭介は、遠ざかっていく電車をしばらく見送った後、ゆっくりと立ち上がった。
このホームに、次の電車は来ない。そんなルールも何となく知っていた。
そのままくるりと向きを変え、ホームの外へと足を向けた。
最早ここにいても意味はない。
しかし駅を出てから、もう一度だけホームの方へと目を向けた。
そこには、人のいないはずのホームには、一つの人影が存在した。
あまりにも懐かしく、あまりにも見慣れたその姿が。
“──……っ!!”
思わず大声で名を読んだ。
しかしそれは、突如起こった突風にかき消された。
そしてあまりの風に、たまらず目をつぶった。
風が収まり、ようやく目を開けられるようになった頃には既にその駅は消え失せ、目の前にただ一本の真直ぐな道があるだけだった。
──あぁ、そうか。
何も残っていなかったわけではないのに。
何故そんな事に気付かなかったのだろう。何故全てをあっさりと放棄しようとしたのだろう。
諦めるには、まだ早い。
どんなにわずかでも、全てに於いて「可能性」が残っている限りは。
恭介は一度大きく深呼吸すると、意を決し前へと足を踏み出した。
再び目を覚ましたとき、今まで頭の中にかかっていた重い霧のような物が幾分晴れ、多少の思考能力が戻って来ている事に気がついた。
恭介はゆっくりと起き上がって周りを見渡した。
ここが何処であるのかも、今ならちゃんと確信できる。
ここはジャスティス学園内部に極秘裏に作られた隠し部屋だ。
隠し部屋というよりは、一種シェルターに近く、生活に必要な最低限のものは全てそろっている。また、当然の事ながら、場所も非常に判りにくい上に、数種類の抜け道も完備されている。
その気になってしまえば、誰にも見つからずに生活をする事が可能だ。
この部屋の存在を知っているのは雹と、そして恭介のみである。
事によると、雷蔵も知っているのかもしれない。知っていてもおかしくはない。
恭介の失踪は、当然雷蔵の耳にも入っている事だろう。
もし雷蔵がこの部屋の存在を知っていて、尚且つ恭介がここにいる可能性も考慮しているにも関わらず、誰にもその事を告げていないのだとすれば、恭介はその『厚意』の上にいる事になる。
──この期に及んで、僕はまだ人に甘えて存在している。
そう考えると何か妙に可笑しくて、恭介は自虐的ながらに微笑を浮かべた。
どんな内容であれ笑う余裕が出てくると、自然、身体が生理的な欲求を開始する。
恭介は、ここへ来て初めて空腹感を覚えた。
今までにわずかな水以外は全く何も口にしていない。
そしてこの部屋に非常食のストックはあるが、空腹を通り越した胃に合いそうなものは存在しない。
一度外に出てみようかと思った。
今後どういう行動を取るにせよ、せめて最低限の判断は出来るような状況にしたい。
洗面台に手を掛けて立ち上がってみた。
明らかに体力が激減しているが、普通に歩く事くらいは出来そうだ。
部屋の中にあった普段着を引っ張り出して、目立ち過ぎる学生服から着替える。それから入り口に置いてあった帽子を目深に被り、部屋のドアを押し開けた。
隠し通路の一つを使って外に出た。
ジャスティス学園が一望できる所だ。焼け落ちた部分が白いシートで囲われているのが見える。
あれから何日経っているのかはやはりよく判らなかった。部屋に時計は置いてなかったし、携帯はとうの昔に電源が落ちている。
一つ、時刻が夕方に近い事だけは判った。
丁度学校も終わった所らしく、下校途中の生徒に多く出くわす。
敢えて恭介はその生徒達を避ける事もなく、真っ直ぐに歩いた。
帽子を被っている上に、ここ数日(?)の断食で人相が変わっている。覗き込まれたりしない限り、身分がばれる事はないだろう。
ただ、太陽学園の近くには寄るまいという暗黙の了解的ルールが無意識の内に自分の中で出来上がっていて、考えるより先に足が反対方向へと向いていた。
ふと気がつくと、前方に女子高生が4人、固まって歩いていた。
その会話が、聞くつもりもないのに嫌でも耳に飛び込んでくる。
どうも帰りに何処かへ寄ろうという話をしているようだ。
一人が、声を張り上げた。
「あ、あたし今日駄目ー。お兄ちゃんが帰って来てンの。今日」
「あの留学してたお兄さん?」
「そう。お母さんとか張り切っちゃってさ、朝から晩御飯作ってンだもん。でもあたしも楽しみだし、皆待ってるから今日は帰るわ」
「とか何とか言っちゃって、実はお兄ちゃんじゃなくてお土産が楽しみなんじゃないの? 何頼んだのよー?」
「とーぜんあたし達の分も、頼んでくれてるんでしょぉ?」
きゃぁという黄色い歓声と共に、じゃれ合いながら4人入り乱れて一斉に走り出した。
恭介は、そこで足を止めた。
そして、しばらく女子高生の後ろ姿を見送った。
移ろい往く時の流れ。
その流れの中に存在する、何をしようとも変わらぬ日常。
更にその日常の中に当たり前に在り、その時は気付かないもの。
恭介は、くるりと踵を返して元来た道を戻り始めた。
あの部屋に、忘れたものがある。
あれだけは置いていく訳にはいかない。
──今から取るべき道の為に。
“『自由』に生きろ、恭介”
雹は自由ではなかったにしろ、自分の思うままに道を歩んだ。
父の言葉に従い計画を実行したのも、恭介に自分の心の奥底に眠る闇を決して明かさなかったのも、全て雹自身が選んだ道だ。
雹はそれが正しいと信じたのだ。
故に、自分も正しいと思う道へと進む。
それが何よりも、兄を超える手段となるだろう。
そして雹を超えるという事は、あの父をも超えるという事になる。
その時初めて、求めている答を得る事が出来るのではないだろうか。
それがどんな答であるにせよ、だ。
自分が必要とするものを手に入れる為の『強さ』を手に入れたい。
雹のような強さが欲しいとは思わない。雹は双子の兄には違いないが、自分自身とは違う。
雹と違う道を歩みながらも近づき、追いつき、越えてゆくにはどうすれば良いのか。
人が頼れるのは、最終的には自分自身しかいない。──にも関わらず、人は他人を頼らねば脆く儚い。
そして恭介には、唯一兄にはなかったものを持っている。
かけがえのない、友の存在。
──僕にはまだ 帰るべき処がある。
久し振りに寝慣れた布団で身体を休めると、多少なりとも余裕が出てきた。
荒れていた髪の毛を元の状態に染め直し、伸び放題だった髭を綺麗に当たれば、まぁ何とか見られる顔になる。
鏡に映る自分の姿は、当然前よりやつれて見える。
これから元の体力に戻していくのは大変だろうが、今までの事を思えば別に苦にはなるまい。
最後にまっさらな制服の袖に腕を通すと、何かが軽くなった感じがした。
あの時もっと早く気付いていれば、何とかなったかも知れないという考えは捨てた。
その考えは、思い上がりに過ぎないから。
例え気付いていたところで、あの時の自分にはどうしようもなかっただろうから。
今は、そこにある事実だけ見つめて、前へ進む。
あの事柄で負った心の傷は大きいが、いずれ乗り越えられる時が来るだろう。
「行ってくるよ、兄さん」
恭介はそう居間に向かって声を掛けると、玄関のドアを開いて外へと踏み出した。
その居間の奥、磨き上げられたガラスケースの中に、折れた日本刀が収められていた。
それはその身に日差しを受け、恭介を見送るかの様に柔らかな光を反射していた。
Feb.06,2001up
Feb.20,2001 Ver.1.02 up
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