10-1 食卓百景(5) 〜朝食戦線異常有り
「ん…」
衛宮士郎はゆっくりと目を開けた。映るのは自室の天井。窓の外から差し込む陽光からしてもう朝だろうか。その割には目覚めの爽快感が無いのだが。
とすっ…
肩が、触れた。同じ布団の中に誰か居る感触。たぶん結構な長身。肌の触れ合う感覚を味わいながら士郎はふぅとため息をつく。
「またですか? ランサーさん…」
呟きながらゆっくり、ゆっくりと視線を向けると。
「―――喜ぶがいい。これでおまえの望みがかなったぞ」
至近距離に、無表情な綺礼の顔ッ!
「なんでさ!?」
慌てて飛びのこうとする腕を綺礼は素早く掴みとめた。
「―――犯るか?」
「犯られるかぁアアアッ!」
絶叫して腕を振り払って飛びのくと同時に士郎の肩にぽんっと手が置かれた。
「うむ、衛宮は俺のものだ。喝!」
「ってなんで一成が居るかなぁ!?」
慌てて辺りを見渡せば右を向いても左を向いても男・男・男・男。綺礼や一成だけではない。銀髪のマッチョやら天井を突き破らんばかりの人間離れした巨人やら見覚えがあるような無いような漢達が狭い部屋にひしめいている。
「ななななななんだこりゃあ!?」
「それはね、士郎」
悲鳴をあげる士郎にかけられた声は懐かしいものだった。いや、夢の中でというならば昨晩も会ってはいるのだが。
「お、親父!?」
「あははは、今日はおまつりだよみんな!」
爽やかな笑顔で腕を突き上げる切嗣にYes!と左腕を突き上げて男達が大合唱を始める。
ダーンディ! ダーンディ! ダーンディ! ダーンディ!
「ははははっ! 衛宮! 役にたたない桜の代わりに僕が一緒に住んでやるよ!」
ダーンディ! ダーンディ! ダーンディ! ダーンディ!
「衛宮。それは優しくか? それとも手荒くか?」
ダーンディ! ダーンディ! ダーンディ! ダーンディ!
「衛宮殿。衆道が嫌悪されるようになったのは意外に最近のことでござってな…」
ダーンディ! ダーンディ! ダーンディ! ダーンディ!
「■■■■■■■■■■ッ!」
ダーンディ! ダーンディ! ダーンディ! ダーンディ!
「くくく…魔術師殿は枯れていたが、オマエのは元気なようだ…」
ダーンディ! ダーンディ! ダーンディ! ダーンディ!
「―――突いてこれるか?」
ダーンディ! ダーンディ! ダーンディ! ダーンディ!
ダーンディ! ダーンディ! ダーンディ! ダーンディ!
ダーンディ! ダーンディ! ダーンディ! ダーンディ!
ダーンディ! ダーンディ! ダーンディ! ダーンディ!
ダーンディ! ダーンディ! ダーンディ! ダーンディ!
「嫌だぁぁぁぁぁぁぁっ! なんていうかいろんな意味で嫌だぁああっ!」
絶叫して頭をかきむしった、瞬間…
「ぎょぁっ!」
絶叫と共に士郎は目を覚ました。
「あ…うぁ…え…?」
生まれたての小鹿のようにプルプルと震えながら士郎はゆっくりと視線を巡らせ…
「嫌な夢でも見たのか?」
「ひっ!?」
枕元に正座していた銀髪の人物を見て悲鳴を上げた。
「…失礼な奴だな」
「え…? アーチャー、か…」
むっとした表情でそう言ってきたのが見慣れた少女であるのに気づき、士郎はふぅと息をつく。かけぶとんをのけて起き上がると、全身がびっしょりと汗でぬれていた。
「はぁ…およそ思いつく限り最悪の目覚めだ」
「もう一度言うが極端に失礼な奴だ」
「あ、いや。アーチャーが居たからってわけじゃなくて…っていうかなんで居るの?」
今更ながら思いついた疑問を口にしながら寝巻きを脱いでパンツだけになる。全身に浮かんだ汗を脱いだ寝巻きで拭うと少し楽になった…が。
「こ、こら! いきなり脱ぐな馬鹿者!」
「ん…? あ、ごめん!」
途端赤くなって叫んだアーチャーに士郎は慌てて寝巻きを着直した。またじっとりと肌が湿ってかなり気持ちが悪い。
「話が進まん…さっさと着替えろ」
「ああ、えっと、ごめん」
吐き捨てるように言って壁の方を向いて座りなおした赤いシャツの少女にごもごもと詫びて立ち上がる。どうもさっきの夢からこっち妙なテンションだ。
「なんだろ…この男友達と居るときのノリは…」
士郎はアーチャーの背中がピクリと震えるのには気づかず今度こそ寝巻きを脱ぎ捨てて部屋着に着替えた。軽く伸びをして頬を叩き目を覚ましなおす。
「よし、起きた。おはようアーチャー」
「…ああ。おはよう」
無愛想ながらもちゃんと挨拶を返してくる姿に思わず笑みが漏れる。
「はじめてじゃないかな。ちゃんと挨拶してもらうの」
「ふん…そういう気分のときだってある」
アーチャーはごほんと咳払いをして話を変えた。
「ふと気になったのだが昨晩はどうしていたのだ?」
「俺にもよくわかんないんだけど魔術の講義を受けた後いきなり縛られて…で、3時くらいまで転がされてた」
のほほんと言ってくる士郎にため息をつく。
「…抵抗したらどうだ? さすがに」
「アーチャー。自分に出来ないことを人に要求するのはどうかと思うぞ」
至極真面目な顔で返され、アーチャーの脳裏に凛の押し付けてきた無理難題がよぎる。生前に夜食を作らされた自分。サーヴァントとして呼び出され、部屋の修繕をさせられた自分。その他諸々。
「…そうだな」
「…そうだろ」
二人は頷き会って窓の外に視線を投げた。チュンチュンとスズメが鳴く声に耳を傾けながら乾いた笑顔で朝日を眺める。
「で…どうしたの? こんな朝早く」
気を取り直して尋ねるとアーチャーもワンテンポ置いて平常心を取り戻した。やるせない思い出が多い分浸っている時間も長かったようだ。
「要件は二つ。一つ目だが…セイバーを励ましてやってほしい」
「励ます? なんでさ」
唐突な言葉に士郎はきょとんとして聞き返す。
「昨晩のすり替えに気づかなかったのがショックだったようでな…私から見ればあっさり拘束されていたおまえが悪いのだが、どうにもそれを見抜けなかったのを悔やんでいるらしい」
未熟者めと言い放つアーチャーに士郎は苦笑した。
「…はっきり言うなあ、アーチャーは」
「ふん、気遣ってでもほしいのか?」
馬鹿にするような声色に少し考え込み、首を横に振る。
「いや、甘やかされても気持ち悪いし、アーチャーはそれでいいと思う。うん、そういうアーチャーの方が好きだ」
「……」
過去の自分から放たれた台詞にアーチャーは沸騰する頭を抱えて黙り込んだ。
「? どうした?」
「同じスタートから分岐しているかと思うと眩暈がするな…」
呟いた言葉にきょとんとされて舌打ちをひとつ。
「なんでもない。ともかく、そういうわけなのでおまえの方からフォローしてやれ」
「了解。セイバーにはいっぱい借りがあるしね」
真剣な表情で頷いて士郎は首を傾げた。
「で? もう一つは?」
「ああ。そちらはたいした事ではないが―――」
アーチャーはその問いに頬をかいて笑った。今までに見たことの無い険の取れた表情に士郎はなんとなく照れを感じる。
「私も、今日から家事を担当させてくれないか?」
「はい?」
「…え?」
いつもの時間に台所へやってきた桜はそこで繰り広げられていた光景に唖然とした。
「ん? ああ、桜。おはよう」
「桜か。きょうから私も食事のローテーションに入ることにしたのでな。よろしく頼む」
同じタイミングで振り返った士郎とアーチャーはそう言い置いて作業に戻る。
「アーチャー」
「ふん、持って行くがいい」
味噌汁を作っていた士郎が火から目を離さず手を差し出すと片手でキュウリを塩もみしながらアーチャーが食器棚からお玉をたぐりよせてそれを渡す。
「む…?」
「シラス? はい」
一方でアーチャーが小さな呟きを漏らすと士郎は冷蔵庫からタッパに入ったシラスを取り出して渡す。互いに動きは止まらず、一分の隙もないコンビネーションだ。
「こ、呼吸がぴったりですね…」
「ん? そうか?」
「…偶然だろう」
同時に言って料理に戻る二人組に桜はむむむと唸ってエプロンを手に取る。
「お二人が手をクロスしてばろーむ!って感じのコンビネーションだからって負けません…わたしと先輩だって指輪を合わせて合体変身する位の相性を―――」
「? …どうした? 桜」
意気込んで料理に取り掛かろうとした桜の動きがピタリと止まったことに士郎は首を傾げて声をかけた、が。
「…そんな、先輩…合体なんて。ぁん!」
身をよじって悶える姿にズリズリと後ずさる
「おーい、桜〜? 帰ってこーい…」
「え…先輩、そ、そんなもの入りません…」
妄想劇場ではえらいことになっているようだ。桜はエプロンのすそを掴んでぽーっと天井を見上げる。
「は、はい…先輩のお願いなら、その…入れてもいいです…」
「…ほう? 何を入れるんだ?」
興味がわいたのか手を止めて尋ねたアーチャーの言葉に桜はピクッと身体を震わせた。
「…は、入りましたよ、先輩…がんばりました」
えへへと可愛らしい笑みを浮かべる。
「奥まで…届いてます…バールのようなもの」
「何をこじ開けるつもりなんだ桜!」
ガクガクと桜の肩を揺らして不名誉な妄想をかき消そうとしている士郎にアーチャーはニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「ふっ…聞くまでもあるまい。鬼畜め」
「ちょ、ちょっと待てって!」
慌ててアーチャーに詰め寄る士郎をよそに桜は頬を上気させて身をよじる。
「あ…そんな二人分なんて入りませんよアーチャーさん…」
「私もか!」
「いただきます」
『いただきます』
士郎の声を合図にサーヴァント達は一斉に手を合わして箸を取った。カチャカチャと食器が触れ合う音が響く中、とりあえずと味噌汁をすすったランサーの目がピキンと光る。
「これは…パワーアップしてやがる!」
「まゆ! まゆ! ご、ごはんつぶが立ってる…!」
「あら、このおひたし…よいお味…」
アーチャーの参戦はどうやら好評のようだ。箸の進みが明らかにいつもより速い。
「くすくす、あんりちゃん。ごはんつぶがついてますよ〜。とってあげますね〜?」
「きゃう!? く、口で取るのはよしてよ! まゆ〜!」
「あら、士郎お兄ちゃんにやってもらいたかったですか?」
思いがけない収穫を得て大騒ぎになった居間へ―――
「おは、よぅ…」
ふらふらと蛇行しながら凛が現れた。前後左右に頭を揺らし、時に壁に頭を叩きつけながら士郎の隣である自席へと座り込む。
「凛。今日は一段と酷いな…」
アーチャーが呆れたように呟いて味噌汁とご飯をよそうと凛はむにゃむにゃ口を動かしながらそれを受け取った。
「昨日…遅かったのよ…」
味噌汁を一口すすってまぶたをぐりぐりと揉む。
「士郎ったら何回しても固いままで…そのままわたしだけ寝ちゃったら可哀相じゃない」
「む。なんだよ。遠坂がもう一回もう一回って言うから頑張ったんだぞ?」
瞬間、全員の箸がボトリと机に落ちた。
「……」
「……」
呆然と見つめてくるサーヴァント達と桜の視線に士郎はきょとんと首をかしげ、
「!? いや、違う! 違うぞ!?」
皆が何を想像しているかに気づいてもげそうなほど首を振る。
「何が違うんですか先輩っ! 今朝はわたしのをあんなに広げたのに…!」
「いやいやいや、それはただの妄想だろ!?」
ビシッとつっこみを入れて士郎は凛の方に向き直った。
「遠坂! 誤解を招くような言い方やめろって!」
「え…」
まだ夢の中のような表情で凛は首をかしげ、ゆるゆると頷いてみせる。
「いいわよ…中で…今日は大丈夫だし…」
ガシャン。
「……」
「……」
「……」
瞬間、お茶碗が残らず食卓に叩きつけられた。唖然とした表情で見つめられた士郎はブンブンと首を振って凛の肩をゆする。
「遠坂! 遠坂! 起きろ! あ、いや起きてくださいお願いだから!」
「先輩…姉さん…? 覚悟は…完了してますか?」
とろんとした目でガクガクと首を振るわせる凛に桜は憤怒の表情だ。体中に何か禍々しい模様が浮かび上がっているような気すらする。
「っ! 待てって! 俺はまだ…」
「まだ!? 何がどう『まだ』なんですか先輩ッ!」
一人で墓穴を掘り続けている士郎をよそに、アーチャーはため息をつきながら凛の顔を自分のほうに向けた。
「凛。昨晩は何をしていたのだ?」
「決まってるじゃないですかアーチャーさん! 夜が明けるまで前から後ろからあらゆるところへ大騒ぎ…」
騒ぎ立ててあぅうとかそんなところまでとか身悶える桜はきっぱりと無視して質問を続ける。
「魔術の鍛錬と聞いているが?」
「ん…投影だけじゃ…バリエーションが狭いから…強化で素材を変化させるのをやらしてた…ぴんちになると士郎は強くなるから…ロープで縛って…変質させて千切れって言ったのにいつまでたっても固いままで…」
だから言っただろ!?と目で訴えかける士郎を無視してサーヴァント達は何事も無かったかのように食器を取り食事を再開した。
「ライダー、醤油とってくれ醤油」
「誰のです? あなたが士郎醤油ばかり使うので減りが早すぎるのですが」
「おまえも使ってるだろうが。つぅかみんなして群がってるし」
喧騒を取り戻した食卓に肩をすくめ、アーチャーはふふんと笑って士郎に目を向ける。
「衛宮士郎。相手が混乱しているときこそ自らは冷静でなければならない。覚えておくことだ…」
「まあ、こんな状況からそんな真理みたいなの学んでどうするって気はするけどね…」
苦笑しながら士郎も朝食に口をつけたその時だった。
「…ごちそうさまでした」
騒ぎに参加せずぽそぽそと食事を口に運んでいたセイバーが箸を置いて立ち上がった。
「え? …も、もういいの? セイバー」
「はい…失礼します」
頭をさげてノソノソと出て行くセイバーを無言で見送り、サーヴァント達は出現した聖杯が紙コップだったとでもいうような唖然とした表情で顔を見合わせた。
「おいおいおい…セイバーの奴がこんな早くごちそうさまってどういうことだよおい。今日はアレか? 宝具の雨でも降ってくんのか?」
微妙にキャスターに厳しい言葉を吐くランサーをよそに眉をひそめ、アーチャーは食卓に残っているちびせいばーに目をやって口を開く。
「朝食に何か問題があったか…? 作った私が言うのも何ではあるが、なかなかの出来だと思うのだが」
「ええ、とてもおいしい。わたしは士郎が二人に増えたかのように幸せですが…」
屋根裏に設置されたせいばーはうす(リ○ちゃんハウス改)で親友の猫と共に暮らしているちびせいばーは昨夜の騒ぎを知らない。自分の分の朝食を覗き込んで不思議そうに首を傾げる。
「あらあら…」
それを聞いた佐々木は首を傾げておひつ(セイバー専用)を覗き込んだ。
「大変です。セイバーさま、今朝は3杯しかお召し上がりになっていません!」
「なんてこった…重傷だ」
「ボロボロですね…」
「朝から三杯は十分健啖だぞ。普通は…」
顔を見合わせて頷きあうランサーと士郎にアーチャーはぼそりとつっこんでからだし巻き玉子を噛み締めて気を取り直す。元気が無いのは予想通りだ。後は士郎にまかせばいい。
「元気がないといえばランサー、おまえも今朝はいつもより静かだな。もっと叫びまくるかと思ったのだが」
「!? べ、別にオレはイツモドオリデスヨ」
あまりにわかりやすい動揺具合にさしものアーチャーですら一瞬ツッコミをためらってしまったが、この隙逃がさじとばかりに咳払いをはさんで目を細める。
「そういえば昨晩のすり替えでらしくもなく取り乱していたが…」
「と、取り乱してなんかいねぇってんだよ! そっちこそ朝から少年とイチャイチャしやがって! 新妻かおまえは! アーちゃんの新妻ダイアリーなのか!? あん!?」
「ぶ、不気味な日記を綴るな!」
竜虎相打つ食卓をよそに士郎はキュウリとシラスの酢のものを噛み締めてうーむと唸った。食事前にアーチャーが言っていたことの意味はこれでわかったが…
「どうしたもんかなあ…」
10-2 剣を研ぐ(ランサー姉さん覚醒編)
一人足りないことを少し気にしながらもいつも通りの賑やかさで終わった朝食の後、士郎は湯飲みを片手に考え込んでいた。
「ほんと、どうしたもんかな」
台所から聞こえる凛と佐々木が後片付けをする音にもう一度呟く。これまでもセイバーがへこんだりすねたりということはあったが大概食事で釣れば機嫌が治っていた。
「考えてみれば食べ物さえあれば大丈夫っていう考えそのものがセイバーに失礼だよな」
呟いて苦笑した士郎はヒントを求めて居間を眺め渡す。
「はむ…んむ…」
目に入るのは黙々とミカンを食べ続けるライダー。
「んだよ、やっぱこの時間帯はろくな番組やってねぇな〜」
「…ならば見るな」
そしてリモコン片手に寝そべり文句を言っているランサーと新聞に目を落としたままぞんざいに返事をするアーチャーの姿。
あんりとまゆはバーサーカーとどこかで遊んでいる筈だしキャスターはマナ集めをすると言い残してさっさと裏庭に行ってしまった。桜は学校再開までにやらなくてはいけない課題があるらしく、部屋に篭っている筈だ。
…いつも通りの光景だ。セイバーもいつも通り道場に居るのだろうか?
「とりあえず、じっとしててもしょうがないか」
呟いて士郎は湯飲みの茶を飲み干した。たんっと音を立てて食卓に置いてその勢いのまま立ち上がる。
「ん? 道場に行くのか? 少年」
「ええ。セイバーのこと、気になりますし」
頷いて答えるとランサーはリモコンを食卓に放り出してひょいっと立ち上がった。
「オレも一緒に行っていいか?」
「ええ。っていうか珍しいですね。わざわざ俺に許可取るなんて」
不思議そうに言われて言葉に詰まる。昨晩以来何故か士郎に話し掛けるのが照れくさいのだが、経験豊富なおねーさんとしてはそれを悟られるのもちょっと恥ずかしい。
「あー、まあ気分だ。気分」
「…くくっ」
手をパタパタさせて誤魔化したランサーは新聞に顔を隠して笑うアーチャーに青筋を立てて近寄った。食卓に置いてあったミカンの皮を片手にニッコリと笑顔を浮かべ…
「アーチャーちゃ〜ん?」
「不気味な呼び方をす―――」
新聞から目をあげたアーチャーの目の前でその皮を二つ折りにする!
「なっ!?」
ぷしゅっと飛び散ったミカン汁が目に入り短い悲鳴をあげるのを聞きながらランサーはニヤリと笑い、ポイっと使用済みの皮をゴミ箱に投げ込んだ。
「…顔○。なんてな」
「貴様ッ! くっ、目、目に、染み…」
ひりひりする眼球を抑えて身悶える姿に構わずランサーは士郎の方へ駆け寄った。
「ささ、怖〜いおねーさんが暴れだす前に行こうぜ」
「ランサーさん、今のはさすがにあんまりなんじゃ…」
背を押されながら引きつった表情で言って来る士郎に首をかしげる。
「そっか? すまん弓。今夜こそちゃんとやり方教えてやるから許せ」
「き、貴様…!」
ぼろぼろ涙を流しながらも修羅の表情で立ち上がるアーチャーをよそにランサーはポスポスと士郎の背中を押して廊下に出た。
「ほれ、ぐずぐずすんな。何事につけ速いにこしたことはねぇからな。おっと、夜の戦いはその限りじゃねぇぜ?」
「く…この…下品な…」
「あらあら、擦ると目が傷つきますよ? アーチャーさま。今おしぼりを持ってきますから」
苦境にあって尚ツッコミという宿業を忘れぬアーチャーとパタパタとスリッパを鳴らしてフォローに回る佐々木の声を背中に受け、士郎はむぅと唸る。
「まあ、英霊があの程度でどうにかなるわけでもないだろうしいい…のかなあ?」
「いーんだよ。油断するほーがわるい」
小難しい表情を作ってうむうむ頷くランサーに苦笑して士郎はまあいいかと頭を切り替えた。押されるままをやめて自分の足で道場へと向かう。
「そういえば、身体動かしたいんですか? ランサーさん」
しばらく歩いた所で士郎は裸足のままペタペタと隣を歩くランサーに問いを投げた。
「ああ。ちぃとモヤモヤしててな。こういう時には槍ぶん回すのが一番だ。そういう少年もすっきりしない顔だな?」
ええと頷き士郎はサンダルに履き替えた。そのまま中庭を横切り、道場の中を覗き込む。
が。
「あれ? セイバー?」
「いねぇなぁ」
常ならばそこに正座している金髪の少女の姿は無い。無人の板の間が冷たく二人を出迎える。
「…部屋、かな」
「あんま出歩く奴じゃねぇからな。たぶんそうだろ」
あてが外れた士郎はがっかりすると共にほっとするのも感じていた。励ましてやれと頼まれているし、そうでなくとも元気の無いセイバーの姿を見るのは辛いのだが…肝心のどうすれば元気になってくれるかはいまだ闇の中だ。
「ちぇ、あてが外れちまったなぁ…どうだ少年。セイバーの代わりにちょいと相手してくんねぇかな」
だから。
「…ええ。つきあいますよ、ランサーさん」
その誘いに士郎は二つ返事で頷いた。一度頭を空っぽにすればいいアイデアが出るかもしれないし、なんだかんだ言って面倒見のいいランサーに相談してみようかと思いついたというのもある。
「じゃあ道場に上がりますか?」
「いや、庭でやろう。平らな所で戦うなんてことは実戦では滅多にねぇんだ。ほんとは山ん中とかがいいんだけどな」
ランサーは言いながら中庭の真ん中に陣取り、軽く手をかざして自らの宝具…ゲイボルクを召還した。
「ほ、宝具使うんですか!?」
「真名は開放しねぇからただの槍だ。おまえも投影使っていいぞ」
楽しげにストレッチを始めたランサーに少したじろぎながら士郎も関節をほぐしてサンダルを脱ぐ。
「つまり…実戦形式ですか」
「おうよ。本当の戦場のつもりでどーんとぶつかって来い」
にやっと笑ったランサーが槍を構えるのを見て士郎はゆっくり呼吸を整えた。連日の特訓で魔術回路は開拓され、魔力も十分に蓄えられている。少し位は無理もきくだろう。
「行きます…投影開始(トレースオン)!」
だんっ!と地を蹴りざま投影したのは干将莫耶。ややぎこちないながらも素早い体捌きで槍の間合いの内側へ滑り込もうと突撃する。
「アーチャーの奴の動きじゃねぇな。訓練だから借り物の技術じゃなく自分の力でってわけか?」
それを見たランサーは呟いてちっと舌打ちをし…
「舐めんじゃねぇ! 実戦のつもりで来いって言ったろうが!」
叫びざまその腕を鋭く振るった。掌の中で槍の柄を転がすと穂先は小さな円を描き士郎が盾代わりにかざしている左の短刀に絡みつく。
「たッッ!」
「く…!」
接触した瞬間、短刀が宙を舞った。ランサーが弾いたのでは無く動きを止められることを嫌った士郎が咄嗟に手を放したが故に。勢いのまま士郎は残った一刀を両手持ちにして更に一歩踏み込む―――が!
「甘いんだよそれが!」
くるん、と穂先が描いたのはさっきとは逆回転の円。一歩後退する動きと共に放たれた一閃は踏み出したばかりで重心の乗っていた士郎の足を払ってあっさりとその身体を転倒させる。
「つっ…!」
槍に対して接触距離(クロスレンジ)に持ち込むのは有効な戦略だ。柄頭で対応できるとはいえ、槍兵側の選択肢が極端に減る。だが、有効であるということは多用されているということ。ランサーにとって見れば飽き飽きするほど遭遇した状況なのだ。
「そら…死ぬなよ?」
倒れた身体にランサーは無造作な追い討ちを叩き込んだ。正確に心臓を狙う一撃をゴロゴロと横回転して回避し、士郎は残った短刀を投げつけながら立ち上がって飛び退く。
「悪ぃが投剣はオレにはあたらねぇぞ?」
ランサーは表情一つ変えずに眉間目掛けて飛んできた刃を弾いたがそれで構わない。一秒に満たない遅延で十分だ。
「投影完了(トレースオフ)ッ!」
一瞬の隙をついてイメージは完成した。呪文と共に掲げた手は何も掴まず空のまま。だが次の瞬間、訝しげに眉をしかめたランサーの周囲がすっぽりと影に覆われる。
「何ぃっ!?」
その異常に槍兵は頭上を振り仰いだ。そこに…
「岩!?」
直径にして3メートル程の岩塊があった。記憶が正しければ庭の隅、池のほとりに埋まっていたものの筈。陽光を遮って出現したそれは重力に引かれて真下へと…ランサー目掛けて落下する!
「なんじゃそりゃあああっ!」
叫びざま全力で飛び退いたランサーは数メートルを一跳びで越え、槍を握っていない左手で制動をかけて止まった。刹那、さっきまで居た場所へ岩がぽすっと落下する。
ぽすっと。
「軽…い?」
落下点を見つめてランサーは呟いた。巨大質量の激突にも関わらず中庭の地面は僅かな陥没しかおきていない。そもそも、衛宮士郎の投影は剣とそれに類する近接武器をしか完全再現できない筈。ならば…
「囮か足場…上か!」
「…投影開始(トレースオン!)」
叫びざま振り仰いだ空に、岩塊を足場に跳躍した士郎の影があった。背後から降り注ぐ陽光が目に入り、一瞬だがランサーの視力を失わせる。
「く…」
「投影完了…全投影連続層写(ソードバレルフルオープン)!」
眼下で目を抑えるランサーを見据えて士郎は周囲に展開したイメージを一斉に実体化した。虚空に現れた十本を越える長剣を伴いながら地上のランサー目指して落下し、最後に投影した干将莫耶を掴んで振り上げる。
「…やるじゃねぇか」
半ば白に塗りつぶされた視界の中、ランサーは呟いて槍を構えた。見えぬ目では捉えきれぬ複数の投剣、そしてそれらを打ち払えたとしても同時に落下してくる士郎本人の斬撃は避けられない。
「でもな! 詰めが甘いぜ少年ッ!」
だから、ランサーは防御を捨てた。体内に魔力を巡らせて身に纏った『護り』を活性化させる。そして。
「来いッ!」
叫びと共に突き上げた槍は紫電の連戟。一部音速にすら達した穂先が降り注ぐ刃の雨を正面から打ち払い、僅かに軌道がずれた剣達が身体を掠めて通過した、刹那。
「たぁあああああっ!」
「だぁあああああっ!」
咆哮と共に二本の短刀と槍の穂先が交差した。無音の衝撃が空気中に波紋を描き、訪れたのは一瞬の均衡と静寂。
そして…キキィィィンと、静寂を破り響いた金属音と共に士郎の両手から短刀が吹き飛んだ。無手になった身体をランサーはニヤリと笑って抱きとめる。
「おしかったな。おまえの…負けだ」
そして、呟きと共に士郎はその場に放り出された。首筋に槍の穂先を突きつけられ、ため息と共に両手をあげて降参の意を示す。
「ランサーさん、まぶしくなかったんですか? あれだけの本数を打ち落されるとは思いませんでしたよ…」
「ん?」
呆れ顔で呟いた士郎の台詞にランサーは首を傾げ、ああと頷く。
「そうじゃねぇよ。オレには矢避けの加護がかかっててな、目が見えなくとも射線は感じ取れるんだ。相性が悪かったな、少年」
「…なるほど」
士郎は呟いて大の字でその場に寝転がった。周囲に墓標の如く突き立てられた剣達―――ギルガメッシュの宝物庫を整理しながら練習した低ランクの宝具―――を眺めて大きく息を吐き出す。
「とっておきの技だったんですけどね…今のコンビネーション」
「意表のつき方はよかったな。さすがに岩はビビったぜ。ハリボテでも見た目の迫力が凄いからなぁ」
ランサーは地面にあぐらをかいて座り笑った。視線の先では連続して与えられた衝撃に耐えられず『岩であったもの』が魔力に戻って消滅するところだった。
「でもな、決めの一撃がいまいちだ。せっかく目潰しと乱れ撃ちで動きを止めたってのに本命の斬り降ろしが軽すぎる。あの状況ならアーチャーの短刀よりセイバーの長剣とかバーサーカーの斧剣とかを出して重さで押し切れよ。圧力を考えりゃ斧剣がベストか?」
「エクスカリバーは簡単には投影できないし、斧剣の方は投影自体は簡単ですけど筋力とかが追いつきませんから…一振りしたら次が続かないのがちょっと」
苦笑気味に言ってきた台詞にランサーはやれやれと肩をすくめた。
「その時はさっさと捨てて次を投影しろよ。おまえがオレ達に勝てる部分ってのは武器が際限なく作れるってのが一番なんだからさ」
うむと頷きランサーはあぐらのまま前後に身体を揺らす。
「言ってみれば持ち味をいかせ! ってとこか? 普通に殴り合ってる限りおまえがオレに勝つのは不可能だ。五感を全て『強化』してもオレの全速力にはおいつかねぇ。その気になればおまえが構えるより早く心臓を打ちぬけるぜ? オレは。もちろん宝具無しでな」
「…はい。それは、わかってます」
寝転がったまま士郎は呟く。日々セイバーから学んでいることは、人間のままサーヴァントに勝つのは不可能であるということなのだから。
「よしよし。素直だな、少年」
嬉しげに笑ってランサーは空を仰いだ。
「人間とサーヴァントが正面から戦ったら100回中100回人間の方が負ける。でもな、特殊な環境、特殊な条件下ならおまえや嬢ちゃんは2〜3回は勝ちを
拾えるってオレは思ってるぜ。相手の思い通りにさせるな。自分の利点を出せて相手の利点が潰れるシチュエーションを探せ。駄目なら逃げろ。生き延びとけば
次は必ずある。絶対に」
真剣な顔でそう言って槍の英霊は破顔した。照れくさそうに頭をかく。
「なんてな、らしくもなく語っちまったよ」
「いえ。ありがとうございます。勉強になりました」
起き上がって生真面目に頭を下げる士郎にランサーは困り顔で頬を赤くした。
「あ、いや、まあほれ、オレもストレス解消で暴れただけだし…ああくそ、暑いなあもう…」
火照る顔と身体に耐えかねたランサーはTシャツの襟をひっぱってパタパタと服の中に空気を入れ…
「のわっ!?」
引き伸ばされた襟ごしに見える白い双丘に士郎は思わず目を奪われて声を上げた。
「ん…って、こら少年! な、なに見てんだよ!」
「ぅえ!?」
視線に気付いたランサーが真っ赤になった顔で胸元を隠しながら言ってきた言葉に士郎は慌てて目をそらす。
「す、すいません! 決してわざとじゃ…」
「う…ま、まあそうだな。うん、おねーさんのグンバツなボディに目を奪われるのも男として当然だな、うん」
しきりに頷き、ランサーはパンパンと頬をはる。どうにも落ち着かない。
「どうにもオレらしくねぇよなぁ…よっと」
呟いて立ち上がり、ランサーは片足立ちになってサンダルと足の間に挟まった土くれを払い落とした。次やるときは脱いどかないとちょっと危ないかもなと士郎の評価を少しアップ。
「そういや少年、なんか悩んでたみたいだけが…どうだ? オレに相談してみたらどうだ? クーフーリンに聞いてみてって感じで」
ちょいちょいと手招きするランサーに士郎はええと頷いて口を開いた。
「いや…セイバーが元気無いんでなんとか励ましてやりたいなって思っただけなんですけど、その方法が思いつかないんです」
それを聞いたランサーはああと呟き方をすくめる。
「まあそっちは今夜にでも話してみるとして…少年、セイバーは女の子だ」
「? はぁ、まあそうですよね」
実年齢が30代でも、人間らしく生きてきた期間は10年程度だ。まだまだ幼い。
「そうなりゃ話は簡単だろうが。男がいて女が居る。元気が無い。そうなりゃデートするしかねぇだろ?」
「でっ…デーボ!?」
「スタンド使いでどうすんだ。っていうかやめれ、最近マニアックすぎる」
反省。
「いいか少年。セイバーの奴の問題点は真面目すぎるってこった。自分が守護者であるってことを気にしすぎてるから失敗したときにああやってへこむ。で、視界が狭いから同じ失敗を何度も責めちまう…言っとくけどな、このあたりは少年にも当てはまるぜ?」
「……」
士郎は曖昧に笑った。自覚していることでもあるし、だからといって治し難い性質なのだ。
「だから、ヒントは3つ、答えは1つ! あいつの好きなもんは少年と食事! 普通に出しても食事で気は晴れなかった! んで、あいつはあんまり外出しない! これをまとめれば答えは出るだろ?」
びしっと指を三本立てるランサーに士郎はぶんぶんと頷く
「そ、そうか。外でご飯を食べさせてあげればいいんですね?」
「それだけじゃ足りんッッッ!」
途端、ランサーはシャープなフックで士郎を殴り飛ばした。
「なななななんですかいきなりっ!?」
数メートル吹っ飛んで落下した士郎はびっくり顔で立ち上がった。ランサーはコリコリと頭をかいて手を合わせる。
「す、すまん少年。ついその場のノリで…」
「タイガー○ョーですよ今のじゃ…」
うむと頷いてランサーは話を続けた。
「いいか? サーヴァントってのはこの時代の知識はあっても経験はない。だから現代の暮らしを生で体験すんのがすっげえ楽しいんだよ。そこを突いて守護者とかサーバントとか忘れられるくらい楽しませれば、いい気分転換になるだろうよ」
「その為の、で…でぇ、と、ですか」
うむむと唸る士郎にランサーはニヤリと笑みを見せた。
「そうだ。まあ、行き先とかはオレが紹介してやるからさ、まずはお姫様をお城から救い出して来いよ。大丈夫、おまえなら出来るって」
「…ま、まあ…デートってのはともかく、外で遊ぶのはいい気晴らしになるかもしれませんし…わかりました。行ってきます」
人形のようにぎこちなく頷いて歩み去る士郎を見送ってランサーはぶんぶんと手を振り、その背中が見えなくなってからなんとなく胸をおさえた。
「…なにやってんだろな? オレは」
苦笑して空を仰ぐ。
「なあ、しょーねん…?」
10-3 Alice & Rabbit
「"遊びに行こうセイバー"…遊びって単語は拒否されるかな…"ちょっと特殊な鍛錬を"…って遊びだってわかった瞬間怒られそうだし…"キャッチマイハート! ベリーメロ"…勢いで押してどうするんだよ…」
士郎は廊下を歩きながら肩を落とした。デートという表現はともかくとして、セイバーを遊びに連れていうという点に関しては文句のつけようが無い。二人きりというのは嫌がるかもしれないが、その場合は凛にでも一緒に来てもらえばいい。
だが、それだけの事がこれほどまでに難しい。なにしろ誘いの言葉が一向に思いつかないのだ。下手な宝具の解析よりも難しい。
「迷ってもしょうがないか。後は、度胸だけだ」
首を振って弱気を振り払い、少し勢いをつけて自室へ入る。予想通りセイバーの部屋のふすまは閉じられていた。
(いつもは寝るとき以外開けっ放しなのにな…)
それすらも士郎が男女同衾せずを言い渡したからであって、寝るときくらいは閉めておいて欲しいと伝えたときのしょぼんとした表情は未だに忘れられない。
ついでに言うならば、寝るときにはパジャマを着て欲しいと切に願う。トイレに行くときに着替えるのが面倒と武装して行くのも怖いからやめて欲しい。鎧姿なのに無音なのが特に怖い。
「…よし」
士郎は呟いて気合を入れ直した。落ち着け。落ち着けば大丈夫。さあ!
「ハ、ハイッテもイイカ? セイバア」
声が裏返った。喉をおさえてとりあえず待てみた士郎の耳に、数秒の間を開けて張りのない声が届く。
「…シロウですか…どうぞ…」
「は、入るぞ」
士郎は言い置いておそるおそるふすまを開けた。おっかなびっくり中に足を踏み入れ、金髪の少女の姿を求めて眺め回す。
居た。部屋の隅っこで体育座りをして虚ろな目で首をかしげてはいる。傍には佐々木あたりが持ってきたのかどら焼きとお茶がお供えの如く置かれているが、手をつけた様子は無い。
「えっと、セイバー…」
部屋中に満ちた異様な緊張感に気圧され、士郎はとりあえず本題からそれた話題から話し始めた。
「…それ、食べないの?」
「…いえ…いただきます…」
セイバーはのろのろとどら焼きに目を移して手を伸ばし―――
「…ぁ」
力なく掴んだどら焼きは手から滑り落ちてぽすっと皿の上に戻った。空っぽになった手をセイバーはしばし無言で見つめ―――
「ふふ、ふふふふふ…あははははは…」
そのままの姿勢で無表情に笑い始めた。眼は真顔のまま、首がカクカクと揺れる。
「せ…セイバーが壊れた…」
思わず後ずさった士郎の脳裏に警告イメージが次々と流れた。凛が預金通帳を眺めている後姿、桜が包丁を研ぎながら浮かべた笑顔、麻婆豆腐、著作権法違反
による告訴状。冷蔵庫のコンセントが抜けているのを発見。しかも背後に天のセイバー、地のバーサーカー、人の桜! 我らハラペコ三人衆―――
「せ、セイバー! あのさ、ちょっと出かけないか? 一緒に…」
ぞくりと背筋を振るわせた妄想を振り払い士郎は叫んだ。ちょっと語尾が小さくなったが衛宮士郎は男の子!
「でかける…のですか?」
「あ、ああ…」
ええい! 吹けよ風、呼べよ嵐! 勢いで勝負とばかりに士郎はセイバーに駆け寄った。どら焼きを落としたまま突き出されていたセイバーの手をぎゅっと握り、思っていたよりもずっと小さな手のひらに驚きながら思いつくままに言葉を叩きつける!
「せ、セイバーと一緒に遊びに行きたかとです!」
何処の方言だ。
「……」
セイバーはきょとんとした表情で士郎の顔を眺めた。自己嫌悪で鈍くなっていた頭の中に単語がひとつずつ落っこつ、じわじわと吸収されていき―――
「ぬぉっ!?」
何を言われたか理解できた瞬間、セイバーは奇声をあげてのけぞった。それまで脳内に巣食っていたあれやこれやが優先順位を失って意識の外にはじき出されてゆく。
「どうかな。新都あたりに行きたいんだけど…」
「わ、私と…ですか?」
上目遣いでおずおずと聞いてくる姿にのた打ち回りたいような気持ちを抱きながら士郎は冷静を装って頷いた。
「ああ。セイバーと、だよ」
「……」
セイバーは眼を真円に見開いて絶句した。予想だにしていなかった申し出にぐるぐると思考が踊りだす。しかも16ビートで。
(遊びに行く? 誰が? 私? 私が? シロウと? 街を歩いたり買物をしたり一緒に屋台でたい焼きを食べて焼きたてが一番とかあんまんは命の源だとか辛いことがあってもあんぱんっ!とかいやいやいや後半あまり関係無いです…)
混乱もあらわにセイバーは士郎を見つめ返す。握られたままの手の感触に体中の血が顔面に集まったかと思うほどの熱を感じる。これで中々長生きしている彼女ではあるが、なにしろ人間扱いされることすら稀だったのでこの手の接触には全く免疫が無い。
(しかし遊びなどこの私が許されるのでしょうか? ああでもシロウの誘いを断ってしまうことも失礼ではありますしそもそも『あの』シロウが遊びたいと言っ
ていることは良いことですし私の都合で邪魔をするというのもなんですねいえまってください何を私は二人きりで遊びになどという大それたことを考えています
かいつもどおりみんなでという方が自然です)
暴走を続ける思考に翻弄されセイバーはしょぼんと肩を落とし、無意識のうちに問いを口に乗せていた。
「あの、二人きりで、でしょうか」
「!? いや、その…」
こちらから申し込むべきテーマを向こうから切り出されてのけぞる士郎にセイバーは顔を赤くして口を閉じる。
その顔は失言しましたっ! とその額にかかれているかのようなわかりやすい後悔の表情、しかし握り締めた手が僅かに握り返されているのは鈍い士郎にすらわかる期待のあらわれであって。
「し、シロウ…あの…」
もじもじもじもじもじ…
「う…」
女の子と二人きりでおでかけなどというイベントが俺の人生にあっていいのか!? しかも相手は藤ねえやねこさんじゃなくてセイバー…あの、セイバーだぞ!?
「せ、せいば―――」
自己不審と優柔不断の渦巻く中、次元連結システムも動かせそうなほどに気力を振り絞って士郎が口を開いた、その瞬間!
「シャアアアアアアアアアアアッッッッ!」
廊下に続く戸を勢い良く突き破って青い影が部屋に飛び込んできた。影は高速でんぐり返しでもってゴロゴロと転がって来てそのままの勢いでもってシュバッと立ち上がる。
「ら、ランサーさ―――」
「ああもう! じれったいんだよおまえらは! なんかこう青春のむずがゆさを味わってたオレはなんなんだ!? オレはなんなんだ!? オレはなんなんだ!?」
両手を広げて士郎へにじり寄ったランサーはそのままびしぃっとセイバーを指差した。
「セイバー!」
「な、なんですか一体!」
鼻先につきつけられた指を振り払ってセイバーは叫び返した。目に落ち着きこそ無いが、今朝までのどんよりとした雰囲気はもう無い。
「おまえ、今日はデートな」
「お断りします」
キッパリと言われて士郎はゆっくりと背後へ倒れこんだ。その姿、9回裏二死満塁から渾身のピッチャー返しが直撃で失神の如し。人間、いくら打たれ強くとも不意打ちの致命傷には勝てない。
「お、おいセイバー! 迷うことなく一刀両断ってのはあんまりだろうが!」
予想だにしない展開に思わず怒鳴ったランサーに金髪の少女は眉をひそめてため息をつく。
「何故女同士がでぇとなどしなくてはならないのですか…」
「オレと行ってどうする! 少年とだ少年!」
ズバンッとつっこみを入れられたセイバーは顔を茹で上げられたかのように赤くして呟いた。
「し、シロウと、で、デーボ…」
「二度ネタかよ!」
逆手に変えて突っ込み直すランサーに士郎は神妙な顔で頷いてみせる。
「ちなみにデーボというのはジョ…」
「解説すんな! それといまどきの若い人にはきっとわからんからな! 第三部!」
ランサーはがるるる…と唸って二人に指を突きつけた。
「コースは後で紙に書いて少年に渡すから二人はさっさと出かける準備しろ! 言っとくけど普段着は駄目だぞ!? お洒落しろ!」
「お洒落…」
その単語に反応して昨日買った黒ビキニを思い出しているシロウを上から下まで眺め回してよしと頷く。
「少年の服はオレのを貸してやるとして…セイバーのはどうすっかな。昨日も普段着とかジャージとか買ってばっかでそういうのはなかったし…」
「そこはボクにおまかせなんだねっ!」
途端、パリンッ!と窓がはじけとんだ。身体を丸めてくるくるとそこから飛び込んできたイスカンダルは両手を挙げて着地を決め、不敵な笑みで辺りを見渡す。
「10点かなっ!?」
「0点だよっ!」
士郎はそう叫んで悲しげに破壊された窓と戸を見つめた。この壊れ具合では彼の魔術では復元できないだろう。後で凛かキャスターを呼ばねばなるまい。
「ああ、また借りが増える…」
「をを、そこまで考えなかったんだねっ! ごめんだよっ!」
手を合わせて詫び、イスカンダルはセイバーの方へ向き直る。
「話は廊下から聞かせてもらったよっ! よそ行きの服ならボクの服を貸してあげるんだねっ! セイバーっちの身長なら少しぶかぶかになるけどそれも萌え! だよねっ!」
叫んでグッと親指を立てる姿にランサーは腕組みをして鷹揚に頷いた。
「よし、よくわかってんじゃねぇか制服王」
「当然だよっ! マイフレンドっ!」
フッとニヒルな笑みを浮かべて二人はぱんっとハイタッチ。
「よし! じゃあセイバーを連行!」
「ガデッサー!」
そのままイスカンダルはセイバーの手をとって立たせ、ぐいぐいと引っ張って廊下へと連れ出す。
「え!? あ! お!? シ、シロウ!? シ―――」
「あ、ちょっと!」
びっくり顔のまま引っ張られていき廊下の角に消えた金髪の少女に士郎は慌てて走り出そうとしたが。
「待てって。別にとって食いやしねぇよ」
ランサーはその腕を素早く掴みとめた。肩をすくめてウィンクする。
「まあ…別の意味で喰われるかもしれねぇけどな!」
「イスカちゃんはそういう趣味の人じゃ…ない…ですよね?」
そこはかとなく台詞に自信がない。
「まああっちはあっちでお楽しみとして…次は少年のほうだな」
「む。俺も一応よそ行きの服ぐらいもってますよ」
反論にランサーはチッチッチと指を振った。
「いいか? 相手はセイバーだ。王様…感覚的には王女様だぞ? しかも服はあの制服王のもんだ。おまえ、それに見合うような服を持ってるってのか? こういう時に恥かくのは変な服着てるほうじゃなく、そいつと一緒に居る奴なんだぞ?」
「それは…そう言われると…」
口ごもり、士郎はガクリと肩を落とす。元よりそっち方面には疎い男だ。時々凛から教育的指導を喰らっているのは伊達ではない。
「…わかりました。お願いします」
「おうよ、どんとこいだ。じゃあ少年、これからオレの部屋に…」
来い、と言いかけてランサーは自分の部屋の状態を思い出した。昨夜の痛飲のせいで空き缶だらけ、つまみの袋だらけ、ついでに士郎の写真もベッドに出しっぱなし―――
「いや、ここで待て、少年。すぐサイズが合いそうなのを持ってくるからここで待つように。絶対動くなよ?」
「え? ええ、別にいいですけど…」
急に鋭い視線で威圧されて士郎は戸惑いまじりに頷いた。ランサーはそそくさと廊下に出てくるっと振り返る。
「いいか! オレの部屋には近づくんじゃないぞ!? あ、いや、普段は来い。どんどん来い」
「?」
そして、30分後。
「…やっぱ上手くいかないな」
玄関に座り込んでセイバーを待っていた士郎は暇つぶしに展開していたエクスカリバーのイメージを意識を外した。出来損ないの拙い骨子は魔力を通されること無く霧散する。
「あれだけ発動を見てるのになぁ…やっぱり他の宝具とは格が違うか」
そう呟いて他の宝具でもイメージしてみようかと息を整えた時だった。
「お、おまたせしました…シロウ…」
背後から聞こえた消え入りそうな声に士郎は思わずびくっと背を震わす。
「…いや、今来たばっかりだから…あれ?」
激しく波打つ心臓をなだめ透かしつつ待ち合わせの定番のような台詞で振り返った士郎の眼に映ったのは、予想を裏切り無人の廊下だった。
「あれ? セイバー?」
「!」
首を傾げて声をかけると客間のほうに続く角で青い何かがぴよんっ!と揺れる。
「リボン…?」
千里眼への進化が始まっている眼に映ったのは青く細長い布。なんじゃそりゃと思いながら士郎は靴を脱いで立ち上がり歩き出す。
「あ、ちょ、ちょっと待ってくださいシロウ! そんな、早足で! あっ!?」
「いや、そんなこと言われても。時間もないし」
苦笑しながら無造作に距離を詰め、さくっと角を曲がると…
「ぅう…このような屈辱…」
「え…」
そこに、セイバーは居た。
青のワンピースに白のエプロン。髪はいつものように結い上げておらず、ロングのストレートになった美しい金髪には青いリボンが飾られている。
(見たことある! なんかこの格好は見たことある)
アルトリア in ワンダーランド…不思議の国のアルトリア。
「や、やはり変でしょうか…抵抗したのですが…あえなく剥かれてしまい…屈辱です」
「剥か…」
士郎は数日前に見た真っ白な裸身を思い出して素早く首の後ろを叩いた。部屋にストックしてある練習用のナイフの骨子を思い浮かべて煩悩を振り払う。今回は、勝てた。
「まさか…下穿きまで…こんなもの履いていないも同然…」
そしてカウンターの一撃!
「ぶっ…!」
圧敗!思わず鼻を押さえて後ずさる姿にセイバーは不思議そうに首をかしげ…
「? …! !?」
士郎が何を想像したのかを察知し慌ててスカートをおさえた。逆に強調されてしまっていることまでは気が回らないらしい。
「ち、違うぞセイバー! っていうか出かける前にこんなことで揉めるのは建設的じゃないと思う!」
両手を挙げて主張する姿にセイバーは少しばつが悪そうに微笑んだ。
「そ、そうですね。少々大人気なかったようです…」
「ははは…えっと、取りあえず…似合ってるよ、セイバー。いつもと印象が違って可愛らしい感じだ」
素直な感想にセイバーはぽひゅっと赤面し、指先でスカートを弄り回して恥らう。ひっぱられてめくりあがりそうになる裾から全力で意識を外して士郎は玄関の方に顔を向けた。
「さ、行こうか。家のことは佐々木さんに任せたしゆっくり遊べるよ」
「…ええ」
こくりと頷くセイバーと一緒に靴を履き、二人は表へ出た。
「気持ちの良い陽気だな」
「ええ、出かけるには良い日です」
冬の澄んだ空気による高い空。雲ひとつ無い青の中に浮かぶ太陽が惜しげなく注いでくる暖かな光に眼を細めて微笑みあう。
「新都でしたか? シロウ」
「そう。向こうまでは自転車を使うつもりだよ」
頷きながら士郎が告げた言葉にセイバーはヒクリと頬を引きつらせた。いつぞやの苦い記憶が蘇る。
「…申し訳ありません、シロウ。あれから特訓を重ねたのですが…未だにジテンシャには…」
血を吐くような声でそう言って頭を下げるセイバーに士郎は慌てて首を横に振った。
「いやいやいや! だ。大丈夫! ランサーさんが乗れるように工夫しといたって言ってたから!」
叫んで玄関脇の自転車置き場に目を向けると…
「あ」
「む」
三台ある自転車、その三号機に改造が施されていた。後輪の両脇に、直径20センチほどの小さな車輪が追加されているのだ。
人、それを補助輪と呼ぶ―――
「シロウ。これは私の知っている限り子供向けの…」
(ランサーさんっ!セイバー、静かに怒ってますよ!?)
士郎は慌ててその視線を遮り、ぶんっと強く頷いてみせる。
「わかった。大丈夫! その…二人乗りで行こう!」
「そ、そうですね…この間もそうしましたし…」
セイバーがカクカクとぎこちなく頷いてそれに同意するのに少しほっとしながら士郎は自転車二号機(タンデムシート有り)のチェーンの数字を合わせて外した。
よくメンテナンスされていて軋み一つたてずに動き出したそれを押して門の前でまたがり、少し落ち着かない表情で着いてくるセイバーの方へ振り返る。
「じゃあ、乗って」
「え、ええ…」
頷いてセイバーは後部座席に座った。
「いつもより短いから、スカートがめくりあがらないように太ももで裾を挟んどいた方がいいよ」
士郎の指摘に慌てて裾を押さえ、一瞬躊躇ってから士郎の腰に手を回し、きゅっとしがみつく。
「?」
前回より遠慮がちに抱きしめてくる腕に首を傾げ、士郎は力強くペダルを踏んだ。
―――衛宮家内で動き出した、三組の追跡者達に気づかずに。
10-4 ちぇいさー
時間は十五分程さかのぼる。
「旦那様、ご在室ですか?」
「ん?」
廊下から聞こえてきた涼やかな声に、ランサーは小さく呟いて振り返った。
「お、佐々木か。しょーねんならここに居るぜ?」
「あら、ランサーさまもいらっしゃいましたか」
佐々木はぺこりと頭を下げながら士郎の部屋へ足を踏み入れた。同じように頭を下げてハサンも一緒に入ってくる。
「旦那様はどちらに?」
「ああ、今着替えてるぜ。ほれ」
言って指差したのはセイバーの部屋。折りよく開いたふすまからひょっこり士郎が顔を出した。
「あれ? 佐々木さん…どうしたんですか?」
「お昼のご相談にと来たのですが…ふふ、素敵なお召し物ですね、旦那様。お出かけですか?」
口元を押さえて微笑む佐々木の背後でハサンもほぇ〜と声を漏らす。
「ホストですぅ…」
「誰がだよ! ランサーさん、やっぱりこの黒ずくめはちょっと…」
士郎は素早くつっこんでから情けない顔でランサーに訴える。身に纏っているのは黒いシャツに黒いスーツ、襟を大きく開けた胸には剣を模ったチョーカー。
言うまでも無く、士郎の趣味ではない。徹底交戦の構えで拒否した下着以外は上から下までランサーのものである。
…実は結構サイズが合わないのだが、わりと筋肉質な体格のおかげでブカブカにはなっていない。
「何言ってんだよ。たまにゃあコレくらいやっとかないと男の色気がでねぇぞ?」
「いや、出なくていいですよそんなもん…」
半眼で呟いて士郎は自分の格好を見下ろした。いつもトレーナーにジーンズが定番なだけにどうしたって違和感が拭えない。
「出さなくてどうすんだよ。せっかくのデートなんだぞ? 相手がゴージャスな分、ちょっとだけ地味目なおまえは服でカバーしねぇとダメだろ? なにせデートなんだから」
「! ちょ、ちょっとランサーさん!」
デートデートと連呼された士郎は慌ててランサーの口を手のひらで押さえた。まあと眼を丸くする佐々木に引きつった誤魔化し笑いを向ける。
「あはははは…なんでも、なんでもないですじょ?」
ランサーは弁解を続ける士郎に眼を細めて笑い―――
「…ぺろり」
唇に触れる手のひらをその長い舌で舐めあげた。
「うひゃぁあっ!?」
「おお、うひゃあなんていう悲鳴、いまどき上げる奴いたんだなぁ」
「ええ…流石ですね旦那様」
ランサーと佐々木はのんびりと言葉を交わして士郎の肩をぽんっと叩く。
「ともかく、おまえの服はコレで決定! ガツンとかましてこい!」
「逢引ということでしたらいつもとは印象を変えて臨まれるも有効でしょう。どちらにせよ最後は脱いでしまうのですからお気にめさらず…ふふ、少々品が無いですか?」
笑顔に囲まれて士郎はがっくりと肩を落とした。
「まぁ、服のことはいいですけど…デートだデートだって騒ぐのはやめてください。ちょっと出かけるだけなわけですし…」
(あー、まあ坊やなシロウじゃこんなもんかねぇ。セイバーも可哀相に)
ランサーは少しだけ考え込み、ひょいっと肩を竦める。
「よしよし、じゃあこのことはここに居る面子だけの秘密だ。いいな?」
「はい、構いませんよ。おうちのことはわたくしにお任せください。ハサンちゃんもいいですね?」
「は、はい!? わ、わかったです…」
いきなり話を振られたハサンが頷くのを眺め、ランサーはスッと目を細めた。
「ちなみに、秘密をばらした場合−−−」
「ば、場合、どうなるですぅ?」
「犯す」
静寂が、狭い部屋を包み込んだ。机の上に置いてあった時計がカチコチと時を刻む音だけがやけに大きく響く。
「あの、ランサーさま…わたくしはいいのですが…」
数十秒の静寂を経て佐々木は困ったような顔でランサーに向き直った。
「おう、それで?」
「おかあさん…」
嬉しげなハサンの頭をひと撫でして佐々木は微笑む。
「この子ははぢめてですから優しくしてあげてくださいね? それと、右の耳が敏感ですからその辺を中心にお願いします」
「そ、そんな気遣いは欲しくないですぅ!」
「バッチリだ、まかしとけ」
「まかされたくないですぅ!」
ハサンはがっくりとその場に崩れ落ち、よよよと泣き始めた。
「せめて最初は殿方がよかったですよぅ」
「をを、よかったな少年! 誘われてるぞ! 誘惑しないで保健室!」
「わけわかりませんよ! っていうかばらすこと前提なの? ハサンちゃん!?」
士郎のつっこみにハサンはぐすっと鼻をすする。
「そんなつもりないですけど…拷問されたらきっと一発ですぅ…」
「…ああ、その場合はいいよ…命には変えられないもんな…」
衛宮家の恐怖を一手に引き受ける姉妹を思い出して士郎は頷き、ハサンとともに遠い空を見上げる。いい天気だ。最近雨が降らない。
「さて、優しい少年によるフラグ立ての儀も済んだことだしこの場はお開きにすっか」
「うふふ、よかったですねハサンちゃん。毎晩の特訓を発揮する日も近いですよ。バナナとナスはもう卒業ですね?」
「うきゃああああああああああっ!」
閃光のように立ち上がり飛び掛ってくるハサンを笑顔で受け流して抱きしめながら佐々木はくすくすと微笑む。
「あらあら照れちゃって…」
「どう考えても決死の抗議ですよ佐々木さん…」
「はっはっは。オレもアーチャーの奴にストロベリーな講義をしてやるつもりだぜ? っと、話がすすまねえからあんま細かいトコ気にしてないで行けよ。あんまりモタモタしてっと向こうも着替え終わるぞ?」
言われて時計を見上げれば着替え終わってから5分ほどたっていた。財布やら小物やらを適当にポケットに詰め込んで士郎はもう一度ランサーに向き直る。
「じゃあ行きますけど…ほんとにおかしくないですか? この格好…」
「おう、バッチリだ。楽しんできな」
「ふふ、行ってらっしゃいませ旦那様〜」
「もがごぐ…」
ニヤニヤと手を振るランサーとハサンを抱きしめたまま頭をさげる佐々木に見送られて士郎は玄関へと去った。主の居なくなった部屋でサーヴァント達はさてと顔を見合わせる。
「じゃあオレは部屋に戻るけど佐々木はこの後どーすんだ?」
「わたくしはお昼の準備に」
微笑と共に会釈する佐々木にそっかと返してランサーは歩き出し、ふとある事を思い出して振り返った。
「ハサン、動かなくなってるからそろそろ放してやったらどうだ?」
「あら?」
しばし経ち。
「ま、また酷い目にあったですぅ…」
ハサンはちょっと斜めに傾きながら廊下を歩いていた。佐々木に見事な関節技で固められた肩と首の関節がまだ痛む。基本的には極める→折るが1セットな人が相手であることを考えればまだ手加減してもらえたほうだが、その程度では慰めにもならない。
「うぅ、痛いの痛いの飛んでいけぇ〜」
真顔のまま肩の辺りを掴んで何かを放り投げるようなジェスチャーを三度繰り返してため息をつく。
「飛んでいきました…」
元来アサシンは肉体的な破壊には強い。個としての存在ではなくハサン郡体の一部として召還されるハサン・サッバーハというサーヴァントは己の肉体に他の
肉体を融合させることすら可能なほどに実体との関連が薄く出来ている。能力的なことで言えば受肉した今もそれは引き継いでいるのだが…
「この身体になってから痛いことばっかりですぅ…」
どうにも、痛みに弱くなっている昨今だ。この状態で肉体融合などしたらどうなることか。
「ある意味自己とかいうものを手に入れかけてる証拠かもしれないですけどね…」
もう一度ため息をついてハサンは頭を切り替えた。辛いことを忘れようと最近気になるもう一つのことに思いを馳せる。
それは。
「士郎さま…」
ほぅと三度目のため息。脳裏に浮かぶ三割増にいい男の士郎に呟きを漏らす。
「ラブ…」
嗚呼、素体からの引継ぎなのかはたまた股間に顔をうずめられたことに端を発する刷り込み(インプリンティング)なのか…どうにも赤い髪の魔術師のことが脳裏からは離れないのであった。ぽーっとした表情でハサンはついさっきの記憶を反芻し…
「デートに行くってことは、好きな方がいるんでしたぁ…」
そのままがっくりと肩を落として涙ぐんだ。
「ラブ涙色…ですぅ」
ぐしぐし眼をこすってハサンは歩き出す。こんなときでも取り合えず足音と気配は無い。骨の髄から暗殺者な彼女である。
「所詮ハサンは自分の名前も持っていない小物サーヴァントですし…屋根裏からこっそり見守ってるのがお似合いですぅ…」
それはただの覗きだとつっこんでくれる者もおらず、ハサンは客間のある方へトボトボと歩き続けた。軽度ひきこもり娘の彼女にとって自室がもっとも安らげる場所である。
「それにしても羨ましいですぅ…デート…やっぱり凛さまとでしょうか…ぐす…」
重い足取りのまま呟き、鼻をすすった瞬間だった。
シュボッ…!
「ひっ!?」
空気の壁を突き抜ける低い音と共に横合いから手が飛び出してきた。閃光のように伸びたそれはハサンが飛びのくよりも早くその首を握り締める。
「…!」
反射的に手首に巻いた皮ホルスターからダークを引き抜いたハサンは手の伸びてきた方へそれを投擲しかけ、しかしピタリと動きを止めた。
「あわ、わわわわわ…」
浮かべた表情は恐怖の一色。大きく見開かれた眼に映っているのは細く開かれた戸…そしてその隙間からのぞく爛々と光る瞳!
ニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロ!
「うふふふふ…」
どこぞの暗殺者一族の本能の如き警告が脳内を駆け巡る中、押し殺した笑い声と殺気が漏れ出すその戸はゆっくりゆっくりと開いていき…
「その話、詳しく聞かせてもらえますか…ハサンちゃん?」
ニッコリと微笑む桜の姿が、そこにあった。平べったい笑顔のまま、ハサンの身体を腕一本で吊り上げる。
「誰が…なにをと言いましたか?」
「あ、あぅあ…」
ハサンは眼だけ無表情な桜の尋問に縮み上がった。足元にカランカランと音を立ててダークが落ちる。
『デートだって騒ぐのはやめてください…』
『ここに居る面子だけの秘密だ…破ったら犯す』
『優しくしてあげてくださいねー』
脳裏をよぎるいくつかの声にハサンはガクガクと震え…
「い、言えないで―――」
「カルシウム、足りてませんよ…?」
メコリ。
「はい、お答えさせていただきますぅ…」
首の骨と共に意地はあっけなく折れた。
「で、でも、取りあえずイニシャルトークでお願いするです」
…いや、どちらも微妙に折れていないようだ。
『士郎さま…せめて…せめて時間を稼ぐです…その間に逃げてくださいぃ…』
生命の危機への恐怖、暫定マスターである桜への忠誠心、士郎への想い、それぞれを微妙に均衡させてハサンは引きつった愛想笑いを浮かべた。
「あの、差し込むのだけはやめてほしいですぅ…」
「…何を?」
五分後。凛の部屋にて。
「ふふ…成功ね」
凛は不敵に微笑んで眼鏡を輝かせた。机の上には小指の先ほどの宝石が二つ。片方に軽く魔力を通すとぼんやりと発光し、一瞬おいてもう片方も発光し始める。
「後はタイミングの同期を絞る事と数ね。効果自体は今までの応用だから純度をあげれば解決するし…」
実験が一区切りついた快感にニンマリしながらそれを加工済み宝石入れに仕舞い込んで眼鏡をはずした瞬間だった。
「姉さんっ!」
絶叫と共にドアがズドンッ! と蹴りあけられた。余談ではあるが凛の部屋は元々和室だった部屋を強引に洋室へと改装している。作業中士郎とアーチャーが思い出の部屋の消失に涙を飲んだのは秘密である。
「な、なによ桜! ノックも無しに!」
「抜け駆けはひどいと思いますっ! わたしなんてまだ一回もしたことないんですよ!?」
光って唸りそうなほど拳を握り締めて叫ぶ桜に凛はずささっと椅子ごと後ずさった。
「な、何の話よ!?」
「し、しかもはじめてが先輩とだなんてッ…鬼! あくま! もう一度あくま! とどめにあくま! くきぃいいい! 一人で大人へのステップを駆け上がるなんてッ!」
はじめて、先輩=士郎、大人。それらの単語を脳内で統合した凛は一瞬おいてぼひゅんっと顔を燃え上がらせる。
「な…なに言ってんのよ! わ、わたしはまだ処女よ!?」
「…はい?」
桜はきょとんとした顔で黙り込んだ。姉妹、顔を見合わせてぼうっと互いの表情を伺い、そして…
「ああああああああの! いきなり何を言い出すんですか姉さんっ!」
「…え?」
あわあわと叫んできた桜に凛はきょとんと目を見開いた。再度訪れた沈黙、互いの真意を測りかね、見詰め合うことしばし。
「…あの、姉さん…それ、普段着ですよね?」
桜はふと気づいたことを尋ねてみた。
「普段着って言うか、実験用の汚れてもいいやつだけど?」
いかな傍若無人な姉とはいえ、この格好でデートに向かうだろうか…? 否。ありえない。少なくとも薬品染みのついたスカートで出歩くような人ではない筈。多分。
「…ひょっとして、先輩のデートの相手って姉さんじゃないんですか?」
「!? デート!? そ、そんなのしないわよ!」
凛はぎょっとした表情でそう叫んでハタと気がついて頬を引きつらせた。
「っていうかさっきのは…」
「え、ええ。姉さん身持ちが固いから初デートだと思って…」
ぽかんとした表情で答えられて額をおさえ崩れ落ちる。遠坂凛、大自爆である。制御棒全部抜き、炉心融解、ファイナルブラストだ。
「…忘れて…さっきのは忘れなさい…」
「…!」
呻くような声に桜の眼がキュピーン!と輝いた。チャンス! はぢめて訪れたハンターチャンス!
「ふふふ、どうしよっかなぁ…」
桜は日ごろの仕返しとばかりにもったいぶってクスクスと笑い、小さな優越感と共にチラチラと横目で姉を見つめる。
「…そう」
それに対して凛の動きは簡潔だ。ゆらりと立ち上がり部屋の一点を指差す。
「?」
桜が首を傾げてそちらに目を向けると、そこにあるのは金属バット。
不審な赤い染み付き。
「うふ、忘れてね? 桜?」
「…はい」
桜はだばーっと涙を流してうなだれた。小さな反撃の結果は、遠坂凛が屋敷内の魔術師に対して絶対的な殺害権利を持っているということを確認しただけに終わった。まさに衛宮家のプライミッツ・マーダーである。
「まあ、脅して終わりっていうのも等価交換の原則に反するし、代価としてこれあげるわ」
凛はぐったりとしている妹に苦笑してテーブルの上に飾ってあった宝石をぽんっと投げた。慌てて受け取った青い宝石に桜は首を傾げる
「なんですか? これ」
「呪いの石。持ってると婚期が遅れる」
「あんたはほんまもんのあくまですかこん畜生っ!」
桜は手が消えて見える程の超高速で石を床に叩きつけた。パキッと音を立ててフローリングの床にめり込んだ宝石は一瞬ブルリと震えてから叩きつけられたのと同じ速度で桜の方へと跳ね返った。
「きゃん!?」
顎に強烈な一撃を喰らってしりもちをついた桜に凛は生暖かい目を向けて静かに笑う。
「ちなみに、それって一度持ち主と認めたら因果の果てまでついてくるから気をつけてね」
「生まれ変わっても行き遅れるんですか!? 嘘ですよね!? そんなの流石に嘘…なんでそんな優しい目で私を見るんですか!? ちょ、背中向けないでください姉さんっ!」
涙目で絶叫する妹に凛は苦笑してパタパタと手を振ってみせた。
「嘘に決まってるでしょ。それはね、士郎の波長と同期させたものなのよ。ランサーの追跡ルーンを再現できるか実験したときの奴で、魔力を通すとあいつの居る方に動くわ」
「え…?」
きょとんとする妹にふふっと笑って背を向ける。
「どうせじっとしてられないんでしょ? ま、あまり先走らないようにね」
「あ、あの…姉さんは気にならないんですか?」
その背に桜はおずおずと声をかけた。凛は振り返らず手をひらひらさせてから肩をすくめた。
「いいわよ別に。デートくらいするでしょこの状況じゃ。士郎だってホモじゃないんだから」
一拍おいてくるっと振り返る。
「違うわよね?」
「…多分」
同時刻。ランサーの部屋には半透明ビニール袋片手にゴミを拾うアーチャーの姿があった。
「少しは掃除しようという気にならんのか。あの女は…」
ぶつぶつ言いながら空き缶やビニール袋を拾い上げ無表情にそれを袋に収めていく。ちゃんと燃える、燃えないで分別しながら。
「ただいまー」
声と共に戸が開いた。入ってきたのは部屋の主だ。
「いいご身分だな。散らかし放題でどこをほっつきあるいていたんだかな」
アーチャーの皮肉を聞き流してランサーはぽやーっとした表情でベッドに飛び込んだ。シーツに顔をうずめてからヒョイと手を挙げる。
「ごくろうさん〜」
「……」
ひくりと額に青筋を立てたアーチャーは死を収集する僧の如き険しい表情でそれを無視して中身の残っている一升瓶を拾い…
「士郎がな、セイバーとデートに出かけた」
ガチン。
その瓶をすとんっと取り落とした。
「ぅわ! もったいないことすんなよ! 割れたらどうすんだ」
「ちっ…」
アーチャーは舌打ちして瓶を拾い直した。割れていないのを確認してそれを部屋の隅に片付ける。表情は険しいが、怒りというよりも苛立ち、そして戸惑いの色が濃い。
「短絡的な奴め…部屋で延々と話し合う程度だと思っていたが…少々あいつの思考を読み違えていたか…?」
ぶつぶつ言っているアーチャーにランサーは首をかしげ、しばらく考えてからぽんと手を打った。
「少年のアイデアじゃねぇよ。デートしろって言ってオレが無理矢理放り出した」
「おまえかぁっ!」
あっけらかんとした声にアーチャーはがぁっと吼えてランサーに詰め寄り、ニヤニヤ笑う青い髪の女に頬を引きつらせた。
「こ、この阿呆が…おまえの思考回路には色仕掛けと力づく以外の解決法は無いのか!」
「有るわけねぇだろ馬鹿野郎!」
逆ギレだ!
「…ふぅ。で? 何を興奮してるんだ? エミちゃん」
「奇天烈な名で呼ぶな! ついでに興奮してるのはお前もだ!」
「そっか? まあおまえも落ち着くナリよ」
ニヤニヤ笑うランサーにアーチャーはぐっと奥歯を噛み締めて耐える。怒れば怒るほどペースを握られるのはわかっている。
「あー、どこまで話したっけか…ともかく、あいつらはちょいとおめかしして出かけたわけなんだが…なにせあの二人だろ? なぁんの色気も無いデートにならねぇかおねーさんは心配なんだよ」
ぱふっとベッドに寝転び直して言ってきたランサーにアーチャーはふんと鼻を鳴らして発泡酒の缶を踏み潰した。ひらべったくなった缶をビニール袋につっこんでアーチャーは皮肉気に口の端を吊り上げる。
「いらぬ気を回すものだな…おまえはあの馬鹿に惚れてるのかと思っていたのだが?」
いつものように反論してくるのを期待して放った言葉に、しかしランサーはニッと笑ってみせる。
「ん。そだな。どうも惚れちゃったみたい」
「え…?」
瞬間、空き缶の入ったビニール袋がつるりと手から落下した。足の小指にそれが直撃した激痛に身悶えながらアーチャーはランサーを睨みつける。
「…しょ、正気か!?」
「おう。つーか一応お前も少年と同じルーツかと思うとこういう話は恥ずかしぃなぁ」
たははと笑ってランサーは頭をかいた。
「まあ、前から好きだったんだけどさ、なんかこう弟で遊んでるみたいな気分だったんだよな。でも昨日の晩の一件でもし少年…シロウが居なくなったらってのを想像しちまってな。それが…死ぬほど嫌で、怖かったんだよ」
呆然とこちらを見つめるアーチャーに満面の笑みでもって頷いてみせる。
「それで気付いた。オレはあの天然で、人が良くて、どっかもろくて…でもいざという時には頼りになるあいつが、好きなんだなって」
絶句して立ち尽くすアーチャーの視線を受け、ランサーはあぐらをかいた身体を前後にゆらゆら揺らしだした。
「だからって別に恋人になりたいとかってわがまま言うわけじゃねぇぜ? オレらは結局人じゃねえしさ。まぁ、なんだ。ぅわたしはきぃみにぃとぉってのぉ、
そらぁでぇいたいぃ〜って感じかねぇ。傍に居てさ、時々優しくしてやったり優しくされたりできりゃあそれでオレはいいよ。うん…それが、いいな」
「…本当に…そんなことで、いいのか?」
アーチャーは表情を消し、目を細めてそう問うた。ランサーは肩をすくめてひょいっとベッドから飛び降りる。
「ははは、まあ…オレにはおまえもいるしなぁ?」
「纏わりつくな! ちっ…」
しなだれかかるランサーを振り払ってアーチャーは舌打ちする。
「あ、でもあれだぞ? 逆転ホームランは狙ってるぞ? そこんとこ、間違えたらあかん」
「…どっちだよ」
拗ねたような呟きにランサーはカカと笑うのだった。
「…というわけですぅ」
ハサンは涙と鼻をティッシュで拭って事情を話し終えた。
「情けないです…シロウさまのご信頼を裏切ってしまいました…」
桜の拷問…もとい質問に屈して知っていることを洗いざらい話してしまった彼女は自室に戻り、信頼できる友人に懺悔をしていたのである。
「ふむ…成程」
「にゃぁ」
意気消沈した彼女の話を聞いているのは身長16センチの騎士王と一匹の猫。天井裏に設置された猫&ちびハウスに住まう彼女らは同じ天井裏を得意フィールドとするハサンとは仲がよいのだ。
「うう、このままでは凛さまと桜さまによる血みどろの戦いが起きちゃうです…」
「ふむ…その可能性は、否定できませんね」
ちゃぶ台の上に正座して聞いていたセイバーはそう呟いて湯飲み代わりペットボトルキャップに注がれたお茶をすする。
「出掛けで高揚しているところに横槍を入れられてはリンも何をしでかすか…被害が出る前に様子を見に行くべきかもしれません」
静かに頷いたセイバーは覚悟をきめて立ち上がりかけ―――
「にゃう?にゃにゃ」
しきりに訴えかける猫の声にはてと首を傾げた。
「なんでしょうか…にゃん。にゃう?」
「なー。にゃおん。にゃにゃ」
脳髄をとろけさせるような甘いにゃんこボイスでセイバーが問い掛けると猫は嬉しそうに首を縦に振り、前足振り振り鳴きつづける。
「ひょ、ひょっとして会話できてます!?」
ぎょっとした顔で叫ぶハサンに構わずちびせいばーと猫は額をつき合わせて言葉を交わし続ける。
「ふにぃ、にゃん」
「にゃう。にゃ…みぃ」
「なー、にゃぉん。なんと、それは…みぃ」
「にゃぁ、なー」
「なんだか無茶苦茶置いてけぼりの気分ですぅ…」
指をくわえて見守るハサンをよそにしばしにゃぁにゃぁ言い合ってからちびせいばーは大きく頷いて振り返った。
「何を言っているかさっぱりわかりません」
「今までのはなんだったですか!?」
がくんとつんのめって叫ぶハサンにちびせいばーは猫の首を撫でてからクスリと微笑んでみせた。
「冗談ですよ。キャスターに協力してもらいましたので、今は簡単にですが意志の疎通が可能なのです」
「うぅ…なんだか、セイバーさんとキャラクター違うですぅ…」
ショックの表情で呟くハサンに穏やかに頷き、ちびせいばーは猫の首に頬を寄せる。
「それはそうでしょう。同じルーツから生まれたというだけで、異なる経験を得た私達は既に別人といっても良いでしょう。双子のようなものです」
「にゃう」
気持ちよさげに伸びをする猫と共にちびせいばーは遠い目をした。
「そう、猫さんと過ごす日々が私を成長させたのです。思えば色々なことがありました…猫達の挽歌、二丁目の決闘、かの陰惨な黒猫館事件、最も長い一日(ザ・ロンゲスト・ディ)…どれも今となっては良い想い出です」
「…どんな冒険があったのかは気になるですけど、また今度にしとくですぅ」
際限なく長くなりそうな予感にハサンは宣誓するように右手を上げて首を振った。重々しく頷いてちびせいばーは正座し直す。
「では、話を戻しましょう。猫さんから聞いた話によると、先程セイバー…もう一人の私が普段とは違う服に着替えて士郎と出かけたそうです」
「はぇ?」
予想外の台詞にハサンはきょとんと目を見開いた。
「つまり、シロウとデートしているのはリンではなくてセイバーだったということになります」
「……」
沈黙。首をかしげ、目をしばたかせ、両手の指を使って一から十まで数え…
「は、ハサン、意味も無く火薬庫にマッチを投げ込んだですぅ!」
ようやく理解できた事実にハサンは蒼白になって叫んだ。
「ええ…残念ですが」
気の毒そうな声にハサンは血の気の失せた顔で縮み上がる。
「はぅぅ! 虚報は戦場では重罪ですぅ! 下手したらハサン、逆さ吊りの上でいろんな液体を垂れ流すまでくすぐられるですよぅ!」
「極めて微妙な折檻ですね…」
ちびせいばーは苦笑しながら立ち上がり、ハサンの手をぽすぽすと叩いた。
「大丈夫ですよ、ハサン。リンやサクラも論理的を旨とする魔術師です。あなたが話そうとしていなかった情報を無理やり聞き出しておいてその真贋を責めるようなことはしないはずです」
「ち、ちびさん…」
パッと表情を輝かせるハサンにちびせいばーは慈愛に満ちた表情で頷く。
「安心してください、ハサン。どういう結末を迎えようと私達屋根裏組はいつまでも仲間です。ご飯くらいは調達してさしあげますから」
「も、もうちょっと建設的な手助けをして欲しいですけど贅沢は言わないですぅ…」
「にゃ」
だーっと目の幅涙を流すハサンの肩をぽんと猫が肩を叩いた。どうやら励ましているようだ。
「ぅぅ、ありがとうございます猫さん…とりあえずハサン、桜さまに謝ってみるです…」
「にゃう!」
「御武運を…」
「よし、終了だ」
綺麗に掃除の済んだ室内を見渡してアーチャーは満足げに頷いた。ゴミ拾い後の掃除機は言うに及ばず、ガラステーブルや棚には入念な吹き掃除が施され、適当に放り出されていたマンガもジャンル・タイトル・巻で入念に整理して棚に収められている。
「すげぇな…おまえ、メイドになれ。天職だ」
ランサーは相変わらずベッドの上に胡坐をかいた姿勢で呟いた。まめな性格を見込んで頼んだのは確かだが、ここまで自室が綺麗になるとは想像もしていなかったのだ。
「満足満足。いやぁ、これで今度からは思う存分ちらかせるなー」
「次は自分でやれ!」
アーチャーは一回転して勢いをつけた裏拳を容赦なくランサーへ叩き込んだ。おおっと!などと言って突き出された手のひらにパシンと小気味のいい音を立てて手の甲が打ち合わされる。
「ははは、さすがに嘘だよ。これからはちらかさねぇように気はつけるつもりだぜ?」
「実行されない予定になど意味は無い。ふん、人のことは言えないがな」
昨夜放棄したばかりの予定を思い出し、苦笑気味にアーチャーは笑った。陰の無いその表情にランサーはにまっと安堵の笑みを見せてもう一度ベッドに寝転ぶ。
「それしてもさ、少年はうまくやってっかなぁ。ねーさんが手取り足取り腰取り付き添ってやったほうがよくねぇかなぁ」
「知らん。というか、貴様はあの朴念仁が一度にそこまで飛躍するとでも思っているのか? 馬鹿らしい…手も握れんさ」
一刀両断に言われても尚、ランサーはベッドの上をゴロゴロ転がって唸り続けた。
「あー気になる! 気になってその辺に意味も無くティッシュとかばらまきそうだ! 微妙に濡れた奴!」
「際限なく気色悪い行為をするな! その青頭の中はエロだけか!? エロイカから愛でも込められたのか!?」
枕元に伸ばされたランサーの手からアーチャーは間一髪でティッシュ箱を取りあげる。
「エミちゃんがボケるのは珍しいな。ふ…ボケを知る年頃かッッッ!」
「さりげなく人を痴呆じみた扱いにするな! くそ、つっこんでもつっこんでもキリが無い!」
「戦いは数だよ兄貴」
「貴様のボケなど量産された暁には確かに連邦も滅びるだろうよ…」
はぁとため息をついてアーチャーは髪をかきあげる。
「まったくうっとおしい…気になるならさっさと様子を見に行くなりすればいいだろうが…」
ぼやくようにアーチャーが言った瞬間、ランサーはおぉっ!と手を打った。
「それだ! 頭いいなエミちゃん!」
「…ちっ、思いついてすらいなかったのか」
藪を突いて蛇を出してしまったアーチャーは舌打ちをしてゴミ袋を掴んだ。部屋の中をもう一度チェックしてすっと背を向けるその背にランサーはニカッと笑って声をかけた。
「なぁ、エミち―――」
「一人で行け」
だが、レスポンス0.01秒で否定の意が返ってくる。どこぞの盗賊一味の早撃ち男にも負けないスピードだ。
「早ッ! おまえ少しは検討しろよ」
「私にはまったく興味の無い話だからな。あの根性無しが幻滅されたところで何のリスクも無い。むしろ望むところだ」
ふふんと鼻で笑いアーチャーは無造作にドアをあける。明確な拒否を漂わせる立ち姿にランサーはぷぅっと頬を膨らませた。
「ちぇー、ケチぃ。いいよ、オレだけでいくさ。エミちゃんは一人でせっせと乳搾りでもしてりゃいーんですー」
「もういいかげんつっこむ元気も無いわ…」
口を尖らせて中指を立てる槍兵を肩越しにちらりと眺め、アーチャーはため息と共に立ち去りかけてふと足を止めた。
「それと! エミちゃんを定着させようとするな!」
「…ばれた?」
同時刻。
「らいだえもーん!」
自室で読書にいそしんでいたライダーは泣きながら駆け込んできた桜の声に顔をあげた。
「…どうしました桜」
天然とも狙いともつかぬ第一声を素で返したライダーは読んでいた本にしおりを挟んでため息をつく。彼女の属性は『ボケ殺し』…安易なネタなど一撃封殺だ。
「あのね、デートが先輩でNTRなのよライダー…どうしよう…!」
要領を得ない叫びにライダーはきゅっと形良い眉をしかめて考え込み…
「…成程、士郎が誰かとデートに出かけて気になると」
言葉の断片を再構成してそう言った。そうなのよと頷いて桜は肩を落とす。
「はぁ…絶対相手は姉さんだって思ってたのに…誰が抜け駆けしたんだろ。ライダー、わかる?」
「…私には関係の無い話ですが、サクラが気になるというのならば力を貸しましょう」
キラリンッと眼鏡を輝かせるライダーを桜はじとーっと湿った視線を向けた。
「…素直じゃないね、ライダー」
「…さて、なんのことでしょう」
しれっと受け流してすみれ色の髪のサーヴァントは机の上に並べて合ったノートを広げる。
「? 何するの? ライダー」
桜の声に少々お待ちをと返し、ライダーは豊かに隆起した胸ポケットからボールペンを取り出し衛宮家の住人の名をノートに書き込んだ。
「消去法で考えてみましょう。この家の女性のうちまっさきにサクラは除外できるとして…」
「ま、まっさき…酷い…」
大きくバツがつけられた自分の名前を見て恨みがましく見上げてくる桜に無表情に首を振る。
「ここに居るから、という意味です。他意は基本的にはありません」
「応用的にはあるのね…それで?」
再度ジト目になった桜に促されてライダーはノートの名前へと次々にバツをつけだした。
「先程の話からリンが抜け、私もここに居ます。ハサンが拷問に耐え切ったとも思えませんので彼女とランサー、アサシンも脱落と見てよいでしょう。バーサー
カーとあの二人はキャラクターからして除外できますしキャスターは昨晩から元気が無いのでこれも除外できるでしょう。そうなりますと相手は…ギルガメッ
シュとイスカンダル、アーチャー、セイバー…この辺りが本命といえるでしょうね」
ピシッと有能な秘書風にライダーは眼鏡の位置を直す。キラリと輝く眼鏡に桜はおおっと気圧され気味に頷いた。
「えっと…じゃあ、後はその中で家に居ない人を探せばわかるってこと?」
「アルバイトや散歩などで外出している場合もあるでしょうから絶対とは言えませんが、その通りです。もっとも、これでわかるのは誰と行動しているかと言う点のみ。どこへ行ったかに関しましては『誰か』を特定してから行動パターンを割り出す必要がありますね」
ふぅんと頷いて桜はふとある事を思い出しスカートのポケットに手を入れる。
「あ、それなら大丈夫。その必要は無いわよライダー」
「? …何故です?」
ちょっと得意げな姿に首を傾げて問うと、桜は笑顔で小さな石を取り出した。
「ほら、これ。姉さんがくれた探査石。先輩の居るところはこれでわかるから、行き先は…」
言葉と共に桜の動きが止まる。ライダーは眼鏡の奥で冷ややかに目を細めて口を開いた。
「サクラ、あえて言葉にして言わして貰いますが…」
「い、言わないでいいよ…」
情けない声を完全無視して邪眼の女はくわっと眼を見開く。
「そんなものがあるならば誰と一緒とかどこへ行くとかを想定する必要はないでしょう!? 現状で既にストーキングするも邪魔をするも自由…いわば活殺自在といったところではないですか!」
「あは、あはは…でも、わたしとライダーじゃ目立っちゃわないかな…すぐ見つかりそうだよ?」
乾いた笑いと共に桜はわたわたと手を振り話をそらした。ライダーも一つ息をついて髪をかきあげる。
「成程。サクラが肝心なところで転び失敗する様が目に浮かぶようです」
容赦ない言葉に桜はうーっと拗ねた目になった。この家で唯一ライダーにだけ見せる素直な表情だ。
「ライダーだってドジするじゃない。よく」
「む…確かに私もそのような属性を持っているとサクラに言われたことはありますが…」
「わたしに?」
キョトンとした表情の桜にライダーは眼鏡の奥の眼を弓にしてクスリと微笑む。
「大丈夫、私はサクラほど致命的にドジはしません。破壊的なまでに失敗して萌えどころを作れるのはサクラだけの特権ですから」
「…ライダー、わたしのこと嫌い?」
「とんでもない。私はサクラのサーヴァントであり友人であると思っています。契約などなくとも、私は貴方の味方ですよ」
ジト目で言った台詞に返って来た言葉の温かさに桜は少し照れて身をよじった。意味もなく膝の上の埃を払うような仕草をしてコホンと咳払いをする。
「は、話を戻すけど…ライダーって隠密行動は得意?」
「いえ、平均的な能力しか持っていないですね。士郎だけならば誤魔化せるかもしれませんが、アーチャーやセイバーが相手となれば、詳しい情報収集はできないかもしれません。もとよりサーヴァントの魔力は感知しやすいですから」
そこまで言ってライダーはキラリンッ!と眼鏡を輝かせた。
「むしろ餅は餅屋という言葉がこの国にはあります。サクラには良い手駒が居る筈ですが?」
「え? …あ」
同じ頃、怪しげな作戦会議が開かれているその数部屋隣では…
「おーい、イスカ〜?」
コンコンコンとドアを打ち鳴らしてランサーが大声をあげていた。
「イスカ〜? お〜い制服王〜? ぶるせら〜ムーン?」
打てど鳴らせど返事はない。腕組みなどしてランサーはドアの木目を睨みつける。
「いねぇのか? あの服飾魔人のことだからセイバーの着せ替えはきっちりやったと思うんだが…素早い奴め」
呟き、ふと思いついてライダーはひとつ隣のドアに張り付いた。耳を澄ませど伝わってくるのは静寂ばかり。気配もしない。
「ギルの奴もいねぇなぁ…ひょっとして二人してお出かけか? 少年のデートを知ってて無視するってのもあのお祭り娘にしちゃ珍しいけど…」
舌打ち一つしてランサーは踵を返した。肩をすくめて歩き出す。
「しゃーねぇな。一人で行くか。そういうのは慣れてるしな」
ここに召喚されてからそんなことはしていないのだが、一人寂しく他のサーヴァントの戦力調査をしていたような記憶ならある。偵察専門、それが彼女に与えられた役割。
「これがオレのスタンダードなのかもしれねぇけど…なんか、やだな。こういうのは」
やや沈んだ気持ちを振り払いがてら一度大きく伸びをし、ランサーは玄関に向かう。
「…ちょっとばかし、弱くなっちまったかなぁ。オレも」
一方、ハサンは桜の部屋の前で地味に立ち尽くしていた。すぅはぁと何度も深呼吸をしつつブツブツと台詞を選ぶ。
「えと、ご機嫌いかがですか? …最悪よとか言って握りつぶされそうです…。さっきはすいませんでした…謝って済むなら聖杯はいらないとか言って溶かされそうですぅ…」
ブツブツ呟いて頭を抱える。
「さ、さっきのは事故みたいなもので…じゃあこれも事故ねって掘られちゃいそうですぅ…いっそ無言で土下座ですか? …駄目です、そのまま頭を踏み抜かれたらただじゃすまないですよぉ…」
涙でぼやけて見えるドアを前にハサンがため息をついた、瞬間。
「…ハサンちゃんの頭の中のわたしは本当に人間なんですか?」
声と共にポンッとその肩に手が置かれた。
「ふぇええええええええええっ!?」
「え?」
途端に飛び上がって絶叫する自分と同じ顔の少女に声の主…桜は思わず後ずさった。
「あ! あ…あぁぁぁ…」
へなへなと脱力したハサンはそのままぺたんと床にへたり込み、情けない顔でスカートをおさえてだーっと涙を流す。
「ちょ、ちょっと出たですぅ…」
「で、出たって…」
思わずマニア好みの想像を繰り広げた桜は軽く頭を振ってその真偽を確かめるのをやめた。ふきふき?なんのことだか。
「大丈夫ですか? ハサンちゃん。立てますか?」
「は、はひ! だ、だひじょうぶでありまふ!」
ハサンはフルスピードで立ち上がって直立不動で叫ぶ。ちょっとろれつが回っていない。
「! …冷たいですよぉ」
何が?と聞きたいのを我慢して桜はちょっといかめしい表情をした。
「あのね、ハサンちゃん。わたしはおにでもあくまでもとうさかでもないの。遠坂だけど」
「わけわからないですぅ」
きっちり入ったつっこみに桜はにっこり微笑んだ。ハサンは慌てて口にチャックをかける仕草をして再度直立不動。
「!!!(しゃべらないでありますぅ! 独房入りは勘弁して欲しいでありますっ!)」
「ああああ、そうじゃなくて…ええと、ちょっと手伝って欲しいことがあるんです」
額をおさえて桜の口にした台詞にハサンは愕然とした表情で身を震わせた。
「あ、あの、ハサンはたしかに暗殺者ですけど…人を殺して解決というのはこの時代には合ってないと思うです…」
「そんな事考えてません! はぁ…なんでこんなに怯えられてるのかしら…」
ため息などついている桜に一言物申したい気分をぐっと抑えてハサンは桜の言葉に耳を傾ける。
「あのね? 先輩のことだけど…ちょっと後をつけてみようかと思うんです」
「!? そ、それで相手の女の子をブスッと一突き…む、無理ですよぅ!」
「だから! そういう発想から離れてくださいっ!」
シャーッ!と叫んで桜は背後に黙って控えていたライダーに助けを求める視線を送った。
「ライダー…なにか言ってあげてくれる?」
「わかりました」
こっくりと頷いてライダーは前に出た。手帳を広げてハサンを無表情に見つめる。
「報酬はスイス銀行に振り込んでおきます。確実に仕留めてください」
「だから違うって言ってるでしょライダー!」
はぁ、と息をついて桜は気を取り直した。拳固めてサーヴァント達に視線を送る。
「と、ともかく! わたしは先輩を追いかけます! 協力してください!」
「それは了解ですが、方針としてはデート阻止ですか?」
ライダーの問いに桜はふるふると首を振った。
「別に邪魔なんてしないけど…か、影で見守る恋もあっていいかなって…」
さすがに無理があるかしらと思いながら無理矢理口に出した台詞に、しかしハサンはブンブンと頷く。
「そうですぅ! それはそれでありですぅ! わかりました。ハサン、力の限りお手伝いさせてもらうです!」
「…ハサンちゃん」
しばし見詰め合い、二人はガシッと握手を交わした。
「愛する人のことですものね! お風呂時に『たまたま』シャンプーを取り替えに行ったりしても無理はないわよね!?」
「あたりまえですぅ! 着替えているときに『偶然』窓の外を通りかかったりするのも基本ですぅ!」
ひたすら盛り上がる二人をさりげなく5メートル程離れてから生暖かく見つめ、ライダーは苦笑を漏らす。
「ある意味…似たもの同士、なのでしょうか…」
ごたつきながら、チーム『ストーカーズ』出発。
「オぅレはぐっれぇ〜とぉ。ぐっれぇとらじ〜んだ〜」
ちょっと下向き気味のテンションを上方修正すべく、ランサーは適当な歌をがなりながら玄関に座り込んだ。下駄箱から引っ張り出したブーツにぐいぐいと足をねじ込んでいく。
「てってけーてーんてん、ゆんぼっ! なんだよゆんぼって」
一人でボケとつっこみをこなしながら右の靴紐を結び、ため息をひとつ。
「やっぱ調子がでねぇ。ったく、オレは根本的にはつっこまれる方の人なんだよな…まぁ、少年にはつっこむもつっこまれるも自在って感じだけどよ」
さりげなく危険な台詞をぶつぶつと呟きながら左の靴紐に手をかけた、瞬間。
「常々言っているが…」
ぶっきらぼうな声と共に赤い影がランサーの隣に腰を降ろした。
「お…?」
「私の存在意義がつっこみだけのように語るな。色ボケめ」
不機嫌そうにそう言ってスニーカーを履くアーチャーにランサーは一瞬だけ驚きの表情を見せてから、ぱっと笑顔を浮かべる。
「…はは…わりぃ。それにしても正直なとこ、おまえが動くってのは意外だぜ。なにかあったのか?」
「…おまえの部屋から出た後だが…桜が凄まじい殺気と共に廊下を駆け抜けていった。『先輩とデートなんてぇええええっ!』などと叫びながらな」
言って深々とため息をつきアーチャーは立ち上がった。数秒遅れてランサーもブーツを履き終わり立ち上がる。
「なるほどなぁ…あっちの嬢ちゃんのこった。邪魔する気はねぇとしてもこっそり様子を見に行くくらいはするよなぁ」
「ああ。そして悪気がないまま大惨事を引き起こすだろう」
さらっと酷いことを言ってアーチャーは着込んでいた赤いコートの襟を直した。
「あいつとセイバーの逢引がどう終わろうと知ったことではないが、セイバーがこれ以上落ち込んだりされては困る」
「へいへい、相変わらずセイバーラブだねぇ…ってことにしといてやるよ」
くくっと喉で笑ってランサーは肩をすくめる。
「まあ、おまえが本音を言わねぇのはいつものこったしな。よしゃ、行こうか相棒!」
「誰が相棒だ! それと…」
アーチャーは肩に回された手をペチッ!と叩いてそっぽを向いた。
「それとさっきのだが、ゆんぼではなくUFOだ!」
静かなツッコミを合図に、チーム『百合っぽい人達』出発!
そして…
「どうしました? うかない表情ですね」
「…そう?」
縁側に正座して陽光を浴びていたちびせいばーは傍らに立つ凛を見上げて微笑んだ。
「あなたには珍しく、迷いに満ちた表情をしています」
「にゃぁ」
そうだそうだと頷く猫に苦笑して凛は自らも縁側に腰を下ろす。
「…ねぇ、あなたは士郎をどう思っているの?」
ぽそりと呟かれた問いにちびせいばーはふむと頷いた。
「共に聖杯戦争を戦うと決めたマスターであり、剣の弟子であり、けなげなところが可愛らしい少年であり…私にとって様々な意味で護るべき人、です」
「意外…大きいほうのセイバーと比べて随分と大人っぽいわね」
予想外の台詞に目をしばたかせる魔術師に騎士王は静かな笑みで頷いてみせる。
「意識的にそうあろうとしている部分はあります。もう一人の私はどうも女としてシロウに惹かれている節がありますので…私は王としての自分を重視しようと思っていますから。アルトリアとしての責務と夢を二人で分け合う為に」
「…そっか」
無表情に…否、無表情を装って相槌をうつ凛にちびせいばーは問いかける。
「貴方はどうなのでしょうね」
「え?」
主語の無い問いに凛は戸惑った。
「これは私の時代の魔術師が言ったことなのですが…誰もが己の中に様々な自分を持っています。騎士としての私、王としての私、女としての私、人としての
私、龍としての私、食いしん坊の私。そのどれもが私です。私は人、女、子供…そういった自分を殺して王としての自分を高めており、それは愚かなことだと言
われました。あの放蕩魔術師の言葉にしては、なかなかに正鵠を射ていたと思います」
ふふ、と笑いちびせいばーは続ける。
「リン、貴方はまだ若い。素直にぶつかっていく愚かさも、時には良いと年長者としては思うのですが…」
「……」
優しい声に、しかし凛は答えない。裸足の足をぷらんとゆらして直上にさしかかろうとする太陽を見上げる。小さな騎士王はそれを見守り、穏やかな笑みを浮かべた。
「ふふ…それはそれとして…ひとつお願いがあるのですが」
「…なに?」
聞き返した凛に悪戯な表情で続ける。
「先ほどもう一人の私が出かけたのですが、無茶をしていないか気になります。様子を見に行きたいのですがこのサイズでは移動が困難なのです。現場へ行くのを手伝ってもらえませんか?」
婉曲なGOサインに、凛は苦笑を漏らして頷いた。
「…OK、わたしの負けよ。行きましょう、ちびせいばー」
「ええ」
チーム『猫科』。出陣!
「そこへ至るコマは3つ」
黒いコートの少女は携帯電話をパタリと閉じて不敵な笑みを浮かべた。
「恋に依存して浮遊する二重身体者。
恋に接触して快楽する存在不適合者。
恋に逃避して自我する起源快楽者。
互いに絡み合いながらデートの現場で待つ」
静かに呟いてコーヒーを飲み、てへりと舌を出す。
「…なんちて?」
「…何を言っているのだ? イスカンダル」
10-5 王様の休日(1)
「と、到着したよ…セイバー」
士郎は背中に感じる柔らかな感触に緊張したまま自転車を止めた。慣性に後押しされて更に密着した双丘に脳内に火花が走る。
「あ…もう着いたのですか?」
ぽぅっと酔ったような気分で士郎にしがみついていたセイバーはそう呟いて辺りを見渡した。二人が居るのは新都駅前、ビルの谷間のコイン駐輪場である。
「そう、もう着いたのディス」
背後の呟きに今自分はあのセイバーに抱きつかれているのだと再認識してしまった士郎はショックで動きの鈍った脳を何とか働かせて滑舌も悪くそんな言葉を返す。
(柔らかい…ってなに考えてるんだ俺! しっかりしろ! そんなエロ思考だと叩き斬られるぞ! ウェェェイ! って一刀両断に!)
弾力に富んだ柔らかな感触を振り払うべく頭をブンブンと振り、気を紛らわせようと真っ白になった頭を何とか動かして思いついた言葉を口にしてみた。
「い、いい天気だねセイバー」
「は、はい。今日はいい天気です」
「……」
「……」
それ以上話題を展開させられず無力感にうなだれた士郎の背中にセイバーは異様なプレッシャーを感じて無理やり話を繋ぐ。
「そ、その…明日もいい天気でしょうか?」
「え…あ、ああ。多分明日もいい天気だと思う」
「……」
「……」
終了。
「…なによあの英語の教科書みたいな会話は」
眼下で繰り広げられている出来の悪いノベルゲームのようにぶつぎりの会話に凛はぼそりと呟いた。彼女が居るのは新都駅に程近い雑居ビルの屋上。心底高いところが好きな少女である。
「かなり緊張しているようですね」
「うにゃん」
ちびせいばーと猫も隣り合ったまま眼下の地上を見下ろして同意した。実際には魔力で視力を強化できる他二人と違い猫には地上のことは見えていないのだが、そこは雰囲気というものだ。
ちなみに、音に関してはこっそり派遣した凛の使い魔を手元の宝石と共振させる事で拾っている。直接聴力を強化したら雑音も拡大されてしまって鼓膜が破れそうになったのだ。これをペガサスフォーム現象という。
「ふむ…だいぶ緊張してますね…」
ちびせいばーは地上でぎこちなく稼動している自己の分身に眉をひそめた。
「手のひらに人と三回書いて股間に当てると落ち着くとランサーが言っていましたが…」
「コカ…!?」
「ふにゃっ!?」
大真面目な表情で言い出した言葉に凛と猫はギョッとした顔でちびせいばーの方へ顔を向ける。
「そ、そんなネタはすぐに忘れなさいセイバー! 清純派の貴女がそんなこと言っちゃ駄目ッ!」
「にゃーっ!」
髪を逆立てた一人と一匹に厳しい声で命じられてちびせいばーは眼を白黒させた。
「??? わ、わかりました」
勢いに押されて頷く小さな英霊に凛は厳しい表情のまま重々しく頷く。
「…私もうるさい事は言いたくないわ。でもね、ちびせいばー。世の中イメージが大切なの。眼鏡の先輩の眼鏡を外したらそれはもう先輩じゃないし常に笑顔の家政婦が泣くのはクライマックスだけ! わたしだってニーソックスも人前で脱ぐことは許されないのよ」
それは、ちょっと違う。
「とりあえず…」
頭上で繰り広げられているマニアックな説教など露知らず、士郎はようやく気付けいた事実を胸に口を開いた。」
「は、はい…っぷ、失礼しました…なんですか? シロウ」
勢いよく頷いたセイバーが自分の背中に額をぶつけて慌てるのに萌え狂いながらなんとか冷静を装って呟く。
「いや、たいしたことじゃないんだけど…自転車、降りようか」
「!? …確かに」
そんな事すら思いつかないほど緊張していた自分達に苦笑してセイバーは荷台から降りた。それを見た士郎もまた自転車を降りて鍵とチェーンをかける。
「よし、OK」
うんと頷いて振り返った士郎は行儀よくかしこまったセイバーの姿に緊張がぶりかえし…
「あ、あの、今日はその、よろしく…」
「!? い、いえこちらこそよろしくお願いいたします!」
二人して下げた頭は、強烈に打ち合わされて高い音を立てた。
「…なにやってんのよあの二人は。」
思わず刺刺しくなった口調に自分でも戸惑いながら凛は頭を抱えている二人から眼をそらした。
(なんで苛立ってるんだか…あんなお子様なデートぐらい、どうって事ないじゃない)
視力強化をやめ、途中で買ってきた缶コーヒーに落ち着けわたしとばかりに口をつける。
「ふふ、初々しいですね。我がことながら」
「なぅ」
不機嫌そうな凛に対し、ちびせいばーの機嫌はすこぶる良い。猫の喉を撫でながら満足げに頷いている。
「…ひとつ、聞いてもいいかしら?」
その光景に、凛は無意識のうちに問いを発していた。戸惑う凛をちびせいばーは軽く首をかしげて見上げる。
「ええ、なんですか?」
「…貴女としてはどうなの? 士郎とセイバーが、その…」
途切れた言葉に、ちびせいばーはふむと呟いた。地上の二人を見下ろして軽く笑みを浮かべる。凛はもう一口コーヒーを飲みながら答えを待ち…
「そうですね。初めてなので優しくしてあげて欲しいところです」
「ぶっ…!」
刹那、鼓膜を直撃した台詞に口に含んだコーヒーを力強く噴出した。
「なっ…!」
直感スキルを頼りにコンクリートも抉りそうな一撃を回避したちびせいばーは青ざめた顔で凛を見上げる。
「…リン、あなたにとっては些細かもしれませんが、私のサイズでは洪水直撃にも等しい一撃なのですが…」
「ご、ごめん。でも貴女がいきなり変な事言い出すから…」
口元をハンカチでおさえて呻く凛にちびせいばーはキョトンとした顔で首を傾げた。
「変なこと…ですか?」
「さっきも言ったけど、貴方がその、はぢめてとかなんとかそう言うこと言い出すなんて…」
ハンカチの向こうで顔を赤くする少女魔術師を小英雄は不思議そうに眺める。
「デートなる行為を私はした事がありません。当然、あちらの私も同様と思われますのでそう発言したのですが…」
「…ごめん、今のは忘れてくれる?」
凛は本日二度目になる先走りに眉間をおさえて唸った。痛恨の表情にちびせいばーはくすりと笑う。
「ふむ…やはりシロウとそういう行為に至る事を意識しているのですか? リンもお年頃ですね」
「そ、そんなわけないでしょ!?」
ギョッとした表情で首を左右に振り猛る凛にちびせいばーは腰に手をあてうんうんと頷いた。
「いいでしょう…では、そういうことにしておきましょうか。猫さんも今のはなしは秘密ですよ?」
「にゃうっ」
一人と一匹による遠まわしなからかいに凛はその場に膝をついてがっくりとうな垂れる。
「まさかセイバーに苛められる日が来るとは思わなかったわ…」
「ふふ…こう見えて、シロウやリンよりも年上ですからね」
王の風格で鷹揚に頷くちびせいばーと敗北に打ち震える凛をよそに猫は何気なく地上を見下ろし。
「にゃ? なーっ!?」
慌てて相棒に声をかけた。
「どうしました? あ…リン! シロウが動き出しました!」
ちびせいばーの報告に凛はすぱっと頭を切り替えて立ち上がった。颯爽とコートを翻して拳を握る。
「わかったわ。急いで騒がず目立たないように追うわよ!」
「ええ!」
「にゃう!」
猫とちびせいばーは顔を見合わせて頷き、いち早く走りだした凛を追って階下に繋がる階段へと向かった。
「…ところでリン。ここから地上に降りるまでにシロウ達を見失いそうなのですが、そちらに対する対策はどうなってますか?」
「……」
久々にうっかりスキル、発動。
十と数分の後。士郎達はランサー作のデートコースに従いプラネタリウムへと来ていた。ちなみに凛達はしっかり撒かれている。
「ほう、これは…」
頭上に広がる輝きを見つめ、セイバーは感心の声をあげた。
「人工の星空ですか…見事なものです」
「セイバーの時代だとこれくらいの星は普通に見えたんだろうけどね」
苦笑混じりに小声で囁いてきた士郎の言葉にセイバーは首を横に振る。
「確かに見えるというだけでしたら降るかのような星空が毎夜広がってはいましたが、このように各時期の星空を見たりということはできませんし、この説明が楽しい」
「そっか。気に入ってもらえるとこっちも嬉しい」
二人は笑みを交わして再度視線を空へ投げた。
一方。
「…違う」
二人から見て投影機を挟んだ逆サイドの観客席、壁際の席で長身の女が呟いた。デートコースの全ての地点に先回りが可能な人物…ランサーである。
「ったく、違うだろ少年! なにやってんだよおい!」
「…うるさいぞランサー。説明が聞こえん」
ぐるるると唸っている隣席の野獣をパンフレット片手にアーチャーは睨みつけた。抗議の視線にランサーはこめかみに青筋を浮かべて視線をきつくする。
「っていうか、おまえも何普通に説明聞いてんだよ!」
「…いや、ちょっと懐かしくてな」
怒りの矛先を向けられたアーチャーはコリコリと頬をかいて誤魔化した。
「ふむ、あれが子犬座か…」
「誰がらぶりーな子犬ちゃんだ!」
即座に叫ぶランサーにつまらなさげなため息をつく。
「…少なくともおまえのことじゃないな」
「んだとぉ?」
「何だというのだ?」
遠くの席で掴み合いを演じる二人組みの存在には全く気付かずセイバーは頭上の天体ショーに眼を輝かせた。
「天体の運行という知識は召還時に常識として与えられていましたが、私本人の知識としてはまさに天地がひっくり返るような思いです」
「なるほどなあ…あ、ほら。あれ」
士郎が不意に指差した星座にセイバーは首をかしげてパンフレットと空を見比べた。
「? …コップ座ですか?」
「うん、なんかメディアちゃんと関係有る星座らしいよ」
詳細を語ると長くなるが、メディアが使用した魔法の大釜が原型という説があるのだ。
…ちなみに聖杯の原型がこの大釜という話もある。
「ほう…シロウ、あれはバーサーカーですか?」
「ん? ああ、そっか。バーサーカーってヘラクレスだもんな」
セイバーが指差した星座を眺めて士郎は頷いた。幼い頃から知っている星座のモデルとなった人物と一緒に住んでいるのかと思うと、何か感慨深い。
「生誕の地から遥か離れた東方の地においてもこうやってその名を紹介される英雄…強力な筈ですね…」
「セイバーの眼から見てもやっぱり強い?」
小さな呟きが気になって尋ねると、セイバーは表情を引き締めて真摯に頷く。
「ええ。どのような宝具を所持しているかは不明ですが、基礎能力だけ見れば最強と言っていいでしょう」
「そうか…」
「あーもう、じれってぇなあ! 暗いんだぞ!? 隣り合ってるんだぞ!? 手ぇとどくんだぞ!?」
真面目な表情で何か言葉を交わしている二人を睨みつけ、ランサーはジタバタと足を踏み鳴らした。近くの席に座っているカップルが迷惑そうに睨んでくるが気にもとめない。
「…ランサー。静かにしろ!」
そういうのが気になる性質のアーチャーが腿を掴んで動きを止めようとするのに構わずグッと拳を握って際限なくヒートアップする。
「ちっ! 見損なったぞこのフニャ○ン野郎! おまえの○○○は○○の○○○○か!? そうじゃないならガッツを見せてみろ! ■■、■■、■■―――あらゆる■■が、諸君らを非凡な■■にするッ!」
「…海兵隊の兵士かおまえは」
どこのぞの秘密組織の曹長を思い出しながら突っ込むアーチャーを振り切りランサーは眼を血走らせて吼えた。心から吼えた。
「ほら! 手を出せ! 掴め! 握れ! 揉みしだけ! こう、こうだ!」
「な!? こ、こら! どこを触っているのだ!」
刹那、ランサーの眼がすっと正気を取り戻す。
「…言っていいのか?」
「言うな馬鹿者! あっ…!」
謎の艶声をあげるアーチャーに覆い被さり、既に当初の目的を忘れたランサーは哄笑をあげながらプニプニちゅぷちゅぷとあちこちに指を這わせる。
「くははははは! ここか!? ここがええんか!?」
「やめ…ないか! 本気で…おこ、怒る…ぁ! 待て! いくらなんでもそれはいかんだろうが!」
必死に抵抗するも筋力Dのアーチャーには筋力Bのランサーを押しのける力は無い。為す術もなく椅子に押さえつけられてプチプチとあちこちのボタンを外されてしまった。
「そういえば約束してたっけな。よしよし、いい機会だから色々教えてあ・げ・る☆」
「☆を飛ばすな…く…!」
「むしろとんじゃうのはエミちゃんの方かなー?」
ニヤニヤ笑いながら頬を舐め上げてくる感触に脱力しかけたアーチャーは鋼の精神力を振り絞って声を上げる。
「や…やめろ…」
「何を今更。ほれほれ〜」
更に深く深く指を進めるランサーに必死の思いで叫ぶ。
「違う! 本当にやばいんだ!」
「うんうん。おねーちゃんの絶頂テクニックの威力は―――」
「だぁああっ! 後ろ! 後ろを見ろ!」
「…志村?」
あまりの必死さに首を傾げたランサーはくいっと背後に目をやった。そこに…
「…お客さん。ここ、プラネタリウムなんですけどね…」
獣の目をした警備員が、仁王立ち。
「…しぼむー」
「誤魔化すな馬鹿者!」
「?」
「どうしたんだ? セイバー」
不意に首を傾げたセイバーに士郎は目をしばたかせて声をかけた。
「いえ、向こうの方がなにやら騒がしいので」
指差す方を見れば、警備員が誰かを外に押し出す所であった。ドアの向こうに青い髪の毛がぴよんっと消える。
「…なんか今、ちらっと見覚えがあるものが見えたような?」
不思議顔で呟く士郎の袖を、セイバーはさりげなく引っぱった。
「先程の話ですが…」
「ん?」
首を傾げる士郎を真剣な表情で見つめ、そっと手を握る。
「基本能力で言えばバーサーカーにかなう者は居ないでしょう。宝具の強力さでギルガメッシュに比肩する者はいませんし、剣技において佐々木に並ぶものは居ないでしょう」
薄闇の中、剣の英霊は己に課した誓いを改めて口に出した。
「それでも…私は最強であろうと思います。シロウを守る為ならば…いかなる敵をも打ち倒して見せましょう」
「…ありがとう」
守るべきはマスターなのか、それとも心に宿った人を、なのか。主従の関係で始まった二人は、静かに人工の夜空を眺め続けた。
とりあえず、横槍なしでもいいムードにはなるようだ。
「うわっ…眩し…」
プラネタリウムを出た士郎は陽光に眼を細めた。
「セイバーは平気?」
「ええ。問題ありません」
シャキッと背筋を伸ばして頷くセイバーに士郎はそっかと呟き目蓋を揉む。
(ライオンも猫科の動物だからかな…)
「何か今侮辱的なことを考えていませんでしたか?」
「い、いや? 少なくとも侮辱はしてない…と思う」
士郎は相変わらずの鋭すぎる直感に感心しながら行き先メモを眺めた。
「次は…水族館か。隣の建物じゃないか」
頭の中の地図と照らし合わせて確認している士郎にセイバーはピコンっと頭のアンテナ毛を揺らして頷く。
「スイゾクカン…水族館、ですね。基礎知識にあります。生ものをガラス箱に入れて鑑賞する施設と聞きますが…活きがよさそうです」
「うん、なんか生け簀とごっちゃになってるような気がするけどだいたい間違ってないぞ」
今夜は刺身かなあ等と思いながら士郎はセイバーと共に水族館の中へ向かった。
「これは…凄いですね…」
壁が丸ごとガラスになっている大水槽に、セイバーは眼を丸くした。
「やはり知識と経験は別です。まさかここまで巨大なものであるとは…」
「水族館の中でも規模が大きい方だからな、ここは」
士郎はパンフレットを眺めて頷く。
「小学校の時社会科見学で見に来たっきりだけど、改めて見てみると結構面白いな。円状水槽なんて当時はなかったし」
「シロウ、あれはなんですか? なにやら気高そうな鳥が…」
「ん? ああ、ペンギンか。見に行く?」
物珍しげに水槽を見て回るその背後に…
「く、くく…追いつきましたよ、先輩…」
息を荒げた少女が一人。
「…笑い方が、悪人ですぅ」
「アサシン、その台詞は迂闊です。命が惜しければ口を慎むべきですね」
そして少し引き気味に見守るサーヴァントが二人。
「それにしても水族館ですか。デートとしては初心者向けの危なげない選択ですね」
「初心者向け…ですか?」
首をかしげるハサンにライダーはええと頷く。
「入ってしまえば一本道なので行き先を考えないですみますから。これが遊園地とかになれば相手の趣味嗜好を考えて園内を回る必要があり、当たり外れの要素
が出てきますので少しだけランクが上がります。ちなみに水族館は全体に薄暗いこともポイントが高いですね。よそに目が行きがたいしムードが出ます」
「い、意外に詳しいのねライダー…」
キョトンとした表情で呟く桜にライダーは重々しく頷いた。眼鏡がキランッと輝く。
「他のサーヴァント達と比べて趣味がありませんので色々と雑誌を読み漁っております。後は実践ですが…まあそれは追々解決できるでしょう」
「わたし、その『解決』とやらに興味あるんだけど? ふふふ…」
ちらりと士郎の方へ向いたライダーの視線を見逃さず桜は微笑んだ。どす黒いオーラが噴出しているような幻視に慌ててハサンは二人の間に割ってはいる。
「桜さま、ライダーさま。士郎さま達が行っちゃうですぅ! ここは穏便にお願いしたいです!」
そのまま五体投地して許しを請いそうな懇願に二人はむむっと視線を移した。見れば、士郎とセイバーの姿は既にどこにもない。
「いけない、追いかけましょう!」
「ええ。装備はL型です。準備は?」
「OKですぅ」
ハサンは背負っていたリュックサックから素早く双眼鏡を取り出した。桜はそれを受け取り、ぐっと拳を握る。
「では、作戦開始です! Get Ready?」
「「Yeah!」」
怪しい掛け声と共に小走りに走り出した三人娘に周囲の親子連れはそっと視線をそらした。
「魚は、いいですね…」
嬉しそうに水槽を見て回るセイバーに士郎は表情を緩める。
「食べてみたい?」
思わず芽生えた悪戯心につつかれて口にした台詞にセイバーは頬を朱に染めた。
「し、失礼な事を言わないでほしいシロウ! わたしは別に食欲だけで生きているわけでは…」
一生懸命抗議してくる姿に激しく癒されながら士郎はふと眼に入った水槽を指差す。
「あ、ほらマグロ」
「え?」
聞きなれた単語を耳にして反射的に眼を向けた先にはリング状になった巨大な水槽、そしてそこをぐぉっと回遊する大型魚。
「鮪…」
ぐぅ。
「……」
「…い、いえ、違うのです。別に私は空腹というわけでもなく、その、これは反射的なものでありまして、受肉したことが原因ではないのかと思う次第で…!」
「萌えますね」
「……」
数十メートル離れた場所からストーキング…もとい、見守っていたライダーは大きく頷いた。一方で桜はむすっとした表情で双眼鏡を覗き続ける。
「だ、大丈夫ですぅ! 桜さまもきっと自分の萌えを見つけ出せるですぅ!」
「…ありがと」
ハサン決死のフォローに何か物凄く堕ちてしまったような気分で桜はため息をついた。
「あのマグロ…おいしそう…」
「……」
「……」
萌えキャラへの道は、遠い。
「ま、まあ、あれだよな。そろそろお昼だし」
「……」
俯いたまま後をついてくるセイバーに士郎は数十メートル後ろで行われているのと変わらぬ必死のフォローを続けていた。
「だからその、なんというか…」
だが、そのフォローも十秒で行き詰る。無限回廊と称された父の軽口連発が羨ましくなりながら、士郎は自分に出来る唯一の手段を選択した。
「ともかく! 俺はよく食べるセイバーが好きだから気にするなッ!」
「!? は、はい!」
大声にセイバーはびくんっと身を震わせて頷いた。
(よし…勢いで誤魔化した…)
(す、す…いえ、落ち着くのですセイバー! 見え見えのフェイントに引っかかってはいけない…でも、いえ、まさか?)
「くきぃいぃぃっ! わたしの先輩に好きって言ってもらえるなんてー。コノウラミハラサデオクベキカー」
「…なにが言いたいのかしら? ライダー…」
無表情のまま呟いたライダーの台詞に桜はメコリと双眼鏡を握りつぶして唸った。ハサンは顔面蒼白になって震えながら二人を見守る。
「いえ、言いたい私と言えない私などというフレーズもありますので、心の中を代弁してみましたがなにか?」
「ぜ、前半はともかく後半の台詞は思ってませんっ!」
言っている間にも手の中で双眼鏡であったものがガラスとプラスチックの塊と化しているがそれには触れずライダーは優しい笑みを浮かべた。
「無理しなくてもいいのですよ? サクラ。私の前では自然体で居ていいのです」
「ありがとう、ライダー…っていい話風にまとめようとしたって騙されませんっ! わたし、そんな凶悪なキャラしてないものっ! 自分の元に繋ぎとめる為なら腕くらい取っちゃえとか邪魔なら食べちゃえとか徹底的に辱めをあたえちゃおーかなーとか思ったりしないんだからっ!」
ライダーは何とも言えない微妙な表情で眼をそらす。
「ほら、ハサン。あれが提灯アンコウですよ」
「な、なんであからさまに誤魔化すのよライダー!」
「いえ、それについては私の口からは何とも…ああ、あれがシュモクザメですか。TA-21ですね」
「ちょっと、どこ行くのライダー!」
生暖かい笑みを浮かべたままどこへともなく歩き出すライダーと、どす黒いオーラを発しながら拳を固める桜。二人の烈女を前にハサンはあうあうと視線を彷徨わせた。
「あの、士郎さまがいっちゃいますけど、その、いかなくていいんですか? あぁ、もう見えなく…桜さま? ライダーさま? 聞いてるですぅ!?」
10-6 幕間 〜交差
とある魔術師は、俯瞰から感じる衝動は『遠い』であると語ったという。肉体の持つ高さを越えた場所から地上を見下ろすとき、人は『あたりまえ』からの遠さに高揚し、その一方で不安を感じ、恐怖を覚え、時に心を麻痺させる。
眼下に広がる風景に凛はそんなことを思い出していた。視界は広く、地上は遠い。先程まで居たビルよりも遥か高く、生身の人間には為し得ぬ鳥瞰の風景。
(…もとから遠い世界に居るわたしには恐怖も郷愁もないけどね)
心の中に言葉を落として思考を切り替え、街を丹念に眺めて回る。
当然に、それは遠坂凛という肉体による行為ではない。手段さえ選ばなければ生身のまま飛行することも可能ではあるだろうがリスクばかり高いそのような手段を一流の魔術師は選ばない。
(日常からの乖離、か…だから、わたしは高い場所を好むのかしら)
思考する彼女が纏った仮の身体は宝石。翡翠でできた小さな鳥。凛にとっての使い魔であるそれと意識を同調させて意識だけの擬似的な飛行を行っているのだ。
忙しく視点を動かし眺めるのは新都の街、目的は当然―――
(士郎! どこをちょろちょろしてるのよまったく! このわたしの眼を誤魔化すなんて60年くらい早いわよ!?)
当然、見失ってしまった士郎の発見である。駅前のベンチに座っている自分の身体はちびせいばーに警護をして貰って俯瞰の風景からの捜索をしているのだが、これがなかなか見つからない。
(おかしいわね…自転車で移動してる士郎は簡単に見つけられたのに…監視に気付かれたっていうの?)
室内に居る可能性を忘れていると突っ込んでくれるアーチャーを欠いた凛はイライラしながら鳥の目で地上を眺め回し。
(ん? あれは…)
路地裏を人間離れしたスピードで駆け抜ける見慣れた背中を見つけて使い魔を急降下させた。ぐんぐん近くなる地味な色のコートを着た姿は、ハサンのそれだ。
『ハサン!』
「ひゃん!?」
急に名を呼びながら降ってきた宝石で出来た鳥にハサンは素早く壁に張り付いて眼を見張る。
「鳥!? でも石化してるですよぅ!? ななななにがどうなって…はっ!? まさかライダーさまが大暴れですか!? は、ハサンが仲裁よりも士郎さまをおっかけるの重視してしまったばっかりに…ご、ごめんなさいです鳥さんっっっ!」
舞い降りた翡翠の鳥を手に乗せてハサンはだーっと涙を流した。
「うう、責任はハサンにあるですぅ…なんとか直してあげたいですけど…うう、や、やっぱりここは、その、あれでしょうか…」
『あれってなによ…』
もじもじと身をよじりながら呟く暗殺者のサーヴァントに凛は心の中で冷や汗をかきながら呟くが聞こえていないようだ。
「た、確かにハサンは乙女(肉体的に)ですけどその、はぢめてのキスをここで使うのはちょっと嫌ですぅ!」
『FFよ、それ。しかも乙女のキスは蛙化解除で石化解除は金の針…』
ぼそっとつっこんだ凛だが、メカに弱い彼女はゲーム自体はやっていない。士郎(+なんだかんだ言って口出ししているアーチャー)がやっているのを横で見ていただけである。
「嫌ですけどっ! でも、でも! 自分の行動に責任を取らない奴は認知訴訟起こして内臓売るくらい搾り取った上でピンポイント切断、最終的には歌舞伎町に売り飛ばすっておかーさんが笑顔で言ってたですぅ」
『あのひと…容赦ないわね。見習わなくちゃ』
頼むからやめて欲しい。
「うぅ、さよなら清らかなわたし…」
ひたすら一人で盛り上がるハサンが震えながら唇を近づけてきたところで凛はようやく気を取り直した。
『ストップ、ハサン。わたしよ、わたし』
「うー…」
聞いていない。じりじりと視界いっぱいに広がってくる少女の顔…しかもその顔は妹のそれと同じ造りなのだ。凛は流石にこりゃきついわと魔力の供給を増して声を大きくした。
『…気をつけぇっ!』
「!? は、はひ! ハサン、なにもわるいことしてないでありますっ!」
至近距離で炸裂した大声にハサンは手を後ろで組んで直立不動になる。
『…桜の気持ちが少しわかったような気がするわね。ちょっとだけ』
右の羽でコリコリと頭をかきながら凛は一息ついた。
『わたしよ、ハサン。声でわからない? 凛なんだけど』
「凛さま…? こ、こんな変わり果てたお姿に…ああ、このお体じゃあの閃光のような左ストレートも大木を引っこ抜くようなジャーマンも出来ないですぅ…」
『これは使い魔よ! っていうかジャーマンスープレックスなんて使わないわよ!』
がぁああっ! と吼える凛(心は乙女、身体は小鳥)にハサンはびくっと後ずさる。
「ご、ごめんなさいですぅ! タイガードライバー'91でした!」
『だからなんで私がプロレス技…ああもう、ダウンからぶっこ抜いてみちのくドライバーとかかけるわよ!?』
かけるんかい。
「ひっ!? お、お慈悲をですぅ…」
『はぁ…それで? ハサンはこんなとこでなにしてるの?』
プルプルと震えながら子犬のような眼でこちらを見つめるハサンになんだか色々なことがどうでもよくなった凛は話を本筋に戻して問いかける。
「は、はい。桜さまとライダーさまに誘われまして、士郎さまのデートがとても気になるので覗きに来てるですぅ。そういえば、凛さまはなにをなさっているです?」
『う…』
問い返されて凛は言葉に詰まった。ハサンの言葉で自覚してしまった自分の行為。
士郎が、自分以外とデートしているのが気になって仕方が無いという…事実。
そして、それを素直に態度に出せない意地っ張りな自分。
『その…市場調査?』
「市場ですか?」
きょとんとした純真な瞳で首を傾げられて凛はぐぐぐと喉で唸る。なんだか、素直になれない自分がとてつもなく愚かな気がするのだ。
『そ、そうよ。遠坂の家では当主を継いだらまず経営とかそういうのを覚えるんだから。研究費とか捻出するのは大変なのよ?』
「はぁ、こんなときにもお仕事なんて、すごいですぅ」
ハサンはこくこく頷き、にこっと微笑む。
「それで、士郎さまの行き先ですけど…セイバーさまがお腹すいたらしいですから、食事が出来るところだと思うです」
『資金を考えれば駅前のショッピングモールか公園の方で買い食いってところ…って、わた、わたしは別に士郎なんて探してないって言ってるでしょ!?』
一瞬考え込みかけて我に返った凛にハサンはきょとんとした表情で首を傾げた。
「…士郎さま、デートしてるですよ?」
『知ってるわよ! でも、それだからって覗いたり邪魔したりする必要ないでしょ』
本当はわかっている。必要だとか必要でないとかは魔術師的な理性の判断。感情は、ただの人としての自分はこんなにも…
「さすが凛さま、本命の余裕ですぅ」
『本命ッ!?』
鬱々と巡らしていた思考が、一撃で飛び散った。
「でも士郎さまは優柔不断ですからまだ勝負は決まってないですよ? 正々堂々戦うですぅ!」
『待つ! 待つ! なにがどう本命とか対抗とか大穴とか!』
バタバタ羽を振り回す作り物の鳥にハサンはくにっと首を傾げる。
「対抗はランサーさま、アーチャーさま、セイバーさま、大穴はギルガメッシュさまあたりでどうですぅ?」
『桜が入っていない辺り、貴方の本音が見え隠れしてるわね…ってそうじゃなくて! ほ、本命って…何の本命よ…』
もにょもにょ呟いて羽をこすりあわせる凛の言葉にハサンはグッとサムズアップ。
「士郎様のご寵愛をいただけるかですぅ!」
「ごちょ―――」
あまりの台詞に絶句した凛には構わずハサンはそのままシュバッと手をあげた。
「じゃあ、ぐずぐずしてると桜さまにまた折檻されるんで生きます! 違いました行きます!」
『あ、ちょっと待ちなさ…』
「また後でですー!」
一瞬で見えなくなった背中に、声と共にあげた右の翼が、パタリと落ちる。
『な、なによまったく…本命って…やっぱり、その…あいつもわたしのこと…その、す、す…』
誰も居なくなった路地裏で、ぐにぐに身悶える鳥が一匹。
『す…好きとか嫌いとか最初に言い出したのは誰なのかしら? とかなんとか…』
つっこみ役の不在に、凛はがっくりと肩…というか翼を落とした。
「…はぁ、なにやってんだろ。わたし」
一方。
「あっはっは、ひさびさに嬢ちゃん以外からがっつり怒られたなぁ」
「……」
ケラケラ笑うランサーと額に青筋を立てたアーチャーは数十分に渡るお説教と次は営業妨害で訴えますよという脅しをいただいてからようやくプラネタリウムを後にした。
「おまえは…本気で阿呆だろう」
「んだと? どこがだよ」
アーチャーは普通に問い返されて深いため息をもらす。
「そうだな…あえて言うなら存在そのものが、だ。安心しろ。おまえが悪いわけではなく、ただ単におまえの存在がこの世界にあってはならない存在だというだけだ。きっと」
「そっかー、オレって存在そのものがこの世に不適合…ほっとけ!」
パンッと裏拳をいれてくるランサーのノリツッコミを受け流し、道行く人の多さに舌打ちを一つ。
「まったく…いらん事で時間を使ってるうちに奴がどこへ行ったかわからなくなってしまったではないか…!」
「…なかなかどうして、おまえも気になってんだな。少年のこと」
苛立っている姿にニヤニヤしながら放ったランサーの一言にアーチャーがぴしっと青筋を額に浮かべて厳しいつっこみを入れようとした、その時。
「おや、青薔薇様とそのスールではないですか」
「…ライダー、わたしの本棚勝手に漁ったでしょ?」
無表情に眼鏡を光らせたライダーと憮然とした表情の桜があらわれた。十分近くやりあったあげく、ようやく士郎達が居ないことに気付いて水族館の外に出てきたのだ。ハサンが残した『先へ行っているですぅ』のメモを見ながら。
「おう、おまえらか。やっぱ来てたなさくらいだー」
「どこの漫画ですかそれは」
軽く手を挙げて挨拶するランサーにライダーは微妙なつっこみを入れる。一方で桜は…
「…さくらいだー、とぅっ」
聞こえないくらいの小声で呟いていた。無闇に嬉しそうな少女を横目にランサーはライダーの方に眼を向けた。この二人は名前が似ていて紛らわしい。
「んで? なにしてんだ、おまえら」
「はい、士―――」
「わあああああああああっ!」
士郎のデートを覗きに、とあっさり答えかけたライダーを桜は絶叫で遮った。引きつった笑顔で誤魔化しにかかる。
「ちょ、ちょっとお買い物です! ね? ね!? ライダー」
眼に『話をあわせて!』というメッセージを込めて見上げるとライダーは無表情なままこくりと頷いた。
「…ええ」
そして静かに笑う。
「リンに盛る…下剤を買いに…」
「買いませんそんなものっ!」
暴言に桜がキシャーッと吼えながらライダーの首をしめだすと間髪入れずにランサーはパチリと指を鳴らす。
「じゃあ直接注ぎ込むイチジクのアレか?」
「ッ! 貴様は何故にそう直接的かつ下品な阿呆なのだ!」
今度はアーチャーがランサーの首を絞め始め、キリキリという圧迫音と共にライダーとランサーは恍惚の表情になった。
「なんで…ライダーはそう…わたしのこと悪人にするのっ!」
「発情した精神をさかしまに! 腐れた発想をさかしまに! 回せ回せ回せ回せ回せ回せぇぇぇッ!」
首をグルングルンと振り回されたランサーはおおうと呻いて両の手を閃かせた。素早くアーチャーの肘を叩き、電撃のような痺れが走って一瞬力が抜けたその腕からするりと抜け出してみせる。
「まあ、冗談はさておき」
そう言ってにやっと笑い、ランサーは桜に眼を向けた。
「で、どうだ? 少年は見つかったか?」
「っ! べ、別にわたしは、その、先輩を…」
慌ててライダーの首から手を離してもじもじする桜にアーチャーはふんと鼻を鳴らす。
「誤魔化す必要はない。この馬鹿も同じ理由でここに居るのだからな」
「アーチャーもな」
「アーチャーもでしょう?」
間髪入れずにつっこんできたランサーとライダーにピキリと青筋をたてて黙り込むアーチャーをよそに桜は苦笑気味に俯いた
「…先輩を見つけてなにをしたいってわけでもないんですけど、その…なにもしないと不安なんです。先輩のことを諦めちゃったら、私の中の何もかもがなくなっちゃうような気がして」
黙ってしまった三人に軽く舌を出して桜は笑う。
「なんだか依存しちゃってますよね、先輩に」
「サクラ…」
気遣わしげなライダーに大丈夫と視線を送り、もう一度桜は笑顔を浮かべなおした。
「あ、あはは…ともかく、わたし達はハサンちゃんを探して合流しますね」
「…ああ、お互い頑張ろうぜ。勝負は最後の瞬間まで生き残っていた奴が制するもんだ」
意を汲んでニッと笑うランサーに頭を下げ、桜はライダーと共にその場を後にした。何故かひどく優しい眼で見送るアーチャーに首をひねりながら大通りへと向かう。
「……」
「……」
どこかぎこちない空気のまま、二人はなんとなく口を開けぬまま歩き続けて5分。
「あ…」
ふと視線を近くの店に投げたライダーは思わず声を上げてしまった。
「? どうしたの、ライダー」
「…いえ」
見つめていたオープンカフェから向き直り、くすりと笑う。
「先程の話ですが…」
「? さっきの話?」
急な言葉に首を傾げる桜にライダーは優しい笑みと共に頷いて見せた。
「ええ。依存であろうとなんであろうと…サクラは、士郎の前でなくても笑えるようになった。私は、それだけでも今のサクラを肯定できます」
「え…?」
桜は思いがけない言葉にきょとんとし、やがて照れた笑いを浮かべた。
「うん…なんだかんだ言っても…わたしの今の境遇は…間桐の人間としてはありえないほどの、夢のような、幸せなものだと思うから…笑ってないと、もったいないもの」
「…そう。サクラは幸せにならなくてはいけない。それが、貴方の仕事ですから」
静かに呟き、ライダーはふとここに居ないもう一人の同行者を思い出して首を傾げる。
「それにしても、ハサンはどこへ行ったのでしょう?」
「あ、桜さま! 探したですよぅ」
そのハサンは、散々走り回った挙句ようやく見つけ出した自分と同じ顔に息をついていた。
「? えっと…ああ、ハサン」
きょとんとした表情でハサンを見つめ、桜は今思い出したかのような表情でポンと手を打つ。
「う…さ、さくらさまにまで忘れられると傷つくですぅ、同じ顔なのに…」
「あはは、ごめんごめん。だって毒がない分わたしより更に地味なんですもの」
きっぱりと言い切られ、ハサンはがっくりとその場に崩れ落ちた。タイル張りの地面を歩く蟻を見つめて乾いた笑いを浮かべる。
「いいんですよね? 地味でも。一生懸命働いていればそのうちキリギリスさまにも勝てるですよぅ…」
「もちろん。でもハサンは地味に金星あげるんだけど毎回毎回対戦相手のほうが目立ちつつ戦い続けて、そのまま地味ぃに退場しそうな雰囲気ですよね」
桜、間髪居れずに容赦なく追い討ち。地面に『の』の字を書き始めたハサンをよそに優雅にお茶をすする。
「まあそんなに落ち込まないで。そのうちいい事あるかもしれませんよ? どんなに低くても可能性はゼロじゃありませんから」
「全然慰めになってないですぅ…凛さまみたいな苛めはよしてくださいよぅ」
「ふふ、遠坂家秘伝の技ですもの」
楽しげな声を聞きながら泣きそうな顔で立ち上がったハサンはお茶菓子にフォークを入れる桜の姿に首を傾げ、くるくるとあたりを見渡した。
「あれ? ライダーさまはどこですぅ?」
ハサンが訪れたのは新都駅に程近い繁華街の和風オープンカフェ。路上に並べられたテーブルで優雅に緑茶をすすっている桜の傍らにすみれ色の髪の英霊は居ない。
「ん? ああ、ライダーにはちょっと先に行ってもらいました…食べます?」
差し出された茶菓子にフルフルと首を振り、ハサンはぐっと小さなガッツポーズを見せる。
「お心遣いはありがたいですけど、凛さまも使い魔を飛ばして士郎さまを探してるですぅ! あんまりぐずぐずしていると先を越されちゃいますですから!」
「げ。姉さん、使い魔で空から見てるんですか?」
ぎょっとした表情の桜にはいと頷き、ハサンは足首をくりくりと回した。足の調子はいい。休憩の必要はないだろうと判断。
「では、わたしはライダーさまと合流するです。士郎さまはご飯を食べようとしてるそうですから、方向は多分合ってるです! あっちはレストランがいっぱいあるですから」
「そうね…でも先輩はレストランじゃなくて軽食の方を選ぶかもしれないですよ?」
桜の言葉にハサンはきょとんとした。
「セイバーさまをつれて、ですか?」
「だから、よ。量でごまかすにも質で勝負するにも外食では膨大な軍資金が要るでしょう?先輩の財布は無尽蔵じゃないし、それだったらいっそのことジャンルをふやして目先を変えようって考えると思うんです」
ぴんっと人差し指をたてて説明する桜の姿にハサンはおおっと歓声を上げる。
「理論整然ですぅ…まるで桜さまじゃないみたいです!」
「…ハサン、さりげなくわたしのこと嫌い?」
途端ジト目になった桜に冷や汗をかき、ハサンはつけてもいない腕時計を覗き込む仕草で無理矢理その場を誤魔化した。
「はっ! もうこんな時間ですぅ! で、では、コレで失礼するです!」
「あ…早ッ!」
言い終わるより早く走り去った背中を見送り、桜はくすっと微笑む。
「うん、なかなかいい子に仕上ってるじゃないですか。一番手がかかっただけあって」
うんうんと頷き、空を見上げながら一人ごちる。
「姉さんの目があるようだし、そろそろわたしは退散したほうがいいですね」
立ち上がった桜は髪を…綺麗な黒髪をかきあげ、最後に残ったお茶菓子を口に放り込んでからくすっと笑う。
「頑張ってね、桜。先輩と楽しく過ごすのが貴方の仕事なんだから」
呟き、黒髪の桜はうむとテーブルを見下ろした。
「…それにしても、このきんつばのうまいこと」
10-7 王様の休日(2)
(ここが…勝負所だ…)
心の中で呟き士郎は気合を入れ直した。水族館を出た彼らがやって来たのは最近出来たばかりの『ベェルデ』というデパートの最上階、イベントホールである。
(秘密兵器はあるけど正直手持ちの戦力は乏しい。ある程度買い食いで満足してもらわないと…ひどいことに)
ちらりと横目で眺めれば物珍しげに屋台をのぞくセイバーの横顔がある。興味津々の瞳に士郎は自分の選択が正しかったことを悟って小さくガッツポーズ。
新聞の折込チラシで見つけてきたベェルデ今月のイベントは『世界の屋台展』。その名の通り世界各国の屋台料理をこれでもかと言うほど無節操に集めた催しである。
「これは…凄いですねシロウ…この時代の豊かさには驚かされます。世界が…世界がここにあります…!」
「確かに予想以上の凝りっぷりだなぁ…ここのイベントは赤字覚悟だっていうのも案外本気かもな」
このデパートはは駅前の覇権を握るべく経営者が無茶な力の入れ方をしているらしく、採算が取れてない安売りやイベントをばら撒いているともっぱらの噂なのだ。2〜3年も持たずに潰れて映画館にでもなるのではないかなどという噂すらある。
そんなことを考えながら士郎は息を整えてポケットの中で財布の厚みを確認した。
(よし…行くぞ俺。財布の中身は十分か?)
もしもセイバーが満足できるような食事を提供できなかったら、一体どうなる? 怒り狂って風王結界を振り回すぐらいなら別に構わない。宝具で吹き飛ばさ
れるのだってもう慣れた。だが、心底がっかりといった顔で「…ふぅ」とか息をつかれると、オスとしての機能を全否定されたような気になって簡単には立ち直
れない。挙句の果て、はじめてだというのに『(食事が終わるのが)早い…』とか『(味付けが)下手ですね』とか言われた日には、もう二度とたたなくなって
しまうかもしれないではないか。
…面子が。
「よし…じゃあセイバー、見て回ろうか。食べたいのがあったら言ってくれ」
「はい、シロウ」
セイバーはこくこくと頷いて屋台の群へと向かった。平静を装ってるつもりらしくすまし顔だが歩みはしっかり早足になってるその姿に犬耳と尻尾が見えるような気がして士郎は思わず笑みを漏らした。
「?」
くぅん?といった表情でこちらを見上げるのに首を振ってなんでもないと答えるとセイバーは再び屋台凝視に戻り、数件目で足を止める。
「ほう、これは…皮が香ばしそうな鶏ですね…」
いかにもなターバン男が切り分けているチキンを眺めてうっとり呟くセイバーに士郎はふむと頷いた。
「これはタンドリーチキン。インド料理だよ。スパイスに漬け込んだ鶏をインドの辺りに古くから伝わる『タンドール』っていう土釜で焼いたものなんだけど…鶏肉、好きなんだ」
「ええ」
胸に手を当て、アーチャーの戦闘経験にも匹敵する密度で蓄えられつつある食事経験を反芻したセイバーは、そのままはにかんだ笑みと共に囁いた。
「…好きです」
「っ…」
脳髄に直接ガンドを打ち込まれたかのような衝撃に耐え、士郎は必死で落ち着けと自分に命じる。そういう意味ではないとわかっていてもセイバーの唇から放たれた言葉かと思うと衝撃は大きい。
「…シロウ、どうかしましたか?」
「あ、いや、なんでもないです」
士郎は目をつぶって煩悩を振り払い、無心無心と呟きながらタンドリーチキンを2ピース購入する。
「二切れ、ですか…」
それを見たセイバーは思わず呟いてしまってから慌てて自分の口を抑えた。
「い、いえ! 決して少ないとかそういうことではなく今のは現状確認と言いますか戦力把握の一環とでも表現すべき、その…!」
ぎゅっと手をグーにしてあたふたと取り繕う姿に転がりまわりたいような衝動を覚えながら士郎はなんとか真顔を取り繕って首を振る。
「ん。いろんなものを食べて欲しいから。一通り見て回って、気に入ったのがあったら片っ端から買っていこうってこと。全部食べちゃうってのも、いいね」
「! 了解しましたシロウ!」
どこぞのロシア人の如く威勢のいい言葉にセイバーは目を輝かせてブンブンと頷き、勢いのままに次の屋台に突撃しかけてふと足を止めた。
「どうかしたか?」
「忘れていました。シロウ」
問われ、セイバーは真剣な顔で士郎を見上げる。
「あなたもちゃんと好きなものを言ってほしい。せっかく二人で来ているのに私だけ楽しんでも仕方ないでしょう?」
士郎は一瞬きょとんとしてから苦笑した。セイバーを元気付けたいと思って遊びに連れ出したのは確かだが、それはセイバーという名の愛玩動物の世話をするということではない筈だ。
(サービスのつもりでも無理矢理押し付けられたらプレッシャーだもんな)
これまでに喰らったサービス過剰攻撃を思い出して苦笑し、士郎は予定やら企みやらを全て頭から消し去る。
「…そうだね。せっかくセイバーと二人なんだしね」
その台詞にセイバーの顔は少し赤らめてゴホンと咳払いをする。
「わ、わかってくれればいいのです。私と士郎は、その…」
「?」
ん? と首をかしげる士郎にぐっとたじろぎ…
「…マスターとサーヴァントですから」
「ん、まぁ…そうだね」
セイバーはいつも通りの表情を心がけながら脳内でジタバタとのた打ち回った。
(馬鹿者! 臆病者! 何故に一歩踏み込めないのですか私は! べ、別段その、そういう関係では無いにしろ他のサーヴァント達よりも結びつきが強いことく
らい主張したって、その、ああもう! 何故に嗜好の中でまで逃げるのですアルトリア! いかなる戦いでも剣有る限り引く事は無いと自負していた私は何処へ
行った! もしやエクスカリバーを握っていないのが勇気の出ない理由か?)
多分違う。
「や、約束された…」
「…セイバー?」
不思議そうな顔で呼びかけれてセイバーは慌てて召喚しかけていた宝具を消し去った。
「な、なんでしょう!?」
「いや、ぼーっとしてるから。それと…」
士郎は少し迷い、苦笑じみた笑みを浮かべる。
「確かにセイバーとの関係は契約で結ばれたものなんだけど…主従とかじゃなく…対等なパートナーで居たいと俺は思ってる。魔術師としての自覚が足りないって怒られそうだけど…俺にとってセイバーは使い魔とかそういうのだとは、どうしても思えない」
「っ…!」
セイバーはおさえきれず真っ赤になった顔に思わず頬を抑えた。普段の彼女らしくない少女じみた仕草に士郎もまた赤くなって視線をそらす。
「う…」
「その…」
通り過ぎる一般客の生暖かい視線を感じながら立ち尽くすこと数分。屋台のインド人が3枚目のナンを焼き上げてシエルインドーなどと謎の言葉を呟いた頃に
なってようやくセイバーは激しく脈打つ心臓と魔力炉心を押さえ込むことに成功した。ゴホンとわざとらしい咳払いをして進行方向の屋台に眼を向ける。
「と、ともかく…ここで立ち尽くしていても仕方有りません。食べる時間がなくなってしまいますし先へ進みましょ…ぁ!」
言いながらそっぽをむいて歩き出したセイバーは逆方向に歩いていた通行人にぶつかってよろめいた。
「セイバー!」
慌てて士郎は離れていく手を握り引っ張った。繋がれた手を支点にセイバーはバランスを取り戻し、ふぅと息をつく。
「すいませんシロウ…油断しました…」
「ああ、いや、いいんだけど…珍しいね。直感が働かないってのも」
不思議そうに言って来た士郎の言葉にセイバーは再度頬が熱くなるのを感じた。
(それは、その…私にとって避けるべき状況ではなかったからです…)
見つめるのは繋がれた手と手、思っていたよりずっと頼もしい手のひら。
「! あ、ごめん。握りっぱなしで…」
「いえ!」
視線に気付いた士郎が慌てて離そうとするのをセイバーはそれ以上に慌てて握りなおした。
「セイバー?」
「…その、はぐれてはこまりますし、このままで行きましょう。その方が安全です…」
一部始終を見守っていたインド人がむずがゆさに焼きあがったナンを粉々に引き裂いているのはきっぱりと無視して二人はぎこちなく手を繋いでみる。
恥ずかしい。極限レベルの羞恥である。士郎にとってみれば藤ねえ以外と手を繋いだ記憶など皆無だしセイバーにしてみれば手を繋ぐ相手が立っていることなど長らく無かった。
「…えっと、じゃ、じゃあ行こうか」
「は、はい…」
ぎこちなく歩き出した二人だったが、そこは朴念仁と総天然であり食の伝道師でもあるコンビだ。次々現れる各国のジャンクフードを目にするうちに超高速で固さも抜けていき、会話も滑らかに進み始める。
「シロウ、このパンのようなものはなんですか?」
「フォッカチオだね。生ハムが合うんだこれが」
「これは…カレーパンでしょうか? コンビニエンスストアで見た覚えがあります」
「ピロシキっていうんだ。中身はカレーじゃなくて肉とかニンジンとかたまねぎだけどね。ロシアの食べ物だよ」
「こちらのソーセージですが…」
「ドイツのソーセージは世界一ぃぃぃっ!」
「は、はぁ。次は…っ! シロウ、見てはいけない!」
「ん? あ…イギリスの豆料理…」
ただひたすらトマトソースで煮込んだだけのスープをセイバーは睨みつける。素手のはずの右手に見えない何かが握られているように見えるのは気のせいだろうか。
「…………シロウ、穢れます。行きましょう」
「りょ、了解…」
無表情に言い放ったセイバーの剣幕に苦笑しながら士郎は次の屋台に目を向けた。
「ん…」
平日とはいえそれなりににぎわっているイベントホールの中、その屋台の周囲だけぽっかりと空白地帯になっていた。行き交う人々もその前に通りかかったときだけ足早に次の屋台へ向かい足を止めない。
「これ…知ってるぞ」
士郎は険しい顔で呟いた。むせ返るような香辛料の臭い。眼に突き刺さるような刺激のある蒸気。知っている。俺は確かにこれを知っている。ニゲロニゲロと訴えかけるこの感覚を知っている。
「シロウ、何故か戦士の顔になっていますが…どうかしましたか…?」
「…セイバー、何も言わずにここはスルー―――」
背筋を走る悪寒を頼りにセイバーを促して離脱を図った士郎だったが、その判断はあまりに遅すぎた。
「ふっ…」
二人の耳に届いたのは低音の笑い。諦めが人を殺すとかいう台詞があったなあなどとぼやきながら士郎は覚悟を決めて屋台の中を覗き込む。そこに―――
「…よく来た、とまずは歓迎すべきかね?」
「やっぱりおまえか…」
そこに、言峰綺礼が立っていた。神父服の上から装着した首刎兎ロゴのエプロンが片手の掌を上に向けたいつもの立ち絵に異様な不気味さを付与している。
「っていうかなんでおまえがこんなとこに居るんだよ。なにしてるんだ一体…」
「ふむ。見ればわかるだろう」
厳かな声で言いながら綺礼は屋台の屋根部分を指差した。書かれた文字は『紅洲宴歳館・泰山 ベェルデ支店アル』。手書きだ。
「あの店長のセンスは一体…」
「跋氏は知人でな。今日は本店の方で外せない客が居るのでと代理を頼まれたのだ」
言うが早いか綺礼は中華鍋を握った。さっとゴマ油を回し入れ、微塵切りにした長ネギ、ニンニク、ショウガを炒め、豆板醤をぶち込む。それはもう、お玉に山盛りで叩き込む。具材と士郎の顔の色が変わったら、今度は胡椒と山椒をどばっと投入。
「ちょ、待、おまえそれ…」
「レシピ通りだが?」
凛の宝石の直撃を受けてもこうはならないだろうというぐらい煮え立った鍋に豆腐を加えて崩れないように混ぜ、最後に申し訳のように片栗粉をといたものを加えれば完成。あくまのように赤く地獄のように熱く愛のように盲目になるもの、汝の名は地獄(ヘル)マーボ!
「私の奢りだ。持っていくがいい」
「いるか! っていうか食えないだろそれは!」
差し出された皿にウェイト無しの超高速で士郎は叫び返した。だが。
「シロウ、食べ物を粗末にするのは良くない」
横合いから差し込まれたセイバーの制止にぐっと言葉を詰まらせた。
「いや、確かにそうだけどさ…これは食べ物というより…武器?」
「私は毎日美味しく頂いているが?」
反論の言葉を綺礼は意地の悪い笑みと共に打ち砕く。
「いや、その…」
セイバーから放たれる抗議の視線に士郎は深々とため息をついた。
「なあセイバー。よく見ろ。あれを…あれは食べ物か? セイバーの魂はそれを認めるのか?」
「?」
問われ、セイバーは改めて綺礼の差し出した皿を見つめてみた。赤い。赤さが極まってむしろ黒く見える。臭いは刺激臭という言葉をそのまま実体化したかの
ごとく鼻に飛び掛ってくるし直感技能がさっきから全力で警鐘を鳴らしている。キケンキケンキケンキケンキケンキケイキライカライカライカライ。
「たしかに、これは凄絶です…ですが」
「ですが!?」
肯定的な響きに士郎は戦慄した。いけるのか!? 最強のサーヴァントたる彼女にとってはこの人体錬成に失敗したなれの果てみたいな物体すらも指先ひとつでダウンなのか!?
「……」
セイバーは眉をひそめ、更によく観察してみる。強烈なインパクトを放ってはいるがこの料理は、彼女が嫌悪する『雑な』ものではない。きちんとした思想の
元に制御され、調理されたものだ。ただ、その思想が常人には理解できない異界の常識で構成されているというだけで。言うならば混沌。混沌のマーボ。そこに
注ぎ込まれた情熱は妄執となり語り掛けてくるような迫力だ。
「…これはご丁寧に。こちらこそ宜しくお願いします…」
「セイバー!? 誰に話し掛けてるんだ!? うわっ! なんか変な黒い装甲がほっぺたに出てきたよセイバー! 髪も銀に…ちょ、おーい!」
虚ろな視線でふらふらと地獄マーボに手を伸ばすセイバーを士郎はなんとか食い止めようとはがいじめにするが、極限まで鍛えても筋力Dの身では全身に漲る
魔力で筋力Aに達している今の彼女には到底敵わない。ずるずると引き摺られるのを身ながら綺礼はニヤリと笑って鍋に残ったマーボをお玉ですくって口に運
び。
瞬間!
「待ちなさい…!」
「あ…」
疾風の如く飛び込んできた灰色の影が、今まさにセイバーがレンゲを突きたてようとしていたマーボ皿をかっさらった。
「折檻ッ!」
そのまま皿を綺礼の顔に叩きつけ、その人物…スーツとエプロンに身を包んだバゼットは懐から取り出した手袋を素早く装着する。
「人に迷惑をかけるなと…何度言えばわかるッ!」
手の甲と掌に複雑な模様の浮き出た金属板がはめ込まれた明らかに戦闘用なそれをカッと打ち鳴らし、飛び退こうとする綺礼の内腿に右の裏拳を叩き込んだ。
「む…」
「連環ッ!」
一瞬動きが止まったところへ跳躍と共にニ連蹴りを叩き込む。顎を強打された綺礼がその巨体をよろめかせると同時に着地し…
「お…」
「双掌!」
身体ごと突っ込んで両の掌底を目の前の腹へと叩き込む。数センチもめり込んだ手袋の金属板はその浮かし彫りでもってその紋様を綺礼の腹に刻み―――
「…焼滅!」
低い叫びと共に綺礼の服が発火した。刻まれたのは火のルーン。燃えながら吹っ飛んでいく夫のことはもはや見もせず、バゼットはポケットから取り出したタバコをくわえて深く息を吐く。
「まったく…人が少し席を外している間にこれとは。あれほど料理は作るなと言ったというのに」
「あの、言峰…燃えてるんですが…」
顔面蒼白になって指差す士郎にバゼットはふんと鼻を鳴らした。
「問題無いな。あの程度でどうかなるのだったらどれだけ楽なことか…」
額を抑えて呻く姿に、まあ言峰だしなぁと納得して士郎はセイバーの方に視線を移す。
「セイバー、大丈夫か? 俺がわかるか?」
「……」
しばしレンゲを握ったままぼーっとしていたセイバーはパチパチと瞬きをして士郎を見つめ返した。
「…おなかがすきました」
「よかった…いつものセイバーだ…」
ほっと息をつく士郎に苦笑してバゼットは周囲を見渡した。一般客は見て見ぬ振りをしているようなので問題無い。まあ、多少妙な噂は立つかもしれないが今更だ。
「さて…君達は、デートかい?」
「ぶっ…!」
「いえ、その…」
何気ない問いに右往左往する二人にバゼットは苦笑した。若いな等と思いながら肩をすくめる。
「いや、失礼。深く考えないで欲しい。見たところ昼食を買い求めているんだろう?」
「え、ええ」
まだ落ちかなげながらも頷いた士郎にバゼットはそうかと微笑み、屋台の中からプラスチックのパックを取り出した。
「では、この麻婆豆腐を持っていくといい」
「あんたもですかッ!」
絶叫と共につっこまれてムムとバゼットは顔をしかめる。
「これは私が作ったものだ。あいつの作った…『この世全ての辛』とでもいうべき物体と一緒にされるのは心外だな」
顔をしかめたバゼットに士郎は意外な思いを隠せず目をしばたかせた。
「料理、得意なんですか?」
「正直レパートリーは多くないが、これでも一応人妻だからな。中国に派遣された時に学んだ本場物だぞ?」
言って差し出してきたパックを受け取る。中にあるのは確かに麻婆豆腐。さっきのとは違い、見るからに美味そうだ。
「今日は天気がいい。ゆっくり骨休めすることだね」
「はい、ありがとうございました」
「貴方に、感謝を」
優しく微笑むバゼットに二人は頭を下げ、燃え続けている物体にはあえて目を向けずに歩き出した。だが。
「待て、衛宮士郎」
低い声と共に炎の塊がシュバッと舞い上がった。無駄にいい動きで立ち上がった綺礼は身体に纏わりつく炎を引き剥がしてふっと笑う。
「…色々言いたいことはあるけど…取りあえず用件は何だよ」
「ふむ。この1週間ほどの間におまえと凛、それと間桐の娘以外の魔術師に出会ったか?」
唐突な問い、しかも予想を裏切る真剣な声に士郎は戸惑いながら首を振った。
「おまえとかバゼットさんとか…あとキャスターは別にして、だろ? 会ってないけど…どうしてさ」
「…忘れているかもしれんがこの街は我々を出さぬ結界が張られている。私はそれを閉じ込める為の外から張られたものだと考えていたが、どうも内側から貼られているようでな」
表情を鋭くする士郎とセイバーに綺礼はふっと笑う。
「心当たりがないのならば構わん。行くがいい…もしも害意ある魔術師ならば、もっと早く攻撃を受けているであろうからな」
「ああ…それじゃあ俺達は行くけど…」
士郎は緊張感に溢れた顔でゆっくりと綺礼から視線を外した。
「…服、着たほうがいいぞ。命に関わる」
「む?」
炎を…燃えている衣服を剥ぎ取った綺礼の服装は当然に裸体だ。申し訳程度に残っていた黒のブリーフ一丁のその肉体の背後に…
「ふふ、ふ、ふふふふふふふ…そこまでして…そこまでして脱ぐか!」
「疑問があるのだがね、バゼット。燃やしたのは―――」
「問答無用! 爆砕ッ!」
打撃音と爆発音を背に士郎とセイバーは爽やかな笑みを浮かべた。
サワラにカニにタタミイワシ…
もとい、触らぬ神に祟り無し。
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