満開の桜を男は見上げていた。
 舞い散る花びらを透かして降り注ぐ陽光に目を細めて男は視線を足下へ移す。
 そこに、雪があった。
 季節はずれの・・・ほんの一欠片だけの雪がそこにあった。
 後少しすれば解けて消えてしまうだろうその雪を・・・
 男は、ずっと見つめていた。

 そして思い出す。あの時を。
 ずっと続くと思っていた、あの時間を。


First Snow 「白く、そして唐突に」

「今日までご苦労様」
 主任の言葉に山名春彦は黙って頭を下げた。
「相変わらず無口だね君は・・・まあいいけど。じゃ、見回りと鍵閉めが終わったらお別れだ。本当にお疲れ。振り込みは来月15日だから」
「はい・・・行って来ます」
 淡々と述べて春彦は踵を返した。
 1月15日、土曜日。冬休みを利用して行っていたバイトの終わる日である。
 春彦はゆっくりと職場である冷凍倉庫に近づいた。扉を開くと一気に冷気が吹き出してくる。暖冬といわれ日々暖かい陽気が続く中でも冬らしさを味わえるこの感覚が春彦は好きだった。
 中に足を踏み入れると大小さまざまな荷物がそこかしこに積み上げてある。それの横を通り抜け、残っている人が居ないかチェックしていく。
「・・・点検終了」
 一番奥まで到着した春彦は呟いて出口へと戻った。
「まぶしいな・・・」
 薄暗い室内から出てきた春彦はそう呟いて太陽に手をやり日差しを遮る。
「ん?」
 真っ白な視界の向こうに何かが見えた気がして春彦は眉をひそめた。光になれてきた目を数メートル先に向ける。
 そこに、一人の女の子が居た。
 地面に崩れ落ち、必死に手で上半身を起こし鋭い視線を春彦に送っている。
「赤い・・・瞳?」
 思わず呟いた。彼を見つめる少女の瞳は鮮やかな赤で染められていたのだ。
「・・・・・う」
「どうした?」
 春彦は呼びかけながら一歩踏み出した。
「・・・しまう」
「何?」
「とけて・・・しまう」
 首を傾げる春彦を無視して少女は歯を食いしばり立ち上がる。
 改めて駆け寄ろうとした瞬間、
「つっ・・・!」
 春彦は正面から吹き付けてきた強風に思わず腕で顔をかばい立ち止まってしまった。
「・・・なんだ?」
 風自体は一瞬で収まった。だが、その風を遮った腕やもろに受けた体がしっとりと湿っている。所々に融けずにくっついてるそれは・・・
「雪・・・?」
 呟いて春彦は空を見上げる。雲一つない空だ。もう少したてば日も沈み綺麗な星空が拝めることだろう。
 視線を地上に戻し春彦はその視線を左右にずらした。
「いない」
 さっきまですぐそこに居た少女が居ない。立ち去ったのだろうか。あの短時間に、視界の外まで?
「・・・・・・」
 春彦は首を捻りしばらく考え込んだ。
「まあ、そういうこともあるだろう」
 呟いて振り返り、念の為もう一度倉庫内を見渡してからドアを閉める。セキュリティー上3つも付いている鍵を全部閉め終われば彼のここにおける仕事は全て終了だ。
 春彦は鍵をポケットに突っ込み事務所の方に歩き出した。
「ん?」
 数歩歩いて立ち止まる。何か音が聞こえたような?
 どんどんどん・・・
 今出てきたばかりの倉庫から音がするような気がする。
 どんどんどん・・・
 それは、ドアの金属を叩いてる音に居てるような気がする。
 どんどんどん・・・
「・・・気のせいだな」
 春彦はそう言って再び歩き出した。
「気のせいじゃありませんよ〜助けて下さい〜」
 今度ははっきりと聞こえる声に春彦は首だけ振り返った。
「・・・酷くはっきりとした幻聴だ」
「幻聴でも電波でもありませんよ〜人が居ます〜開けて下さい〜」
 内容のわりにのんびりした声がドアを叩く音と共に響く。
「・・・・・・」
 春彦は無言でドアの鍵を開けた。
「た、たすかりました〜叩きすぎて手が痛くて痛くて・・・」
 ドアを開けてやると中から転がりでるようにさっきの少女が飛び出してきた。
「鍛え方が足りん・・・それ以前に何故冷凍室内の金属を素手で叩いて無傷なんだ?」
 立ち上がった少女を観察してみる。
 整った顔立ちだ。透き通るような白い肌に赤い瞳が神秘的な雰囲気を添えている。身長はさほど高くはない。176センチの春彦の口あたりまでということは160センチ台中盤か。暖かいとは言え冬本番のこの時期にスラックスにブラウス一枚はあまりに寒々しい。
「助かりましたぁ〜・・・あのまま出れなかったらどうしようかと思
いましたよ〜」
「それ以前に凍死すると思うが・・・」
「私って寒さには強いんですよ」
「第一どうやって入ったんだ?俺の横をすり抜けるにしても距離があ
りすぎる」
「あれ?私って何であんな所にいたんでしょう?」
 春彦と少女は二人して黙り込んだ。会話が全く噛み合ってない。
「・・・で?何であんな所にとは?」
 改めて問うと少女は一生懸命首を捻って考え込んだ。
「ふと気付くとあそこにいたんです・・・真っ暗でびっくりしました〜」
「真っ暗?おまえ、そこに倒れていただろう?」
 指差す春彦にきょとんとした声が返ってくる。
「私、倒れてました?」
「ああ」
 顔中に疑問符を浮かべている少女に別の質問をぶつけてみる。
「おまえ、誰だ?」
「あ、申し遅れました。私・・・私・・・」
 二、三回目をしばたかせて続ける。
「私、誰なんでしょう?」
「知らん」
「それもそうですね」
 即答した春彦に少女はにっこりと答える。
「・・・哲学的な質問ではないぞ。名前を、聞いてるんだからな?」
「はい。それはわかってるんですが・・・名前が思い出せないんです。と、言うか名前すら思い出せないと言うか・・・」
 春彦は眉をひそめじっと少女の瞳を見つめる。
「そ、そんなに見つめないで下さい〜」
 身をよじる少女を無視して見つめ続ける。
 嘘をついた人間は無意識のうちに汗をかいたり瞳が細かく震えたりする。意味もなく髪を触ったりまばたきが増えたりと嘘を表すサインは多い。だが・・・
「嘘をついてるわけではないようだな」
 春彦はそう結論づけた。
「はい。でも、ホントになんなんでしょう?私って誰なんでしょうね?」
「初対面の俺には知る由もないが・・・おまえ、いわゆる記憶喪失だと言うことか?」
 少女は困った笑顔で頷いた。
「はい・・・なんか、そんな感じです」
「何か覚えていることはないのか?持ち物はどうだ?」
「持ち物ですか。えっと」
 ペタペタと体中を触ってみる。
「すいません。何も持ってないみたいです」
「別に謝る必要はないのだが・・・」
 呟いて春彦は空を見上げた。喋っている間に赤から紫へとその色を変えているのに気付き目の前の少女に声をかける。
「寒くないのか?上着くらいなら貸してやれるが」
「はい。取り敢えず自分が寒さに強いっていうのはわかるんです」
 そう言う問題か?と心の中で呟いて春彦は腕組みをする。
「日も暮れてきた」
「そうですね。綺麗な夕日ですから明日も良いお天気だと思いますよ」
「俺の仕事はもう終わったから帰ろうと思っている」
「ご苦労様です」
 春彦はしばらく沈黙してからジト目で少女を見つめる。
「と、いうわけでお別れだ。死なずに生きろよ」
「はい、さようなら・・・」
 言い置いてさっさと歩き始めた春彦に反射的に頭を下げた少女はワンテンポ置いて春彦の腕にすがりついた。
「ちょっとまってください〜私はどうしたらいいんですか〜?」
「・・・一人たくましく生きてはいけないか?」
「無理です〜」
「だろうな・・・記憶喪失では履歴書も書けないしこのご時世では身一つで雇ってくれるバイトもそうそうあるまい。現金はなくカードもない。もちろん保険証もないから怪我や病気をしたら凄い金を取られる。待っているのは・・・都会にありがちな孤独死だ」
 すがりついてくる少女を引きずりながら春彦は無表情に呟く。
「そ、そういうのはいやです〜」
「だろうな」
 春彦は溜息をついた。正直なところ彼としても何ら有効な対策が思いつかないのだ。
「うう・・・私、今夜は野宿でしょうか・・・固いベンチで寝るのは背骨が痛いんですよ。知ってます?」
「と、言うかおまえこそ何故知ってるんだ?これまで野宿してたのか?」
「あら、本当ですね。私これまでも野宿してたんでしょうか・・・記憶にないとはいえこれまでも大丈夫だったのなら、これからも大丈夫ですよね?うん。大丈夫って気がしてきました〜」
 少女はようやく春彦の腕を放し一人で立った。
「ご迷惑をおかけしました。落ち着いたんでこれで失礼します」
 ぺこりと頭を下げる少女に春彦の口は無意識に言葉を紡いでいた。
「まて・・・一晩くらいは泊めてやる」
「ほ、本当ですか〜!」
 重々しく頷くと少女は目を潤ませながら春彦の手を取った。
「宿泊費、一泊2500円」
「お、お金有りません〜」
 のけぞった少女ははっとして春彦を見つめた。
ま、まさか体で払えとか!?」
「いらん。出世払いでいい」
 はぁと頷く少女をその場に待たせて冷凍庫を施錠し春彦は事務所に戻った。
「・・・鍵、閉めてきました」
「おう、ごくろうさん。異常は?」
 春彦はちょっと考え込んだ。異常は有る。ここの敷地内のことなのだからこの会社に任せてしまえばいいのではないだろうか?
 ゆっくりと口を開く。
「異常有りません・・・お世話になりました」
 頭を下げる春彦に主任はおうと言って手を振った。
 まあ、乗りかかった船だ・・・
 心の中で呟いて事務所を出る。
「待たせたな」
 門柱に寄り掛かってなにやら鼻歌を歌っていた少女に声をかけると嬉しそうな笑みが返ってきた。
「おかえりなさいませ!」
「何か違うぞそのリアクションは・・・」
 呟いてさっさと歩き出すと後ろから少女がとてとてとついてくる。
「あの・・・そういえばまだお名前も聞いてませんよね?」
「人に名を尋ねるときはまず自分から名乗るが良い」
「うー、名前わかんないんです〜」
 本気ですまなそうな声に春彦は片方だけ眉を上げた。
「・・・すまん、冗談のつもりだったのだが無神経すぎたな。俺の名は山名春彦だ」
「春彦ちゃんですね」
「・・・せめて春彦さんにしてくれ」
「はい」
 楽しそうな声にちょっと安心する。
 記憶がないとはどう言う状態なのだろうかと春彦は考えた。記憶とは自分が自分であることの証明だといえる。現在を認識できるのも記憶の中の過去と対比しているからこそなのだから、それがないとは自分がここにいるか証明できないと言うことなのだ。
「・・・名前、本当に思い出せないのか」
「これがまた綺麗さっぱり」
 歩きながら放った問いにこれまた歩きながら答えが返ってくる。
「・・・電話番号」
「わかりません」
「友達の名前」
「さっぱりです」
「好きな芸能人」
「名前は色々思い出せますけど誰が好きだったのかは全然」
「現阪神監督、野村克也の生涯本塁打数は?」
「歴代二位で657本です」
「ちなみに一位は王貞治868本だな」
 しばらくの間沈黙だけをつれて二人は歩き続けた。
「パーソナルデータだけを綺麗さっぱり失った形か」
「そうみたいです」
 にこにこと答える少女を横目で見ながら春彦は質問してみる。
「不安ではないのか?」
「いいえ。不安ですよ。記憶がないってわかったときは泣きそうになりました」
「・・・そうは見えないが?」
「今は、春彦さんが居ますから」
 他意はないのであろう純真な笑みから春彦は目をそらす。
「あまり頼るな。一晩泊めてやるだけだ」
「はい」
 またしても軽やかに答えが返ってきて春彦は溜息をついた。
「本当にわかっているのか?・・・着いたぞ」
 少女は言われて立ち止まりそのマンションをぐっと見上げた。
「・・・大きいおうちですね〜12階建てですよ!」
「一応言っておくがそのうちの一室だけが俺の家だからな」
「え・・・あ・・・も、もちろんわかってますよ?」
 春彦は脳裏に『天然』の二文字を燦然と輝かせながらマンションに足を踏み入れた。

「入れ」
 ドアを開けながら春彦は呟いた。
 下駄箱に鍵を放って靴を脱ぐ。
「おじゃまします〜」
 少女も春彦について入ってきた。丁寧にお辞儀をしてから靴を脱ぎ春彦の靴共々きちんとつま先をドアに向けて置き直す。
「几帳面だな」
「あら。自然と・・・しつけでも厳しかったんでしょうか?」
 首を傾げている少女はほっといて春彦は自分の部屋に戻った。彼の借りているこのマンションは2DKで一人暮らしには広すぎるくらいである。
 コートをハンガーに掛けマフラーとニットキャップをまとめて机の上に放り出す。
「ここが、春彦さんのお部屋ですか?」
 背後からの声に振り返ると少女がちょうど入って来るところだった。
「そうだ。おまえはダイニングの隣にある客間を使え。畳敷きで布団も押入に入っている。好きに使え」
「何から何まで・・・本当に有り難うございま・・・」
 言いかけた矢先、少女のお腹から可愛らしい「ぐうっ」という音が聞こえた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 二人して黙り込んでしまう。
 春彦は無言で少女の横を通って部屋を出た。
「あ、あの・・・」
 少女の困った声には答えずそのまま台所へ向かう。
「あまり買い置きはないが・・・まあ二人分位何とでもなる。何が食いたい?」
「え・・・あの、いいんですか?」
 さっきのが恥ずかしかったのか赤くなって俯いている少女を一瞥して春彦は大きく頷いてみせる。
「ああ、何でもいいぞ。言ってみろ」
「何でもですか?」
「あまり無茶な物でなければ」
 少女はしばらくの間両手の指を『くにくに』と絡ませて躊躇ったがしばらくして意を決したように口を開いた。
「じゃあ・・・」
「じゃあ?」
「かき氷を、お願いします!」
 春彦は、頭の中で少女の言葉を検証した。
「・・・あの、氷をすり下ろしたあれか?」
「はい。もちろんですっ!」
 拳を握りしめて少女は力強く頷く。
「・・・それが一番食べたいのか?」
「はい!おいしいですよ?」
 春彦は無言で冷凍庫を開けた。残念なことに氷はたっぷりと作ってある。
「・・・しょうがない」
 溜息をついて冷凍庫の扉を閉じて流しの上の戸棚を開ける。
「確かこの辺にあったはずだが・・・」
 呟きながら鍋やフライパンをどけると中から世界一有名な直立ネズミをかたどったかき氷機が出てきた。
「あら、ミoキーさんですね」
「版権の問題もあるから気を付けろよ」
「?」
「なんでもない。適当な容器を持ってついてこい」
 かき氷機と氷を手にダイニングに戻り六人掛けの食卓の上にそれを置く。
 ミoキーの頭のふたを開けそこに氷を突っ込めば後はハンドルを回すだけでかき氷ができあがるという寸法だ。
「なんか、のーみそを継ぎ足してるみたいですね」
「独創的な意見を有り難う。器を貸せ」
 受け取った器に手際よく氷をすり下ろしてから春彦は気がついた。
「シロップはどうする?」
「冷蔵庫の中にオレンジジュースがありましたよ。果汁100%のやつですし、取りあえずあれで代用しときましょう」
「あれか・・・まあ問題有るまい」
 少女が取ってきたオレンジジュースをかけてかき氷の完成だ。オレンジ色の彩りが加わったそれはなかなかにおいしそうではある。あるのだが・・・
「異常に寒々しい光景だな」
「何がですか?」
 少女は首をかしげて二つ目の容器に氷をすり下ろす。
「・・・俺も食うのか?」
「はい。もちろんですよ。お腹空いたでしょう?」
「空いたが・・・」
 目の前に置かれたかき氷を見つめて春彦は覚悟を決めた。
「仕方有るまい・・・いただきます」
「いただきます〜」
 二人して手を合わせおもむろにかき氷にスプーンを差し込む。
「おいしいです〜」
「・・・寒い」
 半眼になって睨み付ける春彦の目には全く気がつかず少女は一心不乱にかき氷をかき込んでいる。
 スプーンをゆっくりしたペースで動かしながら春彦は窓の外に目を向けた。比較的暖かいとはいえ1月も終盤に入ったこの時期にもなれば夜はそれなりに冷え込んでくる。暖房が入ってもフローリングの床はひんやりと冷たい。
 この世界に一体どのくらいの人間が真冬にかき氷を食べる気になるのだろう・・・
「春彦さん!おかわりです!」
「まだ食うのか!」
 
「はぁ〜!ごちそうさまです!満腹です!」
 満足そうにスプーンを置いた少女を春彦は横目で睨み付けた。
「・・・かき氷9杯、氷の数にして28個も食べればそれは満腹だろうよ」
「ごめんなさい・・・最後の方、私一人で食べてましたね」
「謝るべきポイントが違うような気がするが・・・まあいい」
 呟きながら食卓を離れソファーにどっかりと座り込む。
「宿泊代の代わりというわけではないが食器とかき氷機は自分で洗っておけよ」
「はい!」
 元気のいい返事に頷き返してテーブルから小さな木製の箱を取る。開けると中にはダーツが十数本収まっていた。
 一本取りだして右手で構える。狙いは壁に掛けてあるコルクボードだ。
「一つ・・・」
 呟いて投げるとダーツは軽い放物線を描いてコルクボードに突き立った。
「二つ、三つ、四つ・・・」
 次々に放たれたダーツは全てほぼ同じ一点に突き立っていく。
「十・・・ラスト」
 残った二本を両手で一度に投げる。ダーツは一直線にコルクボードへ向かい他のダーツと押し合うようにして突き立った。
「何を動揺してるんだ?俺は・・・」
 ほぼ完璧な技術だが春彦にしてみれば納得のいかない投擲だった。本来は全て同じ一点に突き立てる技なのだ。
「・・・あいつのせいか?」
 台所の少女に目を移す。鼻歌混じりに食器を洗う手際はなかなかの物だ。これまでの天然ぶりに少し心配していた春彦は取り越し苦労に苦笑する。
 どうせ一晩だけだ。こういうのも悪くあるまい・・・
 そうやってゆっくりと夜は更けていった。

 次の日も昼過ぎになってようやく春彦は目を覚ました。元々朝に弱い上に昨日は遅くまで少女と騒いでいたのがこたえている。おまけにバイトのない日曜ともなれば遅くまで寝ていても誰も文句は言わない。
 のろのろと着替えて居間に移動するとちょうど少女が部屋から出てくるところだった。
「おはようございまふ」
 最後の方はあくび混じりに挨拶する少女は未だ春彦が貸したサイズの合わないパジャマ姿だ。
「おはようを言うのは着替えてからにしたらどうだ?」
 そう言うとのろのろと頷いて部屋へと戻る。
 自分と同じぐらい寝起きの悪そうなその姿にちょっと苦笑してから春樹は朝食・・・昼食か?・・・の準備を始めた。
 トーストを2枚オーブントースターに突っ込み卵を二つフライパンに投入して目玉焼きを焼いていると比較的しゃんとした少女が春彦の隣に立った。
「・・・なんだ?」
「かき氷、デザートにどうです?」
「禁止だ」
 しょぼんとする少女を無視して目玉焼きを皿に取り分ける。
「いいから食え」
「はーい」
 食卓に座って二人は手を合わせてから遅い食事を開始した。
「・・・で、これからどうするんだ?」
 インスタントのコーヒーを入れながら春彦は少女に尋ねてみた。
「これからと言いますと?」
「ここを出てからどうする気だ?」
 少女は一瞬手を止めてから再びのんびりと食事を続ける。
「・・・しばらくおいといて貰うわけにはいきませんよね?」
「悪いが駄目だ」
「そうですか・・・」
 少女はにっこり微笑んで頷いた。
「では、食べ終わったら早々に出ていきますので・・・」
「大丈夫なのか?金なら多少貸せるが・・・」
「大丈夫です。多少不審でも雇ってくれるところの一つや二つきっとありますよ」
 厳しいぞと思いつつも春彦は黙っていた。
「はい、ごちそうさまでした。あの、食器は?」
「今回は洗わなくていい。俺が作ったのだから俺が洗う」
「じゃあ、これで失礼します」
 春樹は立ち上がった少女に思わず声をかけていた。
「もう、行くのか?」
「はい。短い間でしたがお世話になりました」
「・・・正確には、19時間13分だ」
 呟いて春彦も立ち上がる。
 相変わらずのんびりと歩いて玄関まで移動した少女が靴を履くのを何となく眺める。
「・・・では、失礼します」
「そうか」
 お辞儀する少女に曖昧に頷いてみせると彼女はにっこり笑って勢い良くドアを開けた。
 ごちん。
 途端に鈍い音が響きわたる。
「・・・22のダメージだ」
 春樹は呟き硬直している少女を押しのけてドアの外を見てみた。
「もうちょっと痛いんですがね・・・」
 そこには一人の男が居た。
 四十才を越えたか越えないかというその男は巨大なリュックを背負って額を押さえている。おそらく、勢い良く開いたドアで強打したのだろう。
「ご、ごめんなさい!痛かったですか?」
 慌てた声に男は額を手のひらでさすりながら少女の顔を見て眉を寄せる。
「あの・・・なにか?」
「あ、いや・・・お出かけですか?」
 少女が頷くと男はまじまじとその顔を見つめる。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 男は不審そうな顔で、少女は相変わらずの笑顔でしばし沈黙が続く。
「いや、可愛らしい奥様ですね」
 しばらくしてから放たれた男の言葉に少女は耳まで真っ赤になった。
「え!?え!?え!?そ、そんな奥様だなんて・・・私まだ、その・・・」
 ぷちぷちぷちぷち呟きながら自分の世界に突入してしまった少女の頭に半眼でチョップを入れながら春彦は男に向き直る。
「こいつはただの友達だ。もう帰るところだからそこをどいてくれ」
「え?ああ、これは失礼」
 玄関を塞ぐ形で立っていた男がどくと同時に春彦は少女を廊下に押しやった。
「じゃあな。気を付けろよ」
「はい・・・では、失礼します」
 少女は深々と頭を下げて去っていく。春彦はその背中を見ながら思わず口を開いたが結局何も言わずにその口を閉じてしまう。
「・・・いいんですか?行かせてしまって」
 その様子を見た男が意味深な視線を春彦に向ける。
「いいんだ。俺にはあいつを受け入れる余裕はない」
「余裕ですか・・・」
「俺には守ると約束した女が居る。あいつも同時に守る事は出来ない」
 男はじっと春彦を見つめている。
 春彦も男を見つめ続ける。
「私には」
 男は静かに口を開いた。
「助けを求めている人を見捨てるような人に誰かが守れるとは思えませんがね」
 春彦は片眉を上げた。
「42秒も考えていてそれか?陳腐だな」
「真理は全て陳腐だと思いますよ」
 春彦は黙って踵を返し部屋に引っ込んだ。
 しばらくしてコートを持って出てきた春彦は片手でニットキャップをかぶりながら外に出てドアに鍵をかける。
「迎えに行くんですか?」
 まだそこに立っていた男にちらりと視線をやって頷く。
「何故かはわからん。あんたのセリフに感銘を受けたわけでもないが・・・あいつを放っておけないと思っているのは、本当だ」
 言い捨てて歩き出そうとしてもう一度振り返る。
「そういえば、あんた何者だ?」
「私ですか?私は・・・」
 男は一度言葉を区切ってからリュックをぽんっと叩いた。
「行商人ですよ。楽しいアイテムをみなさまに販売しております」
「怪しい」
 少し寂しそうな顔をした行商人にはかまわず今度こそ春彦は歩き出した。
「次は何か買って下さいねー!」
「物次第だ」
 春彦はだんだんと歩くスピードを上げていく。そしてついには走り始めた。
 もう見えなくなった少女の姿を求めて。

 しばらく走り回ってから春彦は足を止めた。
「・・・公園か」
 近所にある児童公園。遊具はブランコとシーソー、砂場だけだが樹だけは無暗にたくさん植えてあるそこに少女は立ちつくしていた。
「おい」
 呼びかけると少女はゆっくりと振り返った。近づいてみて気付いたが瞳がしっとりと潤んでいる。
「春彦さん・・・」
「泣いてたのか?」
 問いに対し少女はにっこりと微笑んでみせる。
「ちょっと風が強くて・・・ゴミが入ってしまいました」
「うそつけ」
 半眼でそう答えて春彦は少女の額に縦チョップを入れる。さっきから風など少しも吹いてはいない。
「本当は、少しだけ心細かったんです・・・あ、本当に少しだけですよ」
 手をぱたぱたと振る少女に春彦は冷たい視線を送る。
「あの・・・えっと・・・結構、心細かったです」
 しばらくしてやっと白状した少女に春彦は考え考え声をかけた。
「実はな。俺は家事が嫌いなんだ」
「はぁ・・・そうなんですか」
 少女はきょとんとした顔で相槌を打つ。
「それでだな。 家政婦を一人雇おうと思っている。出来れば低価格でまじめに働いてくれる奴がいい。心当たりはないか?」
 しばらくの間悩んでから少女は恐る恐る口を開いた。
「すいません。友達や知り合いの記憶もないんです・・・」
「そうじゃなくてだ」
 春彦は頭を掻いた。
「行くところがないのならおまえを雇いたいと思っているんだが」
「はぁ・・・え!?私をですか!?」
「無論」
 少女はいきなり春彦の右手を両手で握りしめた。そのままぶんぶんと振り回す。
「ありがとうございますぅ!ありがとうございますぅっ!」
「こき使うぞ」
 春彦の声も耳に入らない様子で少女は嬉しそうに飛び跳ねる。
 しばらくしてようやく落ち着いたらしい少女は優雅に一礼してにっこり笑った。
「では、身元不明の不審人物ではありますがよろしくお願いします。ご主人様」
「ご主人様はよせ・・・」
 春彦は溜息をついて空を仰いだ。周囲の木々の枝が上空の青空を切り取って広がっている。
「ご主人様?」
「だからそれはよせ」
「でも、メイドといったらご主人様ですよね?」
「否定はせん。が、俺は名前で呼べ」
「はい。じゃあ春彦さん、この樹って何の樹ですか?」
 春彦は空を仰いだままで答える。
「ここの樹は全て桜だ。春になるとそれは見事な景色になるんで花見のメッカにもなっている。確かに美しい花吹雪だぞ」
「桜の花・・・見てみたいです」
「見ればいい。すぐ近くなんだからな」
 言ってから不意に春彦は少女を見つめた。
「おい」
「何でしょう?」
「おまえ、名前は思い出せるか?」
 少女は軽く首を傾げた。
「だめみたいです。全然思い出せそうにありません」
「・・・冬花だ」
 呟くように放たれた言葉に少女は逆方向に首を傾げ直した。
「おまえの名は、冬花だ。今思いついた」
「とうか・・・」
 少女は微笑みを浮かべながらその言葉を繰り返す。
「気に入らないか?」
「いいえ!とっても素敵です!私は、冬花・・・」
 予想以上に嬉しそうな少女の・・・冬花の様子に春彦は苦笑した。
「よし。帰るぞ」
「はい!」
 さっさと歩き始めた春彦の後をとてとて冬花がついてくる。
「私、お仕事一生懸命頑張ります!掃除も、洗濯も、全部お任せくださいっ!」
「・・・料理は?」
「・・・かき氷なら」
 春彦は溜息をついて家路を急いだ。

 生涯忘れられない、ほんの2ヶ月の奇跡は・・・こうして始まった。