2月14日、AM9:30。
 例によって例のごとく熟睡している大学生、山名春彦の部屋のドアが静かに開き、そこから入ってきた人影が深々と頭を下げてからベッドで眠る春彦の側へと歩み寄った。
「・・・ぁぅっ!」
 途中何もないところで一度つまずき春彦の様子をうかがう。
「・・・・・・」
 依然として熟睡している様子に胸を撫で下ろし、その人影は改めて春彦の隣に立った。
 そして、ゆっくりと腕を振り上げ・・・
「えいっ!」
 人影はへなへなとその拳を振り下ろした。
 ぺちっ。
「な、何だ?」
 春彦は叫びながら身を起こした。そう、あり得ないことだった。
 どこも痛くない目覚めなんて!そんなもの、あるはずがない!
「ふふふ・・・目が覚めましたか?」
 不審気に見回した視界に入ってきたのは透き通った白い肌、腰まである長い銀髪、神秘的な赤い瞳を持った少女だった。山名家の居候その1、冬花だ。
「・・・冬花。なんなんだ?一体」
「えっと、今日は私が起こしにいってほしいと頼まれたので、友美ちゃんの真似してみましたー」
「そうか・・・」
 春彦は複雑な表情でゆっくりと立ち上がる。
 痛ければ痛いで困ったものだし何のダメージも無く目覚めると何となく物足りない。
 結局今日も春彦は溜息と共に起床した。


「おはよう」
 着替えやら洗顔やらといった朝のイベントを無難にこなし春彦は居間へとやってきた。
「あ・・・は、春彦・・・お、おは、おは・・・」
「・・・ファンタジーゾーン?」
「それはオパオパっ!って言うかマニアックすぎ!」
 つっこみと共に振り回されたオタマを右手で軽くいなして食卓につく。
「それはそれとして・・・今日はどうしたんだ?わざわざ冬花に起こしに来させるとは」
 言いながら時計を見る。いつも通りだ。別段急ぐような用事もないはず。
「え、いや、その」
 友美はオタマの先をいじりながら俯いてプチプチと呟いた。
「?」

 眉をひそめる春彦の前にマイペースな冬花が朝食を並べる。
「あのさ、春彦・・・今日、何の日かわかる?」
 上目遣いに尋ねられた春彦は焼き鮭を囓りながら首を傾げた。
「・・・俺の誕生日は9月・・・友美のは1月・・・冬花はわからん・・・2月・・・2月・・・14日・・・ん?」
 春彦は片方の眉をあげて友美を見た。
「今日は、粗大ゴミの日だ」
 刹那、出刃包丁がアンダースローで飛んできた。春彦は箸でそれを打ち落とす。
「何で粗大ゴミの日でこんなドキドキしてなきゃならないのよ!?」
「ドキドキしてたのか?」
「うっ・・・もういいわよ!さっさと食べて大学行きなさい!」
 羅刹の表情で食卓に着き凄まじい勢いで朝食を詰め込み始めた友美を不審気に見つめて春彦は呟いた。
「何の日・・・様子が変で不機嫌・・・」
「それ以上喋ったら、殺すわよ?」
 死にたくはないので、春彦は黙った。


 朝食を終えた春彦はコートと帽子を手に居間へ戻ってきた。
「こちらは準備できた。行こう」
 だが、言われた友美はソファーに沈んだままじろっと春彦を睨み付けた。
「行けば?あたし今日は行かない」
「・・・何だか知らんがわかった。行ってくる」
 春彦はちょっとたじろいで踵を返す。
「いってらっしゃいませー」
 脳天気な冬花に見送られて春彦は出ていった。
「ったく・・・」
 その背を見送りながら友美は口をとがらせた。
「本当にわかんないわけ?そりゃ5年くらい前から照れくさくてあげてないけどさ・・・催促もされてないけど・・・まさか気付かないなんて・・・ねえ?」
「はい?」
 独り言に返事をされて友美はちょっとのけぞった。視線を向けると洗い物をしながら振り返った冬花がにっこりと微笑む。
「えっと・・・冬花さんは今日が何の日かわかってるよね?」
「はい!粗大ゴミの日は先週です。今日は燃えないゴミの日ですよね」
 友美は無言でこめかみを押さえた。
「あー、いや、今日は粗大ゴミの日であってるのよ冬花さん・・・でもそうじゃなくて、今日はバレンタインデーでしょ?」
「はい。そうですよ?」
 こともなげに頷かれた友美は半眼で冬花を睨んだ。冬花はきょとんと首を傾げる。
「はぁ・・・なんか、疲れちゃったよパトラッシュ・・・
 呟いてからちょっと躊躇いがちにもう一度冬花に声をかける。
「あの、さ・・・チョコなんだけど・・・」
 冬花は洗い物を終えて体ごと友美に向き直りぽんっと胸を叩いて見せた。
「大丈夫です!ちゃんと素材チョコは買ってあります」
 素材チョコとは、溶かして他の形に固めるための業務用チョコである。別段普通の板チョコを砕いたって良いのだがグラム単位の値段を考えれば手作りチョコには素材チョコを使用した方がよいだろう。無論、もっと本格的に作るのなら、それに越したことはない。
「えっと、冬花さん手作りなの?」
 冬花はくいっと首を傾げた。
「・・・友美さんのですよ?」
「はい?」
「春彦さんに本命チョコを渡すんですよね?」
「ななななななな何でッ?あ、あたしはそういうの無しッ!パスッ!キャンセル!ゲージ一本!」
 手を振り回す友美を冬花は不思議そうに眺めた。
「あげないんですか?」
「あはははは・・・やあねえ、あたしが春彦なんかにあげるわけないっしょ?実際去年も一昨年もあげてないし」
「そーなんですか」
 冬花は呟いて考え込み、ぽんっと手を打った。
「じゃあこの素材チョコは私が貰いますね。手作りチョコなんて作ったことありませんし買ってこようと思ってたんですけど、私・・・頑張ります!」
 Yeah!と可愛らしく手を振り上げる冬花に友美は引きつった笑みを向けた。
「えっと・・・春彦に・・・あげるの?」
「はい」
 にこにこと笑う冬花が眩しくなって友美は目をそらした。
「いいんですね?」
 視線の外から冬花が問いかける。
「も、もちろんよ!?あ、あいつ甘い物好きだし喜ぶんじゃない?」
 目を合わせないままにそう言って友美は腰を上げた。
「あ、あたしその辺ぶらついてくるから・・・」
「はい・・・いってらっしゃいませ」
 友美は冬花と目を合わさずに部屋を出た。


 いつもの川縁に友美は寝転がっていた。
「やっぱり・・・冬花さんって春彦が・・・」
 呟いて寝返りを打つ。
「あたしは・・・別に、そーいうのじゃないわよね?うん、ない。無いに決まってるわよね・・・あいつ、もうあの約束を忘れちゃってるぽいし」
 もう一度寝返りを打つと、目の前ににこやかな男の顔面が現れた。
「うひゃあっ!?」
 慌てて逆回転で顔から遠のいて友美は飛び起きた。
「な、な、何なのよ!?」
 地面に顔をこすりつけるようにして友美の顔をのぞき込んでいたその男は身を起こして指をぴっと立てた。片手には簡素な釣り竿を握っている。
「こんにちわ、行商人です」
「は?」
 思わずジト目になった友美に対し、行商人は相変わらずにこやかなままだ。
「山名春彦さんにはいつもお世話になってるんですよ・・・三上友美さん」
「春彦が?」
「はい。というよりも、この地域では唯一のお得意さんなんですねえ」
 快活に行商人は笑う。
「・・・まあ、いきなり出てきて行商人ですとか言うような奴から簡単に物を買うのは春彦くらいでしょうね」
「おや、これは手厳しい」
「まあ、春彦が信用したんなら危険性はなさそうね。よろしく」
 軽く頭を下げた友美に行商人は深々と返礼する。
「お近づきの印に何か買っていただけません?」
「それはお断り」
 財布の紐が堅い友美は即答した。行商人はちょっと寂しそうにうなだれる。
「ああ・・・今日の夕食も、魚だけですか」
 よろよろと大げさによろめきながら行商人は川へ近づきそこへ座り込んで釣り糸を垂れた。
「・・・あなた、自給自足してんの?」
 友美は行商人の横に腰掛けて尋ねてみた。
「まあ、実際問題として売れなければ金はありませんからねえ・・・」
「・・・まじめに働けばいいのに」
「性格的に、無理です」
 にっこりとそう答えられて友美は苦笑した。
「ま、そういうのもありよね」
 二人してしばし川面を眺める。
 静かな昼前だ。空を映し揺れる川面に陽光が眩しい。
「約束って、何のことです?」
 うつらうつらしかけた友美に行商人は尋ねた。
「・・・昔ね、ある人と約束したのよ。あたしがピンチの時はその人が必ず助けに来る。その人がピンチの時は、あたしがその人を守る。それがどんなに辛いことでも絶対に見捨てない・・・そういう約束」
 友美はぼんやりと水面を揺れる浮きを見つめる。いっこうに引く様子はない。
「素敵じゃないですか」
「そうね。でも・・・12年、いや13年だったっけ?そのくらい前のことだし・・・なんか最近は忘れられてるっぽいのよね」
 行商人は片方だけ眉をあげてちらりと友美を見た。川を眺める友美はそれに気付かない。
「・・・ちょうど良く記憶回復ドリンクなぞ持っているんですがどうです?一本」
「・・・いらないわよ。そんな怪しげな物」
 そうですかと頷いて行商人は釣り糸を軽く揺らした。相変わらず釣れる兆候はない。
「では、こういうのはいかがですかね?」
 釣り竿を固定して行商人は傍らのリュックを漁った。
「材料チョコとらぶりーな型のセット、今回は800円でのご奉仕です」
 友美はうっと呻いて行商人の差しだした型を見つめた。おもいっきり、ハート型である。はっきり言って、無茶苦茶ベタである。
「あ、あたしみたいな娘が、いきなりハート型のチョコ差し出したら・・・変っしょ?ほら、別に好きだとかそういうのじゃないんだし、感謝の気持ちにしては・・・」
 友美は苦笑しながらそう言って、言い切る前に口を閉じた。
「本当に、そう思っているんですか?」
 行商人は、相変わらずの軽い口調だった。だが、友美は何もかもを見透かされそうな気がして彼を見ることが出来ない。
「・・・好き」
 しばらくして、小さな声で友美は呟いた。
「いやあ、光栄ですけど年齢差が30近くありますから」
 ぽりぽりと頭を掻く行商人の目を、右手の人差し指と中指でさくっと突いてから友美は物憂げな視線を空に向けた。
「・・・さらっと無茶苦茶しでかしますねあなた」
 たっぷり3分間転げ回ってから行商人は目頭を押さえつつ立ち直った。
「ああ、ごめん。ついつい春彦用の対応しちゃった」
 相変わらず憂鬱そうに喋る友美に行商人は苦笑した。
「やはり良い機会だと思いますよ。チョコレート、渡してみてはいかがですか?」
「でも・・・」
「三上さん」
 行商人は不意に真顔になり友美を見つめた。
「伝えなければ、どんな思いも意味なんてありませんよ。相手のことやこれまでの関係が何だと言うんです?あなたが伝えたい気持ちがあるなら、それを伝えなさい」
 不意にその真顔がゆるむ。
「で、私は今日の夕食代をゲットできる。まーべらすじゃないですか」
「・・・少し感動しかけたのがまとめて吹っ飛んだわ」
 友美は呟いて溜息をついた。

 行商人藤田達也。本日の売り上げ・・・800円(税込み)


 友美はアパートのドアをそっと開けた。
 中の気配を伺い音を立てないように静かに中に入る。
「靴・・・無いわね」
 玄関を素早くチェックした友美は呟きながら靴を脱いだ。そのまま春彦の部屋、洗面所とトイレ、台所と人が居ないのを確認しながら自分たちの部屋をのぞき込む。
「居ないみたいね」
 ふうと息を吐いた瞬間、
「あら、友美ちゃんおかえりなさい」
「はわっ!」
 ベランダから靴を持った冬花が現れた。友美は慌ててチョコと型の入った紙袋を背中に隠す。
「と、冬花さん・・・居たんだ」
「はい。洗濯物を干していました」
「その靴は?」
「サンダルが壊れちゃって・・・買っておきますね」
 冬花は笑いながら友美の横を通り過ぎた。冬花の動きに合わせて友美は体の向きを変えて袋を隠す。
「・・・友美ちゃん?」
 不意に振り返った冬花に友美はびくっとして引きつった笑みを向けた。
「な、なに?」
「私買い出しに行って来ます。すいませんけど留守番をお願いできますか?」
「う、うん」
 がくがくと首を振る友美に微笑みかけると冬花は出ていった。
 後に残されたのは、ベランダで揺れる大量の洗濯物と友美とチョコレートだけだ。
「・・・よし」
 一つ頷いて友美はまな板と鍋を取りだした。
「仕事は迅速っ!」
 叫びながら友美はチョコレートを作り始めた。時間の都合を考慮しながらも在り合わせの材料で味や堅さを調節する。気まずくて渡さなくなってからも作るだけ作っていたのでその手つきは神業級に早い。
「・・・間に合うかしら」
 冬花に見られるのも恥ずかしいがそれ以上に春彦が帰ってくるとまずい。
「考えてみれば、自分の家で作れば良かったのよね」
 なし崩し的にこっちに住み着いてはいるが友美は友美でアパートを借りて一人暮らしをしていたのだ。その部屋は解約せずに今も時々掃除をしに帰っている。
 そんなことを考えていると、不意に玄関のドアが開く音がした。
「っ!?」
 びくっとした友美の耳に聞き慣れた声が届く。
「山名ぁ、三上ぃ。遊びに来たぞぉ」
「あ、浅野さんっ!?」
 友美は慌てて鍋を持った。
 だからといって、隠す場所があるわけでもない。
「よう。三上だけか・・・って何やってんだおまえ」
 鍋を持ったままくるくる回っていた友美に浅野は気味悪そうな視線を向けた。
「あー、えっと、違うんですよ?こ、これは・・・義理っ!義理です!超義理!」
「義理?・・・ああ、それ、チョコだったのか」
「あ」
 鍋の中のどろっとした物を見下ろして友美は呟いた。考えてみればこの状態では普通チョコレートには見えない。まあ、そこら中に転がっている材料を見れば見当はつくかもしれないが友美の知っている限り浅野はかなり料理に疎い。
「義理チョコねえ・・・たった一人にしかあげない手作りの義理チョコってのは、かなり不自然だと思うけどねえ?」
「べ、別にあたしの勝手です!」
「ま、そりゃそーだ」
 笑いながら浅野はソファーにどっかりと座った。
 友美は彼女を気にしながらも作業を再開する。
「・・・なあ三上」
 しばらくの間その背中を眺めていた浅野がゆっくりと口を開いた。
「なんですか?」
「好きなんだろ?」
 友美は鍋を落としそうになった。
「あははは、何言ってるんですか?あたしと春彦は幼なじみで・・・つきあいが長すぎるからそんな恋愛感情なんか湧きませんよ」
「へえ?山名になんてオレは言ってないんだけどな」
「うっ・・・」
 硬直している友美を見て浅野は肩を竦めた。
「実はオレ、山名が好きでな」
「う、嘘ッ!?」
 驚愕して振り返った友美の目にニヤニヤ笑いが映る。
「もちろん、嘘だ」
「・・・・・・」
 友美は憮然として再びチョコに向き直った。
「なあ三上」
「・・・なんです?」
 不機嫌そうな声に浅野の笑みが深くなる。
「自分でもわかんなくなってんのかもしんねえけどな、さっきの驚きっぷりを見た感じでは、ちゃんとあいつのことが好きなんだろうよ。不安がる必要ないんじゃねえか?」
 友美は答えない。
「ま、オレには関係ないんだけどな・・・」
 何となく二人とも無言になる。
「・・・浅野さん。あたし・・・」
 友美が呟いたときだった。
 がちゃ。
 言葉を遮るように玄関からドアの開く音が響いた。
「ただいま」
 1テンポ遅れて抑揚のない声が響く。
「お、帰ってきたみたいだな」
「嘘ッ!?まだ出来てないよ!」
 友美は絶望的な叫びをあげた。
「・・・貸し、一つだ。今度何か奢れよ?」
 それを聞いた浅野は苦笑しながら立ち上がる。
「浅野さん?」
「手を止めない」
 浅野は三上に言い置いて玄関に向かった。

「おい山名」
 靴紐を解こうとしゃがんでいた春彦は頭上からの声に顔を上げる。
「・・・浅野?来てたのか」
「ああ。さあ、勝負だ」
 春彦は眉をひそめた。
「何のことだ?」
「オレとおまえは所詮これ無しでは語る言葉のない人種だって事だ」
 言葉と共に目の前に突き出された拳を春彦は理解できないというような瞳で見つめる。
「疾っ!」
 その顔面めがけ浅野は抉るような拳撃を放った。
「・・・!」
 首をそらしてそれをかわした春彦は続いて放たれたボディーブローをさばききれず軽くよろめいてドアに背中をぶつけた。
「覇っ!」
 三撃目はミドルキックだった。春彦は後ろ手でドアノブを握り素早く開けたドアごと外に逃げた。
「おい浅野・・・」
 靴をひっかけて廊下に飛び出してきた浅野に何か言おうとして春彦は諦めた。
 気まぐれだか理由があってだかはわからなくとも、面白がっている浅野の行動を止めさせるのは至難の技だということはわかっている。
「・・・・・・」
 春彦は小さく息をつくと半身になって構えをとった。

 一方、友美は大急ぎで仕上げをしていた。デコレーションを芸術的な早さで済ませ完成したそれを冷蔵庫に突っ込む。
「えっと、ゴミ!ゴミ捨てなきゃ!」
 外からはなにやら低い打撃音が聞こえてくる。
 友美はテーブルの上に出ていた材料の残りを冷蔵庫に乱雑に突っ込みボウルや鍋をいい加減に洗い隅の方に隠した。
「・・・よし、ぬかりなし」
 最後にもう一度チェックしてから友美は急いで玄関から外に飛び出した。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 外の戦いは打撃戦から寝技に移っていたらしい。浅野と春彦は怪しげな体勢で絡み合ったままお互いの関節をきっちり極めてコンクリートに転がっていた。
「・・・・・・」
 壮絶な姿勢のまま自分を見上げる二人にかける言葉もなく友美は顔を引きつらせて沈黙する。
「今日は、引き分けにしといてやるよ」
「・・・ああ」
 しばらくしてから二人は呟いて技を解き立ち上がった。
「じゃあオレは帰る」
 浅野はシュタッと手を上げて踵を返した。
「・・・結局おまえは何をしに来たんだ?」
 呟く春彦を苦笑しながら見つめていた友美はふと眉をひそめた。
(そういえば・・・冷蔵庫の中にはチョコレートも材料チョコもなかったわね?冬花さんのチョコはどうしたのかしら)
「あ・・・」
 思わず呟いた友美は振り返った春彦になんでもないと手を振った。
(まさか・・・あたしに作らせるために・・・?)
 そうな気もするし、そうでない気もする。
「何だかよくはわからないが・・・ともかく中に入ろう」
 春彦に肩を叩かれて友美は我に返った。
「そ、そうね」
 言いながら友美は先に立って中に入った。
 だから。
 春彦が鼻をくんくんとさせてから少し考え込んだのは、見えなかった。


 夕食後。冬花が風呂に入っているのを見計らって友美は冷蔵庫に向かった。
 冷蔵庫のドアに手をかけてしばらく考え込む。
(いいのかな・・・本当に。そういうの抜きの関係の方がいいんじゃないの?あいつも・・・バレンタインデーなんて行事、忘れてるみたいだし)
 思考の袋小路に陥っている友美を眺めていた春彦はふと口を開いた。
「なあ友美」
「な、何?」
 慌てて振り返った友美に苦笑しながら春彦は壁のコルクボードめがけてダーツを投げた。
「今日大学に行ったらな・・・よく知らない連中がやってきてチョコを置いていったんだがな・・・」
「え?」
「まあ、気がついていなかったわけではない・・・ただ・・・あまり気を使わすのも何だと思ってな」
 ひゅんっと音を立ててダーツが空を切る。
「三上さんの居ないうちにっ!・・・だ、そうだ。まあそういうわけでそれなりに貰ってしまったのだが・・・そうなると、おまえから貰えないのは寂しくてな。あったらで構わないんだが、くれないか?」
 友美は目を二、三度しばたかせた。それから小さく微笑む。
「気がついてたの?」
「何を?」
「あたしがチョコ作ってたのを、よ」
 春彦はしばらく黙っていたが諦めて肩を竦めた。
「・・・おまえからチョコの香りがしたからな」
「・・・迂闊」
 友美は苦笑しながら冷蔵庫の中のチョコを取りだした。夕食を作る際にこっそりラッピングも済ませてある。
「まあ、そういうことならね。一応あげとこうかな。つきあい古いし」
 言いながら春彦の隣に歩いていきちょっと間を開けて隣に座る。
「・・・はい」
 しばらく躊躇してから友美は春彦の方を見ずにチョコを突き出した。
「ありがとう」
 春彦は笑いながらそれを受け取り違う箱をその手に乗せた。
「・・・何これ」
 友美は自分の手の中の小箱を見つめた。
 ピンク色の、小さな箱だ。可愛らしいリボンにメッセージカードが添えられている。
「・・・・・・」
 友美は無言でそのメッセージカードを抜き取り開いてみた。

『最愛のセンパイへ 愛を込めて ユースホステル部 坂下美紀』

 簡潔な、簡潔すぎるメッセージを眺めて友美は硬直した。
「おまえに渡すよう頼まれてな。実際の所、俺が貰った分よりもおまえに渡すよう頼まれたものの方が多い。相変わらずもてるな友美」
「女の子にもてたって嬉しくないわよっ!」


 夜半、疲れたらしい友美がさっさと寝た後に春彦はリビングで一人酒を飲んでいた。
「春彦さん」
 ふと声をかけられて振り向くと、パジャマ姿の冬花がそこに立っている。
「どうした?」
「友美ちゃんからチョコを受け取りましたか?」
「・・・ああ」
 頷いた春彦に冬花は微笑んで頷いた。
「ふふ、よかったですね」
 冬花は冷蔵庫に歩み寄った。
「そろそろ、固まってると思うんですけど・・・」
 呟きながらドアを開ける。
 冷蔵庫その物ではなく、その上についている冷凍庫をだ。
「?」
 首を傾げる春彦の隣に座って冬花は小さなグラスを差しだした。
「チョコレートアイスです」
「そうきたか」
 春彦は苦笑して添えられていた小さなスプーンでアイスを口に入れた。
「うまい」
 簡潔な賛辞に冬花は幸せそうに頷いて応える。
 春彦はしばらく無言で食べていたが、あることを思い出して冬花に問いかけた。
「なあ、友美にチョコ作るように進めたのはおまえだろ?何故だ?」
 冬花はちょっと困ったような、恥ずかしいような顔をした。
「だって・・・春彦さんにチョコレートを渡したかったんです。でも・・・抜け駆けするわけにはいかないと思って」
「抜け駆け・・・ね」
 春彦はもう一度苦笑を浮かべてから再びアイスを口に運び出した。
「・・・春彦さん?」
「なんだ」
 アイスを食べ終わりいい加減体が冷えてきた春彦を冬花は上目遣いに見つめた。
「じつは、新開発のチョコレート味のシロップがあるんですけど・・・」
「・・・けど?」
「食べてみません?チョコレートかき氷!おいしいですよ!・・・多分」
 春彦は天井を仰いだ。
「それは、また来年な・・・」