朝の光がカーテンの隙間から射し込んでいるその部屋で、山名春彦は例によって例のごとく夢の中にいた。
「・・・・・・」
 音を立てないように常に油が注してあるドアを静かに開けて入ってきた人物がそっと春彦の枕元に立つ。
 彼が相変わらず熟睡しているのを確認してからその人物はベッドに登り足側に立って彼に背を向けた。
 熟睡している春彦を背中越しにもう一度確認し、大きく息を吸い込む。
 そして・・・
「ムーンサルトォォォォッ!」
 人物・・・三上友美は高く跳び上がり後方に宙返りし、そのまま勢いよく春彦の体をプレスした!
「がっ・・・!」
 強烈な衝撃に春彦は低く呻いて痙攣した。頭の中で空想レフリーが口早に10カウントを刻み高く拳を突き上げた友美に祝福のテープが何本も何本も・・・
「おーい、春彦ぉ。朝だよ〜」
 声をかけられてようやく春彦は我に返った。首をぎしぎしと動かすと自分の腹の辺りに馬乗りになった友美がこっちを見ている。
「・・・今日のは、何だか、凄くなかったか?」
「そぉ?」
 笑顔で首を傾げる友美であった。

  

着替えと洗顔を済ました春彦は食卓に着き箸を持った。
「はい、どーぞ」
 友美が差しだした味噌汁を受け取り一口すする。
「うむ」
 満足げに頷く春彦を顔をほころばせて見守った友美は続いてご飯を渡して立ち上がった。
「冬花さん起こしてくるね」
 春彦は頷きながらキュウリの漬け物を口に放り込みご飯をかき込む。
 料理は火力をモットーとし中華料理が得意分野な友美だが和・洋・仏・伊と殆どの料理をこなしてみせる。本来朝は和食でないと落ち着かない春彦にとって、彼女の才能はとてつもなくありがたい物だった。
 焼き魚をほぐしながら春彦はふと横を見た。冬花を起こしに行った友美が戻って来ないのだ。
「・・・?」
 首を傾げながら醤油をかけ焼き魚を口に運んだ瞬間、友美と冬花の部屋から勢いよく友美が飛び出してきた。
「は、春彦!なんか冬花さんが苦しそうなんだけど!」
 春彦は2秒で焼き魚を全て口に叩き込み味噌汁でそれを流し込んだ。続いて3秒かけてご飯を口に詰め込み同じく味噌汁で流し込む。
「・・・残さず食べようっていう意志は嬉しいんだけど、そのスピードは気持ち悪いからやめて欲しいなあ」
「気にするな」
 春彦は最後に漬け物を口の中に放り込んで立ち上がり友美と一緒に彼女たちが暮らしている部屋に移動した。
 元々客間だった畳敷きのその部屋は、二人がそこで暮らすようになっても大した物は置いてない。
 着の身着のまま身体一つで転がり込んできた冬花は物欲に欠けているため春彦が渡している小遣いを殆ど貯金しているし友美はいくつかのトレーニング器具と着替えしか持ってきていないのだ。
 ちなみに、冬花の服はほぼ同身長の友美と共用である。
「冬花・・・どうした?」
 春彦は二つ並んだ布団の片方で眠っている冬花の横にあぐらをかき額に手をあててみる。
「・・・ぬるいな」
 呟いてから言い直す。
「熱があるようだ。冬花の常温は極めて低いからな」
 続いて首筋に指を当て脈をはかり唇に触れて呼吸の調子を確かめる。
「・・・・・・」
「どうなの?春彦」
 不安げにのぞき込む友美を春彦はじっと見つめた。目を閉じ、少し俯きゆっくりと首を左右に振る。
「ガンだ」
「嘘っ!?」
 全身の力が抜けてその場に崩れ落ちた友美に間髪入れずにもう一言伝える。
「嘘だ」
 友美はえぐるような掌底で春彦の頭を殴り倒した。
「痛いぞ」
「悪質な冗談に死をっ!」
「うむ」
 何が『うむ』なのか春彦は大きく頷く。
「おそらくはただの風邪だろう。そう酷い物でもなさそうだがほっといて良い物でもない。悪いが洗面器に水と氷、後タオルを頼む。タオルは二枚、片方は濡らしてから固く絞ってくれ」
「了解」
 てきぱきと下される指示にしたがって友美は部屋を出ていった。
「・・・しかし、この体温は・・・」
 だから、春彦の呟きは誰にも聞かれずに宙に融けた。


「んん・・・あら?」
 体中の汗を(無論友美が)拭き、額に冷やしたタオルを置いてからしばらくして冬花はゆっくりと目を開けた。
「目が覚めたか」
 身じろぎしたので額から落ちたタオルを拾って春彦は用意した洗面器に漬ける。
「冬花さん、身体はどう?苦しくない?」
 友美が不安そうに冬花の顔をのぞき込むと、冬花はきょとんとした顔で友美を見つめる。
「私・・・どうしたんでしょう?」
「発熱、呼吸器官系異常、脈拍に乱れ・・・軽い風邪とみていいだろうな」
「風邪・・・ですか?」
 冬花は呟きながら身を起こした。
「あ、冬花さん。まだ寝てなくちゃ」
 友美は慌てて冬花の身体を布団に押しつける。
「・・・白昼堂々押し倒すとは豪快だな。友美」
「違うっ!」
 叫ぶ友美の下で冬花は赤らんだ頬にてをあてた。
「あらあら・・・どうしましょう」
「冬花さんも本気にしないっ!」
 潤んだ瞳で見上げられた友美が真っ赤になって後ずさる。
「それはともかく、確かに今は起きあがるべき時ではないだろう」
 春彦は言いながら絞ったタオルを冬花の額に乗せた。
「気持ちいい・・・」
 冷たい感触に冬花は甘くかすれた声で呟く。
「しかしどうしたものか・・・」
「どういうこと?」
 腕組みした春彦にようやく落ち着いた友美が問いかける。
「多分ただの風邪なんだが、所詮は素人の見立てだ。念のため医者に見せたいところだが・・・保険書がないとな。見て貰えない可能性が高いしどうしたって怪しまれる」
「そっか・・・でも大丈夫じゃない?冬花さん思ったよりも元気そうだし」
「ええ。ちょっと頭がぼぅっとしますけど・・・これといって痛いとこはありません」
 友美の言葉に冬花はにっこり笑ってこたえた。
 いつもより若干赤みの差しているその顔を見て春彦も軽く頷く。
「そうだな、取り敢えず栄養のある物を食べてゆっくり休む。ありきたりだがそれが一番だろう」
「じゃ、あたし買い物に行ってくる。冬花さん、何食べたい?」
「もちろん、か・・・」
「かき氷は不許可だ」
 素早く遮られて冬花は口を何度かぱくぱくさせた。
「か・・・かんとっちょを」
 カントッチョとは、ワインやコーヒーと一緒に食べるビスケットのような食べ物である。サOゼリア等で見ることが出来る。
「さすがにそれは売ってないと思うけど・・・なんか甘い物は買ってくるね」
 元気良く友美は立ち上がった。
「薬は買ってこなくていいの?」
「ああ。しばらくは様子を見よう」
「了解!」
 コートを羽織って友美は出ていった。残された春彦は冬花の額からタオルを取り洗面器の氷水で冷やし直してから絞る。
「・・・すいません」
 冬花は春彦をぼんやりと見ながら呟いた。
「何がだ?」
 春彦は答えてタオルを冬花の額に戻す。ひんやりとした感触に冬花は目を細めた。
「ご迷惑をおかけしてしまって・・・ごめんなさい」
 春彦は答えずに窓の外を眺めた。冬特有の高く澄んだ空は雲一つなく、今日も暖かい日差しを届けてくれる。
「俺にとっては迷惑ではない。困るのは冬花だからな」
「私ですか?」
 春彦は大きく頷いた。
「そうだ。寝ている間は当然働いていないのだから給料は入らない。それに対して食事、家賃等の普段は労働と相殺されている諸経費がどんどん負債としてたまっていく。こうやって喋っている間にも冬花の借金がどんどん溜まっているわけだ。ちなみに、忘れているかもしれないが初日の宿泊費2500円もまだ貰っていない」
 きょとんとしている冬花の頭を春彦は微笑みながら撫でた。
「だから・・・早く元気になれ」
 冬花は静かに目を閉じた。春彦の手を少しでもたくさん感じるために。
「・・・そんなに借金が溜まってたら、ちょっとやそっと働いただけでは、ダメですよね?」
「・・・全額返済するまでは・・・ずっと、ここに居て貰うぞ」
「はい」
 冬花は目を開けた。静かに自分を見つめる春彦に微笑み返す。
「春彦さん、初めて笑ってくれましたね」
「・・・そうか?」
「そうですよ」
「・・・そうか」
 

 ピンポン・・・
 不意に聞こえたチャイムにぼーっとしていた春彦は顔を上げた。
「・・・客か?」
 同じくぼーっとしていた冬花は寝たままで首を傾げて落ちそうになったタオルを手で押さえる。
「珍しいですね。セールスでしょうか?」
「多分な」
 春彦は立ち上がり玄関に行ってみた。ドアの覗き穴から外を見てみると・・・
「・・・あんたか」
 大きなリュックを背負ってにこやかに笑う中年が立っていた。
「いやあ、どうもどうも。商売のにおいがしたんでやってきましたよ」
 ドアを開けると男・・・自称行商人の藤田は愛想良く片手をあげて挨拶をした。
「いいタイミングだ行商人。何かいい薬はないか?」
 言った途端、行商人の目がキラリと輝いた。
「お任せ下さい!Sですか!?それともLODですか?キノコも各種取りそろえております!もちろんスタンダードなヘOインやコカOンも・・・!」
「だからそのネタはよせ」
 春彦は行商人の眉間にスパンッと縦チョップを入れてから眉をひそめた。
「いや、まてよ・・・もしかして本当にバイヤーなのか?流れの行商人なぞというワケのわからん名乗りよりはまっとうに思えるが」
「いえ、ただの冗談です」
 あっさりと言い放った行商人にもう一度縦チョップを打ち込む。
「いたたたた・・・すいませんねえ。ちゃんとした薬は取り締まりが厳しいもんで。あるのは栄養ドリンクとか朝鮮人参とか・・・何の薬が必要なんです?」
「風邪だ」
「はあ。それなら栄養をとって寝るのが一番ですね。ドリンクでも買いますか?」
 春彦は少し考えたが結局首を振った。
「いや。多分必要ないだろう」
「そうですか・・・ああ、そうそう。産地直送の良いリンゴがありますよ?これはいかがです?風邪といえばリンゴですよね?」
「ほう・・・」
 春彦は片方だけ眉をあげた。
「いやに用意が良いな。まるで、冬花が病気なのがわかっていたような用意の良さだな」
 行商人はにっこりと微笑む。
「それは、企業秘密です」
「・・・まあ、いい。いくらだ?」
「毎度ありがとうございます。550円でどうです?」
 リュックの中からリンゴが三つ入ったビニール袋を取り出す。
「買おう」
 春彦は自分の部屋から財布を持ってきて硬貨を行商人に渡しその代わりに意外と重い袋を受け取る。
「では、私はこれで。冬花さんにお大事にとお伝え下さい」
 行商人は一礼してさっさと帰ってしまった。
「喰えない男だ・・・」
 春彦は呟いてドアを閉めた。
 袋の中のリンゴを眺める。みずみずしいそれは確かに新鮮なおいしさを感じさせる。
「・・・・・・」
 春彦は冬花の部屋に戻る前にキッチンに立ち寄った。
 食器棚の引き出しからおろし金と果物ナイフを取り出す。
 さっと水洗いしたリンゴの皮を頭から尻まで繋げたままで剥き、切り分けて芯を取り出してからすり下ろす。
 ガラス製のお椀にそれを移し少量の蜂蜜で味付けしてから、スプーンを添えたそれを持って春彦は冬花の待つ部屋に戻った。
「遅くなったな」
 声をかけると冬花は身を起こしてにっこりと微笑んだ。
「どなたでした・・・あら?」
 目を丸くする冬花に春彦はガラスの椀を押しつけるように手渡す。
「・・・すり下ろしたリンゴだ。消化が良い」
 冬花はしばらくの間春彦の顔とリンゴを見比べていたがゆっくりとスプーンを手に取りすり下ろされた柔らかいリンゴを口に入れた。
「おいしいです・・・」
 幸せそうに呟かれたセリフが照れくさかったのか春彦は窓の外の空に視線を移した。
「・・・俺が小さい頃、風邪を引くと母さんがこれを作ってくれてな。小さかった俺は・・・これが食いたいくて仮病を使って怒られたりもした」
 呟いてるような聞かせてるような言葉を聞きながら冬花は甘酸っぱいリンゴを食べ続けた。
「いいですね、そういうの」
 しばらくして、リンゴを食べ終わった冬花はお椀を横に置いて呟いた。
「そういうの、とは?」
「子供の頃の・・・思い出です。きっと可愛かったんでしょうね。春彦さん」
「どちらかというと憎たらしい子供だったと思うが・・・」
「そんなことありませんよ。今の春彦さんを見ればわかりますよ・・・思い出は、その人を形作る本質なんですから」
 春彦は冬花を見つめた。冬花は自分の膝を見つめて春彦を見ない。
「私、何で記憶がないんでしょうか・・・」
 長い沈黙の後に吐き出されたかすれるような小さな声。
 春彦は冬花のすぐ横に座り直してそのちいさな頭の上にぽんっと手を乗せた。
「大丈夫だ」
 根拠なんて無かった。だが、その言葉は意識するよりも早く口から飛び出ていた。
「大丈夫、きっと記憶は戻る。・・・俺が、保証する」
 冬花はちょっとびっくりしたように春彦を見、それからふわっと微笑んだ。
「もっと・・・してくれますか?子供の頃の話・・・」


 30分もたっただろうか。
「・・・俺らしくないな」
 眠ってしまった冬花を見守っていた春彦はタオルを絞りながら呟いた。
 苦笑しながらタオルを冬花の額に乗せる。相変わらず熱は引いてないようだが呼吸はずいぶんと楽になったようだ。穏やかで無防備な寝顔がそこにある。
「ただいまーっ!」
 玄関から元気のいい叫び声が響いた。思わず冬花の顔を見るが瞼は閉じられたままで少し安心する。
 春彦は立ち上がり部屋を出た。
「今、冬花は眠っている。静かにしてやってくれ」
「あ、ごめん」
 荷物を抱えて帰ってきた友美は舌を出して首を竦めた。
「・・・というか、何だその量は。一体何人の病人を養うつもりだ?」
「冬花さん一人に決まってるじゃない。見てなさいよー?最強の療養食を作ってみせるから!いい?健康は食事から作り出す物なのよっ!」
 拳をぐっと握る友美に春彦は冷たい視線を送る。
「・・・医食同源は理解しているがな。さっきリンゴを丸ごと一つ食べたから、昼は粥でいい。あまりヘビーなもんを食わせるな」
「はーい・・・ま、お粥ってのも風邪の時の基本よね」
 友美は肩を竦めて用意を始めた。
「手伝おう」
 春彦も呟いて土鍋を取りだす。
 普段は料理の上手い友美にまかせっきりの彼だが、一人暮らし歴が長いために本人も十分以上に腕はいい。料理上手二人のタッグはてきぱきと調理を進める。
「・・・それにしても久しぶりよね。こういうの」
 しばらくして、友美が呟いた。
「こういうの?」
 片手で卵を割りながら春彦は問い返す。
「ほら、昔はよく二人で料理したじゃない」
 友美はそういってクスリと笑みをもらす。
「覚えてるかな。小学生の頃にさ、ママが風邪ひいて寝込んじゃって・・・二人でこんな風にお粥作ったよね」
 春彦は苦笑を浮かべた。
「あれは、ひどかった」
「何か黒かったもんねあれ。ママはおいしいって言ってくれたけど顔がこわばってたし」
「・・・まあ、今ならもっとましなものが作れるだろう。昔とは違う」
 少し区切ってから春彦はぽつりと付け加えてみた。
「色々と、な」
 それからしばらくの間はまな板と鍋の音だけが二人を包む。
「そうだね」
 しばらくして、土鍋に蓋をしながら友美は天井を仰いだ。
「一緒に何かするのも久しぶりだもんね」
「・・・ああ」
 する事の無くなった春彦は手を洗いながら頷いた。友美は笑顔を・・・彼女らしい活力に満ちた笑顔で彼に視線を向ける。
「でも、楽しいよ。春彦と一緒だと効率もいい気がする。そう思わない?相棒殿」
 春彦はちょっと考えてからにやりと笑ってそれに答えた。
「まあ、たまにだとそう思うかもしれんな」
 言いながら手を拭い冬花の部屋に向かって歩き出す。
「俺は冬花の様子を見てくる。鍋は頼むぞ・・・相棒」
 友美は親指をぐっ!とたててそれに答えた。

「ん?」
 春彦は不意に足を止めた。
 洗面台とトイレと風呂場。それぞれ独立した部屋になってはいるが部屋全体のレイアウトから一カ所にまとめられているそこから、なにやら水音が聞こえたのだ。
 ちょろちょろと聞こえる音は明らかに水が流れる音であり、それは風呂場から聞こえてくる。
「・・・冬花?」
 春彦は眉をひそめた。磨りガラスで出来ているドア越しに伺える風呂に電気はついていない。だが水音は間違いなくそこから聞こえてくる。
 水道が閉まってないのか?
 春彦はそう思いながら風呂場のドアに手をかけた。
「開けるぞ。ダメならば三秒以内に言え。1、2、3」
 言いながらドアをさっと開ける。いくら何でも寝込んでいる人間が風呂に入っている筈もない。一応声をかけたのは冬花の突拍子もない行動を考慮したからだ。
 そして。
「!」
 冬花は、暗い風呂場で浴槽に浸かり俯いていた。
「冬花・・・何をしている?」
 声に微量の呆然を含ませて呟いた春彦はすっと眉をひそめた。
「おまえ・・・本当に冬花か?」
 思わずそう言ってから自分の科白に戸惑う。目の前に居るのは間違いなく冬花だ。それにも関わらず、何かが・・・違和感が、ぬぐい去れないのだ。
「・・・・・・」
 冬花は、ゆっくりと顔を上げた。
 瞳が、紅い瞳が春彦を見つめる。
「おまえ・・・」
 その瞳は、鋭く覇気に満ちた視線を春彦に送る。初めて会ったあの日のように。
「冬花ッ!」
 春彦はこみ上げた不安に背を押され一歩踏み出した。
「つっ!」
 次の瞬間、冷たい風が春彦に向かい吹き付ける。いつかと同じ展開に、しかし今度は春彦は目を閉じなかった。
「・・・・・・」
 春彦は風呂場に立ちつくす。視線の先に冬花は居ない。彼女は、春彦の目の前で空気に染み込むようにして・・・
「消えた」
 無表情に呟いてからふと気付いて春彦は冬花の浸かっていた浴槽に手を伸ばす。
「水か・・・」
 春彦は踵を返した。
 そのまま足早に冬花の寝ている部屋へと向かう。
「あれ?春彦?」
 思わぬ所から出てきた春彦に面食らう友美を無視して春彦は部屋に入った。
 冬花は、そこに居た。
 何事もなかったかのように寝ているその顔は、心なしか回復したようにすら見える。
「春彦?どーしたの?」 
 お粥の乗ったトレーを持った友美を振り返り、春彦は少し迷った。
「・・・いや、何でもない。そろそろ起こすとしよう」
 そして、結局彼は何も言わなかった。


 あけて翌日。
「おはようございますっ!」
 すっかり回復した冬花は元気に挨拶した。
「・・・まさか、こうなるとは思わなかった」
 ベッドに沈んだまま春彦は呟く。
「・・・何か、ベタな展開よね」
 友美と冬花の部屋では額に乗せられた濡れタオルを押さえて友美が呟いている。
「さあ、この冬花特製かき氷(病気対策バージョン)を食べて一気に風邪なんか吹き飛ばしましょう!」
 一人元気な冬花を見ながら。
 春彦は病気がよけい悪化したような錯覚を押さえられなかった。