かのナポレオンは、一日に3時間しか寝なかったと言われている。
だが、今日も今日とて寝惚けている大学生、山名春彦によれば、それは誇張された嘘だということになる。
ナポレオンは単にどこでも寝れる男で、行軍中の馬上やちょっとした休憩の機会を逃さずこまめに睡眠をとっていただけであり一日の睡眠時間の合計は大して短くなかったはずなのだ。要するに現代の芸能人と同じ事で、一種の特殊能力だ。
そういう特技を持っていない自分がきっちりと眠ることは、健康のためには仕方のないことだと春彦は言う。
だが、それに対する三上友美の返答は簡潔である。
「きっちりどころかほっといたらいつまでだって寝てるじゃない」
そういうわけで、友美は今日も春彦が眠る部屋へと潜入した。
「・・・・・・」
ベッドで眠る春彦に不敵な笑みを投げかけて友美は深呼吸、そして右手に握った物を・・・野球の硬球を握りしめ、高々と足を突き上げるワインドアップで振りかぶる。
「その時松坂はスピードをっ!」
さすがに本家ほどの威力はないものの時速にして130キロを計測する硬球が唸りをあげて春彦の側頭部を直撃した。
「ぐっ・・・!」
痛みと言うよりも純粋な衝撃の塊と言っていい打撃に春彦は再び闇の中へ沈み(あるいは違うところに旅立ち)そうな意識を必死でつなぎ止めて起きあがった。
「友美・・・何度も言うようだが武器はよせ」
「ボールは友達よん。武器じゃないもん」
にぱっと笑う友美を見ながら春彦は溜息をついて立ち上がった。
「なあ友美」
春彦は食卓の上をゆっくりと見回して呟いた。
「えっと、な、なに?」
空腹中枢を鋭く刺激するほかほかご飯と小皿が三枚。それと白い粉の入った小さな瓶が置いてある。
逆に言うと、それ以外何もない。
「この状況は・・・いったい何を表現しようとしているのだ?」
「あは、あははははははは・・・」
友美は乾いた笑いを浮かべて答えなかった。
「ん〜」
春彦の隣にちょこんと座った冬花が瓶から一振り白い物をだして舌の先で嘗めてみる。
「塩ですね」
「・・・ああ、塩だ」
春彦も真似して嘗めてみて頷く。
「あっ!」
不意に冬花は声をあげた。
「日本酒の通は純粋にお酒を楽しむためにお塩をおつまみにして飲むと聞きます!日本酒もご飯も同じお米から作られた物ですし、これは友美ちゃんのご飯を味わって食べようというメッセージなのでは!?」
「ふぇ?」
友美は一瞬きょとんとした。
「そ、そうなのよ!うん、それ!」
「嘘をつくな」
急に元気に叫びだした友美に春彦は縦チョップでつっこみを入れる。
「あぅ」
額を押さえた友美に春彦はゆっくりと声をかけた。
「友美・・・たしかおまえ、昨日は買い出しにいってないな?」
友美は片手で額を押さえたままばつが悪そうに頭を掻く。
「だって・・・春彦がいじめるんだもん」
「・・・それは、昨日のゲームのことを言っているのか?自分が勝つまで延々と続けたのはおまえだろうが。どっちがいじめだ」
友美はぐっと拳を突き出した。
「三上友美に敗北と後退の文字無し!」
「負けてる負けてる・・・それも216連敗」
春彦は目を細めて呟く。
「で、でも・・・217戦目は勝ったし!」
「さすがに集中力が切れたからな。第一、三O家とロOとポOルを封じられた俺に何をどうしろというんだ」
友美はにっこりと微笑んだ。
「そこはそれ、あれよ。根性」
春彦は苦笑してずれた話題を元に戻した。
「ともかく、昨日買い出しにいかなかったんで冷蔵庫が空になったんだろ?」
「あー、えっと、その・・・うん」
友美はちょっと俯き上目遣いに春彦を見つめる。
「あのさ・・・ごめんね?」
「いや、別に謝るようなことではない」
春彦はガード不能攻撃(上目遣い)を喰らって思わず即答してしまった。
「大丈夫ですよ友美ちゃん。これはこれで味わい深いです」
会話に参加せずのほほんと塩をかけた白米を食べていた冬花がにこにこするのを見て春彦は苦笑して肩を竦めた。
「まあ、これは茶漬けにでもして・・・せっかくの日曜だ。みんなで買い出しにでもいくか・・・」
「考えてみれば、こうやって三人で買い物に来た事って殆どありませんね」
銀行に寄った春彦を駅前の広場で待ちながら冬花は友美に話しかけた。
「んー、そうね。と、いうか・・・あたし達って食べ物以外殆ど買い物してないわね」
「私のシロップの材料、友美ちゃんの雑誌類、春彦さんのお酒くらいですね」
「春彦は古い映画のビデオもよく買ってくるわよ」
「友美もラブロマンス系を大量に借りてきてるよな。TUTAYAで」
「うわっ!」
いきなり真後ろに立っていた春彦の声に友美は転びそうになった。
「あら春彦さん。おかえりなさいませ」
「うむ」
「春彦ッ!浅野さんみたいな登場の仕方しないでよ!」
「気にするな」
「するわよっ!」
春彦は軽く肩を竦めた。
「金はおろしてきた。行こうか」
「はい、春彦さん」
さっさと歩き出した春彦を追ってニコニコした冬花とちょっと不満顔の友美が続く。
「・・・そういえば」
一通り買い物を済ました頃にふと友美が呟いた。
「今になって気付いたけどあたしって食費も光熱費も払ってないわね」
「かまわん。金はあるからな」
冬花は首を傾げた。
「春彦さん、お金持ちなんですか?」
「いや・・・」
春彦は立ち止まって苦笑を冬花に向ける。
「高校の時に医者だった両親が死んでな。遺産のことで色々もめたんで相続を放棄する代わりに大学を出るまで俺の言うとおりの仕送りを続けるよう親族連中と約束した」
言うだけ言って歩き出した春彦をちょっと顔を曇らせた二人が見送る。
「・・・私、悪いことを聞いてしまいましたか?」
「多分大丈夫でしょ。あいつ・・・強いから」
それからしばらくの間三人は無言で歩いていたが、
「あ!あれ見てよ春彦!」
気まずくなった雰囲気を吹き飛ばそうと友美が必要以上にはりあげた声に足を止めた。
「ほらほら、福引やってるわよ福引!」
「あ、ほんとです」
商店街の名前入りテントの下にがらがらと回す福引箱、ハッピを着たおっさん。手振り式ベルが景気よく鳴り響くそれはまごうことなき福引きであった。
「・・・ああ、そういえば商店街の何周年かの記念らしいな」
春彦は呟いて張ってあった商品一覧を見る。
「一等、温泉旅行ペアチケット。二等は・・・ほぅ、ビリヤード台か」
「ほしいんですか?」
「うむ」
「どこに置くのよどこに・・・」
苦笑する友美をよそに春彦は財布の中に放り込んであった福引き券を数え出す。
「よし、ちょうど3回出来る。一人1回だ」
「ああ、山名さん。ひくのかい?」
春彦は大きく頷いて券をハッピの男に渡した。確か本屋の店主だ
「・・・いくぞ」
春彦は呟いて八角形の福引き箱の取っ手を握った
「春彦さん、ふぁいとですっ!」
やたら嬉しそうに応援する冬花に対して友美は苦笑を崩さない。
「んー、どうかしらねえ」
春彦は無言でハンドルを回し・・・
がらがらがら・・・こつん。
静かな音を立てて赤い玉が受け皿に転がり落ちた。
「はい、5等のティッシュね。残念だったな」
「通算、138連敗か・・・」
春彦はティッシュを固く握りしめて天を仰いだ。
「春彦はね、冬花さん・・・天下無双、空前絶後のくじ運の悪さを誇っているのよ」
「・・・別に誇ってはいない」
珍しくすねたような表情を見せる春彦を押しのけて友美は福引箱のハンドルを握った。
「大体ね、あんたはテンションが低いのよ。こういうものは気合いが大事なんだから」
「お客さん・・・変わりませんって」
静かに息を吐き目を閉じて精神を集中する友美にハッピ男が声をかけるが半ばトランス状態にある友美はそれを完全に無視した。
「薩摩示現流の極意は一撃必殺・・・」
静かに呟いてから友美はカッと目を見開く。その瞳の中に、福引き係の男は激しく燃えさかる炎を見た。
ような気がした。
「チェストォォォォォッ!!」
裂帛の気合いと共に回転した福引箱は勢いよく金色の玉を吐き出す!
「い・・・一等、温泉旅行ペア券・・・大当たりぃー!!!」
福引係の男は少し呆然としてから慌てて手にしたベルを振り回しながら叫んだ。
「・・・まさか本当に当てるとは」
「言ったっしょ?気合いが大事なんだって」
春彦は肩を竦めた。
「それ以前に、本当に一等が入ってるとは思わなかった」
「そんなことはありませんよ山名さん!ちゃんとこの中には一等が二つ・・・!」
男が指し示した抽選ガラガラのハンドルをいつのまにやら冬花が握っている。
「えい」
体中の力が吸い出されるような声と共に冬花の手が一回転した。
ぽて。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
そして、無言で注がれる視線の渦の中心で・・・金色の玉がゆっくりと転がる。
「あらあら・・・当たっちゃいました」
冬花がのんびりと呟くが誰も応えない。
しばらくしてゆっくりと抽選をしようと待っていた人々が去っていく。一等のない抽選など、こんなもんだろう。
「なあ友美」
「・・・なに?」
「気合いは?」
友美は無言で春彦をぶん殴った。
「ペアチケットが二つ。最大4人まで参加可能だ」
家に帰ってきた春彦は食卓に4枚のチケットを並べた。
「ま、何にしろこれで全員行けるってワケね」
弾んだ声で友美がそれに答える。頭の中身は一足早く旅立っているのかもしれない。
「そうだな。せっかく修羅場が見れると思ったのに残念残念」
浅野がニヤニヤ笑いながら肩を竦める。
「全く浅野さんは毎回毎回飽きずにそういう事を・・・って浅野さん!?いつの間に現れたんですか!?」
「ん?おまえらが大騒ぎしながら帰ってくるときからだ」
「・・・浅野さんって電車通学ですよね?なんで日曜日に大学前商店街にいたんですか?」
ジト目の友美に浅野はぱたぱたと手を振った。
「偶然だよ、偶然」
簡潔な言葉に納得いかない顔で首を傾げていた友美だったが、ワンテンポ置いてから青ざめた顔で後ずさった。
「ま、まさか・・・浅野さんってストーカーだったんですか!?」
「浅野、ストーカーだったのか?」
「景子さんストーカーだったんですか?」
「ちがうっ!」
三連撃に対し流石に慌てて浅野も叫び返す。
「でも・・・気付けばいつもいつもあたしの後ろつけてきてるし」
「レズでストーカーか。流石だな」
何が流石なのだろうか。
「だから!偶然だって言ってんだろうが!今日はたまたま用事があってタカんとこ行ってたんだよ!」
「レズでストーカーでフタマタか。まさにチャンピオンだ。よかったな」
浅野は頬をぴくつかせながら懐のホルスターから抜いた拳銃を春彦に突きつけた。
「・・・まあ、それはおいといて」
春彦は両手をあげて頷いた。
「おまえに用があったんだよ浅野。ちょうどよかった」
「・・・なんだよ」
不機嫌そうな顔のまま浅野はホルスターに銃をしまった。
「出発は来週の金曜、夜の8時出発だ。ここから新宿まで1時間ちょっとだから余裕を見て6時半までにはうちに来い」
「は?」
眉をひそめる浅野をよそに春彦は他の二人に視線を向ける。
「おまえ達もそれまでには用意を済ませておけよ」
「はい」
「おっけ」
にっこりと頷く冬花と親指をぐっと突き出す友美を浅野は眉をひそめたまま見つめる。
「何の話だ?」
「だから、温泉ですよー」
冬花に微笑みながら言われて浅野はなおさら混乱した。
「温泉?」
「あれ?浅野さん用事でもあるんですか?」
「え・・・?」
浅野はぽかんとした顔で春彦に視線を移した。
「だから、おまえも来いよ。チケットは4人分ある。それに・・・友美が前、借りを作ったらしいしな」
「ば、馬鹿っ何言ってんだよおまえ・・・オレが行っていいわけないだろうが!おまえら三人に割り込むような真似・・・」
「割り込むってなんだ?」
首を傾げる春彦を眺めて深く深く浅野は溜息をついた。
「・・・苦労するな、友美」
「・・・慣れました」
一週間後
新宿駅西口のバスターミナルに止まった一台のバスに春彦達は乗り込んだ。
「こーいうの初めてなんです・・・ドキドキしますね」
窓側の席に座った冬花は目を輝かせて歓声を上げている。
「そーいやあたしも久しぶりだわ。最近は新幹線が多かったし」
その隣で友美が大きく頷いてみせる。
「どーでもいいが浅野はどこへ行った?」
通路を隔てて逆側に座った春彦の問いに友美が首を傾げた。
「うーんと、何かコンビニ行くって言ってたわよ?そろそろ帰って来るんじゃない?」
「ふむ」
言っているうちに当の浅野がタラップを登り乗り込んできた。
「ほい、ビールだ山名」
「サンクス」
浅野は春彦にビールの500ミリリットル缶を投げ渡して勢いよく座席に座った。そのまま前の席に着いている棚を引き出し提げていたコンビニの袋から各種おつまみを取りだしていく。
「・・・柿ピーは?」
「安心しろよ。ちゃんと大袋で買ってある」
「うむ」
満足げに頷く春彦に苦笑して浅野は自分の分のビールを出してプルトップを開けた。
「あれ?浅野さん・・・あたしの分は?」
「私の分もないみたいですね」
友美と冬花が指をくわえて呟く。
「っていうか、おまえら飲めたの?」
「子供じゃないんだからビールくらい飲めますよ」
意外そうな顔な浅野に友美は口をとんがらせた。
「わりいわりい、次からは買ってくるよ。ま、今回はこれで我慢してくれ」
言いながら浅野はぽんっと缶を投げた。
「おっと」
友美は連続して投げられた二本の缶を慌てて受け止めた。
「・・・味噌汁?」
「こっちは”めっこーる”って書いてありますね」
浅野は豪快にビールをあおってからぐっと親指を突き出した。
「珍しいだろ?思わず買っちまったよ」
「うむ。珍品だな」
同じくビールをかっくらっていた春彦が重々しく頷く。
「ううう・・・」
友美は泣きそうな顔で冬花を見つめた。
「友美ちゃん、私味噌汁がいいんですけど友美ちゃんはどっちがいいんですか?」
「・・・”めっこーる”でいい」
その後、友美は20回ほど悶絶しながら”めっこーる”を飲み干す事に成功した。
「春彦さん!もう起きた方がいいですよー!」
朝日より尚朗らかな冬花の声で春彦は目を覚ました。
夜行バスに揺られてもう何時間走っただろうか。長野県の山は暖冬にもめげず白い頂で朝日を反射していた。
「うう・・・」
呻きながら身を起こして春彦はぐっとのびをする。
「おはよ春彦。さすがに座ったままじゃいつもみたいな安眠は出来ないみたいね」
「・・・今何時だ?」
目頭を押さえながら問うと、答えは反対側から返ってきた。
「今9時半だ。もうすぐ到着だな」
「浅野?・・・ああ、旅行中だったな」
頭を振って眠気を振り払っている間にバスはゆっくりと停車した。
「ついたみたいね。おりてチェックインしたらすぐに滑りに行くわよ。近くにスキー場があるのはチェック済みよっ!」
「・・・元気だなおまえ」
「春彦がおっさんくさいんじゃない?」
春彦は少し傷ついた。
「い、いきますよーっ!」
冬花は一声叫んでゆっくりと滑り出した。スノーボードに両足を乗せ緩い斜面をおっかなびっくり進む。
旅館から歩いて十分ほどの距離にあるスキー場。その初心者用ゲレンデで春彦達は4人の中で唯一スキーもスノーボードもやったことのない冬花に滑り方を教えていた。
「よし。慌てずにな!スピードが出過ぎたら取り敢えず転べ!」
手を振り回して無茶苦茶なフォームのまま滑ってくる冬花に春彦は声をかけてから首を捻った。
「・・・あいつ、下手なのに転ばないな」
「そういやそうね。不思議」
春彦はスキー、友美はスノーボードを履いている。昔は友美もスキー派だったのだが時代の流れに押されてスノーボードに転向して以来すっかりはまってしまった。
ちなみに、春彦は再三の誘いにも関わらずスキーを手放さない。
「あれなら案外もっと凄いトコでも何とか滑って来るんじゃないか?」
足慣らしに冬花の伴走をしていた浅野(スノーボード派)が二人の隣に止まって口を挟んできた。
「うむ・・・」
頷く春彦の視線の先で冬花は転びそうにつんのめりつつ止まった。結局初心者向けとはいえ1コースを転ばずに走破したらしい。
「なかなか上手いな冬花」
「そんなことありませんよ。滑りやすい雪を選んであれですから」
苦笑しながら冬花が言うと友美がきょとんと首を傾げた。
「滑りやすい雪って?」
「ほら、専門用語で何て言うかはわかんないんですけど足を取られる雪と取られない雪ってあるじゃないですかあの辺はやばいとか」
「・・・同じに見えるけど?特にアイスバーンだとか新雪だってわけでもないし」
冬花の指摘に春彦も頷く。
「え?そうですか?」
今度は冬花が首を傾げた。
「でも、ほら・・・そこの雪はダメですよね?でももう少しずれれば大丈夫ですし」
「いや、そんな事言われても」
友美は冬花が指し示した場所をじっくりと眺めてみた。
全然わからない。
「まあ、いいじゃないか三上。次は中級で試してみようぜ」
「うむ。冬花、もう少し難しい所でも大丈夫だな?」
「はい。頑張ります」
さっさとリフトに移動する三人を慌てて友美は追いかけた。
「うー、あいつらってば・・・許容範囲広すぎ」
でも、結局気にしないのだから、友美も同レベルかもしれない。
旅館に戻ってきた4人はタオルや小型シャンプー、リンスなどを携帯して歩いていた。
「ねえ、さっきから思ってたんだけどさ」
男・女と書かれたレトロチックなのれんが掛かったドアの前に着き、会話が途切れたところで友美が眉をひそめた。
「なんか・・・お約束が続いてる状況から推測して、この温泉って混浴だったりするんじゃない?」
「パターンとしては否定しないが・・・いくら何でもそこまでやると顰蹙(ひんしゅく)を買うかもしれんぞ」
春彦は軽く笑ってさっさと脱衣所に消えた。
「・・・どう思います?浅野さん」
「いーんじゃない?チャンスだし」
ニヤニヤと笑う浅野に友美は恨みがましい視線を向ける。
「いーですよね?別に困るわけじゃなし」
「いや、困るわよ。ま、とりあえずはいりましょっか。後は出たとこ勝負で」
そのころ、春彦は男湯に一人立っていた。無論、混浴などではない。
ちょっと、残念そうだった。
「う〜っ・・・しあわせですよお・・・」
冬花は温泉にだらんとのびきって呟いた。
「そんなおおげさな」
友美は同じく湯に浸かりながら苦笑した。
昨今『大浴場』や『温泉』と銘打ちながらも普通のお風呂にちょっとオプションパーツを付けた程度のせいぜい『中浴場』が横行しているが、ここの『温泉』は文字通りの温泉で、かつ純度も極めて高い上質の湯だ。
「はにゃ〜ん」
冬花は人間の尊厳をなくして湯に漂っている。ひょっとしたらどこか少しお湯に溶けてるのかも知れない。
「ま、気持ちは分かる。いい湯だぜ、これ。肩こりにも効くらしいぞ」
「そーですね。足が伸ばせるお風呂って久しぶりだなあ・・・」
浅野と友美は二人して『ぐっ』と伸びをした。
「いやしかし・・・オレがここにいていいもんなのかね。実際」
「何でですか?」
浅野は唇の端をきゅっと吊り上げた。
「だって今夜はさ・・・くくっくくっく・・・」
「別部屋ですっ!」
「ふにぃ〜・・・」
友美が声を荒げても浅野は含み笑いを浮かべて受け流す。
「いやいや、夜這うんならオレの事は気にせずガツンと行って来い」
「だから!しませんって!」
「またまた・・・ま、部外者のオレには関係ないけどなー」
「はにゅ?」
豪快に笑う浅野の科白に冬花はとろんとした疑問の声をあげた。
「景子さん、春彦さんのこと好きなんですよね?」
「は、はぁ!?な、何でオレが!?」
のけぞって呻いた浅野の科白に今度は友美が首を傾げる。
「あれ?違うんですか?」
「違うっ!あいつは、その・・・ただのライバルだ!」
「・・・へぇ〜?」
お返しとばかりに今度は友美が唇の端を片方あげる笑みを浮かべた。
「・・・何だよその笑いは」
「いえいえ、別にぃ?」
浅野は頬をぷるぷるさせて拳を握りしめた。
「では、ごゆっくり」
仲居は頭を下げて出ていった。
本来二人部屋を二つという構成の部屋割りなのだが、別々に食事というのも味気ないので無理を言って一つの部屋にまとめて貰ったのだ。
・・・実際問題としては、『二人ずつ』というのをどういう構成にするか悩んだというのも大きな理由ではある。
「・・・バスの時みたいに浅野で回避するのもなんだしな」
「だから、ちがうって!」
呟いた瞬間大声と共にふすまが開いて春彦は視線をそちらに向けた。
「・・・何が違うんだ?」
「何でもないっ!」
闘気みなぎる浅野の否定に春彦は肩を竦める。
「まあいい。夕飯の用意はもうできている。ちゃんとビールも人数分用意して貰ったぞ」
「さんきゅ」
友美は妙に機嫌よく座布団に座った。
「おいしそうですねえ」
冬花もゆったりと友美の隣に座る。
「・・・・・・」
浅野は無言で春彦の隣に座った。その席以外空いてなかったのは、友美の嫌がらせだろうと思いながら。
「ビールは行き渡ったな?では、プロージット(ドイツ語)」
「チァーズ(英語)」
「乾杯です(日本語)」
「ガンベィ(中国語)」
意味もなく多国語で音頭をとって4人はそれぞれのコップを傾けた。
「・・・乾杯とは、一気に飲み干すものなり」
一息にコップをからにした春彦が呟きながら手酌で二杯目をつぐ。
「くぅ〜っ!」
顔を上げると、冬花が空にしたコップを持って奇声を上げていた。すこしおっさんくさいかもしれない。
「いい飲みっぷりだな」
「ふにぃ〜・・・ありがとうございます〜」
ふらふらと上体を揺らしながら冬花は二杯目をコップに注いだ。
「ほにゅ!?」
勢い余ってコップからビールがあふれ出し浴衣の膝を濡らすのを冬花はとろんとした目で見つめる。
「・・・不思議不思議」
「・・・いや、どこも不思議ではないのだが」
「ふーみゅー?」
「あまつさえそんな首を傾げられてもな・・・」
どうやらというか予想通りというか、冬花は極端にアルコールに弱かったようだ。
「ぅ・・・ぅぅ」
「ん?」
すすり泣く声に眉をひそめて春彦は視線を横にスライドさせた。
「どうした友美?」
「・・・ばかぁ」
「は?」
友美はコップ半分ほどのビールを握りしめてぼろぼろと涙をこぼしていた。
「うっく、うう・・・人の気も知らないでぇ・・・」
「おまえ・・・弱いとは知っていたがまさかコップ一杯空けられないとは」
友美はぐすっと鼻をすすり上げる。およそ二十歳の人間とは思えない泣きっぷりである。
「ばかぁ・・・はるひこちゃんなんてだいっきらいだもん」
「一気に14年分も子供返りしないでくれ・・・」
溜息をついた春彦の胸をすすすっと指がなぞった。
「?」
眉をひそめてその指を持ち主を目でたどる。ビール瓶三本が空になって転がっていることに戦慄しながら。
「女の子を泣かせるなんて・・・悪い子・・・」
「ブルータス、おまえもか」
甘く囁く浅野に対して春彦は顔を引きつらせて呟いた。
「うふ・・・でも、悪い子って嫌いじゃないわよ」
浅野は春彦にしなだれかかり喉元から顎へと柔らかな手つきでなで上げる。
「ほら・・・怖くないから、お姉さんに任せなさい?」
「待て、さすがに待て!」
春彦にとって何年かぶりになる悲鳴は意外なシーンで放たれた。
「ぅぅ・・・はるひこちゃぁぁぁん!」
「みゅみゅみゅ〜?」
「うふふ、かわいい」
春彦の目がすっと細められた。本気モードに入ったのである。
「ぅえええええええんっ!」
テーブルを飛び越えてきた友美を空中でキャッチ、そのまま右手に抱え込む。
「さあ、一緒に・・・」
もたれかかってきた浅野を左手ですっと体から離してから押さえていた友美を解放、そのまま自分は後ろへと倒れ込む。
「あら?」
「ぅえ?」
勢いよく抱き合うような形になった浅野と友美を横目で見ながら春彦は勢いよく仰向けのままで後退した。
「うふふふ、予定は変わったけど・・・これもいいわね」
「ぅえええええん!浅野さ〜ん!」
そして、引きつった顔のまま春彦は部屋から離脱した。
「・・・いいんだろうか。あそこまでステロタイプで」
春彦は呟きながら空を見上げた。
あの後、すぐに自室に戻るのも危険なので旅館の中庭に歩いてきたのだ。
「・・・いい星空だね。寒いと空気が澄んでるから星がよく見えるんだよ」
横からかけられた聞き覚えのある声に春彦は目を見開いた。
「・・・冬花?」
呟きながら視線を向けると、ベンチに腰掛けた赤い瞳の女が写る。
しかし。
「いや、別人か?」
春彦は呟いて緊張して乾いた唇を嘗めた。
「・・・あんたとは、一度あった気がするよ」
白い女は春彦を見つめ返しながら首を傾げて呟く。春彦は軽く首を振って答える。
「倉庫前で一度会ってるかも知れんな」
「・・・よく、覚えてないな」
女は言って再び空を見上げた。その顔は冬花に酷似しているが、その鋭い覇気に溢れた瞳が春彦の感性に冬花とは別人であると激しく叫んでいた。
「おまえ、名前は?」
春彦が問うと女はニッと快活な笑いを浮かべた。
「細雪。あんたは?」
「・・・山名春彦だ」
「どこかで・・・聞いたような気はするんだけどね」
「そう、か」
二人はそれっきり黙って星空を見上げた。
細雪の言う通り、都会の空と比べて段違いに星が多い。都会の生活に慣れきっていて最早こういうところでは生活できそうもない春彦だが、この夜空を見ていると自分は損をしているんではないかという気がしてくる。
「こんなところで、何をしている?」
沈黙は、春彦の方から破った。
「涼んでるのさ。熱いんで」
春彦は慎重に言葉を選ぶ。
「・・・飲み過ぎ、か?」
「ん?・・・さあ、どーだろうね」
細雪は笑って首を振った。
「・・・本当に、冬花じゃないのか?」
「アタシにしてみれば、その冬花ってのは誰かが気になるね」
春彦は苦笑した。
「・・・大事な女だ。まあ、大事な・・・女だよ」
「ははは、うらやましいな。そいつ、アタシに似てるのか?」
笑う細雪に春彦は肩を竦めた。
「外見はな」
「そっか・・・アタシにも、おまえみたいに想ってくれる奴がいればいいのにな」
「・・・健闘を祈る」
真顔で言われて今度は細雪が苦笑を浮かべた。
「ありがとよ・・・じゃ、アタシはそろそろ行くよ」
「・・・俺はもう少し涼んでいく」
「ん」
細雪はすっと立ち上がり去っていった。
「・・・どういうことだ?」
春彦は呟いた。彼女が立ち上がったときに気付いたのだ。
細雪の膝の上にある、ビールの染みを。
ついさっき、同じ場所にこぼれるのを見た、ビールの染みを。
「どういう、ことだ?」
春彦は静かに何度も、呟いた。
「冬花?」
翌朝、バスの中で春彦は隣に座った冬花に話しかけた。
「はい?」
「昨日の晩はよく眠れたか?」
「ええ。いつの間にか眠ってしまったみたいで、気付いたときには布団で寝てました。春彦さんが運んでくれたんですか?」
「・・・ああ」
春彦は中途半端に頷いた。
友美と浅野は帰ってきたら消えていた。翌朝もう一部屋の方で発見したところを見ると色々あった結果自力で移動したのだろう。
だが・・・冬花は春彦が戻ってくるとしっかり布団で寝ていたのだ。
心の中に疑問のもやを残したまま、春彦は帰路に就いた。
「・・・ねえ春彦・・・あたし、昨日の晩どーなったの?なんか・・・起きたら浅野さんと同じ布団に寝てたんだけど・・・」
「それは、俺の口からは言えん」