朝。それは太陽の恵み。爽やかな空気と暖かな日差し。鳥は歌い草木は瑞々しく人々は素晴らしい今日という日に感謝する。
 だが、山名春彦に朝は存在しない。本来ならば甘受すべき恵みを蹴散らしてただひたすらに惰眠を貪っている。
 故に、あえて断言しよう。あたしは正義であると!この垂直落下式寝ぼすけ男にさわやかな朝を届けるジャンヌダルクであると!
 そんなようなことをつらつらと考えながら三上友美はベッドで熟睡している春彦を見下ろした。
 これまでも数えきれない程の奥義でもって春彦を起こしてきた友美ではあるが、今日使おうとしている禁断の秘技はあまりに破壊力が大きい。何度となく使おうとして止めたこの魔技・・・しっかりと理論武装しなければついつい躊躇ってしまう。
 今や機は熟した。友美は大きく深呼吸をし、耳栓をした。
 そして、なにやら緑色の物を出し左手でしっかりと持つ。右手を振り上げ・・・
「秘技!ブラックボード・ハウリングゥッ!」
 それを・・・黒板をおもいっきり右手の爪でひっかいた!
 ぎぃぃぃぃぃぃいっぃぃぃいっぃぃぃぃぃいぃぃぃぃいぃいいっっぃぃぃ!
「うぎゃゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっっっっっっ!」
 春彦は鼓膜から脳を鷲掴みにした凶音波に激しく悶絶した。しばらくの間電気を流した蛙の足のようにびくびくと震えてからその動きが止まる。
「・・・春彦?」
 動き出さない春彦に耳栓をはずした友美が恐る恐る声をかける。
 へんじがない。ただのしかばねのようだ。
「ああ・・・春彦っ!」
 友美は髪を振り乱し(ショートだからほとんどなびかないが)春彦の頭を胸に抱え込んだ。
「あなたは旅立ってしまったのねっ!あの遠い空に・・・朝焼けを探しに・・・そんなあなたにあたしから言える言葉は・・・言葉は・・・」
 天を振り仰ぎ降り注ぐ光(想像)に涙しながら友美は呟く。
「はるひこよ、しんでしまうとはなさけない」
「・・・勝手に殺すな」
 春彦は、溜息すらつけないほど衰弱しながら起床した。


「あ、そうそう。あたし、今日は部屋の方に戻るから」
 不意の台詞に、春彦は目刺しをくわえたまま眉をひそめた。
「部屋に戻る?」
「うん。昨日携帯に電話があってね、ママがあたしの部屋に来るらしいの。だから取り敢えず部屋に帰るわ。明日の朝には帰ってくるから昼と夜はてきとーに食べといてね」
 春彦は目刺しを飲み込んで頷いた。
「静香おばさんによろしく伝えといてくれ」
「ほい、了解」
 しばらくの間たわいのない会話が続いた。
「・・・ごちそうさま。冬花さん、あとよろしくね」
「はい、お任せ下さい」
 食器をまとめてから友美は歯を磨きに洗面所に消える。
 その間に春彦も食事を終えていつものようにのっそりとソファーに沈んだ。
「うっし。じゃ、行ってくるわ」
「ああ」
 春彦が手を上げてみせると友美はぶんぶんと手を振り回して出ていった。
 残った春彦と冬花はしばらくぼーっとしたまま動かない。
「そうか。今日は二人きりか」
 何気なく春彦が呟き二人はぴくっとした。
 揺れた雰囲気に押されるように冬花は無理矢理口を開いた。
「えっと、その、春彦さん・・・大学は・・・」
「今日は日曜日だ」
「あ・・・そ、そうですよね」
 また少しの間沈黙が続いた後今度は春彦が口を開いた。
「掃除するか?手伝うが・・・」
「あ、ありがとうございます。でも今お皿洗ってますから・・・」
「・・・ああ、そうだよな」
 二人して困ったように見つめ合う。
 ピンポーン・・・
「わ、私出ますね」
「いや、俺が」
 二人同時に玄関に向かおうとして同時に立ち止まりまた同時に動いて立ち止まる。
「な?勝手に入ってきて正解だったろ?タカ」
 二人して『だるまさんが転んだ』みたいに動いたり止まったりを繰り返しているうちに尋ねてきた客・・・浅野はさっさと入ってきてしまった。
「・・・不正解ですよフツー」
 後から入ってきた佐野は困ったような笑顔で呟く。
「で、何の用だ浅野?」
 ソファーに座り直して春彦は尋ねた。
「これを渡しに来た。この前の温泉のお礼がてらにな」
 差し出された浅野の手にはチケットが二枚。駅前の映画館の物だ。
「・・・二枚」
「ですね」
 春彦と冬花は呟いて顔を見合わせた。
「友美は出かけているが・・・居たらどうするつもりだったんだ?浅野」
「わかりきってる事言わせるなよぉ。どっちを選ぶか見て楽しむつもりだったぞ」
「とか言ってますけど、浅野センパイもホントは・・・」
 言いかけた佐野が突然白目をむいて倒れ伏した。
「ま、ともかくたまには楽しんでこい。じゃ」
 浅野は咳払いなどしながら佐野の後頭部をどついたばかりの木槌を懐にしまい、ぐったりしている彼の襟首を引きずって出ていく。
「・・・春彦さん、アレはさすがにお亡くなりになってるような気が」
「・・・大丈夫だ。こういう世界において、俺達は決して死ねないんだ・・・」
 春彦は同情と悲哀に満ちた視線で佐野を見送った。
「それで・・・これ、どうしましょうか」
 冬花は手を拭き拭き春彦に歩み寄った。
「ふむ」
 春彦は呟いて手の中のチケットを見つめる。
「せっかくだ。一緒に、見に行くか?」
「ハイ!」
 嬉しそうに頷く冬花に一瞬友美のイメージが重なったが・・・
 春彦は、少し迷ってから立ち上がり出かける準備を始めた。


「・・・もうすぐ昼だな」
 駅前の、いわゆる繁華街を歩きながら春彦は呟いた。
「映画の前にお昼ご飯でも食べますか?」
「そうだな。ヤクドでいいか?」
「春彦さん、関西の方の出身ですか?」
「いや、何となくこっちの方が好きなんだ」
 どうでもいいことを言い合いながらふたりはヤクドナルドに入る。
「俺が買うから席を取ってくれ。冬花は何を食べる?」
「じゃあ、照り焼きヤックバーガーセットでお願いします」
「うむ」
 春彦は頷いて列の最後尾に並んだ。日曜日の昼前ともなればそれなりに混みもする。この龍実町駅前店はそれなりに広い三階建てだが、レジの前は人でいっぱいだ。
「・・・照り焼きヤックバーガーセットとダブルヤックバーガーセットのLセット。飲み物は二つともアイスウーロン。ここで食べる」
 ようやく自分の番が回ってきた春彦は背の低いアルバイトの女の子にそう告げた。
 ファーストフードで注文するときに気をつけなければならないのは、相手も人間だということだ。
 はっきりと、要点をまとめて、出来れば身振り手振りもつけて注文してやらないと只でさえ忙しいのだ。他の客の迷惑にすらなる。
「はい、かしこまりました!」
 遠藤という名札をつけたその店員は元気良く返事をして注文を通す。
「・・・なんだか、友美とキャラが似ているな」
 元気良く動き回る店員を見ながら春彦は何となく呟いた。

「あ、春彦さん・・・おかえりなさいませ・・・」
 トレーを片手にやってきた春彦へ冬花は曖昧な笑みを浮かべた。
「・・・どうした?」
 冬花の正面に座りながら春彦は首を傾げて問う。
「いえ、あの・・・」
 戸惑っているような視線を追って春彦は辺りを見回した。
 さりげなくこちらを観察していた周りの席の客が慌てて目をそらす。
「・・・や、やっぱり浮いてますよね?私って」
「人目を気にするなどおまえらしくもないぞ」
「ええ、でも・・・」
 冬花は呟いて上目遣いに春彦を見つめた。
「大丈夫だ。おまえは変ではないし俺は人目など気にしない」
「・・・はい」
 やっと冬花らしい笑顔を浮かべるのを見て春彦も小さく微笑んだ。
「さあ、さっさと食べよう」
 言いながら春彦はポテトに手を伸ばした。冬花も飲み物を片手にハンバーガーを囓る。
(まあ、周囲の客どもの気もわからんでもない)
 春彦は心の中で呟いていた。
 普段はブラウスの上にコートを羽織るだけの寒々しい格好でふらふらしている冬花だが、何を考えたのか今日はきっちりおしゃれをしてきているのである。
 タートルネックの上にショールを掛け、珍しくスカートを、しかも巻きスカートを履いている姿はその日本人離れした容姿や神秘的な赤い瞳と相まってどうしたって周囲の男の目を離さない。
「・・・でも、やっぱり人目引いちゃってますね」
 他愛のない話の合間にふと冬花は呟いた。
「・・・冬花は綺麗だからな」
 思わず呟いてから春彦はかなり後悔したが冬花は「ほぇ?」といった感じで首を傾げるばかりだ。
 春彦は、苦笑して食べることに専念した。


「・・・死霊の給料日?」
 映画館の前で冬花はきょとんと呟いた。
「・・・これでもかという位B級ホラーなタイトルだな。冬花はホラー映画は大丈夫な方か?友美は大嫌いらしいんだが」
「えっとですねぇ・・・ホラー映画を見に行った記憶もないので、よくわかりません。多分大丈夫だと思いますけど?」
「うむ。じゃあ入るとするか・・・」
 呟きながら入った映画館の中は意外に込んでいた。何しろ龍実町は物好きと悪趣味にかけては人後に落ちない街なので、この手の怪しげな映画に興味を示す人間も多いのだ。
「あ、春彦さん!ここ空いてますよ!」
 冬花が見つけてきた席に二人して座る。手には売店で買ってきた紙コップに入ったアイスウーロン茶。
「この手の飲み物はただ単にコップに注いだだけの市販品なのに何故原価の二倍以上の値段が付いているのだろう・・・」
 春彦の呟きに冬花が「はぁ」等と呟いているうちに映画が始まった。
「・・・・・・」
 『死霊の給料日』という映画はどうやらお約束満載のスプラッタムービーのようだ。開始後十分とたたないうちに画面中を埋め尽くすような血しぶきが噴き出しはじめた。
「ひっ・・・!」
 冬花はしゃっくりのような悲鳴を上げた。スクリーンでは追いつめられたヒロインに殺人鬼が・・・殺人鬼『地獄の集金男』が迫り『殺人印鑑』を振り上げたところだった。
『きゃぁぁぁぁぁぁぁ!』
 ヒロインは悲鳴を上げながら何とか身をよじってそれを避けるがその後ろに立っていたヒロインの先輩であるカップルの男の方の脳天に『殺人印鑑』が直撃する。
『集金んんんんんんん!』
 集金男は巨大な殺人印鑑を男の頭ごと壁に叩き付け血やらなにやらいろんな物を吹き出させた。
 怖い。いろんな意味で怖い。
「きゃっ!」
 冬花は悲鳴を上げて隣の春彦にしがみついて・・・
「くっくっく・・・」
 至近距離で聞こえたくぐもった笑いに不審気な顔をあげた。
「くっくっく・・・」
 春彦だった。
 春彦が、目をカッと見開き口元をきゅっと吊り上げて不気味な笑いを浮かべていたのだ。
「ひょええっ!」
 のけぞった冬花の目に今度はスクリーン上の惨劇が写る。
「はぅぅぅぅっ!」
 思わず顔を背けると今度は春彦の不気味な笑顔が目に入る。
「いやぁぁぁぁっ!」
 結局冬花は二時間もの間悲鳴を上げ続ける羽目になった。


「・・・すっごく、こわかったです」
 映画館を出て呟いた冬花に春彦は首を傾げた。
「そうか?特撮は興味深かったがストーリー的にはありふれた物だったと思うが・・・」
「ものすごく、こわかったです」
 げっそりした顔で首を振る冬花を見て春彦は少し考え込んだ。
「・・・友美もどうってことのないホラー映画でも一緒に見に行くのを嫌がったものだが最近の女性はホラーが苦手なんだろうか」
「・・・多分、違うと思います」
「そうか?」
 首を傾げる春彦に冬花は苦笑しながら問いかけた。
「春彦さん、これからどうしましょうか」
「そうだな・・・まだ空も明るい。もう少しぶらぶらしていくとしよう」
 頷く冬花を連れて春彦は繁華街を歩き出した。
「そういえば、その服は初めて見たな。いつ買ったんだ?」
「この間友美さんと買い物に行ったときに友美さんが選んでくれたんです」
 冬花は微笑みながら隣を歩く春彦を見た。
「あの、似合ってますか?」
「・・・ああ」
 春彦は意味もなく照れながら頷いた。

 特にやることもないので二人はのんびりと店を冷やかして歩いた。
 本屋では旅行雑誌を眺めてこの間の温泉について語り合い、ゲームセンターに寄って冬花が意外に反射神経がいいことを発見したりもした。
「・・・友美よりも格ゲーは強いな
「・・・自分でもびっくりです」
 喫茶店でかき氷を注文して店員に訝しげな目で見られたりもしたが・・・
 それは、とても平和で・・・とても普通の『デート』だった。

「あら。だいぶ遅くなってしまったようですね」
 あたりがすっかり暗くなったのに気付いて冬花は呟いた。
「うむ。今日は友美も居ないことだし夕食を食べてから帰るとしよう」
 春彦はそう答えてから「む・・・」と眉を寄せた。
「どうしたんですか?」
「いや、今晩は二人きりか・・・と」
「あ・・・」
 言った春彦も聞いた冬花も赤くなってお互いを見つめる。
「あ、あの・・・」
「な、なあ・・・」
 同時に口を開いて同時に口を閉じる。
 もう一度口を開いて閉じてから何とか春彦が喋ろうとした瞬間、
「おや、いい雰囲気ですな」
 背後からかけられた声に春彦はがくっとつんのめった。
「あ、あら。行商人さん・・・」
 振り返った春彦の目にも相変わらず大きなリュックを背負いにこやかな営業スマイルを浮かべている行商人の姿が映った。
「いやあ、相変わらず仲がいいようでうらやましい。デートですか?」
「う、うむ。そんなところだ」
 行商人は我が意を得たり!と大きく頷く。
「では、そんなあなた方にとっておきの商品をご奉仕です!」
「とっておき、ですか?」
 聞き返す冬花ににやっと笑って見せてから行商人は背後に置いてあった大きなトランクをどすんっ!と春彦達の前に置いた。
「行商人藤田渾身の大商品!これこそが超高級レストランセットですっ!」
「・・・なんだそりゃ」
 思わず呟く春彦をよそに行商人はばっ!とトランクを開いた。
「あ、綺麗なドレスですねー」
「そう、この街唯一にして至高の高級レストラン「エルドラド」の予約券にドレス&スーツのレンタルをセットでのご奉仕です」
「無茶苦茶する奴だな・・・大体予約券っていつのだよ」
 ジト目で尋ねる春彦に行商人は胸を張って答えた。
「今日です!故に、ここで買っていただかないと丸損です」
「・・・まるで俺達が二人で出かけていて今日は友美が帰ってこないことを知っているかのような用意の良さだな」
「・・・偶然ですよ」
 なにやら妙な雰囲気で言葉を交わす男二人をよそに冬花はしきりにドレスを撫でくり回す。
「わぁ、シルクですね。綺麗です〜」
「・・・着てみたいか?」
「はい・・・え?」
「行商人、その商品買わせて貰おう。いくらだ?」
「え?え?え?」
「お客さんにはいろんな意味でお世話になってますからね・・・全部合わせて2万円でいかがです?」
 事情がよく飲み込めずおろおろする冬花をよそに春彦は大きく頷いた。
「よし、買った」
「は、春彦さん・・・」
 あわてる冬花に春彦は微笑んで見せる。
「どうせどこかで食べて帰るつもりだったんだ。たいしてかわらんさ」
「毎度!ではこちらへどうぞ。ワゴン車が用意してありますので着替えて下さい。ああ、行きは送りますが帰りは自力でお願いしますね」
「今着てる服はどうするんだ?」
「明日お客様の家にお持ちいたしますよ」


「す、凄いところですね・・・」
 レストランの前に立って冬花は呟いた。イブニングドレスを着込んだその姿は普段の天然ぶりを感じさせない清楚な装いだ。
「そう緊張するな。別に高いからどうというわけではない」
 言って肩をすくめた春彦もびしっとしたスーツを着て髪型をオールバックに変えている。いつもよりもクールさが3割増しになっているその姿は、まさしく香港マフィアといった佇まいだ。
「・・・ほっとけよ」
「どうしました?」
「いや、行こう・・・」
 春彦は呟いて腕をそっと曲げた。
「あ・・・」
 少しびっくりした顔をした冬花がその腕にそっと自分の腕を絡める。
「いらっしゃいませ」
 レストランにはいると給仕が恭しいお辞儀で二人を出迎えた。
「予約している山名だ」
「・・・はい、承っております。こちらへ」
「うむ」
 給仕の後を着いて歩く冬花の歩みがぎこちない。
「・・・どうした?緊張してるのか?」
「え、ええ・・・大丈夫です」
 小声で答える冬花に釈然としない表情で頷き返し春彦は歩きながら辺りを見回した。
 どちらかといえば庶民の集まる街である龍実町においてこの手の高級レストランはあまり必要とされていない筈なのだが、なかなかどうして客が多い。
「・・・・・・」
 その多くが通り過ぎる自分たちを見ているのに気付き春彦は小さく肩をすくめた。羨望と驚愕の眼差し・・・その中に混じった確かな嫉妬と憎悪の視線。
(まあ、冬花のことを考えれば当然か)
 心の中でそう呟くが、正確に言えば『春彦と冬花』の一セットが人目を引いているのである。どちらも単体で人の目を集められる素材だがその二人が合わさって『絵になる』カップルができあがっているのだ。
「こちらでございます」
「ありがとう」
 礼を言いながら春彦はすっと席に座った。
「あ、ありがとうございます・・・」
 冬花はぎこちなく頭を下げて給仕が下げた椅子に座る。
「お客様、ワインはこちらかこちらになりますが・・・」
「・・・こっちだ。ああ、テイスティングは必要ない。俺は専門家の判断は尊重する主義だ」
 一礼してソムリエが引っ込んでから春彦は冬花に向き直った。
「肩の力を抜けよ。おまえらしくもない」
「あ、あはは・・・そ、そうですよね・・・」
 ぎこちない答えに春彦はこの店に来たことを少し後悔した。
「だ、大丈夫ですってば。あはは・・・」
「・・・無理は、するなよ?」
 呟く春彦の側にすっとギャルソンが現れた。
「前菜でございます」
 音もなく皿を置いてギャルソンは去っていった。
「うむ。なかなか教育が行き届いている」 
 満足そうに呟く春彦に冬花はがくがくと頷いて見せた。
「・・・食おうか」
「ええ・・・あっ」
 春彦が取り分けた前菜に恐る恐るナイフを当てた冬花は手の震えでカツンッと高い音を立ててしまい声をあげた。
「なにあれ?」
「きっと見栄張ってこう言うところへ来てるのよ」
 さりげなく注目していた客達がこれ見よがしに囁く。
「・・・すいません」
「気にするな。マナーとは極端な逸脱以外は同席者への配慮だ。一緒に食べている俺が気にしない以上極端な話し、手づかみでも文句は言わせない」
 すぐにここから出ることも含め対策を考えている春彦にぎこちなく微笑みながら冬花はワイングラスに手を伸ばした。
 カラン・・・
 音を立てて手からすべり落ちたグラスが床に落ちる。
「やだ、最悪」
「雰囲気台無しよね」
「場違いよ」
 より大きくなった囁きに春彦は顔をしかめた。
「あいつら・・・」
「だ、大丈夫です!ごめんなさい!」
 冬花は泣きそうな顔で何度も何度も頭を下げる。
「別におまえが謝る必要は・・・」
「いえ、あの、ちょっと・・・トイレ行って来ます」
 青い顔で冬花は立ち上がった。
「おい、冬花・・・」
 よろよろと冬花は歩いていく。その進路上にさっき悪意に満ちた囁きを発していたテーブルがあるのに気付いて春彦はバッと立ち上がった。
 女二人男二人のそのテーブル。そこからさりげなく差し出された足。それに春彦は気付いた。だが青い顔で歩いている冬花はそれに気付かない。
「冬花!下だ!」
「え・・・きゃっ!」
 冬花は勢いよくその場に転がった。バランスを取ろうと振り回された手が近くのテーブル・・・足を引っかけた本人のいるテーブルのグラスをなぎ倒す!
「ああっ!この服高かったのに!」
 ワインを膝で受け止めてしまった女が甲高い悲鳴を上げた。
 床にぺたんと座ったまま冬花は呆然とそれを見上げる。
「ご、ごめんなさ・・・」
「うるさいこの化け物女!」
 女は叫びながら倒れなかったグラスの中身を勢い良く冬花にぶちまけた。
「あ・・・」
 髪からワインをしたたらせて冬花は表情を空っぽにして呟き・・・
 刹那、
 バシャ・・・
 女の頭にもグラスのワインが叩きつけられていた。
「春・・・彦さん?」
 無意識に呟く冬花に悔恨の視線を向けてから春彦はテーブルの男女に向き直った。
「最悪だな。どうやら金で品性は買えないらしい」
「な、なんだと!?」
 春彦は冷え冷えとした視線で四人組を睨み付ける。
「今すぐ這いつくばって謝るか強制的に這いつくばらされるかどっちが良い?底なしの馬鹿でもそれくらいの選択は出来るだろう?それとも日本語すらわからんのか?」
「な!貴様ッ!」
 男は思わず立ち上がって春彦の襟を締め上げた。
「・・・そっちか」
 春彦は静かに呟く。
 春彦は激怒していた。そして、いまやその激情を押さえる気もない。
「覇ッ!」
 短い叫びを発して春彦は自分の襟を掴む男の腕をねじ上げ相手の力が抜けた瞬間に一瞬しゃがみこみ、伸び上がりながらその腕を担ぐようにして背後へと放り捨てた。いわゆる一本背負いである。
 そのまま倒れた男の鼻の下・・・人中と呼ばれる急所を正拳で打ち抜いた春彦は後頭部を殴られて一瞬よろめく。
「・・・効くかぁっ!」
 春彦は叫びながら振り返りそのままの勢いを載せた裏拳で男の頬をはり倒した。よろめいた男の顎をほぼ180度の角度で跳ね上がった右足が吹き飛ばす。
 ほんの十数秒。
 その時間で、二人の男は失神した。
「・・・・・・」
 春彦は冷え冷えとした目で椅子からずり落ち震えながら抱き合っている女達を打つ。
「お、おい!動くな!」
 暫くの間呆然としていた店員達が駆け寄ってくるのを横目で見て春彦はゆっくりとそちらに向き直った。
 殺気に満ちた顔のまま春彦は店員の方に踏み出す。周囲の客達も当の店員達も新たなる惨劇を予想し、覚悟した。
 だが。
 パチンッ・・・
 乾いた音と共に全ての動きが止まった。
「え・・・?」
 春彦は呆然とした顔で赤くなった頬を押さえ、それをした人物を見つめた。
 泣きそうな微笑みを浮かべた冬花を。
「春彦さん、暴力はいけませんよ・・・それに店員さん達は何も関係ありませんから」
「し、しかし!」
「大丈夫・・・私は、大丈夫ですから・・・」
 冬花は微笑みながら春彦の胸にそっと額を当てた。
「・・・・・・」
 固く握りしめられた春彦の拳が力無くおろされる。
 冬花は春彦から離れて店員に深々と頭を下げた。
「あの、大変お騒がせして申し訳ありません。壊れた物はちゃんと弁償しますから・・・」
「い、いえ・・・お客様が悪いわけではないのは私どもも見ていましたのでその必要は無いと思います・・・」
 呆然と呟く店員に冬花はもう一度深く頭を下げる。
「では、これで失礼いたします」
「あ、はい・・・」
 意外な成り行きに店員達が呆然としている隙に冬花は春彦の手を取り足早に歩き始めた。
「お、おい」
「さ、早く行きましょう」
 意外な力で引っ張る冬花に春彦はこちらも呆然としたまま着いていく。

「・・・ちょっと、休憩しましょうか」
 いつもの公園まで歩いてきてようやく冬花は呟いた。
「あ、ああ」
 春彦がぎこちなく呟くのに頷いて冬花はベンチに腰を下ろした。
「春彦さんも座りませんか?」
 見上げる冬花を見つめて春彦は首を振った。
 3月とはいえまだ冷たい夜風が二人の間を鋭く駆け抜ける。
「・・・すまん」
 暫くの間無言で見つめ合ってから春彦は頭を下げた。判断ミスの後悔、自制を喪失した情けなさ、傷つけたという罪悪感・・・春彦の胸の中を自分に対する罵倒が駆けめぐっていた。
「原因は私ですよ?私こそ・・・取り返しの着かない事しちゃって・・・」
 俯いて呟いた冬花の肩が震える。
「わた・・・私・・・怖かったんです・・・何か失敗して春彦さんに恥をかかせるんじゃないかって・・・私はどうでもいいんです・・・でも春彦さんにだけはって・・・」
「そんな事・・・!」
 鋭く遮る春彦に首を振ることで返答し冬花は嗚咽混じりの呟きを続ける。
「春彦さんならそんなことはないって言ってくれるのはわかってたんです・・・でも・・・やっぱり駄目で・・・あ、あんな・・・あんな・・・!」
 ぎゅっと握られた細い手に何粒も何粒も涙が落ちる。
「ご、ごめ、ごめんなさい・・・ゴメンナサイ・・・!」
 しゃくり上げる冬花を春彦は静かに立たせて柔らかく抱きしめた。
「・・・おまえが謝ることなど、何もない。鋭すぎる俺も、柔らかすぎるおまえも普通の社会から見れば出っ張った存在だ。どうしたってトラブルを招いてしまう。だから俺には冬花が・・・冬花には俺がいるんだろ?」
 泣きじゃくる冬花の背中をゆっくりとさすりながら春彦は我知らず微笑んでいた。
「冬花がどんなにミスしようと、ボケ倒して寒くなろうと全部俺がフォローしてやる。おまえのことを責めたりは絶対にしない。だから・・・だから、冬花は俺が荒れているとき俺のことを止めてくれ。俺のわがままに付き合ってくれ・・・駄目か?」
 冬花はまだ涙に濡れたままの瞳で春彦を見上げた。
「いいえ・・・よろこんで・・・」
 至近距離で花開いた微笑みに、春彦はこれまでにないほど目を奪われた。
 そして。
「あっ・・・」
 そのわずかな距離が、無意識のうちにゼロになる。
「え?え?え?」
 再び至近距離に戻った冬花は唇に指で触れてきょとんとした声をあげる。白く透き通った頬にぱっと赤みが差した。
「い、今・・・」
「・・・嫌か?」
 囁く春彦に冬花は微笑みを返した。
「その言い方、ずるいです」
「すまんな・・・」
「いいえ・・・春彦さんのわがまま、全部受け止めるって約束しましたから」
 微笑んで今度は冬花の方から春彦の唇に触れる。

「くしゅん」
 長いキスの後で、冬花は小さくくしゃみをした。
「・・・そういえばずぶぬれだったんだな」
「はい。ちょっと冷えちゃいました」
 春彦は少し考え込んだ。
「冬花、腹は減っているか?」
「え?はい。結局まだ何も食べてませんから」
 春彦は頷いて抱きしめたままだった冬花を離し手を取った。
「それなら、近所に旨い屋台がある。あそこのラーメンは絶品だ。あったまるぞ」
「あ、いいですねそれ!行きましょう!」
 二人は自然に肩を寄せ合い歩き出した。
 まるでそうなるべくして生まれたかのように、さりげなく・・・そして幸せそうに。

「まあ、ドレスでラーメンというのも変な話だがな」
「ふふふ・・・でも、私達らしいですよ。こういうのが」
 春彦は微笑んで冬花の肩を抱いた。
「・・・そうだな」