「かっ・・・!」
 春彦は叫び声と共に飛び起きた。
 顔中に浮かんだ冷たい汗を無造作に拭って起きあがり、のろのろと着替えはじめる。
 目に付いたシャツをいい加減に着込んだ春彦はもたつく足で居間に移動した。
「・・・・・・」
 無表情に冷蔵庫から牛乳を取りだし、投げ出してあった食パンを焼きもせずに喉の奥に押し込む。
 ふと、春彦の動きが止まった。

『うっし、目刺しあがったよー!』
『おいしーですよ友美ちゃん〜』
『ほら春彦、早く食べないと時間無くなるよ』
『そうだぞ山名。さっさと喰えよ』
『って何で浅野さんまで!?』
『センパイは仕送りのやりくりに失敗・・・ぐはっ!』
『おやぁ?どうしたんだいバカアキ君。後頭部から血が出てるぞ〜?』


 春彦は頭を降り幻想を追い払った。
 目の前の食卓には誰もいない。当たり前だ。
 その資格は、一ヶ月も前に失っている。
「ちっ・・・」
 舌打ちして春彦は持っていたコップを山積みになった流し場に放り込んだ。


 ぞんざいに歯を磨いてだらだらと玄関へ向かった春彦は、靴を履き下駄箱の上にあったニットキャップをかぶりかけ・・・今日もまたそれを乱暴にバッグへ突っ込んだ。
 どうしても手放せない。だが、かぶる気にはもっとならない。
 そのまま無表情にドアを開ける。別に行きたくもないが大学は有るのだ。
「あ・・・」
 開いたドアの外から呟きが聞こえた。
「お、おはよ・・・春彦・・・」
 ドアの脇に友美がしゃがみこんでいた。この一ヶ月、おきまりのパターンだ。
「・・・ああ」
 春彦はぞんざいに頷き、歩き出す。
「ま、待って・・・」
 友美は春彦の代わりにまだ返していない合い鍵で鍵を閉め、足早に去っていく背中を追いかける。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 大学へと重い足を運ぶ2人の間に言葉はない。

「あ、あのさ・・・」
 友美が口を開けたのは、大学に着き講義が始まってからだった。
「今日4限が終わったらどっか遊びに行かない?」
「・・・・・・」
 春彦は無言でノートを取っている。
「ほら、最近どこも行ってないでしょ?ずっと家にこもっちゃってさ。不健康だぞー、なんて・・・」
 友美はおそるおそる春彦の顔をのぞき込んだが、春彦は無表情にノートを書き続ける。
「ね、ねえ春彦・・・たまにはさ」
 更に言いつのる友美の声を甲高い声が遮った。
「そこ!また貴様らか!一度単位を落としただけじゃ気が済まないようだな!」
 講義をしていた犬川教授が真っ赤になって叫んでいるのを見て友美はあちゃーと頭を抱えた。
「・・・・・・」
 怒声を聞きながら春彦は無言で立ち上がる。
「おい、山名だぜ」
「また何かやるのかな?」
「そりゃそーだろ。山名さんだから」
 周囲の学生がざわめきながら期待の視線を春彦に送る。
 だが。
「すいませんでした」
 春彦は軽く頭を下げてノートとペン入れを掴み鞄に放り込んだ。
「あ・・・え?」
 わけがわからず立ちつくす犬川教授を見もせずに春彦はさっさと教室を出る。
「ちょっと、春彦!?」
 友美の声を背に受けて春彦はただひたすら歩いた。
 馬鹿馬鹿しい。何もかも馬鹿馬鹿しい。
 そのまま校舎を出て、門をくぐる。今まで何とか誤魔化してきたが、もう耐えきれなかった。何の価値も見いだせない場所にもう居たくはない。
「待ってよ春彦っ!」
 背後から手を掴まれてようやく春彦は足を止めた。
「・・・何だ?」
 無表情に呟く春彦を友美は睨み付ける。涙に揺らぐ視界で。
「やめてよ・・・やめてよこんなの・・・あんまりだよ・・・」
「何をやめろと言うんだ?俺は何もしていない」
 投げやりな声に友美は大きく首を振った。
「今の春彦、全然春彦らしくないよ!冬花さんが居なくなって・・・それで悲しいのはあたしも同じだし、今まで通りってわけにはいかないのはわかってるけど・・・でもこれじゃあ冬花さんと一緒に春彦まで死んじゃったみたいだよ!冬花さん、絶対そんなの望まないよぉっ!」
「・・・おまえに」
 春彦は食いしばった歯の間から絞り出すように唸る。
「おまえに何がわかるっ!?俺の何がわかるって言うんだ!?」
 叩き付けられた激情の声に友美はそれ以上の叫びを返す。
「わかんないよ!今の春彦のことは何もわからないよ!あたし、ふられたっていい。嫌われたって平気だよ?でも・・・でも・・・春彦が春彦じゃなくなっちゃうなんて嫌だよ!そんなのあんまりだよ!」
 泣きながら叫ぶ友美から視線を外して春彦は無言だ。
「・・・馬鹿ッ!」
 走り去る友美を見送る春彦の顔が歪む。
「俺に・・・俺にどうしろって言うんだ」
「やれやれ。情けねえ」
 不意にかけられた声に春彦は振り返った。
 背後に立っていたのは、黒いシャツに同じく黒いジーンズの女と、その後ろに立つ背の高い男だ。
「何の用だ?浅野」
「用なんてねえよ。今のあんたに用なんて有るわけねえだろ?」
 浅野は白けた顔でそう言って冷たく笑った。
「・・・どういう意味だ?」
「少なくとも、以前のあんたはそんな月並みな台詞は言わなかったな」
「・・・・・・」
 返答できない春彦に浅野は一つ舌打ちする。
「あんたみたいな奴を自分と対等に思っていたオレが馬鹿だったって事か?全くがっかりだ。つまんねえな」
「・・・なら、ほっとけよ」
 春彦は吐き捨てるように呟いて浅野達に背を向けた。そのまま足を引きずるように歩き出す。
「だがな!冬花の奴はオレにとっても大事な仲間だったんだ!だからその遺志を無駄にしている今のあんたは許せない!」
 春彦は俯いて立ち止まった。  
「何の為にあいつはあの一日を選んだんだ!?少しでも長く生きられる方法じゃなくて、笑顔のままで・・・いつもの自分のままで消えるコトを冬花は選んだんだろうが!その意味もわかんねえ位腑抜けちまったのかあんたは!?違うだろ!?」
 浅野は煙草を一本取りだし、そのまま苛立たしげにそれを地面に叩き付けた。
「違うって、言えよ・・・」
「俺は・・・」
 春彦は低く呟いたまま動かない。
 わかっているのだ。今の自分が、抜け殻であることは。そして、それが甘えであることも。だが、それでも尚・・・以前は踏み出せた一歩が、どうしても踏み出せない。
「ちっ・・・」
 浅野は舌打ちして踵を返した。そのまま乱暴な足取りで歩み去る。
 残された佐野はゆっくりと春彦に近づいた。
「僕は・・・山名さんの気持ち、わかりますよ」
 微笑む佐野に春彦は何となしに視線を向ける。
「女の子ほど強くはなれませんからね。僕達男ってのは・・・」
 言って佐野は軽く肩をすくめた。
「でも、センパイの言ったことや三上さんの言ったこと・・・少し考えてみてくれませんか?僕達全員にとって冬花さんは大事な友達でしたし、山名さんは・・・僕達の中心なんですから」
 軽く頭を下げて佐野は浅野の去った方に歩き出した。
「結局、僕らは山名さんなしには一歩も前に進めないんです」
 最後にそう言い残して。
 一人残された春彦は、ぼんやりと空を見上げる。
 青い。
 どうしようもないくらい青い。あの頃・・・冬花が居たあの頃と同じような澄んだ、高く暖かい蒼天・・・
 その青さを見つめながらひとつ首を振って春彦はまた歩き出した。


 気付くと、春彦はいつもの川辺にいた。何度と無くここで昼寝をし、その何割かは冬花と一緒だった・・・

『ほら』
 春彦は受け取ったニットキャップを冬花の頭にぎゅっとかぶせる。
『あの・・・本当にいいんですか?』
『大丈夫だ』
 春彦が頷いてみせると冬花はにっこりと笑った。
『ありがとうございます!これは家宝にして子々孫々にまで・・・』
『よせ』
 縦チョップで春彦がつっこみを入れると冬花はえへへと笑ってそれに答えた。
 
「いやあ、しけた顔をしてますねえ・・・」
 のんびりした声に回想を破られて春彦はぴくっと震えた。
「・・・あんたか。何か用か?」
 春彦は溜息をひとつついて声の主に・・・藤田に向き直る。
「いえいえ、お別れを言いに来ただけですよ」
 言って藤田は春彦の隣に立ち川面を眺めた。
「あの子が居なくなった以上、私がここに居る理由もなくりましたからね・・・どこか外国にでも行こうかと思っています」
「・・・そうか」
 春彦は頷いて視線を川へと投げた。男2人、静かに水面を眺める。
「俺は・・・」
 春彦は苦々しく呟いた。
「俺は冬花を救えなかった。偉そうに吠えて、大丈夫を連発して・・・そのあげく何一つ出来なかった・・・」
 藤田は目を閉じ静かに首を振る。
「人を救うなんて、簡単に出来ることではありませんよ。私達は神様ではありませんからね。救えなかったと後悔するのは、それこそ傲慢ではありませんか?」
 風が・・・暖かく柔らかい風が2人の間を通り抜けた。
「・・・桜、咲いたな」
 春彦はぼんやりと呟いた。
「ええ。もうすぐ満開ですね」
 藤田も何とはなく答える。
 言葉少なな2人の後ろを小学生の一団が賑やかな歓声を上げて走り抜けた。
「山名さん。あの子を、救いたかったんですか?」
「・・・無論だ。世界全てを敵にしてもな」
 即答した春彦を見ながら藤田は深く息をつき、長い時間を迷った。
「なら・・・賭けてみましょう」
「賭ける?」
 藤田は頷き、傍らに置いた大きなリュックをごそごそと漁った。雑多な商品の奥・・・一つだけしっかりと箱に収まった小瓶を、大事そうに取り出す。
「これが・・・行商人こと藤田達也からあなたへ送る最後の商品ってわけです」
 差し出された手のひらに収まるほどの小さな瓶を受け取り春彦はそれをしげしげと眺めた。
 透明な小瓶・・・その中に、ほんの一欠片の雪が有った。どういう仕掛けなのか春の陽気にも溶ける気配を見せず、そして・・・
「光っている・・・?」
「真雪と呼ばれているもので・・・それが、雪妖の『核』なんですよ。雪妖とは、つまり雪の化身。これ以外は、存在していて存在していないようなものなんです。死んだ雪妖はこれを残して消えます。普通はそのまま溶けるんですけど、これは特殊な容器で保存してあるんですね」
 春彦は藤田に不審気な視線を送った。
「冬花は・・・何も残さずに消えたと思うぞ。雪は降っていたがそれに紛れとも思えない」
 問われて藤田は軽く頷く。 
「あの子は『溶け』ましたからね。正確な表現をすれば、『核が溶けた』んです。普通の雪妖なら、そこで終わりなんですが・・・あの子は私の血を引いています。この際、そこに賭けてみましょう」
 春彦ははっと顔を上げた。
「なるほど・・・人間は溶けて消えたりはしない、か」
 呟いて瓶を握りしめる。もしやという思いが胸を満たす。
「そう。人間は溶けません。ひょっとして、あの子はまだあそこにいるのかもしれません・・・そして、今のあの子に足りない真雪は、ここにあります」
 藤田はリュックを足下から取りよいしょと背負った。
「あの子が消えたところにその『真雪』を置いて下さい。そして呼んであげて下さい。強い・・・とても強い思いがあれば、あるいはこちらに戻ってこれるかもしれません」
「本当に、可能だと思うか?」
 春彦の問いに藤田は静かに首を振る。
「理論上は、可能だと思います。とは言え前例も、保証もありませんが・・・今更何が起きたって不思議はないでしょう?」
 言い置いて藤田は歩き出す。
「なあ藤田・・・」
 春彦は遠ざかっていく背中に声をかけた。
「これ、誰なんだ?」
 藤田は足を止め、首だけで振り返った。
「私の妻・・・つまりあの子の母親ですよ。形見と言えばそれだけなんです、無駄には・・・しないで下さいね」
 言ってひらひらと手を振り、藤田はまた歩き出した。
 もしも・・・もしも娘が帰ってきたなら。
 今度は何をお土産にしようかと考えながら。


 その小さな公園は、鮮やかな彩りに包まれていた。
 春彦はそこで冬花に名前を付け、そこで初めてキスをし・・・そして別れた。
「・・・・・・」
 ベンチに近づき、春彦は桜の木を見上げる。
 一ヶ月前、雪をかぶっていたその樹に今はピンク色の花が息づいていた。
「冬花」
 春彦は呟いてポケットから小瓶を取り出した
「まだ散るには早いが・・・桜、咲いたぞ」
 しゃがみ込み、あの日冬花が立っていたそこに真雪を瓶から落とす。
「言ったとおり見事なものだろ?おまえ、見たがってたよな・・・」
 辺りを見回す。
 平日の昼間とあって今だ人気はないが、夜になれば花見に訪れる人も多いだろう。
「俺の声が聞こえるか・・・?俺の思いが伝わるか・・・?俺は、おまえを連れ戻せるのか・・・?」
 呟いた春彦の脳裏にふと声が甦る。

『春彦さんの姿は、眼に頼らなくたって見えますから・・・春彦さんの声は、耳を使わなくたって届きますから・・・私の全てが、春彦さんを感じてますから・・・』

 春彦は深く息を吸い込んだ。
「おまえが見てるかもしれないってのに、いじけてるわけにはいかんな」
 呟いて鞄に手を突っ込む。
 赤い髪を軽く掻き上げ、その頭に取りだしたニットキャップをぐっとかぶって春彦はニヤリと笑った。そのまま、力強い視線で天を仰ぐ。
「あいつらが教えてくれた・・・俺らしくあること。それが俺の役目だ・・・つらいのを我慢して殻の中にうずくまってるのは俺らしくはないよな。俺はもっとわがままで・・・自分勝手な人間だよ。実際」
 春彦は首を左右にほぐし、軽く屈伸をして目の前の樹に・・・ひときわ立派な枝振りの桜に向き合う。
「だから、確率とか迷惑とかそう言うのは全部無しだ。俺にはおまえが必要だ!こんなに早く逝かれるわけにはいかん!帰ってきてもらうぞ!」
 トントンとつま先で地面を打つ。
「またしても力技ってのがちょっとあれだが・・・」
 春彦は言いながら片足を軽くあげた。
「あの日の続き、2人で見よう・・・」
 ひゅっと息を吸い込む。
「覇ぁぁっ!」
 呼気と共に気合いの声を放ち、春彦は力の限り木の幹を蹴りつけた。
 重く鈍い衝撃が枝を這い、そこに咲き誇る花を宙に舞わせる。
 一瞬の・・・だがそれは、まごうことなき桜吹雪!
 舞い散る桜を見上げて春彦は限界まで息を吸い込んだ。
 呼ばなければならない。もはや半身とも言える・・・大切な人の名を。
「冬花ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!」
 
 轟っ・・・!

 叫びに答えるかのように、風が渦巻いた。
 前兆もなく吹き荒れた強く早い風に巻き上げられ、前が見えないほどの桜が舞う。
「くっ・・・」
 春彦は片手で目を庇い、それでも尚真っ直ぐに前を見つめる。
 あり得ない量の、あたりをピンク色で埋め尽くす壮絶な桜吹雪の先に何かが見えた気がして、春彦は目を凝らした。

 
 浅野は煙草を投げやりに吹かしながらスロットのボタンをぽんぽんと押した。
 学生が多い龍実町はパチンコ屋も多い。その中の一つで浅野は暇を潰している。
「・・・あの野郎」
 呟いて又ボタンを叩く。
「まさか燃え尽きたわけじゃねえんだろ?」
 スロットの目は揃わず、浅野の苛立ちはより増していく。
「ったく・・・奇跡の一つや二つ起こしてみせろってんだよ・・・この浅野景子が、生まれて初めて・・・」
 くわえ煙草の端からぶつぶつと呟きをもらして浅野はスロットのボタンを押した。
 一つ。
 二つ。
 三つ。
「ん?」
 四つ目を押し込もうとして、浅野は首を傾げた。鼻先をかすめて、何かが落ちたのだ。
「なんだこりゃ・・・桜ぁ?」
 見下ろした膝の上に一枚の花びらが踊る。
 そのまま見上げた天井にはもちろん何もない。入り口は遠いし第一この辺に桜の木は無い。周りに人も居ない。
「なんでこんなとこに・・・」
 呟いてふと思い出す。
 桜の花・・・それを見たがっていたという少女の事を。
「冬・・・花?」
 震えた手が触れていたスロットのボタンを押し込み、一瞬置いて大量のコインが溢れだす。だが、浅野はそれには構わず立ち上がった。
 煙草を灰皿に押し込み受け皿からまだ溢れ続けているコインのうち一枚だけを掴み走り出す。
「記念に・・・あいつらが帰ってくる記念にな!」
 一声叫んで、浅野は走り続けた。
 どこの桜かは知らないがそんなことは関係ない。どうせ、あいつらはあそこに帰ってくるに決まっているのだ。自分はそこで待ってればいい。いつものように冷やかして笑おう。
 大好きな、あいつらを。


「あんたね、ナンパすんならもっと工夫したら?」
 すげなく言われて佐野はがっくりと肩を落とした。声をかけたばかりの美人女子大生はさっさと歩いていってしまう。
「うーん・・・何か最近勝率が悪いなあ」
 ずっと前から悪いのは取り敢えず脇に置いて佐野は呟き空を見上げた。
「あ、タカ君じゃん!やっほー!」
「え?」
 呼ばれて視線を左右に巡らすが、見渡した視界に見覚えのある顔は居ない。
「んー・・・空耳かな?」
「なわけないでしょおがっ!下よ下ッ!」
 ぼすっ。
 叫び声と同時に強烈なボディブロウを喰らって佐野はへなへなと崩れ落ちた。
 しゃがみ込んだ視界に、腰に手をあててこっちを見下ろしてくる背の低い少女が写る。
「や、やあ遠藤・・・相変わらず、いいパンチだね・・・」
「タカ君が弱過ぎなんじゃない?」
 少女・・・遠藤かなえはそう言って薄い胸を反らす。
「お、佐野じゃねえか。相変わらず振られ街道をひた走ってるか?」
 遠藤を追いかけて走ってきた背の高い男に声をかけられて、佐野は腹を押さえたまま笑って立ち上がった。
「ああ、水島さんこんにちは・・・今日もデートですか?」
 遠藤が照れてぐにぐにと指をこねてるのを横目で見ながら水島景一は肩をすくめる。
「ま、俺達のデートってのはなんかのトラブルに巻き込まれて走り回ることを指すんだけどな」
「はぁ、大変ですねえ」
 佐野は、大学の入学式の後に出会った凸凹カップルを眺めて何度も頷いた。
「にしてもどーしたの?最近元気ないじゃん」
 遠藤言われて佐野は曖昧な笑みを浮かべた。
「ちょっと・・・悲しいお話を、目撃しちゃったからかな」
「悲しい話?」
 眉をひそめる水島をよそに佐野は空を見上げる。
「暖かすぎる冬の・・・のんびり屋な白雪姫の物語・・・」
 呟く佐野を見上げて遠藤は首を傾げた。
「ふーん・・・ま、よくわかんないけどさ。白雪姫だったら最後は王子様にキスして貰ってハッピーエンドっしょ?だいじょーぶじゃないの?」
「うわ、ベタだぞそりゃあ・・・その少女体質何とかならねえのか?」
 苦笑混じりの言葉にムッとしたらしい遠藤がコンパクトな振りでボディーブロウを放ち水島はそれをスウェーして回避する。
「・・・そうだね。そう、だよね」
 じゃれ合う2人を見ながらそう言って笑った佐野の目の前を、花びらが一枚舞った。
「あれ?この辺、桜の木あったっけ?」
「通りの向こうにならあるけどな・・・ここまで飛んでくるとは珍しいぞ」
 不思議がる2人をよそに佐野は大きく頷いてもう一度空を見上げた。
「大丈夫ですよね?きっと・・・」
 

 ふと気配を感じて友美は顔を上げた。
「・・・なわけないか」
 呟いて視線を落とし持ってきた大きな鞄に荷物を詰め込む。
 今まで済し崩し的に荷物を置いていたけど、もう潮時だろう。
 そう思って、友美は春彦の部屋を訪れ自分の荷物を整理していた。それは、あの二ヶ月の思い出を整理すると言うことで・・・
「あ、これ・・・」
 友美は荷物の中から何冊かの本を取りだして息を詰まらせた。
 それは、子供向けの料理マニュアルだった。冬花にせがまれて、友美は何度と無く料理の基本を彼女に教えたものだった。
 結局冬花の料理はあまり上手くならなかったが、その時間はとても・・・
「楽しかったな・・・」
 微笑んで友美はそれをそっと抱きしめた。
「たしか、最初に教えたのは・・・と」
 ふと思い出してページをめくる友美の手が止まった。
 はらり。
 何気なく開いたページからピンク色の花弁が落ちる。
「桜・・・?何でこんな所に・・・」
 呟いて友美は大きく目を見開いた。
「まさか!」
 勢いよく跳び上がり窓の外をじっと眺める。
 そして、『あの』公園に人影を見つけて友美はぐっと親指を立てた。
「大丈夫・・・きっと、上手くいくよね。あたしの・・・あたしの大事な・・・」
 言ってちょっとせつない微笑みを浮かべる。
「あたしの大事な『相棒』は、奇跡くらい簡単に起こしてくれる人なんだから!」
 一人頷き友美は振り返った。そこには、中途半端に詰め込まれた大きなバックがある。
「よいしょ」
 友美は躊躇無くそれをひっくり返した。溢れ出る荷物の中からエプロンを掴み、軽い足取りでキッチンへ向かう。
 おいしいと言ってくれる2人が帰って来る。
 友美が料理をする理由は、それで十分だった。


「あいつら・・・」
 春彦は一瞬だけよぎった光景に苦笑した。
「期待過剰だよな・・・でも、あいつらは待ってるぞ!そして誰よりも俺が、おまえを必要としてるんだ!だから戻って来い!俺の元に・・・帰ってこい!冬花ッ!」
 叫びと共に、ふっと桜が消えた。
「・・・!」
 春彦は慌てて右へ左へと視線を動かす。
 何もない。
 待ち望んでいる少女も、降ったはずの桜も、そして・・・足下の雪すらない。
「そんな・・・幻だというのか・・・?」
 呟いた春彦はふと口をつぐんだ。
 背後に、背中合わせに立っている誰かの感覚。それに気がついたのだ。
「冬花?・・・いや、似ているが違う。細雪でもない・・・」
「・・・雪音」
 背後の誰かは、澄んだ声でそう呟いた。
「私の名は、藤田雪音・・・あなたの待ち人の、母です」
「・・・そうか」
 春彦は足元を見た。そこにあった筈の真雪はなく、背後にはそれを名乗る人が居る。
「結局・・・冬花を呼び戻すのは無理だったのか?」
 放たれた苦しげな問いに首を振る気配がする。
「私が達也さんと再び契れば、あの子は帰ってきます・・・元通り成長するのに十八年かかりますし、記憶が戻らない可能性もありますけど」
 春彦は深い溜息をついた。
「やれやれ・・・その頃俺は三十代後半か。それに、十数年間ロリコン扱いされなければならないとは」
 背後の気配は軽く身じろぎをした。
「諦めは、しないのですか?十年以上待つと?」
「当然だ。あいつが帰ってくるのなら俺は何十年だろうが待つ」
 雪音は軽く微笑んだようだ。気配が揺らいだ。
「本当に・・・いい人を見つけたみたいですね。あの子は・・・」
「どうだろうな。苦労をかけ通しのような気もする」
 春彦は言いながら空を見上げた。頭上に伸びる、暖かな花を通して。
 自分でも不思議だが、迷いや苦痛は一切無い。どんなに先だろうが、冬花にまた会えるならそれでいい。
 記憶は・・・それに関しては心配していない。何せ一度は白紙からはじめた2人だ。戻らなくても、またお互いが好きになるのはわかっている。
 雪音はふぅと息を吐いて再び口を開いた。
「あなたになら、安心して娘のことを頼めます・・・幸せにしてあげて下さいね?」
「ああ」
 反射的に呟いて春彦は眉をひそめた。
「何だと?」
 慌てたような声を聞きながら雪音は静かに桜を仰いだ。生涯里から出なかった彼女にとって、初めて見る春の花だ。それは、夫から何度と無く聞かせて貰った光景で・・・
(抱いてあげることもできなかったけど、やっぱり親子なのね)
 自分の娘もそれを見たがったとわかって、雪音はおかしくなって笑った。
「何もしてあげられない駄目な母親だったけど・・・娘の大切な人と、少し話してみたかったの。ごめんなさいね・・・」
 雪音はゆっくりと目を閉じた。
「今の私は真雪に残っていた意識を娘の意識に被せて出てきただけですから・・・だから、そろそろあなたに娘を返します」
「・・・・・・」
 春彦は目を見開いて何も言えなかった。それは・・・つまり?
「そうそう・・・夫に伝えて下さい」
 背後の気配が大きく揺れる。
「さくら・・・本当に、綺麗ですね・・・あなたの言うとおりでした・・・」
 春彦はバッと振り返り崩れ落ちた体を抱きとめた。
 白いブラウスに同じく白いスラックス。頭には春彦と同じニットキャップ。あの日のままの少女が、今腕の中に居る。
 白い肌と銀の髪を持つ少女は、ゆっくりゆっくり目を開けた。
 春彦は脳裏を駆けめぐったいくつもの言葉や思いを振り払って微笑んだ。
「・・・よく、眠れたか?冬花」
 冬花は紅い瞳を大きく見開いた。大きな目をパチパチと瞬かせる。
「え、あ・・・おはようございますー」
 のんきな声に春彦はかくんと肩を落とす。
「・・・一ヶ月ぶりだと、天然も結構効く」
 苦笑しながら呟いた台詞に冬花は表情を無くした。
「一ヶ月・・・?」
 ぼんやりとしていた頭に記憶が戻ってくる。
「わ、私・・・なんで・・・」
 春彦は冬花を抱いたまま肩をすくめて見せた。
「奇跡。そうとしか言いようがないな。まあ、たまにはいいじゃないか」
「生き・・・てる?」
 冬花はきょとんとしたままで呟く。
「ああ。まだまだ冬花は死ねない。俺のわがままに付き合うって約束しただろ?」
「私・・・わたし・・・」
 言って声を詰まらせた冬花の瞳に大粒の涙がいくつも浮かんだ。
「本当は、凄く・・・凄く怖かったんです・・・」
「・・・ああ」
「本当は・・・離れたくなかったんです・・・」
「・・・ああ」
「本当は・・・泣き叫びたかったんです・・・」
「・・・ああ」
 春彦は冬花の頭をぐっと抱き寄せた。
「もう気を使う必要はない・・・思いっきり、泣くといい」
「春彦さん・・・春彦さんっ!」
 冬花は春彦の胸に顔を埋めて泣いた。もう隠す必要も無理をする理由もなかったから、思いっきり泣いた。心から・・・
 とても、嬉しいから・・・
 そこに、春彦が居るから。

 たっぷりと時間をかけて泣いた冬花は春彦と並んで桜の根本に座った。
 こつん・・・と小さな頭を春彦の肩に乗せると春彦は照れくさいのか少し身じろぎをしたが結局そのまま天を仰いだ。
「一ヶ月も・・・眠ってたんですね。私」
 ぽつりと呟いた言葉に春彦は頷いて応えた。
「その間・・・ずっとずっと、春彦さん達を悲しませて・・・」
 冬花はちょっと俯き加減に呟く。
「ごめんなさ・・・」
 言いかけた冬花の唇を春彦は強引に塞いだ。
 桜の花が一枚舞い降り、春彦はゆっくりと体を起こす。
「謝ることなど何もないだろ?おまえは今ここに居るし、俺はその側にいる」
 赤い顔で冬花がこくっと頷いたのを見て、春彦は知らぬうちに笑みを浮かべていた。
 白雪姫のラストは、王子様のキス。
 ベタだと笑っておいて結局自分もやってるとは・・・ 
「さあ、帰ろう・・・俺達の家に・・・みんな、待ってるからな」
 笑いながら冬花の髪を撫でて春彦は囁いた。

 

Ending−A