朝比奈みくるの冒険 Episode.Final 〜もしくは、涼宮ハルヒの欝
いつも通りの時間にその部屋を訪ねた俺は、いつも通りに注意事項を頭の中で繰り返してからドアをノックした。
返事は無い。『はぁ〜い』といういつもの声を記憶の中でだけ聞きながらドアを開けば、そこには清潔な病室。
真っ白な内装と大きな窓、大きなベッド。そして、そこに横たわるのは―――
「・・・朝比奈さん」
朝比奈みくる、その人であった。
「朝比奈さん」
ぼぅっと天井を見上げているその顔を覗き込んでもう一度呼ぶと、焦点の合わない瞳がゆっくりゆっくりこちらをとらえ。
「―――きょんくん」
朝比奈さんは今日も嬉しそうに微笑んでみせてくれた。
「こんにちは。朝比奈さん」
あの頃のように声をかけて椅子を出してベッドサイドに陣取る。
「とりあえず、ベッド起こしますね」
言いながら枕元のスイッチを押すと軽いモーターの音と共にベッドの上半分が電動で起き上がった。姿勢の変化に伴い朝比奈さんの口元からつつ、と涎が垂れる。横になっている間に溜まっていたらしい。
タオルで拭いてあげると朝比奈さんは綺麗になった顔で「あゃ」と言ってまた嬉しそうに笑い、手をふらふら動かし始めた。
「ああ、はい。ここにありますよ」
俺はベッドサイドに置かれているプラスチックの急須と湯飲み―――正確に言えばそのおもちゃ―――を取り、彼女に渡す。朝比奈さんはもう一度「あゃ」と言って出鱈目な手つきでそれを弄くり始めた。
毎日同じ。彼女の言葉は、「お茶」だ。
やがて彼女の世界ではお茶が淹れ終わったのか、朝比奈さんは俺に湯飲みを差し出した。俺は礼を言って受取り、からっぽのそれを口に宛てる振りをする。
「・・・・・・」
期待に満ちた視線。彼女がする、数少ない意味の読み取れる動作。
「おいしいですよ」
俺はいつも通り答えると、朝比奈さんはまた嬉しそうに笑ってちょっとだけ得意げな顔になった。
「ぁぃがぇ」
―――雁が音。
彼女がかつてとっておきにしていた、その茶葉の記憶。
どうやら、「キョンくん」はまだ彼女にもてなして貰える存在であり続けていられているようだ。
「・・・かりがね、ですよ。朝比奈さん」
俺がそう言うと朝比奈さんは僅かに首を傾げた。
「ぁり、がぇ?」
おしい
「か・り・が・ね」
「ぁりがめ」
「か・り・が・ね」
「ぁりがね」
もう一息
「か・り・が・ね・・・ですよ」
「ぁ」
つかめたのか、朝比奈さんは得意げな笑顔になった
「ぁぃがぇ」
戻ってどうするんですか。
ぁぃがぇ、ぁぃがぇと笑顔で繰り返す朝比奈さんを見つめ、俺は笑顔を浮かべてみせる。
昔から、作り笑顔は得意中の得意だ。彼女を安心させる為の笑顔のままで、俺は長門から受けた説明を思い出していた。
TPPD。タイムプレーンデストロイドデバイス。
彼女達が使っていたこの航時システムには欠陥があった。人間を含む有機的な媒体に意識を記録した存在がそれを使って時を越えた場合、ごくごく僅かであるがノイズが発生するというものだ。
とはいえそのノイズは微小なものであり、連続して使用すると軽い記憶障害や意識混濁が発生する可能性があるという、その程度のものであったし、もし発症しても適切な治療さえ受ければ容易に完治することができた。
だが、あの時。
広域帯宇宙存在が、敵対「機関」がハルヒを恣意に変質させようと動き出し、そして未来人がその本当の目的を明らかにしたあの最後の事件。
これまでに無い規模での危機を、長門にも機関にも抑えきれなかった異常数の攻撃を、役立たずのマスコットである事を恥じていた彼女はメンテナンス無しでの超多重転移によって文字通り消し去った。
その3日間、全ての時間、全ての場所に朝比奈みくるは存在した。情報を集め、ささやかな妨害をし、小さな分岐を無限に積み重ねて信じられない規模のトラップを作り上げて見せたのだ。
彼女は勝った。宇宙の超知性も、世界規模の組織も、未来の彼女さえも涼宮ハルヒとSOS団に干渉できぬ世界を作り出し、しかしその代償として全てを失った。
彼女を表すデータにはもはや正常領域よりもノイズの方が多いというありさまで長門にすら手の出しようが無い程に破損しており、それを修復するにはもはや奇跡に頼るほか無かった。
だが、「奇跡」と呼べる筈の涼宮ハルヒの力はその時にはもう存在しない。皮肉にも、彼女の尽力によってそれは永遠に利用されないようになったのだ。
朝比奈さん・・・本当は偽名だったようなのだが、もはや知る術の無い名無しの彼女はそれからずっとこの病室で、なんとか立て直した「機関」が手配した病院で過ごしている。
面会謝絶の朝比奈さんだったが、元よりこの時代には存在していなかった彼女だからお見舞いに来たいと申し出る人間がそもそも少なかった。ここを訪れたのは俺と鶴屋さんの二人きり。今はもう、長い間俺だけが訪れる病室になっている。
俺は、毎日午後4時にここを訪れる。いつも通り、「放課後」に。まぁ、実のところは土日も来ているのだが朝比奈さんはそんな細かい事はどうでもよいようだ。
「今日は何を話しましょうか・・・そうだ、例のカマドウマ、覚えていますか?」
「ぁぁ、ぅ?」
そして、あの頃の事を色々と話しかける。欠損だらけの彼女のデータに眠る、ほんの一握りの無事なデータを探して。
もうこれ以上思い出せる筈は無いとわかっていても何度でも、何度でも。
「コンピュータ研の部長氏にも悪い事を―――」
「ぁ」
そうやって話していると、時々朝比奈さんが声を上げる時がある。そんなとき、彼女の視線は必ずドアの方へ向けられているのだ。
「・・・・・・」
俺には見えぬその先にはきっと、ドアを突き破るような勢いで登場したハルヒが居るのだろう。そして、壁際の椅子にはあの無表情な宇宙人が本を読んでいて、俺の隣にはオセロ盤か何かを挟んであいつが次の手を考えているのだ。
そうであってほしい。
彼女が守ったその光景を、見続けていてほしいと、俺は切に願う。
病室を訪ねてだいたい1時間。少し、喋り疲れた。今日はここまでにしようか。
俺はベッドサイドに置いてある分厚い本を手に取り、適当なページを開いてからパタンと音を立ててそれを閉じる。それは暗黙の了解、活動終了の合図。
「きが、ぇ。ぃて」
朝比奈さんはニコニコと口を動かす。意味は、「着替えてから帰るから、先に行ってて」だ。俺はええと頷いて立ち上がり、ドアへ向かう。
ノブに手をかけ、振り向いた。彼女はふらふらとこちらに手を振っている。その姿が記憶と重なり、視界が少し歪んだ。どうにも最近は涙もろくなって困る。
彼女の笑顔は変わらない。
あの頃と、SOS団が全員揃っていた頃と同じ愛らしい、満面の笑顔。
その小柄な体で飛び越えた時間が、今は止まっているかのように変わらない。
あれから、もう60年が経ったというのに。
「・・・じゃあ、また明日。朝比奈さん」
俺は軽く頭をさげてドアを閉じ、静かな廊下で今日も立ち尽くした。
「・・・・・・」
息をつき、自分の手の甲を眺める。そこにあるのは染みの浮いた、老人の手。最近はあまり食欲も無い。日課であるこれも楽ではなくなってきた。
あと何度、彼女を見舞いに来ることが出来るのだろうか。ここへ来はじめた頃には無限にも思えた時間が、こんなにも簡単に尽きるなんてあの頃は思いもしなかった。
もしも自分が倒れたとして、その後彼女はどうなるのか。
機関の誰かが、この役割を次いでくれるだろうか。
それとも。
―――誰も訪れる事の無い病室で、彼女は永遠に部活の始まりを待ち続けるのだろうか。
顔見知りの看護婦が通りすがりに挨拶をしてきたので会釈を返し、首を横に振る。考えたところで仕方が無い。全ては自分の意思ではじめた事。最後の日まで、やりとげるだけだ。
エレベーターに乗り、病院を出る。いつもは車で行き来している家路だが今日は天気がいい。久しぶりに歩いて帰るとしよう。
「かしこまりました」
機関の運転手―――当然、もう荒川ではない―――はそう言って去った。
病院はやや小高い土地に立っており、しばらくは坂道だ。あの学校に居た頃、似たような坂に文句ばかり言っていた友人を思い出して少し笑う。
ああ。
時が止まっているのは彼女だけではないのかもしれない。
年をとるごとに、意識の中で現在よりも過去が占める割合が増えていく。概念的な時間遡行だと考え、おまえの言う事は意味がわからんと仏頂面で文句を言う彼の表情を思い出してまた笑う。
もうそろそろ、いいだろう。ここまで来れば彼女の病室から見える距離でもあるまい。
彼を真似る演技をやめ、『僕』はあの頃のように肩をすくめてみた。
「―――あなたが涼宮さんと一緒になれば僕は楽になると思ったんですけどね」
60年。その遠い昔に、彼への解説役を務めていた役立たずな超能力者の成れの果てとして。
涼宮さんと彼はもうこの世界に居ない。朝比奈さんが作り上げたもう一つの世界で暮らしている。多分、『向こう側』の僕は彼をうまく言いくるめたのだろう。
二人はきっと、世界を移動した事にすら気付かぬままに居るだろう。彼らを害する『こちら側』に取り残された勢力に悩まされることなく。朝比奈さんの最後の願いの通りに。僕に残された最後の意地と矜持の通りに。
同一性の関係上唯一『向こう側』に居ない筈の長門さんは、事件のあとすぐに姿を消した。
機関では監視対象が消失したことにより処分されたのだろうと言われているが、僕は『向こう側』へ行ったのだと信じている。理論上干渉不可能である程度で、彼女が彼の傍に居るのを諦めるとは思えない。
僕は、取り残された。閉鎖空間が発生しないこの世界では、もう僕のすべき事はない。そう思った。
でも。
もしも。
もしも、向こうの僕がしくじったり、こちらの勢力が何かの策で向こうに干渉を再開したりすればどうなるだろうか。
決まってる。SOS団の出番だ。きっと彼は長門さんと共にまた駆け回りだして。そしてこの世界へやってくるかもしれない。何も無かったことにする為にだ。
そうなれば、訳知り顔でこちらの世界を解説する奴も、きっと必要だろう?
だから明日も僕はあの部屋を訪ねる。
いつか再会した時にその思い出が薄れていないように、二人で待ち続ける。
たとえみんなと離れても、どれだけの時が過ぎても。僕達はまだ、SOS団だ。
fin
※このSSは、「朝比奈みくるの欠損」というネタを下敷きにしています。インスピレーションを与えてくれたそのネタに、この場を借りて感謝をしたいと思います。ありがとうございました。
〜おまけ