−真神学園 3−C教室−

 

「おっはよぅ京一ぃ」

 突き抜けるような明るい声と共に背中を『掌打』で一撃された京一は前のめりによろめいた。

「龍麻ぁっ!あぶないだろーが!」

「武道家たるものこれくらいでバランス崩しちゃ駄目だぞー」

「うむ、龍麻の言うとおりだぞ京一。油断大敵という言葉もある」

 背後から現れた醍醐の声に京一はちっと舌打ちする。

「うるせえな。いいんだよ、龍麻相手なんだから油断しても・・・」

「を?それは愛する龍麻ちゃんになら殺されてもいいってヤツ?ヤツ?萌え萌え?」

「ぬぁ・・・な、ナニをいきなり・・・!」

 やや図星気味な言葉に動揺した京一が向き直るより早く龍麻はその場を離れていた。

「おいっ!ほっといてどっか行くな!」

「お〜い、葵ちゃん&小蒔〜!おはろー!」

 蓬莱寺京一と醍醐雄矢。美里葵と桜井小蒔。それぞれが親友であるのは周知の事実だった。だが、その二組の交流というのはこれまであまりない。

 ちなみに武道系の部活つながりで醍醐と小蒔、とりあえず性別が女なら声をかける京一と老若男女を問わず愛想のいい葵の間には若干だが付き合いがある。

「うふふ・・・おはよう、龍麻さん」

「おはよ!龍麻クン!」

 そうであるが故に、その光景はクラスの中に静かな衝撃の波紋を形作った。

有名人4人に加えて今噂の転校生。違和感がないところが逆に違和感を呼ぶ。

 特に・・・

「龍麻さん?」

「今、龍麻さんっていってたわよNE?」

 美里葵はあらゆる生徒に平等に愛想がよく、平等に線を引いている節があった。それは、否応のなく人目を引いてしまうがゆえの処世術なのだろうが、赤と黒の瞳を持つ少女を見つめるその視線には、明らかにそれを越えた・・・

「ほほぅ」

 生徒達は概ね好意的にその新しいグループの誕生を受け入れた。

 一部の、不幸にも初日から龍麻と敵対してしまったグループ以外は、だが。

 

 

 放課後、一通りの質問攻めをあしらってから龍麻はふぅと息をついた。

「よっ、おつかれさん」

「あ、逃亡兵!卑怯だぞ〜」

 放課後になった瞬間どこかに姿をくらませていた京一の声に龍麻はちょっと頬を膨らませて振り返った。

(う・・・可愛いじゃねぇか・・・)

 すねた表情の破壊力に転がりまわりたくなる衝動を覚えながら京一はいつものようにへへっと笑う。

「まぁまぁ、そう言うなって。俺は俺できっちり労働してきたんだからよ」

「・・・一人で行う、労働・・・」

「・・・龍麻、なにを想像しているのか、俺は突っ込まねぇぜ」

 下ネタをさらっと流されて龍麻はケラケラと笑った。

「で、何してたの?」

「新宿中央公園って知ってるか?そこの桜が今真っ盛りでな」

「・・・うん」

 龍麻は小さく頷く。昨夜、それを眺めてたというのはとりあえず伏せて。

「美しい桜を見ながら友情について語り合おうと思ってな」

「ほぅ、その心は?」

「美女と花見で酒がうまいツアー‘99!」

 龍麻は遠くを眺めた。口の端にニヒルな笑みを浮かべて首を振る。

「京一。減点50。不許可。再提出」

「くっ・・・まぁネーミングはともかくだ、その新宿中央公園に場所をとってきたんだ。どうだ?一緒にいかねぇか?」

 京一の声には隠すつもりもなさそうな下心が感じられる。だが、それが『いい女と仲良くなりてぇ!』というあっけらかんとしたものであることに龍麻はくすりと微笑んだ。

「うん。いいわよ?一緒に、イこ・・・」

 甘くかすれるような声に京一はビクリと背筋を震わせた。我知らず唾を飲み込む。

「た、龍麻・・・」

「もちろん、みんな一緒にだけどね!葵ちゃん!小蒔っち!醍醐君!ちょっとこっち来て〜」

 半ば予想していたオチに京一ががくっとうなだれると同時に龍麻は葵達に手を振った。

「ふふ・・・どうしたの?龍麻さん」

「うん。京一がみんなで酒盛り・・・じゃなかった、花見に行こうって」

 龍麻の意図的な暴露に醍醐はむっ、と顔をしかめる。

「京一。酒は肉体と精神を鈍らせる。おまえも武道家のはしくれだろうが」

「あいにくだがな、醍醐・・・酒を飲んだくらいで鈍るような肉体も精神も・・・俺達が足を踏み入れたこの世界じゃ役にたたねぇと思うぜ・・・」

 答える京一の声に静かな凄みを感じて醍醐は目を見張った。彼の知らない、あの旧校舎で蝙蝠を両断した蓬莱寺京一が一瞬だけ顔を覗かせ・・・

「なぁんてな!いーじゃんかよぉ〜!飲みたいんだよぉ〜!龍麻を酔い潰したいんだよぉ〜!」

 文字通り一瞬で元へ戻った。

「・・・おまえって奴は・・・いいか?おまえの言うことが正しいとしてもだ、俺達が未成年だということは変わらん。未成年の飲酒など道徳的にも社会的にも許されるものではないぞ」

「かーっ!固いねェ!いいじゃねぇかよ。龍麻も酒は好きだろ?」

 話を振られた龍麻はにっこりと微笑んで肩をすくめる。

「あたしは日本酒党よ。いいじゃない醍醐君。うまいものはうまいのよ。って言っても学生服着て飲む趣味は無いけどね」

 あっさりと言われて醍醐と京一はまとめて言葉に詰まった。

「うふふ、お酒のことはともかく・・・そうね、龍麻さんの歓迎会をかねてっていうのはどうかしら?」

 口元に手を当てて上品に笑う葵(同じく日本酒党・酒豪)の言葉に小蒔(酒に興味はあるが未体験)もうんうんと頷く。

「そうなるとアン子も誘わないとね!あ、ちょうど来たよ」

「何ィ!?あの野郎!またしても龍麻と俺の愛のひと時を引き裂きに来たのか!?」

 京一が慌てて振り返ると、ちょうど教室に入ってきたばかりの遠野杏子と目が合った。

「・・・・・・」

 杏子はつかつかと5人に近づき、京一の頬に挨拶代わりに軽いビンタを叩き込む。

「ぬばっ・・・!な、何しやがるアン子!」

「・・・自分の胸に聞きなさい」

 パンパン・・・と手を払って杏子は気を取り直したように龍麻に向き直った。

「ところで何の話?」

「うん。龍麻クンの歓迎会兼お花見会を使用って話だよ」

 小蒔の説明に杏子はパチンと指を鳴らす。

「いいじゃない、それ。あたしも参加していいんでしょ?緋勇さん」

「もちろん。じゃあ6人ってことでいいかな?」

「ふたりきり・・・酔い乱れる龍麻を・・・」

 まだぶつぶつ言っている京一に醍醐はずいっと巨大な顔面を近づけた。

「京一・・・酒を持ってきても、俺が没収するからな」

「わ、わかってるっつーの!」

「そうそう、まさかジュースのペットボトルの中身をすり替えたりもしないよねぇ?」

 龍麻の一言に京一は硬直した。

「図星みたいね。さすが緋勇さん」

 感心したような笑みを浮かべる杏子に龍麻はぶいっと指を突き出す。すかさずカメラを取り出してシャッターを切った杏子を横目に小蒔は首をかしげる。

「そうだ、先生も呼ぼっか」

「センセイ・・・マリア先生のこと、だよね?」

 龍麻の確認に混じった警戒心に、他の5人は気付かない。

「うん。いくら京一でも先生の前で堂々とお酒飲むほど度胸無いだろうしね!」

「ふふ、そうね。マリア先生なら一緒に来てくださるかもしれないわね」

 すっかり決定事項として考えているらしい女性陣にこれといった反対意見も思い浮かばなかったので龍麻はやや間をおいてから頷いてみせる。

「じゃあ、まずは職員室に行こうか」

「うん!早く行こ!」

 GOサインが嬉しいのか飛び跳ねるような軽やかさで教室を出ようとした小蒔。だが、教室の扉に伸ばした手は空を切った。

「え!?」

 直前で開いた扉の向こうへバランスを崩した小蒔は飛び込みかけ。

「わ!」

 そこに立っていた男子生徒にぶつかってしりもちをついた。

「だ、大丈夫?こま・・・き・・・」

 慌てて駆け寄った葵の言葉が困惑に止まる。

「佐久間くん・・・」

 扉を開けた男子生徒は、先日龍麻にからんできた佐久間であった。だが、彼はその後暴力沙汰を起こして停学処分になっているはずなのだ。

「おお、佐久間!停学が解けたのか?よかったじゃないか!」

 嬉しげに近づいてきた醍醐を見た佐久間の顔があからさまに歪む。

「部の方は今、謹慎中だが・・・サンドバッグぐらいなら使ってもいいぞ。一人で出来るトレーニングには限界があるが、お前のことだからじっとしても居られないだろうしな。そうだ、イメージトレーニングを試してみるというのも・・・」

「うるせえ!」

 邪気の無い顔で話しかけてくる醍醐に佐久間は甲高い叫びをたたきつけた。

「さ、佐久間・・・?」

「いつもいつも偉そうに俺を見下しやがって・・・醍醐、いつかお前にも思い知らせてやる・・・!」

 吐き捨てるように言って佐久間は龍麻を睨む。

「緋勇!もう一度俺と戦え!」

「無駄ね」

 挑戦の言葉に龍麻は即答した。

「強くなりたければ鍛えればいい。弱い心を捻じ伏せ、肉体を研ぎ澄まし、経験を積んでいけばいい。人として、一歩ずつ進んでいけばいい」

 龍麻はゆっくりと、一言ずつ区切って言葉を紡ぐ。その声の持つ刃のような鋭さに佐久間は声も出せず立ちすくんだ。

「それをせず、自分の弱さを認めず・・・ただ相手に負けてもらおうなどという挑戦では受けるだけ無駄。あたしはね、そこまで暇をしてないのよ」

 言うだけ言って佐久間を押しのけ、龍麻は廊下に出た。それを見た杏子が素早く葵と小蒔を促し後に続く。

「て、てめぇ!逃げるのかよ!」

 ようやく搾り出した佐久間の言葉に京一は肩をすくめた。醍醐の背を軽く叩いて廊下に出る。

「あんだけ実力に差があるんだぜ?逃げるわけねぇだろ。ただ、相手にされてねぇだけだってのがわかんねぇのか?」

 京一の台詞に佐久間の顔色が赤を越えてどす黒くなる。

「ほ、蓬莱寺ぃっ!」

「待て佐久間!校内での私闘など俺が認めんぞ!」

 割り込んできた醍醐にチッと舌打ちをして佐久間は身を翻した。

「糞っ!覚えてろ・・・!」

 使い古された捨て台詞を残して走り去る佐久間を醍醐は困惑の目で見送った。

 

 強者が弱者を理解するのは難しい。ことによっては弱者が強者を理解するよりもずっと。

 生まれついての強者であったこと・・・

 それが、醍醐の致命的な欠点であることに・・・未だ誰も気付いては居なかった。

 

 

−真神学園 廊下−

 

「あ、そだ」

 無言で廊下を歩き、階段をおり始めた矢先だった。固い雰囲気を吹き飛ばそうと小蒔はぱちんっと手を打ち鳴らした。

「ミサちゃんも誘おう!」

「ミサちゃん?・・・ああ、オカルト研究会の」

 転校初日に出会ったビン底眼鏡の少女を龍麻が思い出した瞬間だった。

「う、裏密だとぉ!?小蒔!余計なこと言ってんじゃねぇ!」

「うむ・・・」

 京一と醍醐が全身で拒否のオーラを放ち始める。

「醍醐君はともかく・・・京一、裏密さんのこと苦手なの?」

「だ、だっておまえ相手は裏密だぞ!?あいつは魔女なんだぞ!?あいつが一緒に来てみろ!気付いたら魔人ならぬ魔神と飲んでるなんてことになりかねねぇ!」

 さすがにそりゃないでしょと内心つっこみながら龍麻は首をかしげる。

「裏密さん、可愛いのに」

「た、龍麻・・・おまえの守備範囲の広さには感心するぜ・・・」

 恐れおののく京一に構わず小蒔は龍麻の顔をのぞきこんだ。

「どうかな。龍麻クン、ミサちゃんも一緒でいい?」

(あの子・・・どう考えても常人じゃないけど・・・『候補者』かなぁ・・・なんかそういうのとも違うような?まぁいっか)

「おっけ。宴会をするなら、大勢の方がいいってね」

「そうこなくっちゃ!じゃあ霊研の部室に行こうよ!」

 

 カララララ・・・

「あれ?ミサちゃんいないや」

 軽い音を立てて開いたドアの中を覗き込んで小蒔は首をかしげた。

「・・・大丈夫。居るみたい」

 龍麻は右の目を閉じ、義眼に神経を集中しながらそう答えた。確かに室内に人の気配は無いが、氣とは微妙に違う何かが室内に満ちている。

「うふふ〜、オカルト研へ、ようこそ〜」

 はたして、龍麻の声にかぶさるように少女の声が室内に響いた。

「うぉっ!で、出たな裏密っ!」

「みんなおそろいで〜、ミサちゃんうれしい〜」

 さっきまで、確かに誰も居なかったはずの椅子に、今は眼鏡の少女が座っている。黒い頭巾のようなものをかぶり水晶玉に手をかざしている彼女こそ、この部屋の主である裏密ミサその人である。

「ねぇミサちゃん、これからみんなでお花見に行くんだけどミサちゃんも行かない?」

「お花見、桜、紅き王冠〜。場所は何処〜?」
「中央公園だけど?」
 小蒔の言葉を聞いたミサは水晶玉を覗き込んで目を細めた。
「ここから西の方角ね〜。7(ザイン)に剣の象徴あり〜紅き王冠に害なす剣〜〜。鮮血を求める兇剣の暗示が出てるわ〜。はっきり言って方角が悪いわね〜」
「え〜!?せっかくのお花見なのにー!」

 小蒔の悲しそうな声にミサはうふふ〜と笑う。

「信じるか〜信じないかは〜みんなの自由〜。それに〜、ミサちゃんの占いは起こることを予言するだけ〜。結果はみんなしだい〜」

「・・・なるほど。紅き王冠、害なす剣ね」

 龍麻は僅かに左目を細めて呟いた。

「ねえ杏子ちゃん。新宿と剣で思い当たる事件、ないかな?」

「え?」

 話に参加していなかった杏子はいきなり話を振られて一瞬だけのけぞったが、すぐに記憶を検索し始めた。

「えっと、剣、剣、刀?新宿中央公園・・・あ!」

 口に手を当てて叫んだ杏子に全員の視線が集まる。

「国立博物館で展示されていた刀が一振り盗まれてるわ。しかも、警備員や警報を掻い潜って忽然と消えうせたの。はっきり言って、人間技じゃないわね」

「盗まれた刀は、最近華厳の滝から発見されたという曰く付きの刀。徳川に仇なすと噂されていたその刀に刻まれた銘は・・・」

 杏子の言葉を引き継いだ龍麻はそこで一度言葉を区切り、視線を京一に向けた。

「村正。妖刀として悪名高き・・・村正よ」

「・・・血をすするって言うアレか・・・爺さんから聞いたことがあるぜ。どっかに封印されてるって聞いたんだけどな」

 数秒の沈黙。

「ま、それはそれとして」

 龍麻はそれを打ち破って明るい声を出した。

「どうするの?裏密さん。一緒に来る?」

「ん〜、やっぱり〜参加するのは止めておくわ〜」

 ミサはにぃっと笑って付け加える。

「まだその時じゃないから〜」

「・・・へぇ」

 龍麻は無意識のうちに再度左目を細め、肩をすくめた。

「しょうがないね。じゃあみんな、いこっか」

「そうね、小蒔。じゃあ、さようなら。裏密さん」

「ま〜た〜ね〜ぇ?」

 

 

−真神学園 職員室

 

「あれ?マリア先生いねぇぜ?」

 霊研の時とはうって変わって真っ先に職員室に足を踏み入れた京一は拍子抜けした声を上げた。

「ん・・・タイムカードには打刻されてないから、まだ校内に入るみたいだね」

「そっか。じゃあ机のところで待たせてもらおうよ」

 龍麻の言葉を聞いて小蒔はそう言ってマリアの机の前に立った。他の5人もそれに続く。

「ほう、珍しい面子がやって来たな・・・」

 職員室の中心にぼーっと立っている異様に目立つ集団に、職員室へ帰ってきた犬神杜人教師は呟いた。

「一つ聞きたいんだがな」

 犬神はその集団に近づき声をかける。

「あ、犬神センセ。可愛い龍麻ちゃんの秘密のアレでも聞きたいんですか?」

「なんだそれは・・・俺が聞きたいのは一つだけだ。おまえら、旧校舎に入ったか?」

「な・・・!」

 思わず叫びかけた京一を目で制して龍麻はにっこりと微笑んだ。

「入ったといわれれば入ったような、出たような、喰う寝るところに住むところ・・・」

「まあ、入るところを見てたんだがな」

 犬神はにやっと笑って龍麻の誤魔化しを遮る。

「・・・センセイの、いけず」

「・・・ふん」

 すねたような龍麻の表情に苦笑し、犬神はすっと真顔になった。

「いいか、あそこには近づくな。二度とだ。危険だからな」

「犬神先生!あそこにあるモノを知っているんですか!?」

 その意味深な言葉に杏子は思わず叫んでいた。犬神はニヤリと笑って目を細める。

「あそこにあるモノ?何があるっていうんだ遠野。俺はただ、あの校舎は老朽化して床板も脆くなっているから、踏み外して怪我をしたら危ないと言いたかっただけなんだが?」

「え?・・・や、やだなぁ先生、お茶目なんだから。はははは・・・」

 乾いた笑いを浮かべている杏子から視線を外して犬神は廊下の方を見た。

「マリア先生に用か?彼女なら旧校舎の事で教頭先生と話していたからもうじき戻ってくるはずだ。彼女も大分あの建物にはご執心のようだな・・・」
「私たち、これからマリア先生を誘って一緒に緋勇さんの歓迎会を兼ねてお花見にいこうと思っているんです」

葵の言葉に、『こいつも来るとか言ったらどうしよう』と顔をしかめた京一だったが、幸い犬神が口にした言葉は全く違うものであった。
「花見か・・・そうだな。今が盛りだからな。まあ、俺は桜の花が嫌いだから興味ないが」
「桜の花が嫌いだ、なんて、まさか昔桜の木の下で思い切り振られた事があるからとか」

にやにやしながら混ぜっかえす京一に犬神は意外なことに真顔で首を振る。
「そんな大層なものじゃない。俺が桜の花を好きになれないのは、桜が人に似ているからだ。美しく咲き誇る桜も、一瞬の命を生きる人も、たとえどんなに美しかろうが、やがては散ってしまう。俺には、桜の花も人の命も散りゆく為に無駄に咲き急いでいるように感じてならない」

犬神にしては珍しい自分についての話に、葵は真っ直ぐ向かい合い口を開いた。

「私には・・・そうは思えません。いつか散ってしまうはかない命だから・・・だからこそ、桜は美しいんだと思います。時が限られているから、人は一生懸命に強く、優しく生きていけるのだと、私はそう思います」

「・・・それは君がまだ、死というものを理解していないから言える戯言だ。それが悪いとも、言わないがね」

「・・・先生の言い方は、いくつもの死を見つめてきたように聞こえますね」

 龍麻の言葉に犬神はふっと笑う。

「おまえらよりは長く生きてるからな。それよりも花見ということは、中央公園だろう?」

「ええ。先生も来ます?」

 さらっと言う龍麻に京一はのけぞった。

「ば・・・!お、おまえ何を言い出すんだ!せ、先生様だぞ?忙しいにきまってんだろ!?」

「・・・おまえらはマリア先生を誘いに来たんだろう?マリア先生は俺よりも暇だとでも言いたいのか?」

 ぐっと京一が言葉に詰まったのを見て犬神は再度軽い笑みを唇にのせ、踵を返して歩き始めた。

「・・・まあ、気をつけることだ。桜以外のものが、散らないようにな・・・」

「・・・ええ、大丈夫ですよ。あたしが居ますから」

 龍麻の声にちらりと振り返り、かるく頷いて犬神は職員室から出て行く。

「・・・なんだ?いまの?」

 しきりに首を捻る京一に曖昧な笑みで答えず待つこと数分。再度開いた職員室のドアから、今日も真っ赤なスーツに身を包んだマリア教師が現れた。

「あら?どうしたのかしら?」

「私達、これからたつ・・・緋勇さんの歓迎会を兼ねて新宿中央公園にお花見をしに行こうと思うんですけど、先生もご一緒していただけませんか?」

 微笑と共に首をかしげるマリアに葵はちょっと慌て気味に話を切り出す。

「うふふ、そうね。ワタシも担任として緋勇さんを歓迎したいわ」

 マリアは二つ返事で頷き、そのまま京一に視線を向けた。

「でも、お酒は駄目よ。日本では未青年の飲酒は禁止されてますからね」

「ぅ・・・」

 たじろぐ姿に笑みをもらし、まとめに入る。

「先生も急いで仕事をかたづけるから・・・6時に中央公園でいいかしら?」

「うん!じゃあボクたちもいったん帰ろっか。まだ6時まで時間あるし」

「そうね・・・では、先生。また6時に」

 

 

−真神学園 校門前−

 

「さてっと、俺は先に行ってるぜ!また後でな!」

「うむ・・・飲み物くらいは買わねばならんな・・・」

「あたしは部室の方に戻るわ」

「あ、ボクも!また後でねっ!」

 口々に叫んで去って行く面々を微笑ましげに眺めて葵もまた歩き出そうとした瞬間だった。

「おおっと、ちょい待った。葵ちゃん」

「はぅ!?」

 いきなり袖を引っ張られた葵は軽くよろめいてから背後の龍麻に向き直る。運動神経の発達した彼女にしては珍しいそのリアクションは、『葵ちゃん』という呼称の影響が大きい。

「あのさ、結構シリアスにピンチなあたしなのよ」

「え?」

 きょとんとする葵に龍麻はうむ!と腕組みなどする。

「あたし、新宿中央公園までの道筋、よく知らないのよね」

 昨日は送り迎えしてもらったしなぁ、と心の中で付け加えて龍麻は葵の顔を覗き込んだ。

「というわけで・・・一緒に行ってくんない?時間までその辺で時間潰して」

「え・・・!は、はい!よろこんで!」

 妙に意気込んでしまった自分に赤くなっている葵を微笑ましげに眺めて龍麻はパチンと指を鳴らす。

「じゃ、そういうことで!近くに喫茶店見つけたからそこ行こっか?たしか『CherrySnow』とかいう」

 

 

新宿中央公園

 

「見事な桜・・・綺麗」

 中央公園に足を踏み入れた葵はその見事な桜に息を呑んだ。

(・・・葵ちゃんも負けないくらい綺麗だけどね)

 思わず浮かんだ言葉をあまりに気障だと飲み込んで龍麻は曖昧に微笑み、かけていた携帯電話をしまい込んだ。

「葵ちゃん。少し悩んでるみたいだね。元気がないよ」

「え・・・」

 桜から視線を外した葵の目が迷いに揺れているのを見て龍麻はゆっくりと待った。

 桜の花びらが無言で二人の体に降り積もり、そして。

「・・・私・・・自分の力が怖い・・・」

 葵の芸術品のような唇からこぼれたのは予想通りの言葉だった。

「力がどんどん強くなっていくのがわかるの。暖かい何かが私の中で育ってる・・・でも、それが・・・まだ眠っているそれが本当に目覚めたとき、私はどうなるの?」

 その恐怖は龍麻にとっては本当の意味で理解は出来ない。それでも頷き、続きを促す。

「この力は一体何なの・・・?私はどうなっていくの・・・」

 自分自身を抱きしめるようにして葵は俯いた。

「ううん、私はどうなってもいい・・・でも、もしこの力が龍麻さんを・・・みんなを傷つけてしまったら・・・私は・・・」

「大丈夫だよ。葵ちゃん」

 龍麻は、その震える体を抱きしめて耳元に囁く。

「悪い力なんて存在しないのよ。あるのは、力を悪用する奴だけ。力に溺れ、力に支配される人間がいるだけ。葵ちゃんはどちらにもならない・・・ううん、なれないよ。絶対に」

 かつて犯した、取り返しの付かない過ち。

 決して消えない罪。

 そして今、腕の中に居る償うべき少女。

「大丈夫!自分を嫌いになっちゃ駄目。自分を怖がっちゃ駄目。そして・・・もし、あなたが自分を信じられなかったとしても・・・」

 抱き寄せた体に、いつしか震えはなくなったいた。

 左の義眼を閉じ、残っている右の瞳でその美しい黒髪を眺めて龍麻はその背をぽんぽんと叩く。

「あたしが居る。みんなはあたしが守る。何も恐れることはないの。あたしを信じなさい・・・あなた達の助けがあれば、この世界そのものだって守ってみせるから・・・ね?」

「・・・うん・・・信じる・・・」

 葵はうっとりと呟いた。

 思えば、誰かに抱きしめられたのはどれくらいぶりだろうか。

幼い頃からしっかりした子として評判だった彼女は誰かに甘えるのが下手な少女でもあった。無論、今とて高嶺の花として偶像視されている彼女を抱きしめようとする無謀な男が居るわけもない。

(あったかい・・・)

 ただ、肌が触れ合っている。それだけで何もかも大丈夫だと思ってしまう自分に気恥ずかしさを感じながらも葵は一層強く龍麻の体に抱きついてみる。

「龍麻さんが言うなら、信じる・・・」

「・・・ありがと。全部大丈夫だから」

 声はあくまで優しく。

(我ながらよくほざく・・・どの口で言っているの?この子たちの中心を抉ったこの私が?・・・何も告げてないくせに・・・?この・・・卑怯者が・・・!)

 心中では血を吐くように自らを罵倒し、龍麻は葵の体を受け止める。

「・・・龍麻さん?どうしたの?」

 ふと顔を上げた葵の声に龍麻は笑顔を作り直して首を振った。

「いやいや、触れ合った胸と胸がきもちいーなーとか」

「・・・ぁ!」

 途端、葵は弾け飛ぶように飛びのいて縮こまった。真っ赤になって上目遣いに龍麻の様子を覗う。

「いやいや、結構なものをお持ちで・・・」

「そ、そんな、私なんて・・・」

 ごにょごにょと呟いている葵に龍麻は今度こそ本当に微笑んだ。

「ま、気にしない気にしない。女の子同士だし。なんならあたしの揉んでみる?やらかいよ?それに、体鍛えてるから仰向けになっても形が崩れない!脅威の張りをご賞味あれ!」

「それ、凄い・・・じゃなかった、そんなはしたない・・・」

 耳まで真っ赤になってぶんぶんと首を振っているのを眺めて『冗談なんだけどなぁ』と呟き入り口の方へ視線を向ける。

「お、小蒔ちゃんと杏子ちゃんが来たわ。この場の話は秘密って事でね」

 葵がこくりと頷くと同時に小蒔と杏子がブンブンと手を振りながらその場へやって来た。

「みんな〜、お待たせ!」

「やっぱり京一は来てないわね。待ち合わせまであと5分。来なかったら罰ゲームで一曲歌わせましょ」

「そりゃあ残念だったな」

 ニヤッと笑う杏子だったが、その背にすかさずツッコミが入る。

「んなこたぁお見通しだ!蓬莱寺京一、見参っ!」

「うわっ・・・きょ、京一が時間より早く来るなんて・・・スクープよ!」

 恐れおののいている杏子に、いつの間にか現れていた醍醐は腕を組み豪快に笑う。

「それは違うぞ遠野。京一はここで席取りをしていただけだ。最初から居たのだから、遅れようがない」

「ちっ。醍醐!言うのが早ぇえぞ!もうちょっとからかってやろうと思ってたのに・・・」

 途端に騒がしくなる一同に紛れ、龍麻は静かに目を細めた。

(傷つけさせたり、するわけがないよ・・・失ったものは取り返せなくても・・・これ以上、何も失わったりは、しない・・・)

 

 

「では、転校生こと緋勇龍麻さんへの歓迎をこめて・・・乾杯〜!」

 (何故か)杏子の音頭で一同は手にしたコップをそれぞれ掲げた。

「かんぱ〜い!」

 6時ちょうどに現れたマリアと共に京一が敷いておいたビニールシートに車座に座り、6人の声が唱和する。

「さささ、まぁ飲めやひーちゃん」

 早速からんできた京一の差し出したコップを受け取り龍麻は右目を閉じて義眼でその中身を覗く。

「アルコール検出。カクテルを混ぜ込んでるわね?」

「なななななにを!?」

「京一っ!何慌ててるんだよっ!」

 激しく動揺している京一の口を慌てて塞いだ小蒔に、葵はジト目になって自分のコップを見つめる。

 ・・・小蒔に渡された。謎の液体の入った。

「小蒔、ひょっとしてこれ・・・」

「な、なななななな何?ぼ、ボクは知らないよ?」

「馬鹿!おまえこそボロボロじゃねぇか!」

 京一は叫び、そろそろと視線を横に移した。

「・・・蓬莱寺クン?桜井サン?」

 そこに、美しい笑顔があった。

「あ、あはははは・・・なんすか?マリア先生」

「出しなさい。今すぐによ?」

 京一と小蒔に手を差し出す女教師マリア・アルカード。

 その笑みの形をした口元に、牙が見えたような気がする。

「・・・はい」

 二人はあっけなく屈服して隠し持っていた缶入りのカクテルを差し出した。

「あ、あれだぜセンセ!ちょっと龍麻を和ませてやろうかなぁって・・・」

「もう、あなた達は・・・」

 マリアはため息混じりに2本の缶を受け取り首を横に振る。

「これはワタシが処分しますから」

「え?捨てちゃうの?もったいないよ先生!」

 小蒔が叫んだ瞬間だった。

「ふぅ、ご馳走様」

 カコンカコンと軽い音を立てて、二つの缶がビニールシートの上に置かれた。半分以上入っていたはずの中身はどちらからも消えうせている。

「?どうしたの?」

「・・・先生、酒豪?」

「そういうレベルかよおい・・・」

 小蒔と京一の呆然とした呟きにきょとんと首をかしげるマリアをよそに龍麻は葵と杏子を両脇にはべらせてご満悦だった。

「知的美人の両手に花で・・・ああ、幸せ・・・」

「ふふふ、龍麻さんったら・・・」

 苦笑する葵の余裕とは対照的に杏子はボッと顔を染めてあとずさる。

「あ、葵ちゃんは当然として・・・わたしは美人とかそういうカテゴリーには入らないわよ!目だって吊り目だし口大きいし・・・」

「確かに顔の造形では葵ちゃんに軍配が上がるけどね。杏子ちゃんには内面から噴き出す太陽みたいな魅力があるよ。一緒に居ると元気になれるの。その輝きがあなたの面差しを彩ってるわけよ。とっても綺麗」

 にっこりと、それこそ太陽のように輝く笑みで言われて杏子は彼女にしては極めて珍しく黙り込んでしまった。

「自信持ってね。あ、ちなみに葵ちゃんは言うまでもなく壮絶な美人よ。あーもう!お持ち帰りしちゃおかしら」

 返す刀で葵も赤面状態に追い込んで龍麻は頭上の桜へ視線を投げる。

「そして・・・この桜も、綺麗」

 囁くような声に誘われて一同も頭上を見上げる。

「本当に。吸い込まれてしまいそう・・・」

「あ・・・葵、髪に花びらが付いてるよ」

 小蒔の指摘に龍麻は微笑んだ。

「風流ね・・・とってあげる」

「ありがとう・・・って龍麻さん?」

 何故か顔を近づけてきた龍麻に戸惑いの声を上げる間こそあれ、

「ぱくっ・・・と」

「はわっ!?」

 ひと房の髪の毛ごと花びらをくわえとられて葵はピキリと硬直する。

「おお・・・いいなぁ・・・龍麻いいなぁ・・・俺がやったら犯罪だよなぁ」

「当たり前だ!」

 いつもどおりの漫才を繰り広げている京一と醍醐を眺めて龍麻はケラケラと笑っていたが・・・

「・・・!?」

 その顔が、不意に引き締まった。

「どうしたの?緋勇さん?」

 首をかしげる杏子を手で制し、龍麻は鋭い視線を周囲にめぐらせる。

「血の匂いがする」

「そうか?・・・俺にはわからないが・・・」

「いや、醍醐・・・間違いねぇ。こいつぁ・・・」

 戸惑う醍醐とは対照的に瞬時に顔つきが変わった京一が言いかけたときだった。

「キャァアアアアアアアアアアアアアアァァァッッ!」

 耳に突き刺さるような鋭すぎる悲鳴が響き渡った。

「楽しい時間は早く過ぎってとこかしらね・・・」

 龍麻は呟きながら立ち上がり、周囲の花見客が騒ぎ出すよりも早く走り出した。

「醍醐!」

「う、うむ・・・!」

 顔を見合わせてその後を追った京一と醍醐に続き立ち上がった葵たちの前に素早くマリアは立ちふさがる。

「あなたたち・・・どうするつもりなの!?」

「龍麻さんを追いかけます。大事な、ひとですから」

 きっぱりと言い切った葵とマリアはしばし見詰め合っていたが、

「ふぅ・・・しょうがないわね・・・」

 やがて、マリアのほうからその視線を外した。

「わかりました。でも、私も行きます」

「で、でも先生!危険だよっ!」

 慌てて叫んだ小蒔にマリアはふふっと笑ってみせる。

「危険ならなおさらよ。あなた達だけでは行かせられないわ。ワタシはあなた達の先生なんですからね」

「・・・マリア先生・・・」

 

 

「龍麻さん!」

「・・・葵ちゃん」

 背後からかけられた声に龍麻はちらりと振り返り、すぐに視線を前方に戻した。

 ほんの数百メートル離れた場所では賑やかな酒宴が繰り広げられていた公園。その、同じ敷地内とは思えぬ人気のない空間。

「てめぇ・・・その刀で人を斬りやがったな・・・?」

 袋から引き抜いた木刀を構えた京一の声に答えず男は低い唸り声をあげていた。握っている刀にはまぎれもない血と脂。

「ぐ・・・ううぅうううううぅ・・・」

 だらりと垂れていた腕がゆっくりと掲げられた。操り人形のようにぎこちなく。

「おい、ありゃあ・・・」

「操られてるね。今の動きがぎこちないからって舐めちゃ駄目よ。戦闘時にはきっちり素早くなるから。ああいうタイプは」

 言いながら鉄板入りの手甲をはめ、龍麻は氣を練り始めた。

「妖気に惹かれて動物が寄ってきたら面倒ね。さっさとかたづけるわよ・・・!」

「おう!行くぜっ!」

「うむ・・・!」

 頷きあって三人が飛び出そうとした瞬間だった。

「待ちなさい・・・!」

 それよりも尚早く、赤い風がその行く手を遮る。

「マリア先生・・・!?」

「何をするつもりなの!?相手は刃物を持ってるのよ!?刺されたりしたら・・・!」

 大きく手を広げて立ちふさがったマリアに龍麻は一瞬だけためらった。

(どうする・・・?このひとに『力』を見せていいの?それはあまりに危険・・・)

 そして、その躊躇いが事態を決定的に動かす。

「ぐぁあああああああああっ!」

「センセっ!あぶないっ!」

 咆哮と京一の声がかぶさる。

「っ!」

 動きが止まった一瞬に日本刀の男は跳躍し、マリアに掴みかかったのだ。龍麻の言葉どおり、それまでとはうって変わった素早さで。

「女・・・女ぁあああっ・・・!」

 男は喘ぐように叫び後ろから抱きしめたマリアの首に顔を押し付ける。

「くっ・・・てめぇ・・・!マリアセンセを離しやがれっ!」

 京一が一歩踏み出すとマリアは鋭い視線でそれを制する。

「わ、ワタシはいいから!みんなは逃げて・・・!」

「そんな!先生をおいてなんかいけないよ!」

 小蒔が涙ぐみながら叫ぶのを聞いて龍麻はすっと目を細めた。

(自己犠牲?・・・違う、自信があるのよ。ひとりなら、あたし達が見てなければ何とでもなるっていう・・・)

「龍麻!おい!何ぼーっとしてやがんだ!どうする!?」

「え・・・?」

 思考の淵に沈んでいた龍麻は京一の焦った声に我に返る。

(あたしは・・・こんなときにまで・・・なんていう・・・穢れた・・・)

 そのとき、マリアが動いた。

「離しなさいっ!」

絡みつく男の腕にいきなり噛み付いたのだ。

「ぎゃああああっ!」

 大げさにも思える悲鳴と共に男の腕が緩む。

 瞬間。

「掌底・・・!」

 鋭い声と共に龍麻が地を蹴った。

「ぐっ・・・!」

 広げた手のひらが男の顔を正面から鷲掴みにし・・・

「発剄!」

 バンッ!

「ぐぎぃいいっ!」

 顔面を零距離から氣の奔流で焼かれた男はそのまま地面に叩きつけられ、ねじれるようにして転がっていく。

「今のは・・・」

「いいから先生!早く下がって・・・!」

 龍麻はマリアの体を杏子の方へ突き飛ばし構えをとる。男は十メートルほど転がったところでゆらりと立ち上がった。

「うわっ!か、顔・・・治ってるよっ!」

 その顔面を見て小蒔は思わず声を上げる。

発剄で火傷と打撲を同時に受けたその顔の焼け爛れた皮膚が、陥没した頬骨がゆっくりとだが復元されていくのを見てしまったのだ。

「治るわよ。あの体はもう死んでるから。本体はあの刀。あいつをもぎ取らない限り体を粉々にでもしないと止まらない」

 龍麻は早口でそれだけ言って周囲を見渡す。

「ちっ・・・やっぱり来たわね・・・」

「え・・・?きゃっ!」

 葵はその視線を追って悲鳴を上げた。いつ現れたのか何十頭という野犬が彼女達を取り囲んでいる。その赤く光る目はあきらかに正気のそれではない。

「妖気にあてられたのよ。そいつらはあの刀さえ封じれば元に戻る」

「なら・・・俺があのポン刀野郎を!」

 意気込んで飛び出しかけた京一の足を龍麻は無言で蹴り払った。

「なんだとぉっ!?」

綺麗に半回転して顔面から着地した京一はぐるぐるともんどりうってから起き上がり抗議の声を上げる。

「京一、現実を見なさい。今のあなたが、木刀で・・・あれに勝てる?相手は真剣、しかもためらいなく殺す為に剣を握っているのよ?」

 厳しい言葉に京一の顔が歪んだ。

「お、おい龍麻・・・京一は・・・」

 慌てて間に入ろうとした醍醐を掴み止めたのは、意外にも京一本人だった。

「・・・おまえの言うとおりだ。今の・・・鈍りきっちまってる俺じゃあ正面からあいつを止められねぇ。逆に斬られるのがオチだ・・・」

 奥歯を噛み砕きそうなほど喰いしばり、それでもはっきりとそう言った京一に龍麻は軽く微笑んだ。

「・・・ありがとう」

「は?」

 予想外の台詞にぽかんと口を開ける京一の頬に龍麻はそっと手をそえる。

「あたしの選択は正しかったってわかったから。自分の未熟を素直に認められるなら、あなたは何処までも強くなれる。・・・大丈夫。京一はすぐにあんなのはまとめて倒せるような剣士になるから・・・ね?」

「お、おう・・・」

 戸惑う京一にもう一度微笑み龍麻は日本刀の男に向き直った。

「だから、今はあたしが奴をやる。一対一でなら多分無傷で倒せるから・・・」

「俺達はあの犬どもを近づけなければいいんだな?」

 言って京一はにじりよる野犬の群れを睨みつける。醍醐もそれに従い京一とは逆の方に向かい構えをとる。

「龍麻さん!わたし達は・・・!」

 葵の声に龍麻はちらりと視線を背後に戻した。

「小蒔ちゃん!この前言ったあれ!持ってきてる?」

「うん・・・でも、本当に効くの?」

 小蒔の問いに龍麻はニヤリと笑う。

「保証するわ・・・それで時間を稼いで。葵ちゃんは小蒔ちゃんのサポートに徹する!」

「・・・来やがったぜ!龍麻!」

 京一の声に龍麻は頷き・・・

「今回は対包囲戦よ!速攻でかたづけないと葵ちゃん達が危ない!3分で片付けるわよ!」

 ぐっと拳を突き上げた。

「戦闘開始っ!」

「「おうっ!」」

 声と共に京一達は野犬の群れに突入し、戦闘を始める。

「さって・・・速攻で片付けさせてもらうわよ・・・来なさい!剣鬼!」

「ぐううぅううう・・・!」

 龍麻はそれを横目に拳を握った。飛び掛ってくる剣鬼の縦一文字の一撃を軽く身をそらして回避し、すれちがうように掌底を叩き込む。

「ぐぎぃ・・・!」

 だが、剣鬼は素早くサイドステップでそれをかわし今度は横なぎに刀を振り払った。

「っ!掌底・・・」

 沈み込んで斬撃を回避し、そのままの姿勢で龍麻は手のひらに氣を集中させる。

「発剄っ!」

「ぐがぁあああ!」

 突き上げるような発剄を全身に浴びて吹き飛んだ剣鬼は一度地面に叩きつけられながらも即座に立ち上がった。

「倒れたくらいじゃ手放さないってわけね」

 トントンと軽いステップを踏んで龍麻はちらっと周囲の戦況を覗う。

 

 

「どりゃああああああああ!」

 振るった木刀は下段からの切上。斬るでもなく叩くでもなく、薙ぎ払う剣閃が野犬の群れを吹き飛ばしていく。

「くそっ・・・数が多い!」

 数秒に一匹の割合で野犬を気絶させてはいるが、それでも野犬の数はまだまだ多い。京一は舌打ちしながら休みなく剣を振るう。

「通さねぇ!通すわけにはいかねぇんだよ・・・!」

 いつしかその動きは鋭くなり、あの旧校舎で蝙蝠を両断して見せた時よりもさらに速く、正確なものになっていた。

(足りねぇ・・・あの頃の動きに戻っただけじゃ足りねぇ・・・!あいつが望んでるのはこの程度の剣士じゃねぇ!)

 苛立ちが余計な力を生み、動きがワンテンポ鈍った、その瞬間。

「ガゥッッ!」

 野犬の数匹がまとめて京一に飛び掛ってきた。

「くっ・・・まずったぜ・・・!」

 さばききれないと悟りやむをえずサイドステップで回避した京一は、自分の前を通り過ぎて葵たちのほうへ向かう犬の群れへと燃えるような視線を叩きつけた。

『あなたは何処までも強くなれる・・・』

 そして、瞬間。脳裏に響いた龍麻の声に導かれるように。

「剣掌ぉっ・・・!」

 居合いの構えで京一は一歩だけ踏み出す。特異な呼吸法でチャクラを活性化し、氣を練り、蓄える。

 遠い修行の日。師が見せた最初の奥義。

(あの頃は無理だった・・・1ヶ月前も無理だった・・・それでも俺には出来る!今なら出来る・・・いや、やる!)

「発剄っ!」

 そして、叫びと共に横薙ぎで振りぬいた木刀から不可視の衝撃波が迸った!

「ぎゃぅっ!?」

 放たれたのは龍麻のものと違い拡散する発剄。それは野犬達を殺すには至らないまでも吹き飛ばし、戦闘不能にするには十分なものであった。

「・・・出来た・・・」

 やや呆然と呟いたのもつかの間、京一はタンッと飛びのいた。背後から飛び掛ってきた野犬を視認しないまま打ち落とし、地面に叩きつけて気絶させる。

「・・・ぉおおおおおおおっ!」

 知らず口をつく咆哮とともに京一は再び野犬相手の格闘戦を開始した。

(龍麻・・・見てろよ・・・いつか俺はなる!おまえをも守れるような剣士に・・・!)

 

 

「手が足りん・・・!」

 醍醐は苦戦していた。

 もともと彼はパワーが売りである。もしもこの野犬が一塊になって襲ってきたのならばいくらでも支えたであろうが、あいにく敵は多い。

「たっ!とりゃあっ!」

 重いローキックが当たれば確実に一匹が無力化されていくが、京一のように特殊な訓練を受けたわけでもない彼の守備範囲はどうしても狭くなる。

「くっ・・・一匹逃したか・・・!」

「大丈夫!ボクが牽制するよ!」

 悔恨の呻きに凛とした声が答える。同時に打ち込まれた矢が野犬の足を止め、その間に追いついた醍醐の蹴りがその犬を3メートル以上も吹き飛ばして気絶させた。

(情けない・・・!京一は一人で向こう側を支えているというに・・・)

 

 

 一方、弓を打ち込んだ小蒔は素早く次の矢をつがえ戦場を見渡した。

「後ろ大丈夫?アン子」

「大丈夫。この樹、結構大きいからそうかんたんに回り込まれないと思うわ」

 杏子は背にした桜の樹の向こう側を覗き込んでからそう言って小蒔に視線を戻す。

「さっきから結構撃ってるけど・・・矢、あとどれくらいあるの?」

5本。こうなるってわかってればもっと持ってきたのに!」

 悔しげな小蒔の肩にやわらかな手が触れた。

「葵・・・?」

「ミサちゃんの占いが気になったから部活の道具を持ってきてくれたんでしょう?小蒔が弓を持ってきてくれていたから私達は怪我なく居られる・・・ありがとう、小蒔」

 天使とも称される微笑に小蒔は素直に頷く。

「・・・うん。過ぎたこと言ってもしょうがないよね。今は残った矢でなんとかする方法を考えないと・・・っ!来た!」

 素早く狙いをつけ、放つ。競技用の弓なので精度はともかく威力がない。急所を撃つにも相手が生き物と思うと躊躇いがある。

「やっ!」

 結果、走り来る野犬の目の前に打ち込み、醍醐が駆けつけるまでの足止めをするのが精一杯なのだ。

「あと4本・・・それまでに緋勇くんが何とかしてくれなきゃアウトね」

 杏子の緊張した声に小蒔はうんと頷いて弓袋の中をごそごそとあさった。

「ここで勝負かけるよ!」

 言いながら取り出したのは通常の矢よりも大きく複雑な形をした矢じりのついたものだ。

「?・・・桜井さん、それは?」

 それまで黙って状況を見守っていたマリアはそれを見て初めて口を開いた。

「へへ・・・鏑矢!」

「カブラヤ?」

 聞きなれない日本語にマリアが聞き返すのに答えず小蒔はその矢をつがえ、ぐっと引き絞る。そして・・・

「嚆矢!いっくぞぉっ!」

 ピィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィッ!

 放たれた鏑矢は耳を劈くような音を放ちながら野犬の群れを突き抜ける!

「っ・・・な、何・・・?」

「鏑矢というのは、先端の部分・・・矢じりが笛のような構造になっている矢なんです」

 何故かよろめいたマリアを慌てて支え、葵は説明しながらその効果を見守った。

 間近で鏑矢の轟音を浴びせられた野犬達はめまいを起こしたのかふらつき、中には倒れているものもいる。

「醍醐クン!」

「おうっ!」

 小蒔の声に従い醍醐はそれらにとどめを刺すべく駆け出した。

 

 

「みんな善戦といっていいわね・・・」

 龍麻は連続的に浴びせられる剣撃を身のこなし一つでかわす。

「ぐぁああああああっ!」

「うるさい。あんたの持ち主はその男じゃない・・・何に唆されて再び暴れだしたのかは知らないけど・・・もう眠りなさい」

 呟いて龍麻は構えを解いた。だらりと手をたらした自然体のまま剣鬼の一撃を待つ。

「龍麻っ!何やってんだっ!」

 遠くから聞こえる京一の声を耳に、心はただ一撃のことのみ考えて。

「ぐあああああっ!」

 そして、剣鬼の刃が龍麻に振り下ろされ・・・瞬間!

 パンッ!

 腕だけが自動的に跳ね上がったかのような唐突さで、龍麻の左手がその一撃を打ち払っていた。手甲に中ほどを打たれた刀は皮一枚のぎりぎりで体に当たらず背後へと流れる。

「・・・各務」

 龍麻は呟き、体内を循環させた氣を凍気に変換する。

「終わりよ・・・雪蓮掌!」

 呟きと共に剣鬼の刀を持つ右腕に手のひらを押し当てると肩から二の腕までが一気に凍結し、氷に覆われた。

「屍人は外傷に強く些細な傷は無視して戦い続ける。でもその代わりに普通の人間なら一般人でも無意識に行っている氣への防御が無い。抵抗無く中まで完全に凍り、もろくなる」

「ぐぅううう・・・女・・・女ぁっ・・・!」

 説明は誰のためにか。

 あるいは自分のやることを再認識する為かもしれない。

「師匠から教わった対屍人戦の心得は二つ。氣による攻撃が有効だって事と・・・」

 剣鬼が掴みかかってくるよりも早く凍結した肩に右の手のひらを当て、左手で刀を持つ手首を掴む。

「相手はただの物体だと割り切り、感情は全て殺してかかるって事・・・発剄っ!」

「ぉおぉぉぉぉおぁぁぁぁぁぁあああっ!」

 放たれた発剄は完全に凍結し、既に崩れかけていた関節を文字通り粉砕した。

「たぁあああっ!」

龍麻は絶叫しながら僅かに残った筋や皮を引きちぎり剣鬼の右腕を体から引っこ抜く。

「ぎっ・・・がぁあっ!」

右腕を丸ごと失った剣鬼は絶叫と共によろめき、刀を取り戻そうと左手を伸ばした。動きは、すでに鈍い。

「くっ・・・」

 龍麻は込み上げてきた胃液の苦さを呻きと共に飲み下し、顔をゆがめたまま再度手のひらに氣を集中させた。

「いい加減、消えてよぉっ!」

 小さな叫びと共に放たれた発剄は剣鬼の鳩尾に突き刺さり、その体を吹き飛ばす。

「ぐ・・・ぁぁ・・・」

 呻きと共に地面に叩きつけられた剣鬼の体は徐々に風化し、ただの土くれとなって消滅した。龍麻が握っていた右腕もまた消滅し、残った刀が地面に突き立つ。

「ぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・」

 立て続けに氣を放った疲労と、人体を打ち砕いたことへの不快感が龍麻の気力を奪う。右の瞳から一滴だけ流れた涙が汗に混じる。

「龍麻っ!大丈夫か!?」

 それでも。

「っ・・・」

背後からかけられた声に、落ちかけた膝が伸びた。表情も笑顔になりくるっと振り返る。

「ちょっち疲れたかな。あなたの胸で休ませてっ・・・」

「お、お・・・」

「なんて言うかーっ!期待したね?期待しちゃったね?萌え?萌えなの?メロメロドキューン!?」

 ハイテンションなリアクションに京一はいまいち釈然としないながらも安堵し、ばらばらと駆け寄ってくる仲間達へ視線を移す。

 野犬達は正気に返ったのか逃げ去り、あたりには静寂が戻ってきていた。

「勝ったには勝った、か」

 京一は呟き、ぐっと強く木刀を握りなおす。

「だけどよ・・・こいつじゃ人を殴り倒せても・・・さっきの奴みたいなのは倒せねぇ・・・」

「そうね。でも大丈夫。次の日曜空いてる?一緒に来て欲しいところがあるんだけど?」

 龍麻の言葉に京一は一瞬だけいつものようにからかわれているかと疑い・・・

「ああ、頼む」

 その表情を見て真剣に頷いた。

「うん。ごめんね。休日潰してさ・・・おーいみんなーっ!無事?」

 最後のは、言葉を交わしているうちにやって来ていた仲間達に向けてだ。

「そっちこそ!怪我とかしてないの?緋勇さん」

 真っ先に声をかけてきた杏子に龍麻はグッと親指を立ててみせる。

「無傷で完勝よ。ちょっと疲れたけどね」

「あなたたち・・・さっきの力は・・・」

 次いで口を開いたのはマリアだった。

「俺達にもわからないんです。何でこんな≫が使えるのか・・・この≪≫が何なのかも・・・先生。すいませんがこのことは・・・」

 醍醐の言葉にマリアは優しい笑みを浮かべる。

「わかったわ。このことはここだけの話にしておきます。遠野さんも、それでいいわね?」

「そんな!せっかくのスクープを!特ダネを・・・!」

 休む暇なくシャッターを切り続けていた杏子はその言葉に猛然と抗議し始めた。

「と、遠野さん・・・ひょっとして新聞にするつもりなの・・・?学校新聞には少し刺激的過ぎないかしら・・・」

 信じられないというような面持ちで言ってきたマリアに鋭い視線を突き刺す。

「先生っ!」

「は、ハイっ!」

 絶叫に近い声にマリアは思わず直立不動になった。

「大衆は刺激を求めているんです!報道に必要なのは真実と・・・」

 だが、熱弁を振るう杏子の肩にぽんっと手が置かれる。

「杏子ちゃん。これ、ばらしたら絶交なんでその辺よろしく」

 振り向けば、親指を立て口元だけ笑顔を浮かべる龍麻の姿がそこにあった。

目は、明らかに笑っていない。

「そ、そんなぁ・・・」

「あたしは仲間を売るような奴は、絶対に許さない。これは絶対に譲れないルールだから・・・みんな覚えといてね」

 途端にしおしおとその場にへたり込む杏子に龍麻は追い討ちをかける。

「・・・はぁい」

「よろしい。さてっと・・・」

常にない厳しい台詞に不承不承頷いた杏子の頭を撫でながら龍麻は地面に突き刺さっていた村正に手を伸ばした。

「お、おい龍麻・・・!触って大丈夫なのかよ!おまえが操られたら俺達じゃ止めようがねぇぞ!下手したら東京壊滅だ!」

「そのときはみんなの愛の力で浄化してっ・・・!」

 両手を胸の前で組んだ『乙女の祈り』なポーズで言ってくる龍麻に呆れた顔をする一同に笑顔を見せて龍麻は村正の柄を握る。

「なんてね。大丈夫。村正は持ち主を操り魂を食い荒らす妖刀だけど、陽の氣でそれに対抗することは可能だから」

 発剄を撃つときのように氣を集めた手で引き抜いた村正の刀身をしばし眺め、龍麻は歩きだした。

「お、おい!龍麻!何処行くんだよ!」

「ん・・・刀は鞘に。ただ、それだけのことよ」

 言いながら龍麻は一本の桜の木に背をつけ、刃を下に向けた村正を真横に差し出す。途端。

「確かに。回収したよ」

 静かな声と共に樹の後ろ側から突き出された腕が、携えた鞘の中にその刀身を納めた。

「な・・・!誰だ!」

醍醐の誰何に構わず龍麻が手を離すと同時に、その腕はすっと樹の向こうへ姿を消す。

「姿を見せやが・・・れ?」

 京一は慌てて木を回り込んだがそこには誰の姿もない。

「お、おい龍麻!今の・・・今の手は!」

「ん?あれはね・・・この刀の持ち主。あまり詳しいことは聞かない方がいいと思うな」

 龍麻はそう言ってニヤリと笑う。

「・・・向こう側に、引っ張られちゃうからね・・・」

「ま、まあ!あれだ!龍麻がそう言うなら俺達としては聞くこともないだろう!な、京一!」

「お、おう」

 妙に力強く言ってくる醍醐に京一は首を傾げたがそれ以上詳しいことを尋ねるのはやめた。

「さて、これでこの事件は一通り片付いたと見ていいわね。後は・・・」

 龍麻はそう言って耳に手をあてた。

「龍麻さん?どうしたの?」

 葵の問いにひとつ頷いて人差し指を立てる。

「うん。パトカーが来たからそろそろ逃げた方がいいかなって」

「な!それを早く言えよ!ずらかるぞ!みんな!」

「京一。その言い方だと俺達が犯人のようではないか。俺達はあくまでも面倒がないようにだな・・・」

「もーっ!醍醐クン!そんなこといってる場合じゃないよっ!ほら早く!」

 急にあわただしくなった雰囲気に、しかしついてきていないのが二人。

「あ、みんな行っちゃっていいわよ。情報提供で金一封ってのも悪くないわよね〜。あ、ひょっとしたらそこからジャーナリストとしての道が開けたり・・・」

「醍醐君。かまわないから適当にお持ち帰りして」

「うむ」

「ちょ、ちょっと、こら!何処触ってるのよ!」

 一方で葵は速い展開についていけずオロオロするばかりである。

「え?え?え?あ、あの、ずらか・・・?」

「逃げるの!ほら、葵ちゃん・・・手!」

 何故かその場で回転している葵の手を龍麻は手甲を外した手で握った。

「あ・・・」

 途端に安心の表情を浮かべる葵の手を引いて龍麻は走り出す。仲間達やマリアもその後を追った。

 パトカーや救急車が急停車する中、ギリギリで野次馬に紛れ込んだ龍麻達は足を止めず一目散にその場を後にして・・・

 

 後には、樹の上に佇む少年が一人、残された。

 

「・・・・・・」

 少年は鎖を幾重にも巻きつけた鞘に納められた村正を片手に、龍麻達が去った方向を眺めている。

「龍麻・・・うまくやっているようだね」

 少年は呟き、警察とそれに混じった仲間たちが現場の後始末を始めるのを見届け、たんっ・・・と枝を蹴る。

 体重がないかのように軽やかな身のこなしで枝から枝へと飛び移るその少年の表情は暗い。

「僕達は・・・君に押し付けてばかりだ・・・」

 呟きに、手にした刀がシャン・・・と鎖を鳴らす。

「ふっ・・・おまえも感じたのか?彼女に宿ったアレを・・・そうだな。おまえも出会ったことがあるのだったな」

 闇に紛れ、少年は赤と黒の眼差しを思い浮かべて視線を鋭くする。

「そう、僕は彼女を守る。宿星や任務の為ではなく・・・そう決めたのだから・・・」

 

 いつか、互いを必要としなくなる日まで。

 

 

         第三話  本幕  「君と見る、桜月夜」  閉幕

              追の幕 「そして、戻れぬ道へ」 開幕