血の匂いが気にならなくなったのはいつからだったろうか。
壬生紅葉は数え切れないほど繰り返してきた問いをぼんやりと自らに投げかけた。
新宿中央公園、舞い散る桜の中に、一人立って。
「もう、忘れるほど前に」
答えはすぐに口をつく。
今も彼の靴にはほんの僅かな血臭が漂っていた。『一仕事』終えてその足でここへ来たのだから当然だ。
「・・・壬生さん」
「ごくろうさまです」
背後から不意打ち気味にかけられた声に紅葉は顔色一つ変えずに答える。
「今回は気づかれずに近づけたと思ったんですけどね」
「僕で遊ばないでくださいと言ったはずですが?」
やや不機嫌そうな紅葉に快活な笑みを見せてやってきた拳武館監査方の少年はそのまま彼の傍らに立った。同じ制服がふたつならんで宵闇を見つめる。
「ほら、壬生さんご注文のものです。この前紹介した骨董品屋から手に入れました」
「・・・確かに。ありがとうございます」
布に包まれた、一メートルほどの何かを受け取って紅葉はすっと頭を下げた。少年はいえと短く答えて小さく笑う。
「しかし、因縁ですね。よりによってアレが盗まれて、しかもそれがこの街・・・あの人が居る新宿だなんて」
「・・・関係ありませんよ。彼女が関わるより早く・・・僕が回収しますから」
彼にしては珍しく、むきになったような響きに監査方の少年は『おや』と肩をすくめた。
「手伝ってもらえばいいじゃないですか。あの人は・・・」
「彼女をこの件に関わらせる気はありません。彼女は必要最低限の戦い以外経験するべきじゃない・・・!」
紅葉はやや強くなった語気をため息とともに収めてもう一度頭を下げた。
「ともかく、ごくろうさまでした」
「ええ、それじゃあこれで」
言外に会話は終わりだと告げてくる紅葉に少年はひらひらと手を振って歩き始める。
「ああ、そうだ」
だが、十歩ほどで足を止めた。
「どうしました?」
「公園の入り口で見ましたよ。緋勇さん。そろそろこっちに来るんじゃないですかね?」
「!」
何故それを早く言わない・・・とばかりに激昂の気配を見せた紅葉に少年はにっこりと笑ってからたんっと地を蹴った。
「待て!」
紅葉の制止を聞かずあっというまに闇の中へと学生服が消えていく。
「おーい、紅葉ー!」
「・・・龍麻」
入れ替わりに現れた少女に紅葉は無表情を装って向き直った。
「直接会うのは久しぶり・・・ってどしたの?暗い顔して」
紅葉は言葉に詰まった。彼がかぶり続けている無感情の仮面は師にすら看破された事はない。
だが、逆に緋勇龍麻という名を持つこの少女にはそれが通用したためしがない。
「・・・別に。なんでもないよ」
それでも嘘をつき続けるのは、紅葉の世界は一切の甘えを拒絶したところにあるからだ。
「紅葉ってほんとに嘘が下手ね〜」
「ほっといてくれ」
あっさり言い切られて声にすねたような調子がこもる。自分でも不思議なほど、この少女の前では自分を見失う。
それが幸せなことであるという事実を、紅葉は自覚していない。
「・・・仕事の、後なんだね」
「・・・ああ、3人殺したよ」
あっさりと、その実最大限の勇気を振り絞って紅葉は言い放つ。
「そっか」
龍麻は頷き、紅葉の傍らに並んで同じ方向へと視線を向ける。宵闇に、ぽっかりと浮かぶ真円の月。
「僕の曽祖父は新撰組にいたらしい。妖刀の所持者であり・・・数え切れない程の人を殺したって聞いたよ」
「・・・うん」
紅葉はさっき受け取ったそれをぐっと握る。
「僕もそうだ。たいした事じゃない」
「それは、どうかな?」
吐き捨てるような言葉に、龍麻は軽い口調で答えた。
「人を殺すことに何も感じない人ならね・・・殺す度にそんな泣きそうな目はしないんじゃないかな」
沈黙する横顔に龍麻は色の異なる両眼で優しい視線を送った。
「あたしもあなたも・・・罪からは逃げられないよ。でも、それで終わりにするわけにはいかないでしょ?責任はとらなくちゃね。だからそれを取り寄せたんでしょ?」
紅葉は手にした荷物の包みをゆっくりと取り払った。その下から現れたのは一本の鞘だ。幾重にも巻きつけられた鎖が異彩を放っている。
「知ってたのかい?」
「そりゃあ、ね。あたしもニュースくらいは見てるし。ご先祖様の村正、盗まれちゃったんだよね?」
紅葉は頷き、先祖の残した縛鎖を見つめた。
「そう・・・僕はあれを回収する。血を吸わずにいられないあれを、この鞘の中で眠らせる為に」
「刀は鞘に、ね」
龍麻はそう言って笑い、紅葉の手をそっと握った。握った鞘ごと自分の胸元に抱きしめる。
「それなら、拳は胸に。忘れないで欲しいな。一人じゃないってこと・・・あたしは・・・あたしだけはあなたを否定したりはしないからね」
「・・・それは僕も同じだ。君が誰であるかを・・・僕だけは、忘れたりしない。口には出せないとしても」
「ん・・・」
殺人の罪を背負い、それを捨てる術のない二人を本当に救えるのは互いではないのかもしれない。表と裏は、けして交わらない。
それでも。
ひと時でも安らげる場所がある。収まるべきところがある。
それなら、もう少しだけ、頑張ってみようと。
双龍は、互いの牙を相手に預けて再度頭上の月に眼を向ける。二人を包む桜雨の中、静かに、密やかに。
いつか救われる日を、互いを必要としなくなる日が来ることを、望み、恐れながら。
第三話 序の幕 「刀は鞘に、拳は胸に」 閉幕