朝食も終わり、荷造りをし(とは言っても僅かですが)ルヴァは屋敷を立つ準備を終えました。
もうきっとこの屋敷には来る事はないでしょう。
ここの住人は、客人が来る事を喜ばないのです。
ただ、それはルヴァが嫌いだとかそう言うのではないのです。この屋敷自体が普通の人間に関わられるのを嫌がっている‥‥そんな気がしました。
「‥‥お知り合いになれて嬉しかったんですがね」
ちょっとルヴァは残念に思いました。
道案内の者が来るまで、ルヴァはせめてもの名残りに屋敷を見せてもらう事にしました。
かなり広いこの屋敷は見応えがありそうでした。
階段を昇り、階段を降り、角を曲がり、廊下を歩く。
そんなこんなで手すりや灯り、絵画や彫刻などが目を楽しませます。
「本当に素晴らしい屋敷ですね〜。目が利かない私でも判りますよ」
美しいものを見た高揚感でやや頬を火照らせながら、ルヴァは進んでいきます。
本当に何度も言うようですが、こんな山奥に在るとは到底思えない造りです。
下手をすれば、都の王宮よりも実がある分、価値が在るかも知れない程でした。
その時、その鼻先をふいにふわっと香りが行き過ぎました。
それは‥‥。
「おや‥‥薔薇の香り?」
それは馥郁たる薔薇の薫りでした。裏庭の方から漂ってくるようです。
「薔薇‥‥アンジェリーク」
ルヴァは思い出しました。大事なもの‥‥アンジェリークの望んだお土産の事を。
上二人の娘の望んだものは、この館の方達の好意で手に入れる事が出来ました。が、しかし末娘の望んだ深紅の薔薇はその手にありませんでした。
そして次にその頭に浮かんだ事は。
(あんな高価な物を頂けたのだから、きっと薔薇の一本くらい黙ってもらってもいいかも知れない)
ドレスの刺繍は見事でした。生地も素晴らしい最上級の絹。
目立った傷もなく、目の利かないルヴァにも上質なものであるものが判る宝石。
それに比べれば‥‥。
ルヴァの足は、自然に薔薇の芳香へと向かい始めました。
暫く歩くと、突然目の前がぱぁっと開けました。
途端に鮮やかな色が、瞳に飛び込んできました。
黒、紫、赤紫、紅茶、橙、黄色、桃色、クリーム、白。
有りとあらゆる色の洪水でした。
この世にある全ての色の薔薇がそこにはあるようです。
「み‥ごとですね‥‥」
あまりの綺麗さに言葉が出ない程です。
まるでこの世ではないような雰囲気がそこには漂っていました。
そんな中、ルヴァの瞳は薔薇園の丁度まん中にに一かたまり、鮮やかな深紅の薔薇を見つけました。
それは、天鵞絨のように滑らかで、血のように紅く、まるで夕焼けのように光り、その全ての薔薇の女王の様に咲き誇っていました。
「あ‥あぁ‥‥なんて綺麗なんでしょうか」
これは、間違いなくアンジェリークの望んだ---妻が好きだった深紅の薔薇。
ルヴァはそっと一本、その薔薇を手折りました。
「‥‥何をしている‥‥っ」
突然、陽が陰りました。
急に寒々とした空気がルヴァを取り囲みます。そのあまりの寒さに一気に鳥肌が経ちました。そして、またそれとは違う寒気が背筋を走り抜けます。
それと同時に、ルヴァの背後に何かとても大きなモノが立ちました。
そして、低く唸るような声も。
声だけで、まるで狼に睨まれたうさぎのようにルヴァは硬直してしまいました。
それ程の威力がその声にはありました。
そう、生理的恐怖とでも言うのでしょうか?
振り向いてその声の主を確かめる事さえ出来ません。
「何をしているのかと聞いているんだっ」
続く声に今度は活を入れられたように、身体が”びくり”と震えました。
そしてやっと振り向く事が出来ました。
しかし、その努力もその声の主を目にした途端、あっという間に意識と一緒に飛んでいってしまいそうになります。
なぜなら。
そこに立っていたのは。
『獣』。
大きな身体に波うつのは、赤褐色の毛。
底光りする瞳は、金の光放つ琥珀。
耳まで裂けた真っ赤な口から覗くのは、尖った牙。
長い手足の先には、あらゆるものを切り裂いてしまえるような鋭い爪。
それは人間に於いて生涯絶対にお目にかかりたくないモノでした。
「あ‥‥ああ‥‥‥あうぅぅ‥‥」
唇が震えて、声にもなりません。
それは純粋な『恐怖』でした。
思わず握りしめた手に先程の薔薇のとげが食い込んで、かろうじて意識が保てました。
干涸びる喉に懸命に唾を飲み込んで、湿します。
出た声は、自分のものとは思えない程掠れてました。でも、これ以上この怪物を怒らせる訳にはいきません。
可愛い娘達の顔を頭に浮かべながら、必死にルヴァは答えようとしました。
しかし、意味ある言葉が出てきません。
相手が握りしめているものに獣の目が止まりました。
途端、一層唸りが大きくなります。
「貴様‥‥‥薔薇を折ったな‥‥っ」
低く唸るような声が響いたかと思うと、その腕が振り上げられました。
ルヴァは、もう瞳を閉じるしかありませんでした。
折角あの山犬の群れから助かったのに、やっぱりこんなところで命を落とすとは。
相手がなにか分かっていた分、もしかしたら山犬に喰われた方がましだったかも知れません。
ルヴァは自分の命が消える衝撃を待ちました。
その時です。
「‥‥おやめ下さいっ、マスターッッ!!」
二人の間に割って入るものがありました。
「同じ事を繰り返されるおつもりですかっ、マスター!」
大きな声でそう言いつつ、ルヴァの前に立ち塞がり、獣と対峙してくれたのは‥‥‥細い三叉のシルエット。
それは、リュミエールでした。
「この方は、悪気があって薔薇を折ったのではありません」
「悪気がなければ、何をしても構わないのかっ!」
「いいえ、そうではありません。ですが、今、命と交換にするものではありませんでしょう? 他に償いの方法はいくらでもあるはずです‥‥リュミエールのお願いです、ここはお納め下さい‥‥‥っ」
対峙し、お互い一歩もひかない二人。
暫し、重い沈黙が両者の間にありました。
「‥‥‥‥くっ‥」
そして先に折れたのは意外にも獣の方でした。
振り上げた拳が下げられます。
「‥‥ありがとうございます、マスター」
リュミエールが深々と頭を下げます。
が、しかし。
「‥‥気付いているのか、リュミエール?」
ぼそっと獣が呟きました。
「ここでそいつを助けるのは、『あいつ』が言っていた亊だぞ」
「それは‥‥」
「結局、俺は『あいつ』の掌で踊らされているだけなのか」
「‥‥マスター‥‥」
「‥‥いい、なぐさめるな。‥‥俺は俺のやり方で『あいつ』に対抗してやるだけだからな」
突然、獣の瞳がルヴァへと向きました。
「命はとらん。が、薔薇を折った償いはしてもらおう」
「は、は、は、はいっ!」
その眼光の鋭さに、硬直していたルヴァはその申し出に一瞬にしてその顔を喜びに輝かせました。
「頂いたものはすべてお返し致します。なんだったら、持っているもの全てを置いていっても‥‥」
「その必要はない」
ルヴァが精一杯の気持ちを表そうと必死になっていると、獣はあっさりそれを却下しました。
「衣装も宝石も持って帰って構わない。なんならお前の服も新しいのをやろう。
ただ‥‥」
そこではじめて獣は口籠りました。
そして酷く言い難そうにします。
それを見兼ねたリュミエールが、後を続けました。
「あなたが家に着いた時、一番はじめに出会った生き物を我が屋敷に寄越して下さい。それが、ここから無事に帰る為の条件です」
「生き物‥‥ですか?」
「ええ。それが犬でも猫でも小鳥でもなんでも構いませんから、家に帰り着いたあなたが初めて出会い、鳴いた、若しくは話し掛けてきたものを寄越して下さい‥‥いいですね?」
それは依頼ではなくて、確認でした。
「犬でも構わないんですね」
「ええ、もちろん‥‥犬を飼ってらっしゃるんですか?」
「はい」
「‥‥犬であるよう、俺も祈っていよう」
ルヴァとリュミエールの会話を聞いていた獣がぼそっと呟きました。
<つづく‥‥>
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