俺の罪は重すぎて、とても天には昇れない。



俺の罪は大きすぎて、とても地には堕ちてゆけない。



‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥その罪を許されようとは思わない。



ただ‥‥。



ただ‥‥‥。













◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆







獣とアンジェリークが一緒に薔薇園を世話するようになって、屋敷の者達の少しづつ園に集まるようになってゆきました。今までは主人によって園に入る事を禁じられていたのですが、アンジェリークが楽しそうに薔薇の話をする事によって好奇心が湧き、一人また一人とその目をかいくぐって、アンジェリークの手伝いをするようになっていきました。

最初は渋い顔をしていた主人も、その者が重い肥料などを少女に代わって持ったり、葉の裏の害虫を一匹一匹駆除をしていく様などを見て、見て見ぬフリから段々彼等に用を言い付けたりするようになっていました。 そして、そんな様子を薔薇達は、嬉しそうに見ているようでした。





日にちが過ぎて、薔薇はその盛りを過ぎたようでした。

アンジェリークが訪れた日を境に、一本また一本とその花びらは地面へと散ってゆきます。その花びらを少女は拾い、乾かし、ポプリにしました。

薔薇を利用する事を非常に厭う獣も、この行為は黙認しました。

おかしな事に、薔薇はその花びらをすべて散らすとひっそりとその茎さえも枯らしてゆきました。

玄関、居間の暖炉の上‥‥‥ポプリを入れた容器が増える程、薔薇の本数は確実に減っていっていました。









‥‥‥少しづつ、少しづつ。

二人は、近づいてゆきました。









アンジェリークは、獣と晩餐を同席するようになっていました。

この大きな生き物は、食事の相手として申し分のない素質を備えておりました。ただ一つ、問題があるとすればそれは愛想の無さでしょう。

にこやかに言えば、きっと食卓が暖かい微笑みに包まれるようなそんな話でも、獣の言葉を借りるとそれは味も素っ気も無い単なる『話し』にしかなりませんでした。

けれども、アンジェリークは獣との食事を楽しみました。その豊かな知識と垣間見せる知性を好ましく思ったのです。





---そう。

アンジェリークは、獣のその落ち着いた知性に惹かれてゆきました。

都でも有数の学者であるルヴァの娘であったアンジェリークにとって、学問は物心着いた時から身近にあるものでした。けれど、田舎の村に都の知性などはまったく必要無く、村の男性達は腕力こそが男の全てと言うような人達ばかりだったのです。

アンジェリークが本で学んだ事を話そうとすれば、父親以外は逃げ出す‥‥そんな毎日でした。

ですが、ここでは自分の考えを『女らしくない』の一言で斬って捨てるような者はいず、それどころか獣との会話は、自分の知らない事さえも自分の世界へ広がってゆくような、そんな今までに感じた事もない程楽しいものでした。





獣は、自分がこの晩餐を楽しんでいる事に気がつき、とても驚きました。

少女は、その華奢でか弱そうな外見からはとても想像が出来ない程、自分の考えをきちんと持った今の世の中には珍しい少女でした。アンジェリークとの会話は、思っても見ない愉しみとなっていました。

時々、獣は自分でも気付かない内に、笑みを浮かべている事がありました。その笑みは、今まで見た事もない程柔らかで暖かなものでした。

屋敷の者達は、それをとても喜んでいました。









それはある夜。



「図書館‥か?」

「ええ」

それはほんのちょっとした話でした。

「小さい頃、街に連れていって貰った時に、覗かせてもらったんです。あんなに本が一杯あるなんて初めてでした。‥‥私が育った村には、貸本屋さんがあるくらいでしたから」

それはそれは楽しそうにアンジェリークが話します。

「‥‥お前は、本が好きなのか?」

「はい、とっても! 『本はこの世の全てを教えてくれるかも知れないものですよ』と言うのが父の口癖ですし」

「そうか‥」

テーブルの上には、丁寧に設えられた数々の料理。キャンドルは、明るく暖かく辺りを照らしています。

その穏やかな中で食事は続けられました。





そしてそれは次の日の朝。





朝食の後片付けを手伝っていた(屋敷の者の名誉の為にも言っておきますが、彼等はアンジェリークに仕事をさせようとした事はありませんし、思った事すらもありません。只、お世話になってるからという少女の言い分を拒みとおせなかっただけです)少女の裾をひくものがありました。

「? 何ですか?」

下を見ると、其処にはゼフェルとその頭に乗ったマルセルがいました。

「ちょっと来いよ」

子猫はふいっと首を捻らせて、少女を促します。そして、そのまま付いてくるかも確かめもせず、歩み去ります。

訝しく思ったアンジェリークは、台所のモノに後を頼むとその後を付いていく事にしました。





 

階段を昇ったり降りたり。

流石に広いお屋敷です。アンジェリークは前を行く二人を見失わないようにするだけで必死でした。

すでに自分が今何処にいるのかもわかりません。

どのくらい、行った時でしょう?





大きなドアのほんの少しの隙間にゼフェルのしなやかな身体が”するん”と入り込みました。慌てて見失わないようにその後に続きます。

そして、次の瞬間少女の歩みは唐突に止まりました。

「!‥わぁ‥‥」





その目の前に広がるのは、ただただ本がぎっしりと詰った棚ばかりでした。

「これって、もしかして‥‥」

「図書室だよ」

羽ばたいてマルセルがアンジェリークの肩へと止ります。

「昨日、本が好きとかいってただろ‥?」

少し赤くなってゼフェルが呟きます。

「許しはリュミエールにちゃんと貰ったから、遠慮しないでいいんだぜ」

「そうそう。結構いろんな種類があるから、きっと気に入るのが見つかるよ」

「ありがとう‥っ、ありがとうございますっ!」

アンジェリークは胸が一杯になってしまいました。そして、その胸一杯の暖かい気持ちを噛み締めながら、ゆっくりと本の題名を拾って行きました。





図書室の高い天井の下を、うららかな日の光が満たしています。それは外のように金色に暖かく眩しいものではありませんでしたが、優しく穏やかな全てを傷つけず包み込むようなクリーム色の光です。

そんな中をアンジェリークは一歩一歩楽しみながら歩いてゆきます。

その視線の先には、彼女にとって『宝の山』とも言うべきものがあるのですから、瞳が輝かない訳がありません。

時折、ぎっしり詰った中から自分の気に入りの題名を見つけだし、取り出してはパラパラとめくり、胸に抱きしめてから読書机の方に積んでいきます。ゼフェルとマルセルは、その本を運ぶのを手伝っています。

「‥‥こんなに一度に読むの?」

そんな素朴な疑問をマルセルが浮かべる程、あっという間に本が積まれていきました。それに気付いた少女は頬を赤らめました。

「すみません‥つい‥」

「いいよ。 それじゃ僕達、この本を君の部屋に運んでおいてあげるから」

そういうとマルセルはゼフェルの背中に本を乗っけて器用に紐で括り付けました。

「おい、マルセルっ!」

「だって僕じゃ重くてもてないも〜ん」

「‥‥じゃ『僕達』なんて言うなよ‥‥‥」

そんなぼやきと共に二匹は扉の向こうに消えてゆきます。そんな様子を少し微笑んで見送るとまたアンジェリークの目は本棚へと向けられました。





どのくらい時間が経ったのでしょう?

アンジェリークは、小さな本が本棚の下に挟まっているのを見つけました。それは、本当に小さくて薄くて丁度絵本位の大きさでした。

「こんなところに?」

興味を持ったアンジェリークは、その本を引っ張ってみましたが、それは割にしっかりと挟まってしまっています。普段でしたら慎重なアンジェリークの事。無理な事はせず、上に乗っている本達をどけてから取ろうとしたでしょう。けれど、こんな沢山の本を見て何処かで浮かれていた少女。つい、そのまま力任せに引っ張ってしまったのです。





その結果。





ミシミシミシ‥‥。





何処かで嫌な音がしました。気付いて見上げたその瞳の先に映ったのは‥‥落ちてくる分厚い本達。

アンジェリークの身体は、腕で庇う事も出来ず、そのまま凍り付いてしまいます。ただ瞳だけがぎゅっと瞑られただけです。縮み上がった身体は、次に来る衝撃を覚悟しました。













‥‥‥‥?



けれどそれは何時まで経っても、アンジェリークへとは降り注ぎませんでした。代わりに『バサバサッ‥ドンッ』という鈍い音だけ響きました。

恐る恐る瞳を開くと、黒い暖かい影が自分を包んでいる事が判りました。

そっと視線をあげると其処には、獣がその大きな身体を自分の上に覆いかぶさるように投げ出していました。

「あの‥‥?」

「‥‥怪我はないか?」

そう言うと獣はゆっくりとその身体を起こしました。それに合わせて、背中にあった本が床に落ちます。そのどれもがしっかりとした装幀が施されている立派な分厚い書物でした。

「あの‥‥?」

「お前、一人か?」

きっと痛かったであろう背中。けれどもそんな事はちっとも感じさせずに、獣は静かな瞳でアンジェリークを見つめます。

「いいえ‥あの」

「‥大方ゼフェルやマルセル辺りだろう。ここいら辺はまだきちんと整理がついてないものが多い。向こうの読書机の周りぐらいに我慢しとくんだな」

そう言うと獣は、背中を向けると部屋を出て行こうとしました。

「あのっ‥!」

その時ようやっと声がでました。

「ありがとうございました! ‥‥怪我しませんでしたか?」

そう。アンジェリークが本棚を崩した時、獣が咄嗟にその身体で少女を庇ってくれていたお陰で、少女は怪我一つ、痛み一つ覚える事がなかったのです。

「‥‥これからは気をつけろよ」

獣はそれだけを言うと、扉の向こうに消えてゆきました。





代わりにバタバタとゼフェルとマルセルが飛び込んで来ました。

「おい、大丈夫か?」

「今、凄い音がしたけどっ‥わっ! なにこれ?」

よっぽど慌てたのでしょう。息をきらしています。

「あ、大丈夫です。ちょっと本を崩しちゃって‥‥」

「怪我はないっ?」

マルセルはぱたぱたと頭の周りを飛び回ります。それを肩に止らせるとにっこり微笑んで安心させます。

「本当か?‥無理してンじゃねーか?」

「無理なんかしてないですよ。本当に大丈夫です‥‥彼が助けてくれましたから」

疑わしそうに自分を見上げるゼフェルを抱き上げようとします。その時、胸に抱えている本に気付きました。 それはさっき挟まっていたあの本でした。咄嗟に抜き出して、抱え込んでいたようです。

「何だよ、その本は?」

「えっと、本の下の方に挟まっていて‥‥」

見るとそれはやっぱりかわいらしい絵と簡単な文章の絵本でした。





「‥‥ちょっと待って。これって‥‥?」

表紙を見たマルセルが忙しなく羽ばたきます。

「あん? マルセルしってんのか?」

「何言ってるんだよ。ゼフェルだって知ってるよ。これ、マスターが昔、僕達に字を教えてくれる時に使った絵本じゃないか。うっわ〜、懐かしいなぁ」

そこに窓からにょっきり顔を出したものがありました。

「やぁ、何をしてるんだい?」

それは、ランディでした。

「あ、ランディ。 ねぇねぇ!ほら、これ見てよ」

マルセルは、少女の手の中の絵本へと降り立ちました。

「『そして女の子は、とうとうひとりぼっちになってしまいました‥』ほら、あの絵本だよ」

「え? それってもしかして?」

「そうそう! ここで子供時代を過ごした人達は皆これで字を覚えたんだよね〜」

アンジェリークは、パラパラとページをめくってみました。





優しい絵。

暖かな色調。

見ているだけで微笑みが浮かんできそうです。



その手が、ふと止りました。その指先にあるのは‥‥。

「ヴィ‥クト‥‥ール?」

子供らしい大胆な字で大きく名前が書いてありました。

「この子が最初の持ち主なのね。元気な子みたい」

「何言ってるんだよ、アンジェリーク」

その時、ランディが笑って言いました。

「それってマスターの名前じゃないか。まるで知らない人みたいに」






「え?」

空気が凍りました。

ランディが何か言おうとした時、慌ててそれを止めようとしていた二匹と。

思っても見なかった事を言われたアンジェリークと。





「‥あの人の‥‥名前?」

「そーだよ。あはっ、アンジェリークったらやだなぁ。初めて知ったような口ぶりだよ」

「‥っめーっっっ!! 余計な事いいやがってっ! もう我慢できねーっ、覚悟しろっ!」

突然、ゼフェルがその馬顔に爪を立てて飛びかかりました。

「あいたっ! 何するんだよ、ゼフェル!!」

「僕もやるっ」

「痛ててててっっ!! 何だよ、マルセルまで。俺、何か悪い事いった?」

「その無神経さが我慢出来ねーって言ってンだよ!」

もう、大変な騒ぎです。

見兼ねた少女が止めに入ってもそれは納まりません。何時しか屋敷の者達が集まって来る程の大騒ぎになってしまいました。









「‥‥で、今日の騒ぎは一体何だったんですか?」

あれから騒ぎを納め、更に落ちて散らばった本を片付けるなどをした結果、ほぼ一日を潰す事になった一行は、今ようやっとその身体を夕食の前へと運んでいました。

「‥‥何でもねーよ」

ゼフェルは、騒ぎの張本人として晩餐の席の壁際へと立たされていました。そしてその頭の上にはマルセルも。皆を代表してリュミエールが尋ねます。

「マルセル」

「‥‥何でもありません」

何時も素直なマルセルのその頑な様子に優美な眉根が寄せられます。

「あ、あの‥」

「あんたは関係ねぇ。‥‥これは俺達の問題だ」

あまりの雰囲気の暗さに何とか取りなそうとしたアンジェリークをも突き放します。けれど今までにないこの険悪さに少女は恐怖に近いものを感じていたのです。取りなさない筈もありません。

「いいえ‥いいえっ! 私がいけないんです。私が本なんかを喜ぶから。私が本なんか取ろうとするから‥‥あの‥背中は大丈夫ですか?」

最後の言葉は、獣に向かっての言葉。

「‥気にするな‥‥」

代わりに帰って来たのは、静かな言葉。

「本?」

「ちげーよっ! こいつは何も関係ない。俺は前ッからあいつの事が気に喰わなかっただけなんだ」

「そうだよ。僕もついそれに乗っちゃったんだ! アンジェリークは関係ないっ」

何故だか二人は激昂しています。けれど、アンジェリークの唇は止りませんでした。

「お二人の喧嘩のその訳は‥‥」

「アンジェリーク!」「おいっ!」

どうにかしてその言葉を止めようとしたのでしょうか? 二匹は少女へと飛びかかります。

けれども。





「ヴィクトール様‥‥」





空気が止りました。いえ、凍ったのかもしれません。

少女の口からか細い柔らかい声がこぼれた時、全ての時間は止りました。

「私が、この名前を知りたがったせいです。

‥‥何故、今まで教えてくれなかったのですか? こんなに素敵な名前ですのに‥‥」







ガシャァンッッッ!!!





止った時間は強制的に動き始めました。

そう、獣がひっくり返したそのテーブルによって。

「‥‥俺の名前が何だと‥‥‥?」

その声が低く唸ります。

「マスターッ!」

「俺は獣だっ! 俺には名前なんぞないっ! ヴィクトールなどと言う奴はここにはいないっ!」

そう吠えたてると金色の炎が燃える瞳で少女を見据えます。その光にアンジェリークは声も出ません。

「お前に何が判る‥っ。‥‥お前がここにいる事が間違いだ‥‥っ」

そう言い捨てると、その身体は風のように扉の向こうへと消えて行きました。

後に残されたアンジェリークは、ガクガクと震える身体を押さえる事が出来ませんでした。









「ガァァアァァッッッッッ!!!」

主人の後を慌てて追い掛けたリュミエールは、その叫び声と続く破壊音に身を竦ませました。

まるで血を吐くかのようなその苦しげな声は、屋敷中に響きわたります。続いて、部屋を破壊する音も。

「何が『ヴィクトール』だっっ! 何が『英雄』だっ! 自分の守りたいもの一つ守れない奴なぞに名前などあるものかっっっ!!」

その叫びに胸を突かれるような思いがリュミエールを支配します。

「マスターッッ!」

扉を開ければ、そこには部屋中の家具を蹴り倒し殴り壊し、自らの額を壁に打ち付けている主人の姿がありました。

「マスター、もう‥もういいですからっ!」

「リュミエール‥‥」

自らの身体で必死にそれを止めようとする執事にようやっと気付き、獣はのろのろと瞳を彼に合わせました。額には血が滲み、その赤褐色の毛はぼろぼろにほつれ、爪も何本か折れています。

獣は執事に向かい、呟きました。

「‥‥あの娘を‥‥家に返せ」

「‥‥え?」

「今、はっきりした。俺は自分がどう言う奴かすっかり忘れていた。俺は獣だ‥‥っ」

「マスター‥‥」

「誰かを愛おしむ気持ちなど、とっくに消え失せたんだ。俺は、血を好み争いを好む獣なんだ」

それはどちらかと言うとまるで自分に言い聞かせるような言葉でした。

「‥‥‥そんな獣にあの娘を付き合わせては、いけない。元の世界に戻すんだ。

‥‥幸い、時は直ぐそこに来ている。‥‥‥全てはもうすぐ終わる‥‥‥‥‥俺の望むように」
















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