アンジェリークが、その精神的・肉体的疲れから高熱を発して数日。

その間、はっきりとした意識も戻らず、朦朧としたまま少女は床の人となっていました。

時々頭上で交わされるひそひそした声や、口元に当てられる匙から与えられる冷たい水や暖かいスープ。

そして時折額に当てられる冷たい手だけが、アンジェリークを現実と結び付けるものでした。

熱にうかされたぼんやりとした視界には、人間の姿は一度も見えず、いつもやけに小さな影や逆に大きな影やらだけが陽炎のように映り込むだけです。

そんな苦しい日がどのくらい続いたでしょう?







ふと、アンジェリークは香しい薫りをその鼻先に感じました。

そして、その香りによって、その瞳はゆっくりと開かれたのです。

「‥ば‥‥ら‥?」

そう、それは甘い甘い薔薇の花の香りでした。開いた窓から、それはゆっくりと部屋中に満ちてゆきます。

「気がつきましたか?」

その時、そのとても穏やかな声がかかりました。

「気分はどうですか?」

その声と共に目の前に突き出されたのは、蒼い羽根。

そのあまりの鮮やかさに一瞬声が出ません。

「ん? どうかしましたか?」

それは、目の前で”ふりふり”と振られました。どうやら、こちらがきちんと意識を取り戻しているのか試しているようです。

「あ、はい! 大丈夫です!」

咄嗟に返事したアンジェリークにそれはにっこり微笑みました。

「それは良かったです‥熱もどうやら下がったみたいですね」

ふわんとした肌触りの良いものが額に当てられると、それは直ぐに離されました。

「私の名前はティムカと申します。ここでは医者の助手をさせてもらっています」

そういうと、ティムカはふわっとベットから降りました。よく見るとそれは、蒼い羽根で出来た羽根ペンでした。

「エルンストさん、どうやら熱が下がったみたいですよ」

ティムカは、窓から入る風に飛ばされるように、フワフワと入り口に向かって歩きます。

その先には、銀色に輝く鎧甲冑が鎮座していました。

「そうですか。では、あとは無理をさせないように。食事は最初は軽くて消化の良いものからです」

何処からともなく聞こえるその声は、生真面目そうな若い男性の声でした。

この頃になるとアンジェリークも驚かなくなっていました。きっとこの鎧甲冑も執事やこの助手と同じなのでしょう。

それでも首をやや傾げ見ていると、甲冑が”ガシャッ”と首をこちらに向けました。次に、”ギギギッ‥”と立ち上がり、”ガシャッ‥ガシャッ‥”とぎくしゃくベットへと近づいてきました。

「お早うございます、アンジェリークさん。お加減は如何ですか?」

やっぱり、この甲冑も生きていました。

「はい、大分良いようです‥え‥っと」

「あぁ、すみません。紹介が遅れました。私はこの屋敷の医師を勤めますエルンストと申します。‥見ての通り、動きに少々不自由がある為、このティムカに手伝ってもらっています。

‥貴女の状態は、大部分が過労です。それに環境が変わった為と精神的なダメージの為、高熱が出たと考えられます。まずは、身体の調子を整える事ですね。食事はよく噛んで、ゆっくりと。あと、身体を冷やしてはいけません。薬はきちんと飲んで下さい」

「あの、ドクター‥」

「エルンストで結構です」

かくん、と首が揺れると、面甲冑にちょこんとくっついている薄浅葱色の前髪が一房、合わせて揺れます。 御礼を言おうと思ったアンジェリークが口を開こうとすると。





バタンッ!





「アンジェリークッ」

扉がいきなり開いたかと思うと、緑色の影と灰色の影が飛び込んできました。そしてその後から先程見慣れた蒼い羽根が歩いてきます。

「よかった、気が付いたんだね」

緑色の影はぱたぱたと羽ばたき、アンジェリークの肩に止まります。

「‥よぉ」

半分ぶっきらぼうに”ぴょん”とベットに乗ったのは、灰色の子猫。

「マルセルさん、ゼフェルさん」

その姿に嬉しげな声をあげた少女。一緒にここまで旅をしてきた彼等に会えた事は、かなりアンジェリークの心をほっとさせたのです。

「僕達、心配してたんだよ」

「っ‥めー、マルセル! 誰が僕『達』だ! 俺は心配なんかしてねーぞっ!」

「誰がゼフェルって言った? ランディやジュリアス様たちの事だよ」

くふふんと鬼の首でも取ったみたいに言うマルセルに対し、ゼフェルは唇を悔しそうに噛み締めています。 そんな様子にアンジェリークとティムカは、笑っています。

軽やかな笑い声が、屋敷の空気中を流れてゆきました。









「‥‥マスター?」

廊下。

ティムカからアンジェリークが目覚めた事を知らされたリュミエールは、まずは食事を用意をさせ、自分は彼女の部屋へと向かいました。

目の前で倒れてから幾数日。

(やはり、ここでの事はかなりの負担になったようですね‥‥)

リュミエールは、少女の華奢な身体を思い、小さく溜息をつきました。

いくら元からの定めとはいえ、今現在起こっている事に関して、彼女に同情を禁じえません。

「‥けれども、私達は‥‥‥」





心に思うのは、只一つの事。

例えそれが、どんな結果になっても。

『今』をただ安穏に過ごしていく訳にはいかない。





脳裏に浮かびゆくこれ迄の事に心を馳せている執事でしたが、目の前の光景にはっと心がこの場に戻ってきます。





それは、誰もいない廊下に佇む主人の姿でした。

獣の姿である主人から表情を読み取るのは、とても難しい事でした。

ですが、倦み疲れるような年月に渡って仕えてきたリュミエールには判りました。

主人が軽やかに響く笑い声を---ほんの少しですが---穏やかな気分で聞いていることを。







「マスター」

リュミエールはそっと声をかけました。その穏やかな雰囲気を壊さぬように。

「‥‥リュミエール」

見上げた顔は、少し苦しそうでした。

この主人は、こういう所がありました。優しく思える気持ちを罪悪に感じる所が。

「‥‥珍しいですね。この屋敷に笑い声が響くのは」

「そうだな」

そういうと、主人は踵を返しました。

「あ、マスター! ‥‥彼女の見舞いにいらしたのでは」

「‥‥元気になったようだな」

ただ、それだけを言って、そのまま屋敷の奥へと行ってしまいました。

リュミエールは手を差し伸べ、でもその手は届かず、握りしめられました。

「‥‥いいのですか、本当に‥‥‥?」

その言葉は、誰の耳にも届かず、落ちて消えてゆきました。









獣は、屋敷の奥から薔薇園へと出ました。

そうしてまるで疲れ切った老人の様に、その身体をベンチへと預けました。その目に浮かぶ感情は何と表したら良いのでしょうか?

獣は仰向き、ゆっくりと瞳を手で覆いました。そして。

「‥‥何故、他の奴らを巻き込む? 俺の罪は、そんなに重いのか‥? この命だけでは購えないのか‥?」

その声を濡らすものは、悔恨の意?

その横で、深紅の薔薇がひとひら、花びらを落としました。











アンジェリークの身体は、どんどん回復していきました。

かえって、体調を壊した事によって、この屋敷にすんなり受け入れられたようでした。屋敷の者達は全員、少女の身体の回復を望み、喜びました。

代わりに、と言っては何ですが、この屋敷の主であるはずの獣は何故か、屋敷の者達から孤立するようになっていきました。屋敷の者達の名誉の為に言っておきますが、彼等が主人を疎んだ訳ではありません。主人が自ずから、孤独の中に身を沈めようとしたのです。

そして、それを止める事は誰にも出来ませんでした。







暫くすると、アンジェリークは部屋から出られるようになりました。

そうすると、屋敷のあちらこちらで彼女の姿を見る事が出来ました。

台所では、銀製・細長ケトルのロザリアやお砂糖壺のディアと女性同士のお話をする姿が。

庭先では、マルセルやゼフェル・ランディと笑い合っている姿が。

バルコニーでは、セイランが絵を描く傍ら、ティムカやエルンストと談笑する姿が。





アンジェリークの姿は、この屋敷でいつしか”安らぎ”のようになっていました。

そして逆に、獣は屋敷内では殆ど姿を見せなくなっていったのです。









それは、庭の散歩をドクターから許可された数日後の事でした。

アンジェリークは、珍しく一人で散歩をしていました。山々に煌めく白銀の雪も屋敷の周りでは、そう積もっていません。

その時、アンジェリークの鼻先にあの香りが漂ってきました。そう、あの熱の後、目覚めた時に感じた馥郁とした薔薇の香りです。

「なんて、いい香りなのかしら‥」

その香りに誘われるように、アンジェリークはふらふらと歩み始めました。





歩けば歩く程、香りは強くなってゆきます。けれど、それは決して強すぎず、うっとりとしたような気分にさせる程の香りです。

それは、屋敷のどのくらいの所だったでしょうか?

急に周りがほわっと暖かくなりました。まるで羽毛に包まれているかのような快適な暖かさです。

その不思議な温度差にアンジェリークは首を傾げましたが、ますます薔薇が薫る為、それはまるでどうでも良い事のように感じてしまいました。

それよりもこの妙なる薔薇を是非その目で見たい、ただそれだけが心を支配しています。

まるで操られるかのようにその歩みは止まる事を知りませんでした。

その時、目の前に緑の生け垣が立ちはだかりました。香りはその向こうから漂ってきます。

アンジェリークは迷う事なく、その生け垣へと踏み込みました。







枝に突かれ、葉に髪の毛を持ち上げられ、もうぼろぼろの状態でアンジェリークは這い出ました。

途端、ますます強くなるその薫りは絶え間なく心を引き付けます。





いえ、それどころか。





目の前に広がる景色に少女は一瞬にして心を奪われてしまいました。





それは、薔薇の海。

広い広い‥‥まるで宝石をちりばめたような薔薇園でした。

隅々まで、手入れの行き届いた薔薇が広がり、露に濡れた花びらは陽の光に輝いています。

‥‥何故か周りが雪深く積もっていると言うのに、ここにはそんな気配すらありません。まるで五月の陽気です。けれど、少女はそんな事は気にも止めてはいませんでした。

「なんて‥綺麗なのかしら‥‥?」

溜息にも似た言葉が零れ落ちます。

そんな少女に薔薇達は、微笑むかのようにそっとその香しい花を風にそよがせます。

アンジェリークは薔薇に顔を寄せたりして、その香気を楽しみました。それは、今まで嗅いだ事がないような素晴らしい香りでした。

「ここが、お父様の言っていた‥‥」

全ての始まりである薔薇園でした。







白やクリーム、カーマイン、ファイヤレッドにシルバーピンク、バーミリオン‥‥‥。

有りとあらゆる薔薇の色がそこにはありました。



そしてその香りは、この世の全ての良い香りを集めたようです。 色と香りに酔わされたように、少女の歩みは止まりません。一歩一歩、花園の中心に向かって歩いてゆきました。

そしてその酔ったような瞳が急に見開かれました。





その視線の先にあったものは。







「‥‥そうか、具合はいいか」

そう、花に話し掛けながら薔薇の世話をしている獣の姿でした。

今までの姿と全てから遠ざかろうとしている状態からは、まったく想像も出来ない程その姿は穏やかで暖かげなものです。

一本一本丁寧に葉の裏まで薔薇の状態を見、肥料を与え、水をやっています。そして、それに応えるように薔薇達も清かに首を揺らしました。





パシ‥。





その時、つい踏み締めた少女の足の下で小枝が鳴りました。

「?! ‥誰だっ!」

その僅かな音に、獣は振り向きました。そしてその視線の先に少女の姿を認めた時、その瞳は金色に煌めきました。

「‥‥そう言えば、庭に出るなと言い忘れたな」

そう言うと、その指は来た方とは逆の方を指し示しました。

「出口はあちらだ。早々に立ち去れ」

その口調は厳しいものでしたが、アンジェリークの中には先程の獣の暖かげな表情が気になり、少しも怖くありませんでした。

「薔薇を‥世話なさっているのですか?」

そっと側に寄り、世話をしていた薔薇に手をやります。





驚いたのは、獣の方でした。

今まで誰もこの薔薇園には入らせようとはしませんでしたし、ましてや自分の側に寄って来ようとする人間が---それも少女がいるとは思っていなかったからです。

近くに寄ってきた時、薔薇の香りとも違う良い香りが獣を包みました。その甘やかさに獣は言葉を忘れました。

ただ呆然と立ち尽くすのみです。

「あの‥‥?」

話すでもなく、花の世話をするのでもなく、ただただ立っている獣にアンジェリークは戸惑いました。けれども、すでに彼への『恐れ』は消え失せていました。

自宅でも花を育てていた事のあるアンジェリークにとって、例えどんな凶悪な外見でもこんなに丁寧に植物の世話を出来るモノが悪いモノであるとは思えなかったのです。

「‥‥薔薇を切るのか?」

ぼそっと言った台詞に獣の心内を考えていた少女の心が我に返りました。

「え?」

「この薔薇達を傷つける事は、例え女子供でも容赦しないぞ」

暖かな陽の光に不似合いにギラッと牙が光りました。それは十分に人間を脅かすものでしたが、少女は恐がりもせず、静かにその頬に笑みを浮かべました。

「こんな素敵な薔薇達を摘むなんてしません。見ていられるだけで幸せですもの。私、切り花よりきちんと生きているお花が好きなんです」

その微笑みに獣は今までの勢いを消失されて、かえって戸惑うばかりでした。

今まで、こんな事はありませんでした。皆、薔薇園に入って来たとしても直ぐに薔薇を摘もうとしたり、獣の姿を見た途端悲鳴を上げて逃げ出したりしましたから。なのにこの少女は、微笑んで薔薇を見ています、それも自分の隣で。







ですから。

「あの、私も薔薇の世話をしても良いですか」

少女が伺うように零したその言葉に、

「‥‥勝手にしろ」

と言ったのは、獣にとっても計算違いの言葉でした。









それから、時々庭先で獣と少女が一緒に薔薇を世話をする姿を目にするようになりました。少女は、最初の怯えは何処へ行ったかのように微笑み、働きました。アンジェリークにとって、獣は『只大きな身体をしている者』なだけの存在になっていってました。

そして、どちらかと言うと獣の方が遠慮がちに振るまい、屋敷の者達の微笑みをかっていました。

その屋敷は庭も含めて、前とは違い、全てに暖かな空気が満ちていきました。
















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