青信号止


大澤 唱二

 信号は赤。
 僕は足を止める。今までリズム良く聞こえていた、キュッキュッという雪を踏みしめる音が止む。
 雪が降っている。降り始めたばかりである。今赤色の光を灯している歩行者用信号の上にも、うっすらと雪が積もっている。
 この街は道が碁盤の目状に走っているので、信号の数は多い。こうして信号で待たされることはざらにある。信号がなければもっと早く家に帰れるのに、と思う。
 足下の雪が踏み固められてツルツルになっている。何でもこういうのを圧雪アイスバーンというらしい。いや、間違っているかもしれない。聞きかじりの言葉なのだ。その、圧雪アイスバーンと呼ばれるらしい路面の上にもうっすらと新しい雪が積もっている。
 そういえば、雪がまだ積もっていなかった頃は、大学まで自転車で行ってしまっていた。十分足らずで大学と家とを往復できたのに、今では二十分くらいかかる。おかげで最近は、その日の一番最初の授業は必ず遅刻。基本的に雪は好きだが、朝大学に行くときや早く家に帰りたいときは少し恨めしく思う。靴で、ツルツルになった雪をゴリゴリとひっかいてやった。
 そろそろ青になっただろうか。
 顔を上げてみたが、まだ赤。僕の目の前を車が数台走り抜けていった。
 向こう側に、僕と同じように信号を待っている女の人が一人いた。きれいな人だ。車道を隔てて見ても、品の良さが伝わって来る。一体どんな人なんだろう。そうか、あの品の良さはきっとスチュワーデスさんだ。この道をずっと行くと地下鉄の駅がある。地下鉄でJRの駅へ行き、電車に乗れば空港はすぐそこ。彼女は今仕事を終えて自宅に帰る途中なんだ。どこの航空会社だろう? もしかして、最近業績の悪いあの会社? あの会社は、数年前に安さを売りに東京とこの街を結ぶ路線に新規参入したのだが、他社も大幅に運賃を割引して対抗してきたので、ここのところ業績が悪化しているのだ。もしあの会社の人だったら、色々大変なんだろうな。
 でも、あの会社の人だとしたら、あの人は今日、東京に行って来た可能性もあるんだな。僕の実家は東京にあるのだが……、懐かしい。羽田空港、京浜急行電鉄、山手線、京王電鉄、そして我が家……。目を閉じて、ゆっくり思い出してみる。友達、母校、先生、親。あの街がこんなに良い街に思えたのは、こっちに来てからだった。いや、決してこの街が悪いという意味ではなくて、故郷というのは、離れてみて初めてその良さがわかるのだなぁ、としみじみ思ったのである。
 もうそろそろ、青になったかな?
 目を開けてみるが、舞い散る雪の向こうに見える信号は、赤。さっきから二、三分待っているが、どういうことなのだろう。あ、さっきの女の人がいない。もしかしたら、僕が目を閉じている間に、しびれを切らして、隙を見て赤信号を渡ってしまったのかもしれない。早く家に帰りたいという気持ち、よくわかる。それが実家なら尚更だ。
 しばらく、ボーっとしていた。雪の粉が顔に降りかかって、冷たい。
 ふと、この街のプロサッカーチームのことを思い出した。まさに市民球団で、市民からの応援は相当なものだし、ニックネームも地元に由来している。
 去年、このチームは強かった。破竹の十六連勝でJ2優勝。見事J1復帰を決めた。目を閉じて、ゴールシーンを思い出してみる。それまでサッカーなんてろくに見ず、大阪の某弱小万年最下位野球球団ばかり応援していたが、この街に来てからサッカーも見るようになった。この街のチームを応援した。そして、その応援したチームがJ2とはいえ優勝したのだから、嬉しいではないか。自分が応援したチームは必ず負ける、くらいの激しい固定観念に捕らわれつつあった私には、宝くじで一等に当たったくらいの、衝撃的な出来事であった。
 それにしても気に入らないのは、このチームの全国的な扱いである。去年J2で二位になってJ1復帰を決めた浦和レッズ。レッズがJ1復帰を決めたときは、正時の五分間ニュース(全国版)で取り上げられ、インターネット上でも比較的大きなニュースとして載っていた。ところが、我が街のチームがJ1復帰を決めたとき、そして優勝を決めたときも、大して取り上げられていなかった。この街が北の僻地として疎まれているからなのか、日本が中央集権国家で東京・関東中心主義だからなのかは知らないが、腹立たしい。
 さて、そろそろ……、あれ、まだ赤。もう五分近く待っているぞ、どういうことだろう。
 僕はまた、時々靴で路面をひっかきながら、降りしきる雪の中、信号が青になるのを待った。そうそう、僕の名前は……。

 ある街で、ある雪の日に、一人の男が交差点でボーっと突っ立っていた。信号が青になっても道路を渡らないのである。時々、踏み固められた雪を足でひっかいたり、目を閉じて空想にふけったりしているようだった。次に信号が青になっても、やはり、渡らない。面白そうだったのでしばらく観察していたが、やっぱり、全く信号を渡る気配がない。最後まで見ていきたかったが、寒かったので、あきらめて撤退してきた次第である。
 その男が結局どうなったのか、私は知らない。
(『青信号止』 終)
 

「作品を読む」トップ

ホーム