大澤 唱二   


「この世には、必要な人間とそうでない人間とがいて、そしてどうやら僕は、必要でない人間の方に部類するらしいのだ。」
 ぽつりと、キザっぽくそう漏らすと、彼女はむきになって食ってかかってきた。
「あなた死ぬ気なの?そんなことしちゃいけない、あなたは……。」
 まだまだいい足りぬことがあるのだが、言葉にできない様子だった。私は、つまらぬことを口にした私と、感情を言葉にできない自分自身とに、心からいまいましそうにしている彼女に冷たく言い放った。
「死ぬ気だったらどうだというんだい?僕が死のうが生きようが、君には関係のないことだろう?」
 そして立ち上がると、私は自分のアパートの部屋を出ていこうとした。
「私は死なない。あなたが死んでも、あなたの分まで生きてやる。」
 立ち止まって振り返り、彼女の顔を見た。大きな瞳一杯に涙を溜めて、今にも溢れそうである。その何かを強く訴えかけるような眼差しは、私をひどく狼狽させた。しかし、強情な私は平静を装って、扉を開け、外へ出ると、後ろ手で閉め、ふらりと歩き出した。私の部屋の中から、彼女のすすり泣く声がかすかに聞こえてきた。胸に詰まるものを感じたが、素知らぬ振りして、口笛などを吹きながら、粗末な階段を下り、道に出た。
 空はよく晴れ、日差しも風も、皆暖かく、心地よかったが、私の陰鬱な心にはかえってそれが空しく、何とも悲しい気持ちになった。道には人影はほとんど見えなかった。遠くの方を小さな子を連れた女性が左折して、その姿が見えなくなった。私は両の手をズボンのポケットに突っ込み、背を少し丸めて、また口笛を吹き、歩き始めた。塀や電信柱の根元には、黄色いタンポポが幾つか、アスファルトの割れ目から懸命にのびて花を咲かせていた。お前達は偉いな、それに比べてこの俺は……、と呟いて、悲しくなって、そこらがかすんで見えてきた。いよいよ悲しくなって、どれほど累々と続く塀や、高くそびえ立つ電信柱にすがって泣こうと思っただろう。しかし、強情な私は、やはり、口笛を吹き、歩き続けただけだった。
 公園にさしかかった。小さな子が幾人か、砂場で泥んこになって遊んだり、走り回ったりしている。その側で、やはり幾人かの母親が、しかめっ面して、いやあねえ、あの人ったら……、と話している。誰かの噂話でもしているのだろう。私は、この人達が、その噂されている「あの人」と一緒にいる時は、どんなふうに会話をするのだろう、やはり同調して、他の人の噂話をしたりするのだろうか、「あの人」が、今この人達の会話を聞いたら何と思うだろう、などと考えていたら、何だかこの母親達がひどく醜く、薄汚い存在に思えてきた。しばらく眺めていると、私は、自分の母親のことを思いだした。機嫌が悪いと、全く下品な女と化す人間だった。下品な日本語とも思えぬ言葉を吐き捨て、時には私や弟を殴ったりもした。その癖、一生懸命英語の勉強などしているのを見るにつけ、ひどくおかしく思ったものだ。父に対しては、常時、ねちねちと嫌味を言っていた。私は、そんな母が大嫌いであった。アパートで、あんな大きな、澄んだ目で、私を真っ直ぐに見つめた彼女も、いずれはこんなふうになるのか、と思うと、悲しくなってきた。そんなふうになったあいつなんて見たくもないと思った。見ないためには死ぬしかない、早めに死のう、そんなことを考えながら、公園を通り抜けた。私の足元を、小さな子が数人駆け抜けていった。
 しかしその日、私は実に惨めな気持ちで、自分のアパートに帰って来てしまった。西陽が部屋に斜めに差し込んでいた。彼女はもういなかった。斜陽か、俺はもうこれ以上、落ちぶれようもないな、などと呟いて、部屋の真ん中に座り込んだ。
 公園を出たあと、私はまた、しばらく放浪して、やはり死のう、と思って、ではどうやって死のう、と考えた。彼のように入水しようかと思ったが、この辺りの川は皆、水量が少なくて死ねたものではない。そこで、睡眠薬を飲んで川に飛び込めば体温が奪われて死ねるかと思い、薬局へ立ち寄った。しかし、そこの販売員に、そういった薬は医師の処方せんがなければ売れません、と言われてしまって、すごすごと薬局を出た。こうなったら最後の手段。血と肉塊を飛び散らすのは嫌だが、仕方がない。いや、考えてみれば、血が飛び散ろうが肉塊がばらまかれようが、死に行く私には関係のないことだ。電車が丁度来た所で、橋の上から飛び下りよう、そう決心したとき、腹が減ってきた。丁度いい、最期の昼餐といこう、などと救世主ぶったことを考えたが、私には昼餐を共にする仲間も無いことを思うと、悲しくなった。最期の昼餐は、小さなファミリーレストランで行われた。普段、独り暮らしで粗末な食事に甘んじている私には、その食事はとても美味しく感じられた。久々に、幸せを感じたような気がした。幸せな気持ちのまま死ねるのだ、と思うと、何か、安らかな気持ちになってきた。食後のデザートを済ませると、しばらく休んでから席を立った。勘定を払うと、私の財布はからになった。あとは、銀行に行かなければない。私は、銀行にある分も使ってしまえば良かった、などといやしいことを考えた。しかし、今から金をおろして遊ぼう、などということはしない。せっかく今、幸せな気分でいるのだから、このまま死ねばいいのだ。
 私は橋の上へやってきた。この下には、JRのなんとかいう線の線路が走っている。あと五分もすれば電車がここを通る。そこにタイミング良く飛び込むのだ。この橋は元より人通りが少ない。誰にも見られずに死ぬことができるだろう。そう考えながら、電車を待った。日が傾いて来ていた。遺書を残すだの、靴をそろえて飛び降りるだの、そんな俗っぽい、面倒臭い死に方はすまいと思っていた。遠く向こうの方に、電車がちらと見えた。これで全て終わった。全てが終わった。そう思って橋の手すりに足をかけ、あとはこの手すりを蹴るばかりになった。ところが、この人通りの少ない橋を、この時偶然、一人の男が渡ろうとしていたのだ。私はそれに全く気付いていなかった。気付いていたなら、素知らぬ振りしてやり過ごし、次の電車に飛び込んだであろう。しかし、私は気付かなかった。今まさに飛び降りようとした時、私はその男に羽交い締めにされて、ついに飛び降りることができなかった。この時に、死なせてくれ、などと叫べば、実に感動的なお話にもなったのであろうが、しかし私は、多少の抵抗をしただけで、黙って、電車が自分の足元を通り過ぎて行くのを眺めていた。男に、橋の上に投げ出されて、ひざを突いて突っ伏したが、涙も、悲しみの嗚咽も出てこなかった。ただ、空虚な気持ちで、第三者的な視点から、自分に起こった出来事の、その一部始終を眺めていたのである。私は、その男に説教され、そして交番へ連れて行かれた。そこの警官にも少し説教された後、死のうとした理由をたずねられた。私は小さく一言、嫌になりました、とだけ答えた。
 斜陽の差し込む部屋の真ん中で、私は立ち上がると、洗面所へ行き、自分の顔を鏡に映してみた。くすんだ目をしている。輝きのない、曇った、嫌な目だ。自分は生きることも死ぬこともできない人間なのだ。情けない。橋の上では涙も何も出なかったのに、今になって一気に溢れ出た。その日は夕飯も採らず、風呂にも入らず眠ってしまった。
 朝、起きた。少しすっきりした気分。昨日の私は馬鹿であった。何も昨日死ぬことはなかったのだ。今日でも、明日でも、生きている以上は死ねるのである。何も急ぐことはなかったのだ。
 何もすることがなかった。昨日の、最後にならなかった「最後の昼餐」で、金を使い果たしていたので、朝飯を買う金が、財布にないのだ。そして、行くべき学校も、職場もなかった。生活費は、大方親が送ってくれるのである。アルバイトをすることもあるが、大抵短期で、すぐ終わってしまう。私は、一応浪人生ということで独り暮らしも認められているし、送金もしてもらっているのだが、大学に行きたいなどという気持ちは、微塵もないのである。仕方なく、将棋と本を持ち出して、詰め将棋など始めた。しばらくそうしていると、外がずいぶんと明るいことに気付いた。時計を見上げる。十一時五十九分を指したまま、秒針さえぴくりとも動かない。止まっている。仕方なく、ころがっている腕時計をつまみ上げ、見た。九時五分。そろそろ日が高くなり、暖かくなってくる頃である。また、少し散歩に行ってみよう、という気が起きた。ふらりと家を出た。鍵は掛けなかった。取られるものなど、何も無いのである。
 昨日とは違う道を歩いた。空も風も、昨日と何の変わりもなかった。違うのは、私が歩いている道だけである。
 少し歩いて、小高い丘に登った。ずうっと遠くの方まで、良く見えた。西南の方角には、白い雪を頂いた富士のてっぺんが、他の山々の間から、ちょこんと顔を出していた。その富士は、見えるのはてっぺんだけなのだが、他の山とは違って、格別に堂々としていて、格調高く見えた。ああ、彼はあの山を見て『富士には月見草がよく似合ふ』と書いたのだな、と何だか少し不思議な感じがして、しばらく眺めていた。少しして、私はそこの草原に腰を下ろし、大の字に寝転がってみた。真っ青な空が目にしみた。視界の端にある太陽がまぶしかった。私から少し離れたところから、子供と女性の声が聞こえてきた。寝転がったままそちらを見ると、小さな男の子とその母親らしい、奇麗な女の人が遊んでいた。その女性は、しゃがんで男の子と二言三言交わしたが、男の子が向こうへ駆けて行ってしまうと、こちらへ歩いてやって来て、私の隣にふわりと腰を下ろした。
「気持ちいいですわね。」
 細くて高い、奇麗な声で言った。私は起き上がって、
「あの子は、あなたのお子さんですか?」
 走り回っている男の子の方を見ながら聞いてみた。
「ええ。今年で五つになりますの。今日は幼稚園をお休みして、一日遊ぶ約束をしてしまいまして……」
「ホラ、お母さん、見ててくれた?ボク、走るの速いでしょ?」
 男の子がやってきて、お母さんの手を取りながらはしゃいだ。しばらく母子二人で話していた。どうやら次にどこへ行くかを話し合っているようだった。そして決まったのか、またふわりと立ち上がると、その女性は、男の子に手を引っ張られながら、では、失礼します、と頭を下げて、立ち去った。その後、私はまた寝転がって、あれこれといろんなことを考えていた。空が青く、雲が白く、草のにおいがしたことを、今でも良く覚えている。
 お昼の少し前に自分のアパートへ帰り着いた。一休みして銀行へ行って、そして昼食の材料でも買ってこようと思った。流石に二食抜くと腹が減ってつらい。久々に、自分で食事を作ってみようという気になった。以前は自分で作ることも珍しくなかったのだが、最近はほとんど出来合いの物を買うか、外食なのである。
 アパートの扉を開けた。電気が付いていた。靴が一足玄関にあった。女物の靴だ。この靴は確か……。
「お帰りなさい。」
 彼女の声がした。私はどきっとした。昨日、二人は終わったものと思っていた。
「私も今来たところ。お昼まだでしょう?今から作るから、待っててね。」
 さらに大きな衝撃を感じた。金縛りにでもあったように、体が言うこと聞かなくなった。彼女は食料を袋から出して台所に並べていたが、やおら動かなくなって、震えだした。そして、途切れ途切れに、
「私、もしかして、あなたがもう帰ってこないんじゃないかって……、帰ってこなかったらどうしようって思って……。」
 さっと私にしがみついて来た。瞳に涙が光っていたのを、私は見逃さなかった。ついさっき私を動かなくした衝撃が、今度は私の腕を突き動かした。私は両腕で彼女を包み、言った。
「ごめん。すまない。……ありがとう。」
「じゃあ、もう死ぬなんて言わない?」
 彼女はしゃくり上げながら言った。
「ああ、もう言わない、言わない」
 顔を上げて、一度私の顔を見た。しばらく見つめ合っていたが、だんだん眼に涙が溜まってきて、ついに泣き顔になって、また私にしがみついた。少しの間そうしていたが、私の腹がぐうと鳴って、余程おかしかったのか、彼女がくすくすと笑い始めた。
「今ないたカラスがもう笑うってこのことね、でも、本当におかしくって……。」
 私は微笑みながら、
「実は昨日の昼から何も食べていないんだ。」
 彼女は、まあ大変、と言って、急いでお昼を作るわね、と台所に立った。しかしまた、くっ、ふふふふ、はははは、と笑い始めた。今度は私も一緒に声を立てて笑った。久振りに楽しかった。何だかよくわからないけれど楽しかった。二人で思い切り笑った。楽しかった。
「さあ、お昼を作らなくっちゃ。」
「ああ、僕も手伝おう。ちょっと待ってて。」
 私はそう言って、洗面所へ行った。鏡の前を通りかかって、私の顔が映っているのに気付いた。鏡をのぞき込むと、澄んだ美しい眼二つ、くっきりと映っていた。彼女の眼に、良く似ていた。

(『春』 終)   




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