森の中


大澤 唱二   



 『二人で死ぬ』と、日記には書かれていた。が、上がったのは男の遺体ひとつだけであって、もうひとつあるはずの女の遺体は見つからなかった。
 ここ数日は雨が多く、川は水量が増し、怒り狂う龍となって谷間を駆けていた。男はこの川に身を投げたのだが、見つかったのは、川を随分下ったところにある隣村の川岸であった。
 雨はまだ降り続いていて、屋根の日差しの先から滴り落ちた水滴が何か金属を叩いているらしい、カン、カン、という乾いた物憂げな音が聞こえてくる。
 私の書斎は三階にあり、谷間の川とその周りの森の様子がよく見える。森は、季節のせいか、雨に濡れたせいか、それともその両方か、恐ろしく深い緑色をしていた。龍の鱗というのは、こんな色をしているのかも知れない。その森を二つに裂いて、茶色の激流が音を立てて流れていた。川の向こう側の森は雨でけむって少しぼやけて見える。
 村中が大騒ぎであった。死んだのはこの村の男なのである。彼の両親は男の日記の最後の部分だけ読むと家を飛び出し隣村へ行ってしまった。私は彼の両親に頼んでその日記を拝借してきて、今まさにこれから読もうというところである。
 カンカン、という音、川の音、村人が騒ぎ立てている声。みんな、なんだか別の世界から聞こえて来るように感じられた。

    ○月×日
 全く、高校とはつまらないところだ。
 今日から合唱祭の練習をやるとかで、六時まで延々やらせやがった。そりゃあ、歌は好きだ。けど、みんなで一緒に歌わされるなんてのは、好きじゃない。第一、これじゃあ自分の存在が必要とされてるのかどうか、わかりゃしない。確かに、合唱ってのはそんなものかもしれない。だが、俺はそこらの奴等とは違うんだ。もっと歌唱力があって、他の奴等を指導できるくらいなんだ。それを、合唱祭実行委員や指揮者の連中、自分たちばっかりで仕切りやがって。千里之馬はいても、伯楽がいないんじゃ、仕方ない。
 結局練習が終わったのは六時半。家まで二時間もかかるってのに、これはたまらん。明日の英語の予習ができないじゃないか。
 予習をさせる先公にも腹が立つ。授業で何か特別なことをやるのなら、まだわかる。だが、やるのは日本語訳や答え合わせばかり。一体何の為に授業時間があるのかわかりゃしない。訳や答え合わせだけさらっとやる為だけの授業なら、なくたっていい。解答・解説の冊子があれば十分だ。「予習」は書き下すと「予め習う」だが、授業でやること全てを「予め習」ってしまったら、授業の意味がない。授業では、予習できない何かをするか、でなけりゃ、予習なんてさせない方がいい。  ともあれ、今日も疲れた。明日も朝早いと思うと、気が重い。学校なんて、行きたくない。おやすみ。

   ○月×日
 恐い。
 何がかというと、全てが、である。
 クラスメートが恐い、先生が恐い、道行く人が恐い、親が恐い、自分が恐い。みんな恐い。
 昼休みは、恐怖だ。教室の至る所から笑い声が聞こえてくる。この笑いこそが恐怖の源。俺の頭の上に積み重なって、どんどんその重みをましてゆく。全ての笑い声が、自分に向けられた嘲笑のように思える。
 重い、重い、やめてくれ!
 帰り道は、恐怖だ。あちこちから視線の矢が飛んでくる。一挙手一投足を監視され、そしてそれを笑われているのだ。今日、僕は合唱練習をサボって教室を抜け出してきてしまった。ほら、今僕とすれ違った男。スーツなんか着込んで、背が高くて品の良い奴。あいつは俺を責めている。合唱練習をサボった僕を。ああいう、分別のありそうな、善人面の奴こそ、僕の敵なんだ。俺を理解しようとせず、理解どころか、攻撃してくる。ああいう奴にとって、俺は悪者なんだ。世の中大概あんな奴ばかりだから、「民主主義の原則」たる多数決により、俺は悪者で、決まり。おお、恐い。  そんな悪者の僕を、親はきっと軽蔑している。親もやはり、「そこらへんによくいる大人」なのだ。さっきの男と同じで、俺のことなんて理解しようとしない。ただ、親はさっきの男とは視点が違って、合唱練習なんてどうだって良く、ただ、僕が役に立つかどうかだけが唯一の関心事。手伝いができるか、将来金が稼げるか、老後の面倒は見てくれそうか……。そんなことばかり考えているに違いないのだ。ところが、僕はいつも、こうやってぐだぐだ悩んでばかりいて、それが、親にはいつもボーっとしている役立たず、としか見えないらしく、毎日毎日俺を怒鳴る。とにかく怒鳴る。わめき散らす。これだけ毎日やられていれば慣れてしまいそうなものだが、なぜか慣れることは十七年間ただの一度もなかった。親の怒鳴り声は鋭い矢となり、僕の胸を射抜く。そして僕は、その矢によって壁に磔にされたように、身動きができなくなるのだ。
 結局、今日は宿題ができなかった。明日、先生はきっと俺を軽蔑と怒りとで縛り付けるに違いない。数学の先生は普段はひょうきんな感じすらするのだが、宿題を忘れたとか、他にも、服装がきちんとしていないとかいうと、有無を言わせぬ恐ろしさ、圧倒的な態度で、決して激しくはないが、重く叱るのである。この先生が正しいことを言っているのはわかっている。だが、こっちの事情も理解してほしい。それとも、理解していても、いわゆる「ホンネとタテマエ」の使い分けで叱り付けているのだろうか。全く、わけがわからない。ああ、とにかく、恐い。
 今日の日記を改めて読み返してみて、また、書いていた時の感情を思い出してみて、何だか自分は気が狂っているのではないかと、本当に、思った。俺は気違い……。ゾクッ。今、背中に悪寒が走った。恐い……。恐い……。
 ああ、もう、何が何だかわけがわからない! 何でもいい、もう寝よう、寝よう……。うん、少し落ち着いてきた。そう、寝ちまえ、寝れば、少しは気も晴れよう……。 

 彼の日記を、私は適当に途中から読み始めたのだが、ずっとこんな具合である。自称も、特に使い分けている様子もなく「僕」と「俺」が混在している。私は精神科医ではないので詳細はわからないが、何か精神的な病気を思わせる雰囲気である。
 もっとも、日記などというものは、こんなものなのかもしれない。その日起こった出来事を書いて、それに対する自分の意見や考えを書く。ちょっと感情的になれば、この程度になっても不思議はないかもしれない。
 外では相変わらず雨が降っている。水滴がはねる音や、川の音にも変わりはないが、ただ、先程までの村の喧騒はおさまった。遺族の方々と野次馬は、遺体の見つかった隣村へ行ってしまったのである。
 窓の外に目をやると、深い緑色をした森と、それを引き裂いて流れる川が、やはり、よく見えた。少し、暗くなってきただろうか。日が傾いたというよりは、多分、雲が厚くなったのだろう。夕方、というほどの時間帯ではない。
 私は、日記の続きを、途中を少し飛ばして読み始めた。

    ○月×日
 いいことを思いついた。
 人を想像するのである。僕の話し相手として。
 同い年の、女の子がいい。そう、話し相手、兼彼女。僕のことをよく理解して、慰めてくれるのである。髪は長くて、色は黒。染めても抜いてもいない、美しい髪。頭がよくて、しっかり者、明るい性格……。あとは、名前だ。そうだな……、優美、でどうだろう。
「よろしくね、優美」
〈こちらこそ、よろしくね〉
 ……なぁんてね。
 さて、寝るかな。おやすみ。
〈おやすみなさい〉
 優美がそっと僕の頬に口づけした……ところを想像しながら、床に着いたのだった。

   ○月×日
 昨晩、雪が降った。辺り一面銀世界である。この地域はあまり雪は降らないのだが、春が近くなると大雪に見舞われることがある。この雪は、春が近い証拠なのである。
 今日はちょうど日曜日だったので、二人で散歩に出かけた。「二人」というのは、当然、僕と優美の二人のことだ。
 外はもう晴れていて、空は真っ青。上に大きな大きなまぶしい宝石、ひとつ。したには、その宝石の輝きを反射して、無数の小さな白銀の粒。木々も、地面も、白銀の化粧を施されて、きらきらと輝いている。その真ん中を、川が黒々と流れて、世界を二つに分けている。
 二人で、白銀の世界を踏みしめながらあるく。もちろん、残る足跡はひとつだけ。だけど、僕の右手には、確かに優美の左手が握られている。
〈きれいね。冷たい空気も気持ちいいし〉
 優美の声が、僕の頭の中だけに響く。
「うん、そうだね。……うわっ、冷たい」
 靴に雪が入ったのだ。
〈大丈夫? 一度靴を脱いで、……そう、で、雪をだして……〉
「あ、ありがとう」
〈何言ってるの、私はあなたに生み出された、あなたに尽くす女。当然よ☆〉
 ちょっと茶化した感じで、優美に言わせてみた。
 ……結局、ひとり芝居なのだろうか。自分を慰める為の……。自慰、か……。
〈そんなことないわよ〉
 と、頭の中で声がする。
〈私の仕事は、あなたを支えること。あなたを本当に支えてくれる、満たしてくれる女性が現れるまで、私は本当にいると思ってくれていいのよ〉
 真正面から、彼女はこんなことを僕に言うのである。
「……ありがとう」
 でも、やはり、何かが違う。僕の奥底で気付いている。しかし、今の僕には、優美しかいないのだ。僕を精神的に支えてくれる人はいないのだ。僕自身、一人でたっていられる程強くない。だとしたら、自分で他人を創造し、想像して、支えてもらうしかないんだ。
 そう、そうなんだ……。

   ○月×日
 今日、担任との二者面談があった。来年はもう大学受験。それに向けた話し合いである。
 でも、僕は、先のことなんてわからない。何が勉強したいのか、将来何になりたいのか、自分でも全然わからない。就職しようなんていう気も、全くない。そんな状況なのに、
「何を勉強したいの?」
 だの、
「どこの大学を受けたいの?」
 だのと聞かれても、困ってしまう。
 それに、僕が大学に入るということは、誰かが一人、僕の身代わりに大学に入れなくなるということだ。僕は、こうやって、人を押しのけ、かき分けて、迷惑をかけて、憎まれて、恨まれて、生きていくのだろうか? それなら、大学なんかへは行かずに就職して……。いや、やっぱりそんな気にはなれない。それに、どうせ、就職したって、やっぱり誰かの邪魔をすることになるに違いない。なんて薄汚いんだろう。俺はどうすれば……。
 ちくしょう、俺がこんなに悩んでるってのに、あの担任、気軽に進路のことなんか聞きやがって。ふんっ、誰も俺のことなんて理解してくれやしない……。
 ……そうだ、優美だ。優美がいた!
 ……。
 僕は、優美にさっきのことを延々と語ったのである。
 ああ、自分の話を黙って聴いてくれる人がいるということは、こんなにも救われることなのか。僕が話している間中、彼女は、ただ黙って、時々きれいな黒髪を手で梳いたりしながら、うなずいたり、相槌を打ったりしただけだった。けれど、ただそれだけの為に、もう捨てるしかないボロ雑巾みたいだった僕の気持ちも、繕われて新しい服に生まれ変わるみたいに、随分回復してきたのである。
 ただ黙って話を聴く。たったそれだけの行為が、実際の人間にはなかなかできないらしいのである。たったそれだけで、人の心を一つ、助けることができるのに。
 話を聴き終わってから、彼女は僕のこう言ってくれた。
〈大変ね。私、大したことしてあげられないけど……、私で協力できることがあったら、何でも言ってね〉

 このあと、日記帳はしばらく空白のページが数ページあって、それから次の日付、そして書き出しがあった。その日付も前の日記の日付とは随分離れていて、もう、彼が死ぬ日、つまり今日の、二週間前になっていたのである。
 日記を照らす蛍光灯の光に、オレンジ色の光が混じっている。どうやら雨が上がって、空も晴れてきたらしい。雲の隙間から、森に沈んでゆく斜陽が顔をのぞかせていた。

    ○月×日
 まったく、僕は何を考えていたんだろう。この日記を読み返してみて、優美に対してとても申し訳ないと思った。彼女が、僕が勝手に想像して、創造した、架空の女性だなんて。
 彼女は実在する。さっきだって言葉を交わしたし、手だって握ったのである。
 彼女はよくうちに泊まって行くのだが、優美が来ていることを言うと、親はいつも寂しそうな顔をする。いつも、いやいや対応しているようなので、親には言わず、こっそり僕の部屋に泊めてやることにした。
 今日も、優美はうちに来た。これから、一緒に寝るところだ。といっても、いかがわしいことをするわけではない。清廉な優美を汚すなんて、僕にはできない。この腕に抱きしめたい衝動に駆られるが、それを、何とか、懸命にこらえるのだ。でも、それは、そんなに骨の折れることではない。布団の中で彼女と話をしているうちに、そんな欲求はすぅっとなくなってしまう。大変なのは、話し始める直前までである。
 さて、さっきから優美が待っている。今日はもう寝るとしよう。

   ○月×日
 何だか、僕はみんなから必要とされていないのではないか、と思う。
 今日だってそうだ。学校では、先週から文化祭の準備が始まっていた。先週は結構頑張って、みんなに協力していたのだが、昨日はどうも体調がよくなくて、無断でサボってしまったのである。ところが、今日、学校へ行っても昨日のことについて誰も何も咎め立てしないのである。何か言われるものだと思って心の準備をして登校した僕にしてみれば、拍子抜けしたのと同時に、僕は必要とされていないということを、初めて思い知らされたのである。じゃあ、先週、夜遅くまで残って、一生懸命みんなの手伝いをしてきたのは何だったのだろう。あれは、みんなにしてみれば余計なおせっかいでしかなかったのだろうか。去年も、一昨年も、行事なんかいやでいやで仕方なくて、でも、今年、初めて積極的に関わってみようと思ったのに……。
 始業のチャイムが聞こえた。今まで幾度となく鳴り、これからも繰り返し鳴るであろう音。その一連の音の組み合わせすら、同じフレーズの繰り返しみたいである。
 繰り返し、繰り返し。僕がどんなに積極的になって何かをしようとしても、それは誰からも必要とされない。同じことが、僕が社会に出てからも繰り返されて、僕はあっという間に路頭に迷って、無惨に、誰からも惜しまれずにあの世行き……。
 不安になり、恐ろしくなって、不安が不安を呼び、恐怖が恐怖を呼ぶ。雪だるま式に、不安と恐怖とが膨れ上がっていくのである。この感覚、以前にも感じたことがあるような……。
「私には、あなたが必要よ」
 優美が、僕の心を見透かしたように耳元で囁いた。
「ありがとう……」
 僕は優美の目を見つめていった。きれいな目。まるで、僕の全てを見通しているかのようだ。この目に引っぱられるように、僕の口から自分でも思いがけない言葉が飛び出した。
「一緒に……、死んでくれる?」
 自分でも驚いた。が、それが一番の解決法なのだ、と思った。いくら優美に必要とされていたって、社会から必要とされていなければ、のたれ死に。どうせなら、さっさと死んでしまった方が世のためだ。一人では怖くてだめかもしれないが、優美となら、死ねる。
「必要だって、言ってるじゃない」
 優美は言った。ちょっと困ったような顔。
「いや、どんなに君に必要とされていても、もう、この世で生き抜く自信がない。お願いだよ、一緒に死のう」
 僕は頭が狂っていたのかもしれない。とにかく、死にたかった。永遠に眠りたかった。
 優美は溜息をひとつつくと、
「……仕方ないわね、わかったわ」
 さっきまでの困ったような表情は消えて、すっきりと決心したらしい、柔らかい表情になっていた。
もう、後戻りはできない。男に二言はないのである。優美にこちらから持ちかけておいて、やっぱりやめた、などとは絶対に言えない。
 死ぬことに決まった。

 このあと、ページを改めて、今日の日付で次のように書かれていた。

   ○月×日
 今日、二人で死にます。

 もう随分暗くなり、空の半分以上がダークブルーに染まっていた。雲はもうほとんどなくなって、月や星さえ輝いていた。
 これで納得がいった。もう一人の女の遺体なぞ、最初から見つかるはずがなかったのだ。
 外を、野次馬に行っていたらしい連中がぞろぞろと歩いて来ていた。私は外に出て、知り合いを見つけていたずら半分にたずねた。
「どうだい、女の遺体は見つかったかい?」
 男は左手を振りながら答えた。
「いやぁ、どうもその女ってのは、死んだあいつが勝手に想像してたやつらしいんだ。つまりあいつは、いもしねぇ女と心中したってこと。随分前から頭がイカレてたらしいぜ」
 おやっと思った。
「あれ、おまえ、何でそれを知ってるんだ? 僕も今、彼の日記を読んで知ったところなんだが」
「なんだ、知ってたのか。質(たち)の悪いこと聞きやがって。何でも、あいつの両親が、息子が死んだってんで錯乱してて、さっきようやく、息子が前から、誰もいないのに誰かに話しかけてたり、一人分余計にメシをよこせって言ってたりしたことを、思い出したんだとさ」
 なるほど。そういえば日記の中でも、親はどうやら気付いていたようであった。
 そして、夜が更けた。私は床に就く前に、いつもの習慣で、窓を開けて外をぼんやり眺めていた。
 空の深い紺色を背景に、星が静かに輝いていた。月はもう沈んでしまったのか、見えなかった。そのせいで、星がよけいに美しく見える。真珠がたくさん空で光っている、といった感じ。時々、風が森を揺すってザワザワと音を立てた。川は、まだ水量は多いものの大分その怒りを鎮めているようだった。今はゆっくりと、森を分けて走っていた。
 今日、この村で人が一人死んだ。人が死ぬということは、本当はとても大きな出来事のはずだが、明日から、この村はまた今まで通り、ほとんど何事もなかったかのように歩みを進めるだろう。人の命なぞ、普段考えている程重いものでもないのかもしれない。
 もう寝ることにした。窓を閉めてカーテンも閉め、布団に入った。電気を消した。真っ暗になった。布団が、少し湿っぽい。外から微かに木の葉の擦れる音がした。
(『森の中』 終)   




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