ある雨の日に
大澤唱二
 
 今日は朝から今にも泣き出しそうな曇り空だった。どんよりと低く垂れ込めた黒い雲は、いつ雨粒になって降りかかってきてもおかしくなかった。午後に入ってからますます空の雲は厚くなり、朝よりも暗くなった感じさえした。
 彼は見知らぬ街の見知らぬ公園で、ベンチに座ってボーッと空をながめていた。彼がいるのとはと反対側の公園の生け垣に、小学校三年か四年くらいの子どもが三人座っているが、三人ともなにやらゲーム機を持って、下を向いている。それ以外には、周りに人はいなかった。
 
 今朝、目が覚めてから、すべてが始まった。今日もバイトが入っている、九時までに現場に行かなくては、と思った瞬間。不意に、何のために働くんだろう、という疑問がわいて出た。それは開けてはいけないパンドラの箱を開けてしまったかのように、生きている意味、自分の将来への不安、自分の存在価値、そういったものが、走馬燈どころではない、津波のように押し寄せてきた。とにかく布団から起き上がるのがやっとだった。
 それでも何とか服を着替え、軽く朝食をとって出かけようとした。
 荷物を持って玄関へやってきた時だった。
 今自分が履こうとしている靴、開けようとしている扉、それらがみんなけたたましく笑い声を上げたように錯覚した。自分に対して呪いの言葉を吐きかけていた。
「お前、このままずっとフリーターの貧乏暮らしするの? あ、そうか、お前みたいなやつを正規に雇ってくれるところなんてないもんなぁ。悪い悪い」
「せめて支えてくれる彼女でもいればねぇ。って、その顔と身なりじゃ無理か。あっはははっ……」
 彼には、確かにそう聞こえていた。ドクン、と心臓が大きく音を立てて一回鼓動し、周りの景色がぐにゃりと曲がって見えた。
 恐い。
 この世のものに感じるのとは違う、霊的な恐怖を感じた。
「うわああぁぁぁ」
 彼は大声を上げて飛び退いて部屋の中にうずくまり、声を上げて震えた。「恐い」という言葉になっていることもあれば、言葉にならない嗚咽のこともあった。
 しばらくそうしているうちに、彼は寝息を立て始めた。
 もちろん、実際は、靴も扉も、しんといつもの場所にいつものように無言で座っているだけだった。
 
 彼はアルバイトで生計を立てていた。いわゆる「日雇い派遣」といわれる類のもので、毎日メールや電話で就業場所や給与などが知らされ、そこへ行く。現場は毎日違う。仕事そのものは単純作業で、それほど難しい仕事はないが、その分何かスキルが身につくということもないし、何しろ、忙しいから臨時に人が必要、という現場へ「派遣」されるわけで、二、三時間の残業は当たり前だった。残業手当が付くのがせめてもの救いだが、それでも、仕事がない日もあって、月収十五万円に届くかどうか。生活はギリギリだった。家賃を払い、水道、光熱費、それに携帯電話の料金を支払い、食費を払ったら、手元にお金が残ることはほとんどない。多少残ったとしても、来月の収入がどうなるか見当がつかないのだから使うわけにはいかない。
 両親はすでに離婚し、彼を引き取った母親は別の男と再婚したが、その男は彼のことを煙たがり、彼が高校を出ると同時に、彼に幾ばくかの金を持たせて家を追い出した。以来、5年はこんな生活を続けている。
 幼少の頃の実の両親との生活も決して恵まれてはいなかった。両親は不仲で喧嘩が絶えなかった。両親の離婚を経て、母親が再婚した後も、男からも、実の母親からも煙たがられた。生まれてこの方、家庭は彼の居場所ではなかった。だから、最初は家を出られて助かったと思ったものだ。しかし、五年の歳月がたち、いつまでこの生活が続くのか、自分の将来はどうなるのか、そうした不安や、長い期間の過労が頂点に達していた。前が見えないまま進んでいかなければならないことほど苦しいことはない。その苦痛が、肉体的にも精神的にも彼を蝕んでいた。
 
 携帯電話が鳴って、目を覚ました。登録している派遣会社からの電話だった。
 しばらくボーッとしていて、今自分がどういう状況なのかさえ思い出せないでいたが、次第に今朝の出来事を思い出すにつれて、恐怖がわき上がってきた。今度は携帯がしゃべり始めた。
「お前、何サボってんだよ! ふざけんな、お前、無断欠勤なんて人として失格だぜ。もう生きていく資格もないよ!」
 恐ろしさにしばらく身をこわばらせてけたたましく彼を責め立てる携帯をながめていたが、ついにこらえきれなくなって、携帯をつかむと部屋の隅に思い切り投げつけ、大声で叫びながら部屋を飛び出した。裸足のまま、扉は体当たりをするように突き抜けて行った。
 彼の出て行った部屋の隅で、携帯電話が無機質な電子音を立てていた。
 
 とにかく、自分と関わりのある場所から離れたかった。毎日いろいろな場所へ派遣されていたのでどの方角も行ったことのある場所ばかりだったが、電車を乗り換え乗り換え、ようやく自分の行動範囲外へとやってきて、電車を降りた。途中、何人かの乗客が、彼が裸足であることに気づき怪訝な目で見たが、彼自身は何も感じなかった。周りの目を気にしている余裕も失っていたし、自分が裸足だということにも気づいていなかった。
 切符はキセルだった。入場するときに隣の駅までの切符を買い、降りるときには三つくらい隣の大きな駅の名前を出して、そこから乗ったが切符をなくしてしまった、と言った。
 改札から出るときはスリルだった。キセルだと見抜かれたらどうしよう、と思った。努めて冷静に振る舞った。しかし、実は、見抜いてほしい、という気持ちが、心の奥底にはあった。見抜かれ、捕まり、そうしたら、しばらくは食事と寝る場所が確保されるし、もしかしたら、今のフリーター生活から抜け出すきっかけがもらえるかもしれない。そんなかすかな期待を無意識の中に持って有人改札へ向かった。
 しかし、キセルはあっさり成功してしまった。駅員は彼が裸足だということにさえ気づかなかった。ただ単調に、マニュアルに忠実に業務を続けているだけだった。大きな駅から、この駅までの運賃を支払って改札を出た。その単調な仕事ぶりに、彼は自分が派遣先の工場で行っている作業を思い出した。自分も、この駅員も、社会という巨大な工場の一部分を担うロボットのようなものなのかもしれない、と思った。
 キセルが見つからなかった安心感と、見つけてもらえなかった虚しさとを抱えて駅を出て、街をふらふらした。歩いていくうちに、次第に虚しさの方が大きくなっていった。もしかしたら、キセルを見つけてもらいたかったのかもしれない、と、この時初めて、彼は自分自身の心の内に気がついた。誰かに気づいてほしかったんだ。助けてほしかったんだ。でも、僕を助けてくれる人なんて誰もいないんだ……。
 そこは静かな住宅街だった。住宅と住宅の隙間にある公園を見つけ、ベンチに腰掛けた。座って足元を見てようやく、自分が裸足だったこと、その足がもうすっかり泥と油にまみれて汚れていることに気がついた。
 何も考えられなかった。何かを考えようとすると、無能、無力、将来性がない、永遠のワーキングプア、そんな言葉が浮かび、この先どうすればいいのか考え始めるが、すぐに行き詰まって考えることに疲れてしまった。ただボーッと、雲が生き物のようにむくむくと成長し、流れていくのを見ているだけだった。生ぬるくしめった風が頬をなでた。
 長いことそうしてベンチに座っていた。気がつくと、ポツポツと雨が降り始めていた。向こうの生け垣にいた子どもも、いつの間にか姿を消していた。もちろん傘など持ってきていないので、ただ濡れるに任せるだけだ。雨宿りをしに行こうという気持ちさえなかった。雨が次第に強くなってきた。それでも彼は動こうとしなかった。何人か、公園のそばの道を通り過ぎた人がいたが、傘で彼が見えないか、気づいても、関わりあいになりたくないというふうに、目をそらせて通り過ぎていった。彼自身は、人が通ったことにさえ気がついていないようだった。
 雨は激しさを増し、ついには雷まで鳴り始めた。カッと一瞬周りが明るくなり、数秒して、地獄の底からわき上がるような雷鳴が轟いた。
 すると、今まで、したたり落ちる雨水を拭いもしなかった彼が、やおら財布を取り出した。財布もぐっしょり濡れていた。中には、濡れてふやけた千円札三枚と、小銭がいくらか入っていた。
 彼は財布の中身を確認すると先ほどの駅へと戻り、切符を買って改札の中へと消えていった。
 
 その日の夕方、東海道線で人身事故が発生した。若者が線路に飛び込み、電車にひかれて死亡した。
 東海道線と、それに直通運転をする湘南新宿ライン、その他関係各線に運休や遅延などが出て首都圏の帰宅ラッシュを直撃したが、その日の夜遅くにはダイヤは復旧した。メディアの扱いも、毎日のように起こる人身事故の一つ、という程度だった。
 翌日、何事もなかったかのように世界はいつも通りに回っていた。いや、実際社会全体にとってそれは何もなかったのと同じなのである。


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