笑顔の下には
大澤唱二


 また、失恋しちまった。
 これで何回目だろう。……いや、数えてみると大したことない。せいぜい四回目だ。ただ、俺の場合はいつもこっぴどいフられ方をするので、なんだかもう何十回も失恋している気分だ。それくらい、一回一回の恋愛に思い入れがあるし、相手のことを心底想っていた。しかし、どうもそれが相手には重いらしい。俺自身、俺って粘着質だよなと思うことがままある。自分でさえそう思うのだから、相手の女性にしたら、ただの「キモイヤツ」でしかないに違いない。
 今回もそうだった。
 相手は二つ年上の女性。ロングヘアの似合う、細身で清楚な感じの、まさに俺のタイプの女性だった。名前は真砂子といった。
 出会ったのは大学の講義でのこと。俺は文学部なのだが、文学部共通の科目の授業で、真砂子と出会った。俺は二年で、彼女は一浪してこの大学に入った三年生だった。
 一学期の、授業も残すところあと三回というくらい、季節でいえば夏の直前。内地は梅雨の真っ盛りだろうけれど、ここ北海道は一番いい季節だ。文学部は建物が古くて、中にいるだけで陰鬱になるような雰囲気があるが、この季節だけは違った。窓を開けておくとさわやかな風が吹き入り、建物内の暗い空気をほどよく中和してくれた。さわやかすぎて眠くなるといったこともなく、勉強するにはうってつけだった。
 そう広くない教室には結構人が入っていた。学期末が近づき、レポートのことを気にして普段あまり授業に出ていないようなヤツも、そろそろ授業に出てくる時期なのだ。
 味気ないスチール製の机に、三つ並んだパイプいす。それが一列六組で三列並んでいた。大抵の机は、両端に一人ずつ、一つの机に二人ずつ座っていたが、いくつかの机ではすでに真ん中の席も埋まり始めていた。一番窓側の列の前から三番目の机、その一番窓側のいすに、話しかけられたら惚れてしまいそうな、俺好みの美人が座っていて、真ん中を空けて、俺が座っていた。
「教科書、見せてもらってもいい?」
 唐突に俺はそう話しかけられた。
「教科書忘れちゃったの。見せてもらっていい?」
 同じ机に座った美人が俺に声をかけている。信じられないことだ。正直、俺は見かけに自信がない。顔も不細工だし、服装にもまるで頓着していない。髪だって適当に千円の床屋で切っているような、時代遅れの人間だ。そしてややアニヲタも入っているか。こんなヤツに美人の方から話しかけてくるなんて、あり得ない。
 とまあ、当時はそんなふうに考えてどぎまぎしていたわけだが、冷静に考えれば、教科書を見せてもらえれば誰でもよかったのだから、馬鹿馬鹿しいことでパニックしていたものだと思う。
 俺はもちろん教科書を見せることを了承した。すると彼女は、
「じゃあ、席、詰めるね」
 と、すぐ隣の席に移ってきた。これも、間に空席があるとお互い教科書が見づらいし、間の席に誰かに入られたりしないためにも、当然の措置だ。それでも、俺は、もしかしたら彼女は俺に気があるんじゃないか、などと思ってしまった。お医者様でも草津の湯でも治らない、恋の病の発症である。
 授業の間中、窓から風が入ってくるたびに、彼女の長い髪が揺れ、かすかな香水の香りが鼻をくすぐり、とてもじゃないが授業どころではなかった。教科書よりも、彼女の横顔を眺めていた時間の方が長かったような気がする。
 授業が終わると、彼女は、
「教科書ありがとう」
 とお礼を言ったあとに、
「ノートきちんととってるんだね。良かったら見せてもらえる?」
 と言ってきた。今日より前の授業のノートがきちんとしていると見えたのか、それとも、どぎまぎしながら適当にとったノートでも感心されたのか、そのあたりは今でも定かではないが、とにかくまたもや彼女と会話する機会に恵まれたことだけは確かだった。しかし、俺は気の利いたセリフなど思いつかず、ただ、
「あ、はい、いいですよ」
 と言っただけだった。
「良かった、私、実は何回か授業休んでて。サボってたわけじゃなくて、そろそろ就職活動始まる時期で」
「あ、じゃあ、今三年生ですか?」
「そう、三年になると何かと忙しいのよね。このあとの昼休み、時間ある?」
「昼休みも空いてますし、次の時間も空きコマなんで、大丈夫ですよ」
「じゃあ、お昼おごるね。ありがとうございます」
 彼女はうやうやしく頭を下げた。そこへ、彼女の友人らしい女性が教室に駆け込んできた。
「マサコ〜、お昼……、あら、お邪魔だったかしら」
 いつの間にか教室には彼女と俺の他はポツポツとしか学生がいなくなっていた。
「そうね、ちょっとお邪魔。私これから彼とデートだから」
 デートだから。
 眉間をコツンと叩かれたような、軽いショックがあった。デート。俺には全く縁のなかった代物だ。胸がドキドキしてきて、熱いものがこみ上げてきた。それを何とかごまかそうとして、名前を聞いた。
「マサコ……さん?」
「ええ。「真」に「砂」に子どもの「子」で真砂子。あなたは?」
「あ、僕はタカシです。「驕vに歴史の「史」で隆史。二年です」
「隆史君ね。そっか、じゃあ、私、一浪してるから、二つ下ね。よろしく」
「あ、はい、よろしくお願いします」
 俺の頭の中に、「年下の男の子」というフレーズが浮かんだ。名前は忘れたが昔のアイドルグループの歌だ。
 ちなみに、今はちょっと無理して「俺」と書いて強がってみているが、実際の生活ではそんな度胸のある性格ではなく、「僕」と、しかも弱々しく自称している。
 その日は、ただ、世間話をしながらお昼を一緒に食べ、ノートを見せてあげただけだった。お互い、別の授業があったから。けれど俺はこの時すっかり彼女に惚れ込んでしまった。少なくともここまでは、恋愛小説やドラマによくある展開だ。もしかしたらこのあとも、そんな展開になるかもしれない。そう考えては、彼女のことをいつも想っていた。
 しかし、次の授業で出会ったときにも、それ以上の進展はなかった。別に無視されたりしたわけではない。挨拶もしたし、言葉も交わした。しかし、この間の世間話と何にも進歩していなかった。今思うと、この時にすっぱりあきらめていれば良かったのだ。

 ついに最後の授業になってしまった。
 親しくなるには、これが最後のチャンス。今日はとにかくメールアドレスだけでも交換しなくては。
 そう思って、三日前からどう切り出すか考えて、いろいろシミュレーションしていた。俺ときたら、別に告白をするわけでもない、ただメールアドレスを聞くだけでもこんななのだ。本当に先が思いやられる。
 時計を見ながら、きっちり始業三分前に教室に入った。これくらいの時間が、彼女もすでに着席していて、かつ彼女の隣の席は空いている時間帯だろうと踏んだのだ。思い通り、さりげなく彼女の隣の席を確保した。軽く挨拶した。ただ、それ以降の会話が続かなかった。口下手だな、俺は……。だけど、それはそれでいい。アドレスを聞き出すのは授業後と決めていたのだ。  授業ではレポート課題のことなどが指示され、わずかばかり残った理性でとりあえずノートにだけは写したものの、アドレスを聞き出すことを考えてばかりで頭の中には指示された内容などこれっぽっちも残っていなかった。
 授業が終わってから、なるべく平静を装って彼女に声をかけた。
「あの、真砂子さん、すみません」
 多分、相当声が震えていたと思う。
「うん? なに? どうしたの?」
 明るく笑って答えた。この笑顔のおかげで、どれだけホッとしたか。このあとは、割とスムーズに言えたんじゃないかと思っている。
「もしよろしければ、アドレス交換しませんか?」
「アドレス? うん、いいよ」
 なんでもない、というふうに彼女は言ったが、その時の俺にとっては突然目の前に花畑でも広がったような、ものすごい出来事だった。
「あ、ありがとうございます!」

 このあとの戦略も、すでにだいたい考えてあった。前の授業で雑談した時、彼女はクラシックが好きだと言っていた。俺も嫌いではなくて、たまにコンサートに出かけたりしていた。ちょうど七月の末にコンサートがあるのを、俺は知っていた。これに誘ってみよう。もっともいきなりでは変だ。まずは、挨拶代わりのお礼のメール。
 その日の夜、さっそくメールした。
“授業ではありがとうございました。いろいろお話しできて楽しかったです。また、こうしてメールしたり、大学内でお会いできたらうれしいです”
 簡単な文章だが、これでも考えに考えて、また、送っていいのかどうか悩んで、全部で少なくとも三十分は、緊張して手に汗をかきながら携帯を握りしめていた。
 メールを送信したあとは、もう気が気ではなく、携帯を常に体のそばに置いていた。が、なかなか返事は来なかった。
 もう永遠に来ないのではないかと思い始めた頃、携帯が震えた。俺はビクッと体を震わせて、そしてすぐに携帯を手に取った。
“こちらこそ、教科書やノートを見せてくれてありがとうございました。また大学で会いましょう”
 今まで実際に会っていた時の彼女の言葉と比べると、丁寧語で書かれているところなど、ちょっと気にはなったが、それでも俺は好きな人からメールをもらって舞い上がって、そんなことはどうでも良くなっていた。

 それからしばらく、だいたい一日一通ずつの、ごく簡単なメールのやりとりが続いた。俺はメールのやりとりが続いたことで、脈ありと、勝手に思い込んでしまった。今から考えると、そもそも俺が昼に出しても大抵返信があるのが夜遅くだったことは考慮に入れるべきだったと思う。
 そうこうしているうちに、すぐにお目当てのコンサートの一週間前になった。さすがにそろそろお誘いのメールを出さなくては。
“確か、真砂子さん、クラシックがお好きなんでしたよね。来週、札幌交響楽団のコンサートがあるんですけど、もし良かったら一緒に行きませんか?”
 さりげなく、簡単に書いた。もちろん、実際は心臓はバクバクいっていたし、例によって文章を書き始めてから送信するまでに三十分以上かかった。
 だが、その日は返信は来なかった。
 一日たち、二日、三日とたっても返信が来なかった。
 いてもたってもいられず、また三十分以上かけて、心臓をバクバクいわせながら、
“こんにちは! 先日のコンサートの件ですけど、ご都合はいかがですか?”
 とメールしてみた。今度は、すぐに返信が来た。珍しいな、と思った。彼女からメールが来るのはだいたい夜だったし、少し時間がたってからくるのが常だったから。
 その「いつもと違う」という感覚は、悪い方へと転がった。
“あなた、なに考えてるの? 返信がないんだから断ってるに決まってるでしょ。馬鹿じゃない? 毎日メールしてるから、私があなたに気があるとでも思った? 自惚れるのもいい加減にしなさいよ”
 俺は……、わけがわからなくなった。
 嫌われていたんだ、と冷静に状況を判断して、まあ失恋くらい誰にでもあるさ、と自分を落ち着かせようとする自分もいた。その一方で、自分はなにも失礼なことはしていない、ただ、予定を聞いただけ。返信がないから答えはNo? そんなの、言われなくちゃわからねぇよ。なんで俺がこんなひどい言われ方をしなくちゃならないのか。そう思って、腹の底から怒りを吹き出している俺もいた。
 携帯を、ベッドの上に叩き付けた。怒りを表現したかったが、冷静な俺が、携帯が壊れないようにベッドに向かって投げるくらいにしておけ、とブレーキをかけていた。
 ドスッと鈍い音がして、掛け布団に携帯が埋まった。
 しばらくはただ呆然としていることしかできなかった。
 当たり前だが、それ以降は一切メールしていない。アドレス帳からも削除したし、着信拒否にも設定した。

 だが、この失恋はこれだけでは終わらなかった。
 何とか心を落ち着かせてレポートを書き上げ、八月の上旬に久しぶりに大学に行った。その日はレポートの提出期限だった。正直、真砂子のヤツに会いはしないかと、行くのが怖かった。でも、あんなヤツのことをいちいち怖がっていられるかよ、と強がったことを考えて、意に介さないふうをして出かけた。
 レポートを出して、さあ、これでスッキリした、あとはしばらく遊べるぞ、と思いながら踵を返して家に帰ろうとした時だった。
 あいつだ。真砂子のヤツが、レポートを手にこちらに向かってくる。
 俺はちらっと見た以外は、視界に入っていないくらいのつもりで、携帯を見たりなどしながら無視してすれ違おうとした。
 その時。むんずと腕をつかまれた。あいつにしては力一杯つかんだつもりなのだろうが、所詮女だ、痛くも何ともなかったが、何しろ突然だったので、怯んでしまった。
「あんたさぁ、いったいどういうつもりなの? 携帯なんていじっちゃって、また女の子にメールでもしてるの? あんたみたいなダサイ男、絶対無理に決まってるじゃない。教科書やノート見せてやったから女の子がなびくとでも思ってるわけ?」
 その顔にはもう清楚なイメージなどもうなかった。般若の面に変わったかのように、髪を振り乱さんばかりにものすごい形相でヒステリックにまくし立てた。廊下に響き渡るような大声だった。俺はあいつが言い終わるまで、黙った立ち尽くすことしかできなかった。つくづく情けない男だ。だが、心の中は意外なほど冷静だった。彼女の表情を観察する余裕さえあった。この時は。
 彼女が言い終わってやっと、腕をふりほどいて、何も聞いていない、堪えていない、というふうに、何も言わずに立ち去った。でも、実際のところは、何も言えなかった、というのが本当だった。

 自宅に帰り着いて玄関の扉を閉めた瞬間、怒りと、屈辱と、悲しさと、いろいろな感情が一気にわき上がった。荷物をぞんざいに放り出した。
「ふざけんな、あの野郎!」
 大声で叫んで思い切り壁を殴った。何度も殴った。叫び声を上げなら。
 所詮女の優しさだの笑顔だのは、この程度だ。一枚面の皮をはげば、笑顔の下には般若の面。笑顔と優しい言葉で巧みに男をおびき寄せ、ふらふらと寄ってきたヤツには不意打ちで強烈なパンチを浴びせる。目的はわからない。そうして男をこてんぱんにやっつけることで優越感を得たいのだろうか。とにかく、女は油断ならない。
 叫び疲れ、殴り疲れて、ぐったりとベッドに横たわった。目はうつろで、焦点が定まっていなかったのではないかと思う。この時には、あいつに対する怒りよりも、自分は本当に馬鹿で、どうしようもないダメな人間だという漠然とした思いの方が強くなっていた。
 しばらくして、ヨロヨロと起き上がり、俺は机の引き出しからカッターを取り出した。刃を出して、左腕に当てた。最初は軽くこする程度だったが、そのうち、思い切って、深くグサリと刺し、刃をスライドさせた。痛かった。痛かったが、その感覚こそ、生きている証のように思えた。自分を痛めつけることが快楽にさえ思えた。血が流れ出るのを見るとなぜか気持ちが落ち着き、落ち込んだ気分が持ち上がるような気がした。
 血がじわりとあふれ出て、何滴か肘から下に落ち、布団についてシミになった。傷口のあたりを手でいじりながら、血が流れ出て滴り落ちる様子を眺めていた。



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