きっとあの人は、わたしがこんな風に思っているなんて気づいていないはず。
だから、わたしは言わないの。
――好きなんて……愛しているだなんて。
決して。
元自室の倉庫で、文庫本の、はじめの数行を読む。
1ページにそれだけが書き込まれていて、その文章の強さがわかる。
まさしくそれは恋愛小説らしい文章で、はらしくないと思いながら、ページをめくった。
海軍に会うことも、海賊に会うこともないのは珍しい。
食堂や甲板で各々、好きなことをして時間を過ごすクルーの声は、この場所まで届かない。
ページをめくる音だけが響く中、はテーブルかわりにしていた空の酒樽にホットコーヒーの入ったマグカップを置いて、更にページをめくる。
『いらっしゃいませ』
目の前にいる男たちに視線を向けると、小さく頭をさげたあとに『どうぞ』と酒場のテーブルの、開いたスペースへ手のひらを向ける。
言われたとおりにそちらへ向かう男たちは、どう見ても村人ではない。
『ご注文はどうされますか?』
毎夜、この酒場にお尋ね者がやってくる。けれども、わたしはそれを怖いと思ったことがない。無理矢理にあれこれとされたことがないからかもしれないけれど、そんな人ばかりではないことを知っているから。
注文を聞いたわたしは、またいつも通り、厨房と店内を行ったり来たりする。
――酒場、ね。
ナミが読ませたい理由がわかった気がする。この話は酒場を舞台として話が進むらしい。がローとはじめて出会ったのも酒場だから、ナミはこれを読ませたかったのだろう。
わたしは酒場で仕事をしている。休みは、月曜と木曜日。夕方の6時頃から深夜2時まで、途中で15分ほど小休憩がある。
両親は流行病で死去、兄がいるが、海軍に所属していて帰郷することは稀だ。
酒場には色々な人がくる。いい人も悪い人もいる。
わたしはいつもふんわりと笑みを浮かべ、人混みの中を忙しそうに動く。温かな雰囲気で話しかけやすいが、誰にも同じような接し方をするため、実際はどういう性格をしているのか、把握している人はいないはず。
――いや、ただ一人だけ、存在している。
だが、その男はこの島に滅多と来ないうえ、海軍と敵対している海賊。
わたしはただの酒場の店員。それでいいの。たくさんの人に埋もれて、最期は眠るように死ねればいい。たとえ、あの人の記憶に残らなくても、わたしが覚えていればそれでいいの。
は栞を挟んで本を閉じる。
過去を客観的に振り返っているようで、胸の奥がちりりと痛い。
あのままあの酒場にいたなら、自分はきっと同じような心境になっていただろう。
少しだけ温くなったコーヒーを飲むと、そのマグカップを両手で持ったまま、小さな息を吐いた。
自分と似ていないのは、性別を偽っていない、兄がいるという点だけ。手配書が出回ることがなければ、きっとはあの酒場で性別を偽らず、けれども他者と一線を置いて応対し、そして、他者の記憶に残らないように気を使いながら死んでいくのだろう。
――本当に、ナミは何でもお見通しで恐ろしい。
ポケットから懐中時計を取り出し時間を確認すると、文庫本をクローゼットにしまって食堂へ向かう。
大事な船員たちの食事を作るために。
あの人が来た。
あの人は、わたしのことなど気にも止めずにグラスを傾ける。
はじめてあの人を見つけてから3年が経った。一人で来ることもあれば、女性連れだったり。わたしの思いは、彼に告げることはない。
見ているだけで、今はいいの。
いずれわたしはわたしの思いに我慢できなくなって、この島を出るだろう。そのときまで、眺めるだけで幸せな時間を、このまま。
クルーの食事が終わり、はゆっくりと自分の食事を食べる。いつもは仲間と一緒に食べるのだが、今日はそういう気分になれなかった。
食堂にはまだクルーが残っていて、喋っていたりカードゲームをしたりと様々だ。雑多な雰囲気を味わいながら、先ほどまで読んでいた文庫本の内容を思いおこす。
男として生活している自分に、ヒロインの気持ちがすんなりと入ってきてしまうことに、彼女は戸惑ってしまっている。
小説など作り話――そう、夢を見るように読める内容ならばよかった。
「チョイスがピンポイントすぎんだよ、まったく」
は誰にいうともなく呟き、腰をあげる。
自分の食器と一緒にクルーたちの食器も洗ってカゴに入れていきながら、思わずため息を漏らした。
キッチンに立つの後ろ姿を、新聞を読むフリをしながら伺っていたローは、その醸し出す雰囲気がいつもと違うことに気づいていた。
はタオルで手を拭くと、濡れたそれを手に食堂を出て行く。
気配を探ると、彼女は元自室である倉庫へ向かい、そこに落ち着いたようだ。
――最近よくあの場所にいるな。
ローの自室がの部屋にもなっているが、ここ数日、姿を現さない時間が2時間ほどある。
の行動を咎めるつもりはないが、それでも、気になるものは仕方ない。
――俺に何も言わずに。
自分に黙ったままなことを不快に感じ、だがそう思うままに行動してしまえば、自分は満足するだろうが、にはストレスを与えてしまうだろう。
負の気配はまだ感じない。
――しばらくは静観するか……。
落ち着いたまま動く気配のないを思い、ローはらしくないと嘆息したのだった。
ここ数日、毎日やってくる彼は、いつも一人。
グラスを傾けることもあれば、ジョッキを煽る日もある。長い指先の所作に見とれてしまうこともあるけれど、わたしは見ているだけと決めている。
好きと告げて、この店に来なくなることが怖い。
恋愛というものに興味はあっても苦手で、いつも距離を置いてしまう。それでもいいと言われて付き合った人はいるけれど、最後にはふられてしまう。
積み重なれば、怖くなる。
自分が悪いとわかっているのに、あと少しの勇気がでない。
だからわたしは、好きという気持ちを自分の中に閉じ込めることにしたの。
馬鹿だなって自分でも思うけれど。
毎日にこやかな笑顔で、みんなに愛想を振りまく、そして、嫌われないように顔色を伺って、自分を見せることができない――それが、本当のわたし。
目尻に浮かんだ雫が、ほろりと落ちた。それではじめて、は自分が泣いているのを自覚する。
自分とは性格が違うヒロインだが、読んでいるうちに引き込まれてしまったようだ。
落ちた涙が呼び水となって、また一つ流れた。鼻の奥がツンとなって視界がぼやける。ヤバイと思ったときには手遅れで、俯けばポタリと涙が床に落ちた。
ぐすりと鼻をすすり、近くにあったティッシュでおさえ、止まらなそうな涙と鼻水をこれ以上流さないために上を向いた。
きっと目は真っ赤になっているだろう。まぶたも腫れている気がする。
「あーあ、なにやってんだか……」
涙声で呟き苦笑する。
「こんなとこ見られちゃったらマズイよなー」
泣き虫って馬鹿にされる。
へにょりと眉をさげて泣き笑いをしながら、栞をはさんで片づける。
これ以上読むと大変なことになってしまうと胸中で呟きながら。
――さて、どうしたものか。
部屋へ戻ってローがいなければいいが、基本的に面倒くさがりで、部屋から出ることは少ない。そんな彼が部屋にいないはずがないのだ。
――困ったな。
ローの部屋で読めばいいのだろうが、泣いてしまったりしたときの反応に困る。見ないふりをされてもされなくても、居心地が悪くなることは間違いないはず。
――でも、これ以上はマズイよな。少しはマシになっただろうし……部屋に戻るか。
泣いたあとは残っているが、何もやましいことはないのだからと、は部屋へ戻ることにする。
の気配が動いたことに気づいて、ローは読んでいた医学書から意識をそちらへ向けた。この部屋へ近づいてきた気配を感じるが、視線はそのまま医学書のままだ。
扉を開けた音にローは顔をあげそちらへ視線を向け、自分の瞳に映った彼女の表情に自然と眉が寄るのがわかる。
まだ赤みの残る鼻先と少し腫れた目は、泣いていたと主張していた。
はソファベッドへ移動すると、 その上で両膝を抱えて顎をそこへ乗せる。物思いに耽っているのか、目を伏せた彼女に意識をもっていかれてしまった。
自分の意識が完全にへ向けられてしまって活字が脳へ浸透しないことに気付き、ローは活字を追うことを諦めて医学書を閉じた。その音にびくりと肩を震わせたのを視界の端にとらえて、彼は呆れたように息を吐いた。
――堂々としていればいいものを。こんな状態じゃ、俺に突っこんでくれと言っているようなものだ。
彼女へ視線を向ければ、ローの視線を感じて萎縮しているのか、膝を抱えたまま固まっている。
「今は何も聞かねぇから、こっちに来い」
自分のベッドへ座り壁に背を預けたローは、を呼んだ。
「えっ、と……、な、何でも、な」
「いいから、来い」
なんでもない、と言いかけたの言葉を遮り、強く言い切る。そうすれば彼女は諦めてローの元へやってくる。
困惑した表情で彼の前までやってきたの腕を取り、自分の足の間へと座らせる。顔を見られるのが嫌なのだろうと判断し、くるりとの体を反転させて、ローは背中から抱き寄せる。
背中から感じる体温に、彼女の体から強張りが徐々に消えていく。
「ご、ごめん、なさい」
「やましいことがないなら謝るな」
「あ、……は、い」
でも、と言いかけたの言葉を、彼女の体の前で緩く両腕を交差させて囲うことで黙らせる。
目の前の細い肩に顎を乗せて落ち着かせ、ローは目を閉じる。
強張りの消えた体から、今度は困惑の気配を感じ取るが、ローはそのまま抱き寄せるだけで何もしない。
「どうして、何も聞かないんですか」
しばらくの後、黙っていたは小さく問いかける。
「おまえが倉庫で1人で居たのは知っている。その間、他の気配はなかった。俺以外の誰かに泣かされたんじゃないなら、追求する必要はねぇ。それともおまえ、突っこんで聞かれたかったのか?」
「そういうことじゃ、ないんですけど」
「それに、おまえの部屋を倉庫に戻しちまったからな、1人になる時間も必要だろう」
言いながら、ローはの手に指を絡ませる。少しかさついた指先を、ローは何度も撫でた。
「しばらく冬島が続く。おまえの手荒れもどうにかしないとな」
握ったの手を自分の眼前にかざして、その手をあちらこちらと撫で回す。
「なっ、なに?」
焦ったように声を出すに気を良くして、両手を存分に診察するフリをして、自分の気がするまで触りまくる。
「っ!」
びくん、と体を震わせたは、赤さのなくなった鼻先と目尻を別の意味で朱色に染めた。
「や、やめて、ください…っ」
「じっとしてろ」
どうにか手を離そうと暴れるの耳元で言うと、目の前にある首筋までもが同じ色に染まった。
恥ずかしいと全身で表すに、ローは満足げだ。
「そういえば、あの姉妹に何か貰ってたな。何が入っていた?」
「え? あ、ハンドクリームとリップクリーム、あと美容液でした」
美容液か、とローは呟き、 ようやくの手を解放した。
「明日でいいから全部持ってこい」
言って、ローはをベッドに引き倒す。
「キャプテン!?」
「寝るぞ」
「も、ちょっと待ってください! 寝るならツナギ脱ぎ……っ!!」
あっという間にツナギの合わせ目をはだけさせると、の体からツナギが消えた。
「さむっ」
思わず放った言葉に苦笑される。
「仕方ねぇな」
ローはのツナギを椅子に放り投げると、を胸に抱き込んでしまう。
「足、冷てぇな」
自身の足をの冷えた足に絡ませ、強く抱き込む。
「何もしねぇから、寝ろ」
「う……はい」
何か言いたそうに呻いたが、は諦めたようにローの腕の中で目を閉じた。
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