涙だけは嘘を吐けない 2





 
 翌朝、はローの腕の中からなんとか抜け出し、朝食の準備に取り掛かる。
 キッチンの傍には、あの姉妹から貰った巾着が置かれてあった。
 昨夜は本当に何もなく、ただ抱き込まれて一緒に眠っただけだ。
 互いに好きだと伝えあったあとから、昼間はいつも通りだが、夜2人きりになると少しだけ目元が甘く、緩くなるようになったローに、は少しの戸惑いと、大きな喜びを味わうこととなった。
 昨夜はと一緒に眠ったためか、クルーが起きてくる前にローは食堂へやってきた。大きな欠伸をしながら、彼はキッチンに一番近い椅子に腰掛けた。
「どうしたんですか?」
 今まで一度もないその行動に、は問いかける。再度、欠伸をしたローは、脳がまだ起きていないのか、彼女の問いに返答しないでいる。
 ぼうっとしているローには小さく笑うと、合間にコーヒーを作ってテーブルに置いた。
「コーヒー置いておきますね」
「あぁ」
 ようやく脳が起きてきたのか、ローの短い返事があった。
「それから、これも。昨日言ってたものです」
 巾着をコーヒーの横に置くと、彼女は朝食の準備の続きをはじめる。
 コーヒーを一口飲みようやく眠気から覚めてきたローは、が置いていった巾着を開けて中身を取り出す。
 赤い林檎の形をした美容液の瓶の裏にある表示を眺めながら、再度コーヒーを飲む。
 の後ろ姿を眺めつつコーヒーを飲むと、ゆっくりとした時間の中、無言の時間を楽しむ。
 どちらも声を発することなく、キッチンからの音と衣擦れの音、ローのコーヒーカップを置く音と瓶をテーブルに置いた音だけが響く。そんな穏やかな時間がこの船の中であることに、ローは緩く笑みを刻んだ。
 ことり、と椅子をひいて立ち上がった彼は、へと空になったカップを手渡すと、彼女の髪をさらりと撫でたあと、食堂を出て行った。
 ローの後ろ姿を見送り、はどうしたものかと、喜びより困惑する。態度が急変すると、妙に身構えて緊張してしまう。
「あぁあぁ……もうちょっと『嬉しい』が表現できればなー」
 ローに会わなければ、きっと『嬉しい』などという感情に気づかないまま一生を終えていただろう。毎日自分の感情を押し殺し、まわりには穏やかな青年と騙し続け、いずれ何処かで野垂れ死ぬ。そんな未来を予想するのは容易かった。
 ――ありがとうのかわりに、自分の出来ることを。みんなに……キャプテンに、言葉に出来ない『ありがとう』を。





 クルーが1人2人と増える中、は仲間の間をすり抜けなら給仕中だ。朝食はある程度、時間が決まっている。大人数をだけで捌くのは不可能だが、いつも誰かが手伝ってくれる。
 ローは早い時間に起きてきたから、今は眠っているはずだ。あまりに起きる時間が遅い場合はクルーの誰かが起こしに行くこともあるが、今日はやめておいた方がいいだろう。
「あれ?」
 食堂の入り口に見えた細い体躯に、は思わず首を傾げる。
「キャプテン?」
 思わず珍しいと声に出すと、それに気づいたのか、ローはの近くまでやってきた。
 顔を見れば寝ていたわけではなさそうだ。
「ご飯にしますか?」
「ああ、頼む」
 キッチンの一番近い場所に陣取ったローに、朝食の乗ったトレイを置いた。
「仕事が終わったら医務室に来い」
「わかりました」






「来たか」
 医務室がノックされ、それに入室許可を出すと、が入ってきた。
「そこに座れ」
 目の前にある丸椅子に腰かけるように言って、ローは自分が今まで向かっていたデスクの上にあるものを手に取った。
 言われるままに座ったに、彼はいつも通り、目の診察をし、そのあと彼女の手を取った。
「この間も、それ……してましたね」
 手を触られるのが苦手なのか、はローが指の先を撫でる感触に言葉を途切れさせながら質問をしてきた。
「手が荒れてきたのは冬島に入ってからか?」
「たぶん、そうだと思います。今まで気にしたことがなかったから」
 ローは、自分の指にクリーム状の何かを取ると、の指にのせた。そのままその指で、荒れた指先を撫でるように、丹念にそれを塗り込んでいく。ふわりと微かに香るのは、柑橘系。
「みかん?」
「ナミ屋のみかんは手入れがされていたからな」
 皮を使って香料にしたのだろう。
 ゆっくりと撫でるローの長い指。指先に浸透しなくなると、それを手全体に塗り込んでいく。
 次にもう片方の指に移動して、そちらも同じように塗り込んでいく。
「毎日、寝る前と仕事後に、俺が今しているように塗れ」
 ――こんな手入れなんてしたことがないから無理です!
 そんなの胸中に気づいたのか、ローは小さくため息をつくと、仕方がないと苦笑を滲ませた。
「俺の手があいているときは面倒みてやる」
「ありがとうございます」
「それと、その言葉遣いもどうにかしろ」
「どうにかって言われても」
 キャプテンだし、と続いた彼女の言葉に、手入れの終わった手に通気性の良い布で作られた手袋をはかせながら、苦笑を更に深くした。
「もう少し砕かせるだろう?」
「いやいやいやいや。無理ですって! オレはそこまで器用じゃないから、陸におりたときにボロが出ますって」
「今のお前なら十分ヤれるだろう?」
「や、ヤれるとか言わないでください」
 ――キャプテンが言うと違う意味に聞こえるから!
 そんなの胸中は、どうやら筒抜けになっていたらしい。ニヤリと笑みを浮かべたローの口元は、淫靡にも見えた。
「いい加減、俺だけのモノにしたくなった」
「元からオレはキャプテンのものじゃないですか」
 獰猛な色を宿したローの瞳が細められたがすぐにその色は消え、かわりにの体が彼の腕の中に引き込まれた。
 ――の耳に自分のモノだという証をさせているのに、それでも足りない。
 この独占欲は、いつ尽きるのだろうか。
 はじめての感情はローを少し混乱させたが、今は随分と落ち着いた。届く距離にいることが、これほどまでも安堵をもたらす。指を伸ばせば触れられる距離は、昔のならば苦痛だっただろう。それをなくしたのは自分で、その自分が彼女の深い場所に根付いていることも確認できている。
 ローは口元を緩めて、仕方ないとの背中を軽く叩いた。
「……そのうちわかればいい」
 ――わからなければわかるようにすればいい。この独占欲は、いずれを苦しめるかもしれないが。
「なんか怖い気もするんですけど。……だけど」
 キャプテンに何をされても、きっと全部許してしまうと思います。
 ローに抱き込まれたままのは、その胸の内を、彼の腕の中で小さく吐き出した。










 背中には壁。どうしてこんなことになっているのかしら。
 店の仕事が終わって裏口から出たところで、わたしはある人に睨まれている。
 この人が怒る理由がわからない。
 だって、目の前の人は――わたしの生き方を肯定してくれない人(・・・・・・・・・)。わたしの内面を唯一、知っている人。そして、わたしの想い人。
 見ているだけでよかった。夢を見るだけなら傷つかない。現実はいつもわたしを傷つけるばかりで、ひとりぼっちを嫌でも思い出させる。だからわたしは、夢を見ることにしたのに。











 肯定してくれない人(・・・・・・・・・)
 ローのような人だと思う。
 彼はの出す答えを否定してきた。堂々巡りする彼女の思考を、根こそぎ変えたローは、を否定するだけでなく、先を見る道を示してくれた。それに応えたいと思うようになれたのは、ローと仲間たちのおかげだ。
 ――本のヒロインにも、その人が自分の唯一になればいいのに。
 自分を否定する人は、いずれ自分を認めてくれる人になる。それは、自分を客観的に見てくれているから。










「馬鹿野郎!」
 声を荒げた彼は、わたしを壁に押し付けた。
「何のことですか?」
 困った顔を作り――いや、実際に困っているのだけれど――問いかける。
「客に体を触られて、何で怒らない!?」
「日常茶飯事ですよ。こんなことで怒っていたら酒場で仕事なんて出来ませんから」
 体を触れられるのは、仕事中なら我慢できる。
「こんなことじゃないだろう!」
「貴方にとってはそうでも、わたしにはこんなこと、なんですよ」
「それに、その言葉遣いも」
「処世術です。わたしは器用ではないから」
 困った顔のまま、わたしは頭一つ分、上にある男を見上げる。
 優男に見える目の前の人は、これでも海賊。仲間がどれぐらいいるのか知らないけれど、手配書はあるらしい。

 彼はいつの間にか海に出てしまっていて、この島に戻ってくるまでに、わたしの両親が流行り病で死んだ。彼の両親はそれより随分前に亡くなっていて、よく一緒に遊んだし、一緒に食卓を囲んだ。
 そのころから、ずっと好きだった。
 彼がいつの間にかいなくなって――海に出たと聞いたのは、それから半年たってからだった。両親は、わたしに言えば一緒に出て行くと思ったらしく「ごめんね」と言って泣いた。
 幼馴染という枷は、友人よりもはるかに重く、わたしをこの島にとどめた。
 帰ってくる場所を守るために、わたしはこの島で生きることを決めた。
 そう両親に伝えれば、泣き顔のまま抱きしめてくれた。

「人が嫌がることはしない主義だし、一般人に手を出すことも今までしなかった。けど、お前は別だ」
「え?」
 見下ろす彼の目は真っ直ぐにわたしを見ていた。強い意志を感じさせる瞳に晒されて、わたしはどうしてか動けない。
「お前の都合なんて聞いてやらない。俺の都合で連れて行く」
 言うが早いか、彼はわたしの体を俵のように担いだ。
「え!? なに!?」
 わたしを肩に担いだまま、彼は裏口のドアを開け中にいたマスターに声をかけた。
「コイツ、もらってくから」
「あぁ、構わないよ。さっさと連れてけ」
 え!? とわたしがびっくりしている間にそんな会話がされて。
「マスター!?」
「大人しく連れて行かれろ。おまえはその方がいい」
 ニヤリと人の悪い笑みを浮かべたマスターは、わたしに向かって言った。
「そいつの横で幸せになれ」
 ほら、海軍に見つからないうちに行け。
 その言葉に、彼は「サンキュ」とマスターに告げ、わたしを担いだままドアを閉めて走り出す。
「ちょっと……っ!」
 文句を言うわたしに「舌噛むから黙ってろ」と乱暴に言い放ち、薄暗い街灯の照らす中、海岸まで走りを止めなかった。
 細く見えた彼の体はとてもかたく、肩に担がれていたわたしには痛いくらいで。
「もう少し我慢しろよ」
「おろしてよ!」
「ダメだ」
 身軽な仕草で彼は桟橋を渡って甲板につくと「船を出せ!」と声をあげた。
「ちょっと……!!」
 動き出した船体を確認すると、彼はわたしを甲板へおろす。
「ようやく言葉遣いが戻ったな」
 彼はわたしの乱れた髪を指でなおしながら「しばらく任せる」と近くの船員に言って、私の手を引いて船内に入っていく。手を引かれるままのわたしは混乱していて、彼の言う言葉の半分も理解できないでいた。










          
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