表 と 裏  2





 
「コーヒー、紅茶、ジュース。何でもお気に召すものをご用意できますよ?」
 女性に対して――それがたとえ男気のある女性であっても――穏やかな態度で接するサンジに、少なからず好感が持てた。
「私は紅茶。チョッパーとルフィ、ウソップはジュースでいいのね?」
 ナミが三人に問えば、頷きと「おう!」という肯定が返ってきた。
「私もジュースが良いわ。この間、新しいレシピを書いていたじゃない?」
「見ていたんですか」
 サンジは少し目を見開き、はにかむように笑みを浮かべた。手元にはゆっくりであるが、テキパキと紅茶が出来上がっていく。
「どうぞ、ナミさん」
 甲板に置かれた丸い木のテーブル。そこにコトリと置かれた白地にピンクの小さな花が描かれたティーカップ。
「新調したの?」
「ええ。少し懐が潤ったので」
 言いながら、今度はジュースに取り掛かる。
「ゾロ、おまえはどうする?」
 コックとして接するときは、嫌な顔ひとつせず、喧嘩相手のゾロに言葉をかける。
「コーヒー」
 そんなサンジをわかっているから、喧嘩腰ではしゃべらない、ゾロ。
「キミは?」
 ゾロの隣にいた彼女に問いかける。
「――といわれてもね…」
「甘党? 辛党?」
「どちらかといえば辛党かな」
 少しだけ考えての返答に、サンジは「何でも良い?」と聞いてくる。
「あなたのオススメで良いよ」
「じゃあ、少し甘めのカフェ・オレにしよう」
「甘め?」
「そう。よく飲むのはコーヒー、それも少し濃い目のフレッシュ入り。そんなところじゃないのかな」
 サンジは新作のジュースをロビンへと手渡しながら彼女へ言った。
「よくわかったね」
 目を丸くして、彼女は心底驚いているよう。
「コックさんは一流だから、そういうこともわかるのよ」
「――あれに関しては天下一品だからな」
 ロビンの言葉にゾロが付け足す。いけ好かない相手と思っていても、尊重するところは尊重する。そういうところが、彼ららしいところなのだろう。
「甘いものに慣れていない人に『砂糖の甘さ』は舌にひっかかる。でも、量を加減してやれば『口当たりの良い甘さ』になるんだ」
 彼はそう言い、ゾロの前にコーヒーを差し出す。
「カフェ・オレ作るのはここじゃ無理だから、キッチンで作ってくるよ。悪いけど、ちょっと待ってて」
 キッチンへと消えたサンジを見送る。
「彼はゆっくりする暇がないね」
「あれが彼の、一番の楽しみだから、心配しないでいいのよ」
 ナミは海図を見ながら言った。
「料理作ってるアイツの顔、すっげぇ嬉しそうだよなぁ」
 ウソップの呟きに、チョッパーが「そうだね」と頷く。
「あいつの飯はうめぇぞ!」
 ルフィはジュースのおかわりが欲しいと続けて叫ぶ。
「うるせぇな、クソゴム。ちょっと待ってろ」
 キッチンからマグカップを持ったサンジが階段を下りてくる。
「冷めないうちにどうぞ」
「ありがとう」
 受け取り、彼女は唇を近づける。喉の奥へと通り過ぎる甘さを感じてみる。
「おいしい」
「ありがとうございます」
 恭しく頭を下げ、ルフィのおかわりのジュースを作り始める。
「この船、本当に海賊船なの? 信じられないくらい、お気楽」
「あぁ、船長があんなだからな。必然的にそうなっちまう」
 マグを両手に持ったまま、彼女は空を見上げる。

 こんな夜は、いつもそばにいた黒猫のことを考えて寝付けなかった。
 今まで生きてきた時間の半分以上を一緒にすごした、あの子。
 こんな綺麗な星の出た夜に、猫は自分の腕の中で息を引き取った。
 猫は自らの死に目を飼い主に見せないために、どこかに隠れて一人で死ぬ。そのはずの猫が、自分のそばで――自分の肌を感じながら死んでいった。
 それはつまり、自分を飼い主よりももっと近い存在として感じてくれていた、と思っていいのではないかと、彼女は思っている。
 唯一、自分を曝け出せる場所だった。
 唯一、自分をわかってくれる者だった。

「何を考えている?」
 問いかけが頭上から降ってくる。振り仰げば、そこには。
「ゾロさん」
「ゾロでいい。さん付けなんて気持ち悪ィ」
「……私は明日、この船を下りる。名前なんて必要ない」
「下りるのか?!」
 ルフィがそれを聞いて嫌そうに言った。
「私は海賊じゃなくて『トレジャーハンター』。宝探しが目的であって、海を航海したいわけじゃない」
「でも、宝探しのために海を航海するんだろ?」
「それはそうだけど……」
「仲間になれ!」
 ルフィの叫び声。
「うるせぇ」
「あきらめなさい、ゾロ。ルフィは仲間にしたい人を絶対に逃がさないわよ」
「たとえどんな理由があってもな」
 ゾロの呟きにナミが答え、ウソップが誰かを思い出すように言った。
 カタリと椅子を鳴らして立ち上がった彼女に、全員の目が向けられた。
 無言でそこを立ち去る彼女に、かけられる声はなかった。





 船首にやってきた彼女は、船にもたれて座り込む。まだ中身の残るマグカップの温かみを確かめるように両手で包み込み、ようやく一心地つく。
「どうした?」
 足音をさせてやってきたのは、ゾロ。
「おまえがあの場から出ちまったから、俺も追い出された」
 そう言いながら彼女の隣に腰を下ろす。

 突然の声。

「もしかして、私の名前?」
「もしかしなくてもそうだ」
 何を思ってそういう名前にしたのか、皆目検討もつかないけれど、それでも自分の名前が出来たことに嬉しさよりも、戸惑いが走る。
「おまえ、知っているか?」
「何を?」
 ゾロは左手に持っていた一枚の紙切れを手渡す。
「見ればわかる」
 小さく折りたたまれたそれを受け取り広げると、そこには自分の写真が小さく載せてあった。
「なに、これ」
「一週間前の新聞の切り抜きだ。おまえがあの場から消えたあと、ナミから渡された」
 新聞には小さな見出しで『名無しのトレジャーハンターを探せ』とあった。
「私を探して…? あ、だからアイツら……」
「この投稿した主がどういう意図でこんなことを書いたのかは知らねぇが、ヤバイことに首突っ込んでんじゃないのか?」
「さぁ…? それがわからないから困ってるんだけど」
「名無しであってもこうなっちまう。だったら名前、つけておかねぇか?」
 ゾロの声は低く、並みの音に消されてしまいそうだ。
「そうだな…」
 ゆっくりと記事から視線をはずし、ゆるやかに吹く風に目を閉じる。
「名前…もらっとくよ、ゾロ」
 目を開けた彼女の瞳が、薄く笑みを浮かべる。
「大事に出来るかどうかはわからないけれどね」
「おまえが大事にしなくても、俺は大切にしてやるよ…











 は名前のついた夜、眠らずに甲板に座り込んでいた。入り江にあるこの港は波が穏やか過ぎるくらいで、深夜の甲板の上でいても、静寂としている。
 腰にいつも携えている小さなナイフを取り上げ、彼女は刃を磨き始める。月の明かりを反射するそれに目を細めながら。
 こんなに静かな夜は何ヶ月ぶりだろうと思う。
 傍らに誰もいない。そんなことはもう慣れすぎていて、近くにある体温が忌々しく思えるときもあった。吐き気がするほど他人の体温に敏感で、その熱量を感じることが嫌で海へ身を投げたこともあった。
 それでも自分は……生きている。それは紛れもない現実で、現実だからこそ直視できないでいるのも、また事実だった。
「このままプッツリと意識が消えてしまえば――……楽なのかもね」
「まだ寝てねぇのか?」
 小さく小さく呟いた声と重なるように、コツコツと甲板に響いた靴音。は目線だけをそちらへ向けた。
「――ゾロこそ、寝てなかったの?」
「さっきまで寝てた」
 は「そう」とだけ言い、視線をナイフへと戻す。
「おまえはどうする気だ?」
「トレジャーハンターだからね、宝探して東奔西走」
「それが聞きたいんじゃねぇ。……答えをはぐらかすな」
 わかっているんだろうが。
 ゾロの言いたい言葉がわかるから、は答えを出すことを迷っている。
「ゆっくり眠れるこんな夜に、なんでてめぇは寝ねぇんだ? それは、夢を見るのが――怖いからじゃねぇのか?」
「何、馬鹿なことを言って――」
「――……おまえは弱い」
「あんたよりかは弱いのは当然だ。女だからね」
「そんなことを言ってんじゃねぇ! 答えをはぐらかして、決断するのを躊躇って。先送りにした答えをそのまま放置するつもりだろうが、そうはいかねぇよ。俺ぁ中途半端が嫌いだ」
 
 ゾロは確かな発音で低く名前を呼ぶ。
「俺はおまえをこの船に乗せていたい。海賊の仲間になるのが嫌なら、トレジャーハンターという肩書きのままでいい。――おまえがゆっくり眠れる場所を作ってやりてぇ」
「……ゾロ……」





「ナミ! もう行ってもイイか?」
「ダメよ。ゾロに任せなさい」
「船長は俺だぞぉ」
「あんたが行ったら元の木阿弥になるからダメよ」
「ルフィ、我慢しろよ。てめぇの勧誘じゃ、は頷かねぇ。……アイツじゃなきゃ、な」
 残念だけど、と苦虫を噛み潰したような表情で、サンジは煙草のフィルターを噛んでいる。
「待てねぇ! 行く!」
「ダメよ、船長さん。副船長さんが折角勧誘しているのに、邪魔したら」
 ロビンは言いつつ、ルフィの手足をハナハナの実の能力で封じてしまった。





「そんな殺し文句、どれぐらいの人たちに言ってきたの?」
 ふぅ…とはため息を漏らす。
 眠らないのではなく、眠れない。そのことに、ゾロは気づいていたらしい。静かな夜は、夢を見る。夢はいつも、自分のありのままの現実を突きつけ、否応もなく過去を思い出させる。
 誰一人として自分を必要としない世界。本当は誰か傍にいてほしいのに、生きてきた環境ゆえに拒否反応を起こしてしまう身体。生きていくだけに精一杯の、余裕のない自分の心。
 すべてをどこかに曝け出してしまいたかった。――けれども、それが出来ない状況だった。それを、ゾロは作ってやりたいと言う。
「私の我侭を率先して聞いてくれると……?」
「おまえの何が『我侭』なのか、俺にはさっぱりわからねぇな」
 座っているの横へと腰を下ろしたゾロは、の持つナイフを見やる。
「このナイフで何人傷つけてきた? やらなければやられる。トレジャーハンターは海軍から追われる海賊とは違って危険度は少ないだろうが、それでも敵はやってくる。――あの紙切れに触発されたヤツらのように。そうやって傷つき傷つけた手を、誰かに触れてもらったことはあるのか?」
「手を…」
 ゾロは右手での左手を掴む。その拍子に鈍い音をたててナイフが転げ落ちた。
「血に染まった両手を誰かに触れてもらえるだけで、案外落ち着くモンだ。守って守られて、そうやって生きていくのも――悪くねぇと俺は思うぜ? おまえが嫌だというなら仕方ねぇけど……」
 ゾロの手から逃れようと左手に力をこめただったが、それを見越していた彼に阻まれ、結局はそのままの左手はゾロの右手の中にある。
「おまえは表も裏もあるやつだが、俺たちにはどうってことねぇ。だから――…」
 このまま船にいろよ。
「――この船に乗ったら、我侭のし放題ね」
 この船に乗っていれば、夢は怖くなくなるだろうか。余裕のある心になれるだろうか。
「誰にも苦い過去を持っている。とくにこの船にいる連中は…過去に傷を持ってるヤツばっかりだ」
「あなたも…?」
「あぁ。もっとも、その傷が俺にとっちゃ、海賊になった理由になっちまったわけだけどな。だからってぇわけじゃないが……一緒にいてぇんだよ、おまえと。それに言っただろう?」

 ――おまえが大事にできなくても、俺が大切にしてやるよ。


「でも…」
、我侭を言ってみろよ。今まで言えなかった分を全部、この船の上で」
「――…でも、……だって……」
 誰もそんなこと言ってはくれなかった。穏やかな表情で、語ってはくれなかった。

 ゾロの再度の呼びかけと同時に、大きな呼び声が重なった。
!!」
 それは船長であるルフィの声だった。
「クソゴム…ッ!」
「ルフィ!!」
 サンジが吐き出し、ナミが咎めの口調で呼び止める。
「あーあ…」
「仲間にしたいと思ったら、突っ切るよなぁ…おまえ」
「まったく、船長さんらしいわね」
 チョッパーはため息混じりに呟き、ウソップは聞いてはいないだろうルフィに向かって呟く。ロビンはクスクスと楽しそうに笑っている。
「てめぇら…ッ」
 ゾロの驚いたような声音。
「ルフィのバカ」
 ゴツン、と大きな音をたててナミが頭を殴る。
「痛てぇな、ナミ!」
「あんたが余計なことするからでしょうが!」
「だって、ゾロがなかなか『仲間』にしねぇから!」
「誰だって事情ってモンがあるだろ」
 ウソップの突っ込みに、ルフィは「そんなもの関係ない!」と言い切る。
ちゃん、どうする? ルフィは仲間にする気、満々だけど。俺も仲間になってくれると料理のレパートリーが増えて嬉しいな」
 サンジが銜え煙草のまま、笑みを乗せて言った。

 ゾロの呼びかけに、彼女は触れたままの手を見下ろし――…そして、泣きそうな表情で笑った。
「ありがとう」
「それは答えじゃないんじゃない?」
 ロビンもハッキリとした答えを促す。
「――…本当に、いいの?」
「いいって言ってるだろう、最初から」
「海賊にならなくても…?」
「海賊にならなくてもっつーか、本人的肩書きは違っても、俺たちの船に乗ったら他人から見れば『仲間』だし『海賊』になっちまう」
 だから、仲間になっちまえよ。
 最後に付け足されたゾロの言葉に、彼女はようやく頷く。
「頑固だな、おまえ」
「わっ…悪かったわね」
 ゾロがからかうように言えば、彼女は顔を赤くして言い放つ。はじめて見る表情に嬉しそうに目を細めたゾロは、皆に聞こえないくらい小さな声で「そんなトコも気に入ったんだ」と早口で囁く。
 ムッとしたような彼女の表情が目に入ったが、耳まで真っ赤になっているところを見ると、どうやら表情と内面は正反対なのだろうと想像が容易い。
「さて。パーティは明日にしましょう。とりあえず、今は眠ること。いい? 暴れちゃダメよ!」
 ナミの言葉に皆が頷く。
「はい、解散」
 男部屋に戻っていくルフィたち。ゾロだけはその場に残っている。
「俺ぁココにいる」
「こんなところじゃが眠れないでしょ。格納庫で寝なさい。毛布もちゃんと持っていくのよ?」
「ガキじゃねぇんだ。それぐらいわかる」
「そう? だったらイイけど。――に風邪なんかひかせたら、承知しないわよ」
 ナミは念を押して去って行った。
「――ところで、ゾロ。どうしてみんな、私の名前を……?」
「あぁ…俺が言ったからな」

 ――のところに行ってくる。

「異論が出なかったのが不思議なぐらいだ」
 ゾロはそう言って苦笑しながら、甲板から腰をあげた。
「行くぞ」
「どこへ?」
「おまえの眠る場所だ」
「――ナミの言っていた格納庫?」
「俺は別にどこで寝たっていいと思うけどな。――でも、ナミには逆らわないほうがいい。あいつがこの船の実権を握ってるようなモンだからな」
 辟易したような声にはくすくすと笑って「案内してくれる?」と腰をあげながらゾロを促した。





「格納庫と言っても……たいしたものは置いてないのね。これでグランドラインを航海してるだなんて……あなたたち、只者じゃないのねぇ」
「まぁな。たったこれだけの人間しかいねぇんだ。一人あたりのノルマも多い。ま、おまえが入ったから少しだけ減るけどな」
 おまえは女にしては腕がたつからノルマが減って助かる。
 ゾロは満更でもないように言って、その部屋の隅にある毛布を引きずり出す。
「用意がいいのね」
「俺が用意するわけねぇだろ。どうせナミのヤツが置いてったんだ」
「二組あるってことは……一緒に寝ろってこと?」
 はゾロに向かって問えば、不機嫌そうな口調で「知るか」とはき捨てる。だが、その表情は少しだけ困ったような顔になっている。
「私と一緒は不服?」
「――……」
「嫌ならそうと言って。もし、嫌じゃないなら――今夜は一緒にいて?」
 でも、変なことしようとしたら、首括るわよ?
 明らかに自分本位なその言葉に、ゾロは困惑顔を苦笑に変えた。
「おまえの我侭なんてその程度のモンなんだな」
 叶えられる程度の我侭は、気にするようなモンじゃねぇよ。
 ゾロはの意図を汲み取りそう言い、彼女の指を手に取った――。