「お兄ちゃん、めずらしいね」
「今日はお前も早番だろ? 乗せてってやるよ」
仕事に行く準備をして玄関まできたところでチャイムが鳴った。覗き穴から見ると、兄がいた。
「ありがとう、助かる」
この時間に乗る電車は苦手だ。背が低い彼女は、満員電車の中で埋もれてしまい、息苦しくなるのだ。
「今度は前もって言ってね。お弁当作るから」
「は相変わらず弁当か」
「うん。病院の食堂、苦手なんだよね」
味は美味しいが、時間によっては混んでいてゆっくりできない。はお弁当と水筒を持って、外で食べることが多い。
「今日はどこだ?」
「んーとね、今のところは整形かな」
「ローのところか」
「どうだろう。私、あまりトラファルガー先生のところに行かないから」
「あまりって……当番制だろ?」
「そうなんだけど、人気があるから行きたい人が多いみたい」
は別にどちらでもいいから気にしていないが、シフトが勝手に組み変わっていることはしょっちゅうだ。
「私はどこに行ってもいいし、仕事はどこにいても同じだから」
「まぁ……お前がいいなら突っ込まないが、何かあったら俺に言えよ?」
「ありがとう、お兄ちゃん」
トラファルガー・ローは整形外科及び外科を主に診ている。いつも無表情か不機嫌そうな顔をしているが、背が高く、細く見える外見では気付かないほど筋肉質だ。声音は低く、しゃべりはぶっきらぼう、患者と接するときは軽減されるが、それでも優しいとは程遠い。発する言葉は少なく、それでも的確。
――というのが、基本的な評価。
彼はの兄と仲がいいのでそれ以外のこと兄から聞いて知っているが、表面だけを見ている人たちには必要ないだろう。
を裏口から少し離れたところに降ろして、車は緩やかなスピードで駐車場へ移動していく。それを見送ってから、裏口から中へはいる。
彼女と一緒に駐車場へ行かないのは、二人が兄弟ということを公にしていないからだ。両親が離婚して姓が分かれたからだが、兄のコネでが就職したと思われないためだ。
「あ、さん。今日の受付、内科になったから」
事務長の言葉に「わかりました」と頷いて、控室へ入っていく。ロッカーに荷物を置き制服に着替えると、筆記用具の入った布のペンケースを持って内科へ歩いていく。内科はの兄がいるはずだ。
内科の受付へ入り、診察室から気配がするのを感じて、ノックをする。
「先生、よろしくお願いします」
兄の姓はと言い、父親の姓だ。そして、は母の姓を名乗っている。両親が離婚しても二人の交流は続いていた。
兄に対しても他の先生と同じように対応することにしているに、彼も同様に「よろしく」と言うだけにとどめる。その眼差しは何かを問いたそうだったが、は気付かないふりをした。
あと少しで診療時間になる。
看護師が来る前に受付へ戻ると、は今日の予約表へと視線を落とした。
整形外科の受付が急に変更したようだ。誰がいようと仕事に支障にきたさなければいいが、仕事終了後が困る。何かとしつこく言い寄ってくる受付の女がいて、どうやらその女が事務長を抱き込んで整形外科の受付に変更させているらしい。
――いい加減面倒になってきたな……。アイツの耳にも入れておくか。
アイツとは、の兄のことで、医大に行っている際からの仲だ。名前は・と言い、色素の薄い茶色の髪に人好きのする表情、ローとは正反対の言動をするが、だからこそ気兼ねなくいられる。妹は事務員として受付にいるが、整形外科に来ることは稀だ。
机の上にあったペットボトルの水を一口飲んで喉を潤すと、患者から見えない場所に置いて、ローは見覚えのある顔が受付に入ってきたのを視界に入れて溜息をついた。
「、ちょっといい?」
昼休憩中に兄に呼ばれて診察室に入る。もちろん、こうやって名前を呼ぶときは、周りに職場の人間がいないことを確認済みだ。
「今月と来月のシフト表、持ってるか?」
「自分の分だけだけど、持ってるよ」
「悪いが、コピーを二枚ずつしてきてくれ」
「二枚?」
兄の言葉には問う。一枚ならわかる、兄が持っておきたいのだろう。では、もう一枚は?
「あいつが見たいらしい」
「あいつ?」
「ローだ。……こっちに言ってくるぐらい面倒になったんだろうな。今までどうでもいいと思って対応してたみたいだけど、相当嫌になってきてる。二人とも今日は早出だったからな、夜に会う約束をした」
「わかった、今からしてくる」
「ついでにコレで、チョコレートでも買って来いよ」
総合受付にコピー機があるが、シフトを二枚もコピーするのを知られれば、何を言われるかわからない。近くのコンビニまで行くことにしたに気付いて、引き出しに入れていたコインケースを渡してきたのだ。
「ちゃちゃっと行ってきます」
今は近くに誰もいないための口調も随分と砕けていて、その言葉には薄く笑みを浮かべた。
診療時間が終わり、今日は急患がいなかったので時間通りに席を立つ。受付の女はまだ仕事中なのを確認して、捉まる前に診察室をあとにする。控室で着替えて裏口から出ると、スマートフォンが震えた。
バイブレーションにしていたスマートフォンを見ると、も無事、時間通りに終わったとメールがきていた。車で来ていると言っていたから、駐車場の隅で待っていようとローは足をそちらへ向けるが、今日の店の場所が記されたメールがすぐに送られてきたため、そちらへ向かうために駅へ向かうことにする。
はこのまま病院に車を置いておくらしい。明日は遅出出勤のため、電車でここまで来るのだろう。
ローとよく飲みにいく行きつけのバーでもよかったが、今日は少し込み入った話をすることが予想されたため、静かな空間よりも、個室になる居酒屋にする。人の声がたくさんある方が都合がいいからだ。
が予約しローにメールでこの場所を送ってあるから、迷わなければもうすぐ来るだろう。
掘りごたつ式になっているそこに五分ほど座っているが、視線を遮るように薄いカーテンがおろされている。そこへ影が見える。
「待たせたな」
店員に案内されて来たローは、へ声をかけ靴を脱いだ。
「居酒屋なんて珍しいな」
二人とも酒には強く、量より質を選ぶタイプだ。
「内容が、な?」
「……まぁ、ここの方が都合いいか」
店員にビールを二つと、適当に食べるものを注文する。とりあえず、ビールが運ばれてくるまでに渡しておこうと、はポケットを探った。
「のシフト表だ。個人のだけどな」
紙を二枚、ローへ手渡す。それを見ると、整形の字を見つけて数をかぞえる。
「今月が四回。今日が最終日。この中で何回会った?」
「0(ゼロ)だ」
「ちなみに、もう一枚が来月分。来月に至っては、一回しか入っていない」
ローはもう一枚を見ながら、視線を流す。確かに、一回しかない。
「これを作る事務長を変更するか、その女をどうにかしないとなぁ」
「この紙、もらってもいいか?」
「もちろん。の許可も取ってる」
ローは折りたたんでポケットに入れる。
「あんまり家の力は使いたくないんだけど、酷いようなら遠慮なく叩くよ」
がニヤリと黒い笑みで笑う。
彼は人好きする顔の裏に、ゾッとするほど冷酷さを秘めている。自分の大切なものを守るためになら、手段を選ばない。
「今のところに被害は出てないけど、そのうち出るかもね」
「すでに出ているだろ?」
「シフトのことなら、あの子は気にしていないよ。――気になる?」
店員が運んできたビールを片手に、は意味深に視線を向ける。それを平然と受け止めて、ローはビールを煽った。
コトリとビールの入っているジョッキを置くと、今までのことを考える。
の妹にはじめて会ったのは、一年前、とローが勤めている病院に、彼女が整形外科の受付へ来た時だ。言葉少ない彼女は、診察室に居たローへ「よろしくお願いします」と挨拶して、席に着いた。
受付に備え付けられている筆記具を使うのが嫌なのか、布のペンケースを持参していた。
仕事はにこやかに何事もなくスムーズで、足が悪い患者がいると、受付票を窓口から出て取りに行くこともあった。
それに比べて今日の女は、と思い浮かべた瞬間、イラついてしまう。
整形外科に来る患者に足が悪い人は多い。家族の付き添いのない患者に対して、のような気づかいは皆無で、本人の前で言葉にしないものの、不満であることは雰囲気に出ていた。
顔は可愛い部類に入るのかもしれないが、ローの好みではない。自分の外見に必死で、中身がおざなりすぎる。
「ロー、何を考えてる? 百面相してる」
表情があまり動かないローだが、わずかな動きだけでは彼のことがわかってしまう。
「今日の子、よっぽど嫌だったんだ?」
焼き鳥を頬張りながら言ったを見やって、「まぁな」とため息。
「ところでさ、のことはどう思ってるんだよ」
単刀直入に聞いてくるとは思わず、彼は少し驚く。表情が変わったことに気をよくして、は更にビールを煽った。
「ローならさ、任せられるんだけど」
「任せるってな……、過保護すぎるだろう」
「嫌いじゃないよな?」
「確かに嫌いじゃないが、彼女の意思を聞くのが先だろう」
「そういうところが気に入ってるんだ」
目を細めて美味しそうにビールを飲む姿に、深く考え込むのが馬鹿らしくなってくる。
「彼女がいいなら俺は構わねぇよ。まぁ、接点をことごとく潰されてるけどな」
「結局、そこに戻るか……」
は思案顔になる。
「に何もなければいいけど」
「内科の受付に行くってことは、バレてないんだな?」
「苗字が違うからね、他人のフリしてれば大丈夫。もその辺はしっかりしてるから」
は病院長の孫で、父は医局長。その権力に媚びる輩も多い。医大にいた時から知っているが、ローは権力に興味がない。自分の父も医者で、診療所を開院している。いずれ継ぐことになるだろうが、自由にしていいと言われている。
「俺よりの方がいいと思うんだがな」
容姿も性格も家柄もいい。比べて自分は、容姿は悪くないだろうが性格は難ありだ。
「ローは自己評価が低いんだよ。俺は優良物件だと自分でも思ってるけど、ローだってそうじゃないか。お金がないと開業医なんてできないだろ?」
と比べるから評価が低いのであって、一般人に比べれば金持ちの部類に入るだろう。
「は俺と違って上にいるタイプじゃないし、そんな苦労してほしくない。こんな大きな病院の上でいるより、診療所の方があってる。それに、ローなら俺的にOK」
また話が戻った、とローは両肩を竦める。どうしてもローとをくっつけたいようだ。
「そうだ、ローは電車通勤だったよな」
「夜勤以外はな」
「そのシフト見て、大丈夫そうなときだけ同じ電車に乗ってやってよ」
「同じ電車ってな……、どれに乗ってるかもわからねぇのに、どうしろってんだ」
突然の提案に、あきれ顔。
「ローと同じ線だよ。二つ手前。大抵は、三両目の扉の近くにいる」
「――詳しいな」
「何かあったら困るから、電車の時は俺個人でボディーガードをつけてる。もちろん、に知られるようなヘマはしてないよ」
心配性なのか、シスコンなだけなのか。どちらにしろ、彼女が安全であることは間違いないだろう。
「――……気が向いたらな」
ローの言葉に「それでいいよ」とは頷いた。
が一人暮らしをはじめて二年になる。母が健在だが忙しい人で海外を飛び回っているため、実質、二年以上一人暮らしのようなものだ。
今日は一時間ほど遅い出勤。終業後、後片付けをするのを考慮に入れた時間割だ。
遅出の際は電車もすいていて座ることも出来るが、は立っていることが多い。三両目の一番前の扉近く。いつもの場所に立って窓の外を見る。
髪型はいつもと同じで後ろに一つで束ね、耳には小さなハートのピアス。指輪やネックレスといった装飾品は、見るのは好きだが身に着けたりはしない。時計は仕事で見るので腕時計をポケットに入れているが、その時計が名前通り――腕時計――の働きをしたことがない。
はまた外を見る。それを視界の隅に入れる、男がいる。
――乗ってきたな。
が言うとおり、が乗ってきた。三両目の扉近く。座る場所があるにも関わらず、彼女は手すりを持って立っている。背が低いため、つり革は持ちにくいのだろう。立っている扉は降車駅では開くので、それがわかっていてそちらにいるのだろうと思う。
窓を眺める立ち姿はまっすぐで、体の線に歪みがない。右手に持つ鞄は少し大きく、持ち物を一つにまとめているのだろう。
ローはちらりと姿を見やるだけで、近くに寄ることはしない。急に近づいても不審がられるだけだ。の妹とは言っても、今まで接点は少ない。それに、彼女にボディーガードをつけているとは言っていたから、自分が近づく必要はないだろう。
「気が向いたらな」と言いつつ、同じ車両の、ましてや目の届く範囲に自分がいることに苦笑を禁じ得ない。今まで何とも思っていなかった相手にここまですることはなかったのに、と違和感を感じる。けれども、苦ではないと思っているのもまた事実。
恋愛感情がに対してあるのかと言われれば、今のところNOだ。
――今のところは。
職場の最寄り駅で下車すると、は改札を出て職場まで寄り道することなく歩いていく。ローは後ろからついていくのはストーカーのようだと思い、途中で足を止めて、近くにあったコーヒーショップへと入った。
きっと自分の行動を聞いたに、何かしら言われることを思うと少し気が滅入る。
ポケットに入れていたスマートフォンがバイブレーションで着信を知らせてくる。手に持ったコーヒーを飲みながら見ると、からだった。
コーヒーショップを出て職場へと歩きながら電話に出ると、機嫌のよさそうな声。
『詰めが甘いよ』
「病院までそのまま行ったらストーカーと一緒だ」
むっとしながら言うと、確かにねとが笑う。
「ボディーガードがついてるなら俺はいらねェだろ」
『ローはボディーガードじゃなくて恋人になるんだよ』
「そこまでして、何で俺に固執する?」
彼女も二十一歳だ、今までに恋愛もしてきただろう。彼女には彼女なりの、恋愛や想いもあるはずだ。
『もうすぐ仕事はじまるから、今日の昼にでも話すよ』
「わかった」
簡単な話ではなさそうだと、ローは病院の裏口に足を踏み入れながら少しだけ溜息をついた。
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