食堂の隅で食後のコーヒーを飲んでいると、がやってきた。彼は今から昼食なのか、トレイを持っている。
「よかった、間に合った」
ローの前に座ったは、食べながらでごめん、と言って、話はじめる。
「あのコはさ、両親が離婚する前に誘拐されたことがあるんだ。体が小さいから年齢より若く見られることはよくあって、痴漢とかストーカーとかは頻繁でね、随分怖がっていたよ。だからずっと俺が一緒にいたんだ、一人にしないように」
言ったの表情は苦痛に満ちていた。
彼が言うには、誘拐は数時間だったが、服は破れ手足には縛られた跡があったようだ。お金目当ての誘拐だったらしいが、もし犯人が子供に興味のある男だったなら、蹂躙されて殺される可能性だってあった。
「両親が離婚してからはそんなことはなくなったけど、痴漢やストーカーはまだあるみたい」
ボディーガードが全て阻止しているけれど、とは苦々しく呟く。
「だからさ、ある程度の家柄で、身体的能力もないとダメなんだ」
の心配性な理由は、ここにあったらしい。
「あのコのこと……頼まれてくれないか」
真摯な瞳に、ローはとうとう折れた。
「わかったよ。――ボディーガードも兼任でな」
学生の頃、仕事ばかりで相手にされなかった父親への腹いせに、喧嘩ばかりしていたことがあった。それがこんなところで役に立とうとは。
ローは立ち上がりコーヒーの入っていた紙コップを持つと「先に戻る」と言って去っていく。はその後ろ姿を眺めてから、胸中で「ありがとう」と呟いた。
今日は総合受付での仕事だ。窓口に座るのではなく、計算したり電話を取ったり書類を作ったりと、裏方の仕事をする。
窓口にいるのはの同期で友人の、・だ。長い黒髪をとおなじように後ろでひとつに束ねただけのスタイル。
総合受付は診療科ごとの受付とは違い、業務終了が一時間ほど遅い。会計が最後になるので仕方ないが。
病院内で、外へ一緒に出かけるのは彼女のみで、あとは大学時代の友人が数名いるだけだ。休みの日に一緒に遊んだりすることはほとんどなく、少し買い物へ出るぐらいですぐに戻ってきてしまう。だから、久しぶりに出る今夜は楽しみにしていたのだ。
仕事が終了して、彼女と一緒に外へ出る。まだ少し風が冷たく、これから梅雨に入るというのが嘘のようだ。
「、今日は居酒屋にする?」
「そうだね、予約してないしその方が気楽かな」
前もって決まっていたが、二人だけなので予約はしていない。チェーン展開している場所ならば大丈夫だろうと、駅へと二人並んで歩きだす。
の真っ直ぐの髪がは羨ましい。仕事中は束ねているが、今ははずしてそのまま流している。サンダルにワンピース、そのまま喋らずにいれば慎ましやかな美人で通るのだが、結構辛辣な言葉を吐いたりする。そこが彼女のいいところだとは思っているが、外見から入った人間からは詐欺だと言われるだろう。
「ちゃんと報告はしたの?」
「報告って……」
「は可愛いんだから、ちゃんと言っておかないとダメよ?」
「可愛くないよ! それに報告って……言い方、間違ってると思う」
駅の改札を抜け、いつもと同じ線の電車に乗る。の最寄り駅の一つ手前で降りると、駅前にあるチェーン展開している居酒屋へ入る。今日は金曜日でほぼ満員だったが、二人だったのですぐカウンター席へ案内された。
席につくと、とりあえずビールだけを頼んでメニューを広げる。
「」
呼ばれた名前には、少しだけ咎める声音が含まれていた。
「わかった、今から連絡入れるよ」
スマートフォンを鞄から取り出しながら、「適当に注文していいよ」と彼女に言った。
が注文をしている間にラインをたちあげたは、へとこの店の名前と場所、誰と一緒に来ているかを入力して送信しておく。すると、すぐに既読がついた。
ラインを開けたままテーブルにスマートフォンを置いたは、さっそくきたビールを持って、二人ジョッキをあわせた。
「おつかれ」
「お疲れ様」
二人笑いあい、ビールを一口飲んでからスマートフォンの画面を見ると、メッセージがきていた。
「さっすが、のお兄ちゃんは返事が相変わらず早いね」
ラインには、帰りは迎えに行くから連絡を入れるように書かれてあった。
「駅一つなのに」
「駅一つ分だからって、油断は禁物よ」
の過去を知っているは、そう言って忠告する。
「わかってる。さすがに歩いて帰らないよ」
だって怖いのだ、駅一つ分でも。
「それよりも、最近のシフトチェンジ多くなったわね」
「そうだね。理由は知ってるんだけれども……だからって、言っても仕方ないし。整形に行かなきゃいけない理由もないし、給料に影響するならともかく、そうじゃないなら今は別にいいかなって」
「そうだと思ったよ……のことだから」
はプライベートと仕事をきっちりとわけることのできる人間だ。も然り。
「トラファルガー先生よりも、私は先生の方がイイと思うけどねぇ」
「そうなの?」
「権力、財力、容姿を度外視して、それでも……かな」
「みんなが欲しがるその三つを度外視して……それでも先生がいいの?」
「あの笑顔の裏にある腹黒さが、守ってくれそうでしょ?」
は人の裏の表情を読み取るのが得意だ。それがにも生かされているらしい。
「あははー……」
頷いていいものか判断に迷って、はとりあえず笑っておく。
そして、1時間半後。
ラストオーダーの時間になった。混んでいるため、二時間で客を入れ替えているのだろうと思い、デザートを頼む。
「あと30分だから、迎え頼んでおきなさいね」
の言う通り、ラインに30分後に店を出る旨を入力して送信する。すぐに既読がついて、30分後に駅のロータリーに迎えに行くと書いてあった。
「少し早いけど、出よっか」
の言葉には頷き、会計を済ませて駅のロータリーへ歩いていく。ラインには『お兄ちゃん』としか記入していないし、何度も迎えを頼んでいるが、は運転席から出たことがないから、兄という存在は知っているが実際に見たことはない。
約束の時間まであと10分というところで着いた二人は、先ほどの店の会計を二等分し、先に全額払っていたにはそのお金を渡す。二人が鞄へ財布をいれたところで、一台の車がロータリーへ入ってきた。
見覚えのない車をはぼんやり眺めていたが、自分たちの近くで停車し、助手席から出てきた人間に二人して驚く。
「先生!?」
「お兄ちゃん!?」
は出てきた人物に驚き、思わず素で呼んでしまった。
「え? お兄ちゃん!?」
がの言葉に気付いて、更に驚いている。それにしまったという表情になったに、は穏やかに笑う。
「別にいいんじゃないか。が気を抜いてるってことは、信用できる証拠だろ?」
は「とりあえず乗ってから」と後部座席のドアを開けた。
――そういえばお兄ちゃん、助手席から出てきたような……?
「段差になってるから、足元、気をつけろよ」
に言って、先に入るように促す。
「さんもどうぞ」
「いや、私はいいですよ」
にっこり笑顔でを見て、は無言で乗るように促す。嫌とは言わせない雰囲気が、その笑顔にはあった。
「えっ!? あ、えっと……コンバンワ」
後部座席に座り顔をあげたが、戸惑った声をあげた。
「、お前……言ってなかったな?」
ルームミラー越しに驚きに声を失ったを見て、ローは苦笑する。助手席には、後部座席にとが座る。
「で?」
「ん?」
「――お前が俺に車出せって言ったんだろう。これからどうするか聞いてんだよ」
送るにしてもどこかわからねぇし、と砕けた口調のままローはに指示を仰ぐ。
「トラファルガー先生、病院と喋りが違いますね」
の言葉には「さすがにこの調子で患者や職員と喋れねェよ」と返す。
「さん、まだ時間、大丈夫?」
「大丈夫です」
「それなら少し走ってもらおうか。……俺たちのことも話しておきたいしね」
「どれぐらい走る?」
「1時間ぐらいかな。行先は任せるよ」
ローはドアをロックすると、ジーンズのポケットから財布を取り出し、ETC車載器へカードを入れた。
シートベルトをして、ブレーキを踏みつつフットブレーキをはずす。左手でギアをドライブへ入れると、ゆっくりとアクセルを踏みつつ発進させた。
「さん、いつものそばにいてくれてありがとう」
「いえ……お礼を言われるほどのことじゃないですし、私が好きで一緒にいるので」
「それでも、の事情を知っている人が傍にいてくれると、俺も安心できるから」
誘拐等の過去の事件を、彼女は知っている。自らが彼女に話したらしい。それほど、彼女はにとって大切な人物なのだ。だからこそ、はと兄妹であることを打ち明けることにしたのだ。
「兄妹、だったんですね。苗字が違うから、気付きませんでした」
「そうだろうね。俺もも、職場では苗字で呼び合うし、慣れあうようなことは避けているから」
はちらりと運転中のローへ視線を向ける。彼がいる場で詳しい話をしても大丈夫か、ということだろう。
「ローは大丈夫、全部知ってるから。だから車を出してもらったわけなんだけど」
彼の運転する車が、高速道路へ入っていく。
「医大の時から知ってるし、と何度か会ったこともあるよ。な?」
「うん。でも、話したことはないよ」
「話す必要もなかったしね。話は戻すけど……俺たちの両親が離婚してね、別々に引き取られたから仕方ないんだけど、俺は父親のを、妹は母親のを名乗っているわけ。別に嫌いで離婚したわけじゃないから、俺たちは何度も会ったりしてたし、両親も知ってたから。まぁ……他人から見れば変わってるだろうけど」
車は高速道路をおりずに、パーキングエリアへ入っていく。コンビニとトイレと自動販売機しかないないが、大きなパーキングだと人目を気にしなければならないため、ここにしたようだ。
車を停めたローは「あと10分ぐらい走るから、休憩しておけ」と言って、皆を車から追い出す。女性二人は飲酒しているため、アルコールが抜けるまではこまめな水分補給とトイレ休憩は必要だろう。
化粧直しを含めての休憩になると予想し、自動販売機で缶コーヒーを2本買ったローは、もう1本を近付いてきたに渡す。
「悪いな、運転させて」
「運転しながらじゃ話なんてできないだろ。構わねェよ」
腕時計を見ると、夜の11時を指すところだった。
コーヒーを飲みながら他愛ない話をする。しばらくすると、こちらへ向かってくる二人の姿が見えた。それを真っ直ぐ眺めていると、がニヤリと笑う。
「可愛いだろ」
「あァ」
ここで嘘を言ってもばれるだけだと素直に頷けば、は笑みを深めて目を細めた。
「まだ喰うなよ?」
「そんな節操なしじゃねぇよ」
喰ってもいいかと思えるぐらいには可愛いと思うけどな、と表情を緩めず胸中で呟く。
恋愛感情に結び付くほど会話をしたり姿を見たりといった接点がなかったのだが、どうやら自分で気付かないうちに気になる存在へ変貌していたようだ。
近くまできた二人に「水分補給しとけよ」と言って、ローは自動販売機へ行くよう促す。
が先に500mlの水のペットボトルを買い、も続いてコインを入れる。小さいペットボトルにしようかと悩んでいると、長い指がボタンを押してしまう。
「水分補給しろって言っただろ? 小さいのじゃ足らねぇよ」
取り出し口からボタンを押した指でそれを取ると、ローはの手に渡す。その指で髪を少し撫でて、車に向かうよう背を押した。
「あれ?」
さりげなく触れてみた髪は柔らかい。それに反応があるかと思ったが、はローの指よりもとの存在がないことの方に気がいってしまっていた。
「アイツらなら車のところにいる」
ほら、と目線をそちらへ向ける。
「ほんとだ。待たせちゃった」
「走るな、酔いが回るぞ」
「大丈夫ですよ」
「知ってる。から強いって聞いた」
車まで並んで歩き、ローは運転席側後部のドアを開ける。
「ありがとうございます」
ドアを閉めてやり運転席に座ると、横から意味ありげな視線を投げられたが、完全無視して車を発進させた。
水を買ったを促し、ローの車へ向かう。を振り返ったに「大丈夫だよ」と声をかける。の目に映ったのは、の隣に並ぶローが、自動販売機のボタンを押すところだった。
「俺がローに頼んだんだ」
「頼んだ?」
「そう。あの子は俺のように、あの病院での地位は必要ない。祖父も父も、もちろん俺も人事には関わってないけど、俺たちの関係を知ればコネで入って来たと思われるだろうし、一番弱い立場にいるが狙われる。――君も知ってる通り、昔のように力づくで自分のモノにしようとする人間が近づいてきても、だけでは太刀打ちできないだろう」
は少し寂しそうな表情でを見た。
「あの子には俺たちの権力とかが関係ないところで幸せになってほしい」
「それがトラファルガー先生なんですね」
「元々、お互いが気になっていたみたいだしね。……それよりもさ、ちゃんはどうなの?」
はこちらへ来るローとを見た後、そう言いながらを見る。車のロックが解除された音がして、が後部座席のドアを開ける。
「どうなのって聞く意味が理解できません」
「ちゃんなら、あの病院で手腕を発揮できそうじゃない? 俺、お買い得よ?」
「特売にされてても、なかなか手が出しにくいです」
「それなりのパッケージと値札があったほうが、わかりやすいか」
を伴って帰ってきたローを視界に入れつつ、はドアのロックの音にシートベルトを手に取った。
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