「親父」
誰もいない医局で、ノックもせずに入ってきた病院長に、医局長が言った。
「馬鹿者、気を抜くな」
「はァ……、親父が勝手に動くから俺が息子に怒られるんだ。あいつがの力を使うの嫌がってるの、知ってるだろう?」
あいつは怒ると怖いんだ。
溜息まじりの言葉に病院長は苦笑する。自分によく似たこの男がここまで言うのだから、よほど怖いのだろう。の血筋には腹黒が多い。息子はまだ柔らかい方だが、孫は随分濃く血統が出たようだ。
「今日は一日、職場見学だ。そろそろ芽は摘み取らないといけないだろうしな」
昨夜、から先週金曜日の夜にプロポーズをしたと聞いた。ついでに病院の状況報告も入った。そして、のことも。
離婚しても仲のいいとの両親は、今でも会えば手を繋いだりする。嫌いになって離婚したわけではないし、が圧力をかけたわけでもない。別姓にする必要があったため、離婚した――ただ、それだけだ。
「そういえば、はプロポーズしたという女性に会ったが、あの子はウチにぴったりだ」
「だろ? 俺も二つ返事でOKした」
「さてと、そろそろ行こうかの」
「急に口調変えんなよ」
「猫を被らんと病院長らしく見えないだろう? 私が退いたらお前の番だ」
「わかってる」
にやりと笑った病院長は、医局を出て行った。
病院長がまず向かったのは総合受付。
柔らかい髪を後ろに流したままの、外見は可愛い女性が座っている。男受け間違いなしの容姿に仕草。今までそうやって男を手玉に取ってきたのだろうか。
女性の視界に入らないように、彼は立って様子を見る。仕事しているようには見えるが、席を立つ様子はないし、電話を取る気配もない。今日は裏方の仕事だから、電話、計算、カルテや伝票整理等、やることはたくさんあるだろうが、他の職員から渡された仕事をするのは別の人間ばかりだ。
「ふむ」
女のかわりに事務長が動いているようだ。
――何か弱みでも握られているのか。
しばらく様子を見たあと、他の職員の様子も見やる。他は問題ないようだ。
次に各科の受付へ行く。放射線科、リハビリテーション科、リウマチ科、小児科へまわり、次は内科へ。
内科の受付にはがいる。科の受付と医師に接点はほとんどない。大抵はその間に看護師が入る。
今日の看護師はに色目を使う人間だと聞いたが、は気にする風もない。自分の私生活を出すのを嫌がるには合っているといえるだろう。仕事は仕事と割り切ることができない今日の看護師は、自分の仕事ぶりをアピールしているようだが、の中では『当たり前』なのだ。
は仕事中に病院長の存在を見つけて会釈した。大仰にしないところもいい。
次は、今一番問題の整形外科。
ローにちょっかいをかけている事務員と看護師がいるという。一人は先ほど総合受付にいた女、もう一人は現在整形外科の診察室にいる看護師。内科にいたに色目を使う看護師はに対して普通だったが、こちらの方は、受付にくる職員全てにあたりがきついという。
受付にはがいて、受付票を受け取りに窓口から出てきたところだった。小さな男の子が持つ紙を受け取り、「ありがとう」と言って笑いかける。制服のスカートが汚れるのも気にせず子供の目線に座ったは、「お名前呼ばれるまで待っててね」と笑顔を向けてから立ち上がった。
窓口へ戻ってきたは、受付票を確認しつつカルテの準備をしていく。看護師は二名ついていて、うち一人は既婚者で気の利く人間だが、もう一人は。
診察中の患者が終了しカルテを持ってきた看護師は、必要なことも伝えずに無言で予約票をへ手渡す。予約票には日付も何も記入されていないため、受付で予約してもらうのだが、いつ頃来院してもらうのかが伝えらえていないため、わからない。だが、カルテの中を確認すると、ローの字で日付の書かれた付箋が貼ってあった。
次の患者の対応も同じようで、病院長は思案顔だ。
――彼女()限定でこの動きをするならまだいいが、どの事務員に対してもこの動きしかできないのなら解雇してもいいぐらいだ。
また後日確認するとして、今日は入院病棟も見る予定のため、そちらへ足を向けた。
はそっと、胸中で溜息をつく。
今日の看護師は必要なことを聞いても答えてくれないので、非常に仕事がやりにくい。ローやもう一人の看護師もわかっているので、何も言わずにフォローしてくれるのがありがたい。
窓口の外から視線を感じてちらりとそちらへ顔を向けると、白髪の男性と目が合った。
――病院長の「またあとで」はコレだったんだ……。
軽く会釈だけすると、は仕事に戻る。
そして、お昼休み。
「お疲れ様」
「ありがとうございました」
小さく頭を下げると、看護師は困ったような表情で「大丈夫だった?」と声をかけてくれる。
「あの子はトラファルガー先生のところじゃいつもあぁなのよ。自分の仕事が出来ていないことを先生に見せているだけなんだけど、彼女は仕事が早く出来ているように見られていると勘違いしているみたい」
ローのフォローが入っているのを知らないようで、彼女なりの頑張り方のようだ。
――間違っているけれど必死なのね。でも仕事中はやめてほしい。
長い髪は束ねるのが規則になっているので守っているし、付け爪やマニキュアや香水は禁止なので守っているようだが――よく見れば、爪には透明のマニキュアが塗られていた。
「先生もわかっているから気にしないで。午後もよろしくね」
彼女はそう言って、食堂へ消えていく。は一息ついてから、食堂ではなく屋上へ向かった。から屋上にいるとラインが入っていたからだ。
お弁当とコーヒーの入った水筒を持って屋上にいくと、隅にある給水塔の横に座っていた。ちょうどそこが日蔭になっていて、この時間は涼しいのだ。
「お待たせ」
「お疲れ。聞いたわよ、今日も大変だったみたいね」
「もー、情報早いね。誰から?」
「トラファルガー先生」
「え?」
はびっくりだ。さっきまで一緒にいた自分ですら直接話したのは朝の挨拶のみだ。
「むー……」
より先に会話をしたという事実に納得がいかない。
「のこと気にしてたよ。今日のお昼は医局長に呼ばれているから、先生は私にお願いしに来たってわけ。愛されてるわね、」
愛されている、の言葉には顔を真っ赤にしてしまう。
「かーわいい! 買い物行ったとき、絶対カワイイの、買いましょ。は可愛い服が似合うと思うのよ!」
は顔を真っ赤にしたまま、落ち着こうと水筒のコーヒーを一口飲んだ。
「お疲れ様です」
「あぁ……お疲れ様」
ローは昼休み、医局へ行くように言われていた。その部屋には医局長――の父親がいた。
「仕事はどうかな」
「仕事の方は特に問題ありません」
「仕事の方は?」
さすがの父親だ、言葉に含まれた違和感にすぐ気付く。
ローは正直に話したほうがいいかと思案する。
「今日は珍しく病院長が巡回していたから、何か感じ取っているとは思うけれどね」
医局長は言って、正直に話しなさいとローを促す。
室内に二人だけという状況を確認して、彼は重い口を開いた。
「看護師に一人、事務員にきちんと伝言せずにいて困っています。ここ半年ぐらいの間です。何度も注意はしていますが、改善はないですね」
「あぁ……それは聞いたことがあるな。看護師同士で喋っているのを小耳に挟んだ。あとは事務員同士のいざこざもあるようだね」
「――はい。そちらは診療に影響がないので、こちらからは何も言っていません。注意するにも、被害者である当人はいたって普通ですし」
「当事者と話をしたことがあるのか」
「――はい」
ローはしまったと表情を硬くする。思わず言葉に出してしまった。と雰囲気が似ているから、気を許してしまったのか……。
「ところで君の家は開院していたね」
「はい、ただ……父には自由にしていいと言われています」
「いずれは継ぐ?」
「いつ頃になるかはわかりませんが、いずれは、と」
ローの言葉にふむ、と頷く。
「は大切にしすぎて駄目なんだ。それは本人もわかっているが……やはりあいつも過去を引きずっているのだろう」
医局長はまっすぐに、ローを見る。
真剣な眼差しに、金曜の夜に見たの目を思い出す。
「を頼むよ。我々ではあの子を守りすぎてしまう」
「知って……いたんですね」
「がボディーガードをつけているからね」
――この調子だと、病院長にも筒抜けか……。
「とは関係ない場所で、自分の意思で生きてほしい。それが我々の願いだから」
俺は大切な人たちを守るために離婚したのだから――。
はの名を持っているが為に誘拐された。に振り回されずにを守るには、苗字を変えるしかなかった。今は離婚という形でしか苗字を変えることができないため、その手段をとった。妻の苗字に変えたは、少しだけ男性が怖いようだったが、それでも穏やかな日々を送っていたようだ。
妻子と会うことができるのは、海外へ旅行したときのみ。の名前でホテルを取ることができないため、妻の名前で予約をし、仕事を調整しつつ予定を合わせ――。
「医局長?」
少し物思いに耽っていたようで、ローが呼びかければ、思わずという感じで苦笑が漏れた。
「俺も親父も君を認めている。を頼む」
医局長が自分のことを『俺』と言い、病院長のことを『親父』と言った。つまり、先ほどの言葉はとしてではなく『の父親』としての言葉なのだろう。
「――俺はもちろんそのつもりですが、彼女の意思を無視してまで貫こうとは思っていません。それだけは理解してください」
ローは医師である自分を『私』と言うが、の父親として接してきたことを考慮に入れ、自分のことを『俺』と言った。医師ではなくロー個人の言葉にするためだ。
「わかっている。……ありがとう」
安堵したような表情に、この人も父親なのだと思う。
――に会いたくなったな……。
医局に呼ばれた時点で、にと一緒にいてもらうように頼んだ。自分ものことを言えないくらい過保護だと自嘲する。それを見た医局長が意味ありげに笑った。
この男も、自分たちと同じように『過保護属性の心配性』か。類は友を呼ぶとはよく言ったものだ――。
そう医局長が胸中で感慨深く呟くのを、気付く者はいなかった。
はと一緒に買い物にでかける時間が増え、ローの休みに合わせて二人で会うようになった。
今月は整形外科の受付が一回だけで、その一回も既に終わっているので、あの看護師と一緒に仕事をしても整形外科でなければ特に問題はない。仕事も順調。
仕事外でしかローと会わないので、職場でバレる心配はなさそうだ。
職場恋愛の醍醐味は味わうことはできないが、心配事ができるのは困るので、はこれでいいと思っている。
ローとの触れ合いは手を繋ぐにとどまっているが、それでも幸せを感じることができていて、温かい気持ちが心地いい。
ローも同じように、触れ合い会話するだけで気持ちが安らぐことに気付いていた。
いずれはその白い肌に触れたいと思うが、今はこのままでいいと、穏やかな気持ちで目を閉じた。
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