手触りのいい檻 3





 
 車はゆっくりと目的地に着いた。
「ベタだとは思ったんだけどな」
 ローは駐車場へ車を停めた。を伴って海の方へと歩いていく。砂浜には入らずギリギリのところで立つ二人を、ローは運転席に座ったまま眺める。そんな彼を、後部座席から見るは、二人きりという状況に緊張していた。
「怖いか?」
 ルームミラー越しに目を合わせられ、はローの視線から逃れられない。
「怖くはないです」
「なら……少し外に出ないか」
「――……はい」
 ローが運転席から出ると、もドアを開けた。
「さっきも言っていたが、ある程度、のことは知っている」
 車にロックをかけ、に行先を任せる。彼女は困ったようにローを見上げたが、ローは先に動こうとはしない。
「二人きりになりたくなければアイツらのそばに行けばいい。――任せる」
 自分の意見を押し付けたくないローは、黙ったまま動かないを見下ろすだけだ。
 守るだけも守られるだけも駄目だとローは思っている。が大切すぎて、守りに徹する。
 ――それでは、の意思はどうなる? 危険をすべて排除して、ぬるま湯につかることに慣れてしまえば、守る側は守りやすくなるだろうが……。
はどうしたい。守られるだけでいいのか?」
 ふるふると首を横に振るに、ローは手を差し伸べる。
の傍にいればずっと守ってくれるだろう。それこそ、傷一つ作ることなく」
 は頷く。
 は自分を犠牲にしても、彼女を守るだろう。
「それが嫌なら、俺の手を取れ。ほどの力はねぇが守ってやれる」
「どうしてそこまで言ってくれるんですか?」
 見上げるの瞳が不安に揺れる。今まで会話もほとんどしたことのない人間から言われれば、当然の反応だ。
に頼むと言われたのもあるが……前からずっと気になっていたんだ」
 の視線が、ローから地面へと移る。
「俺はの仕事をしている姿が好きだ。まぁ、それ以外にほとんど見たことがないけれどな。今は悉(ことごと)く一緒に仕事する機会を奪われているが」
 小さな苦笑。
「どうする? 俺の手を取れば、もれなくのシフトチェンジを企てている女と対決するようになる。できる限りは守るが、目が届かないこともある。理不尽なこともあるだろう。それを全部含めて……俺と一緒に頑張ってみるか?」
 ローならば、の意思を無視して誘導し、彼を選ぶようにすることも可能だろう。だが、彼はそんなことはせず、真っすぐへ思いを伝えた。それを信じてみてもいいのではないかと、は思う。
 それに、とは少しだけドキドキする胸を手で押さえて思う。は、時々姿を見るローが気になっていたのだ。仕事中は姿を見ることは少ないけれど、と一緒にいるときや、食堂で姿を見るたび目を反らせずにいたのだ。
 は地面へ向けていた視線を、差し出されたままだったローの右手へ移すと、自分の左手をその上に置いた。
「よろしく、お願いします」
 その声に、ローは無意識に詰めていた息を緩く吐き出し、の細い指を自らの手で包む。
「これから、どうしたい?」
「とりあえず、恥ずかしいので手を離したいです」
 素直な言葉にローは喉の奥で笑う。恥ずかしいと思えるほどには、ローのことが気にかかっているのだろう。
「悪いけど、そんなことを言われたら離したくなくなる」
 ローは小さく笑うと、攻めすぎても逃げるだろうと予想してそっと手を離す。
 手を離したいと自分で言ったのに、実際離れてみると寂しいと思う。
 はその気持ちを抑えきれないままローを見た。
「慣れるまでは毎日少しずつにしよう。職場じゃなかなか顔を合わせられないしな」
 医師と事務では会う機会が少ない。多く会えば会うほど、触れ合いが多ければ多いほど、会えなくなった時の喪失感が大きくなる。だから少しずつ、触れ合う時間を多くしていくようにするつもりだ。無理に時間を作っても、いずれはそれが苦痛になるかもしれない。
「俺にしてほしいことがあったら言ってくれていい。は我儘言うのに慣れてないだろうから、無理にとは言わないが」
「……はい」
「言葉遣いもできれば崩してほしいが……まァ、これも追々(おいおい)な」
「――・・はい。あ、あの」
 は見上げたまま、声をかける。それにローは見下ろし、言葉を待った。
「あ、あの……え、っと」
 手のぬくもりがなくなって寂しいと言えば、繋いでもらえるだろうか。
 母はほとんど家にいない。こちらへ帰ってきたときは、鬱陶(うっとう)しいほどベッタリで我儘もたくさん聞いてくれる。けれど、母とは違う――。
 困ったように眉を下げたの表情に、ローはふ……と口元を緩めて。
「ほら」
 右手を差し出せば、目を見開き、それからふわりとは笑う。
 ――本当に……言い慣れていないんだな。
 自分の言いたいことを言えるようになるには時間が必要だろう。
 そっと置かれた手を握り、羽織っていたパーカーのポケットに入れれば、まん丸になったの目。その目元が瞬時に朱を帯びた。
「病院では期待するなよ?」
 こくり、と無言では頷く。
 あの病院内では秘密にするに限るとも思う。恋愛に慣れていない自分には出来すぎた人だということもわかっているけれど、「一緒に頑張ってみるか?」と言われたことが嬉しかった。だから、この手を取ろうと思ったし傍にいたいと思った。
 ローはを見下ろし、暗闇でもわかるほど赤くなった耳元を見やって目元を和ませる。柔らかくなった雰囲気にが気付いて、そっと微笑んだ。
「スマホ持ってるか?」
「はい、持ってます」
「とりあえず、連絡先を教えろ。ラインは登録だけしてやったことねぇが……どっちでもいい、言いたいこととかあったら送っていい。ただし、返事は遅くなるぞ?」
 わかりました、とは右手で鞄を探ってスマホを取り出す。ローもスマホを取り出し、連絡先を交換する。
「寒くないか?」
「大丈夫、です」
 喋りもまだまだ堅苦しさが抜けないが、そんな言葉遣いも可愛いと思えてしまう。
 しばらくローもも無言のまま、景色を眺めていた。がこちらへ戻ってくるのを眺めやりながら、ポケットに入れたままのの指をそっと離す。
「また二人っきりになったときに、な」
「はい」
 するりとの指がポケットから抜けていく。名残惜しいと思うが、恥ずかしがり屋ののために我慢する。
「使って……悪かったな」
「構わねぇよ」
 車のロックを解除すると、を連れて後部座席へ乗り込んだ。
「え……?」
 戸惑った声を出したに、ローは苦笑交じりに彼女を助手席へ促す。
「あっちはまだ足りないんだろ」
 あっち、とはのことだろう。
 意味を理解して、が驚いた顔をする。それに彼は人差し指を自分の唇にあててニヤリと笑う。
 気付いたことには内緒に、ということか。
 の小さな頷きを確認して、ローは車を発進させた。











 金曜日の夜にあったことが嘘のような土曜日。夜遅くに帰宅となったは昼過ぎまで布団に潜り込んでいたが、枕元にあったスマホの画面を見て時間を確認すると、ゆっくり起き上がった。
 眠い目を擦りつつ起きた彼女は、冷蔵庫の中を確認してから服を着替え、洗面台へ行き顔を洗って手抜きメイクをする。仕事の時は少し気を使うが、基本的にめんどくさがりである。
 食料を買うためにスーパーと、趣味にしているアクセサリー作りに必要な材料を手芸センターへ行くことにする。
 まずは手芸センターに行き店内を歩く。自分がつけているピアスは全て自分の手作りだ。仕事中は小さなものをつけ、今日のような休日には少し大きめなものをつけるが、どちらにしても華美なものは苦手なので、目立つようなものではない。
 素材を手に取りどんなものを作ろうかと悩んでいる時間が好きだ。
 ――そういえば、トラファルガー先生もピアスしてたなぁ……。
 仕事中はしていなかったと思うが、昨夜はゴールドのリングピアスをしていた気がする。
 仕事中はワイシャツと、病院から支給されているドクターコートを羽織っているけれど、私服はラフな感じで、Tシャツにパーカー、細身のジーンズだった。いつもはマスクで隠れている顎には少しだけ髭があって、男臭い髭が思いのほか似合っていてびっくりした。
 ――手作りのピアスなんて、重いだろうか。
 バレンタインチョコを手作りしたり、クリスマスプレゼントに手作りのものを一緒に送る友人を見たり聞いたりしてきたが、贈られた側はどうなのだろう。
 ローを思い出しつつそんなことを考える。少しずつでいいと言われたが、自分の浮つく心が勝手に加速していることに戸惑っている。自分の気持ちをおさえるためにも、自分の好きなものを作ろうと、は店内を歩きつつ、素材を手に、楽しくなる気持ちに身を任せた。
 店から出たは、小さな紙袋を片手に駅へ足を向ける。昨夜飲みにきた駅と同じで、一駅先がの最寄り駅だ。スーパーは駅近くにあるので、そこへ行くつもりだ。
 何気なく、いつものように電車に乗ってドア近くに立つ。周りを見ていなかったは、電車が動き出すのと同時に聞こえてきた笑い声に、そちらへ視線を向けると。
「無意識みてぇだな」
 ククク……と喉の奥で笑った男は、車両に背を預け腕を組んで彼女を見ていた。
 ――進行方向から3両目の扉前。
「先生」
「病院外でそれはねェだろ。せめて名前にしてくれ」
「え……でも」
 トラファルガー先生としか、呼び方が思いつかない。
「ローでいい」
 昨夜、少しずつでいいって言ってたじゃない! そう思ったが、ローの視線に耐えきれず。
「ロー、さん」
「ま、今はそれでいい」
 そう言うローを見ると、今日も同じピアスが光っていた。
「今日のピアス、昨日のと違うんだな」
「はい、自分で作ってるんです」
「それが材料?」
 ローの視線が、紙袋へ向かう。
「はい。簡単なものしか作れませんけど」
「今度、俺にもよろしく」
「え!? あ、はい……!」
 言われた言葉に驚いて、そのあとあまりの嬉しさに大きな声が出てしまった。そんな様子を見て、ローの雰囲気が柔らかくなった。
「仕事中はしないけど、俺はこれ1つしか持ってねぇんだ」
「もったいないですよ。似合っててかっこいいのに」
「そう思うなら、いくつか作ってくれよ」
「あまり期待しないでくださいね」
「あァ」
 ローの声音に嬉しそうな色が宿っているのは気のせいと思いたい……。










 他愛ない話をしながらは自分の最寄り駅へと降りた。するとローも一緒に降りてくる。
「先生?」
 言った途端に、頭にコツリと軽い拳が落ちた。
「呼び方、戻ってるぞ」
「急には無理ですって。それより、ココでしたっけ?」
「それよりってな……」
 ローは自分の呼び方が重要視されていないことに落胆を覚えるが、とりあえずは今の現状を繋ぐことを目的にする。折角、会えると思っていなかった彼女と会えたのに、このまま「はい、さようなら」なんてできるわけがない。彼女はまだそれができそうだが……。
「折角だから、おまえの用事に付き合う」
「せ……ローさんは、用事なかったんですか?」
に呼び出されて病院に行ってただけだ」
「呼び出し?」
「個人的な用事で呼び出されただけだから、心配するな」
 昨夜遅くまで自分たちの運転手を務めたうえ、兄からの個人的な呼び出しとか! 何やってるの、お兄ちゃん……。
「個人的なことだったら、余計心配しますよ。結構容赦ないから、あの人」
「俺に直接聞きたかったんだろ、根掘り葉掘り。今日は内科の患者が少なかったからな、暇してたみてぇだし」
「そんなコトで呼び出し!?」
「俺は結構、楽しかったぞ?」
 ニヤリ、と笑うローの瞳には、意地悪な色がにじみ出ている。
 それに顔を真っ赤にしたは、ふいと彼から視線をそらせて。
、時間大丈夫か? これから行くところがあるんじゃないのか」
「え? あ、そうだ。スーパーに行こうと思ってたんです」
「駅前のか? ほら」
 そう言って右手を差し出される。
「迷わないようにな?」
「さすがにここでは迷いませんよ!」
 恥ずかしくてたまらなかったが、それでもがローの手の上に自分の手を置いた。それを彼は握ってそっと手を引いた。
 ――この人の『少しずつ』は当てにならない。
 は引かれる手を意識しつつ、そう胸中で呟いた。










「おはよ、
「おはよう、
 月曜日、いつもより早く目が覚めたは、朝ごはんを家で食べずに出勤し、途中にあるコーヒーショップでサンドイッチを買って、店内で食べることにした。にそうラインを入れたら、彼女も一緒に食べると言って、この店で会うことになった。
 カウンター席に二人並んで座り、サンドイッチを頬張る。
がここで朝ごはんって珍しいわね」
「なんだか目が覚めちゃって」
 たまにはいいんじゃない?
 は言ってから、
「とりあえず先に、私の方の報告をしておくわ」
 言って、サンドイッチを頬張り、咀嚼し終わってからコーヒーを一口飲んだあと。
さんと結婚前提で付き合うことになったから」
 そう爆弾を落とした。
「け、結婚前提なの!?」
「そうよ。あの腹黒さを御すのは難しそうだけどね。それに、先週の金曜に言われてびっくりしたんだけど、どうやら以外の外堀は随分と埋められていたみたい」
「外堀? もしかして」
 は信じられないと小さく叫ぶ。の言うところの外堀とは、の祖父や父のことだろう。
「実は私、機器の娘なのよねー」
「え!?」
 機器は主に医療機器を販売していて、病院にもよく出入りしているメーカーだ。
「名字隠してなかったけど、気づかなかったでしょ?」
 こくこくと頷くに、はにんまりと笑って。
「堂々としていれば案外わからないものよ。ま、バレてもいいと思っていたのもあるけれど。私は長女だけど、弟がいるから継がなくていいって言われているしね」
 は呆気にとられて声が出ない。
も堂々としてなさい。そのうち私たちの噂でもちきりになるだろうし、それに紛れて先生とイチャイチャしなさいね」
 職場恋愛の醍醐味よ。
 穏やかに笑うは、に「早く食べなさいよ。時間なくなるわよ?」と言って促す。
 食べる様子を眺めながら、はこれでを守る手段が増えたと思う。
 ローが守るだろうが、目の届かないときは自分がいる。最悪は家の力を使えばいい。はきっと家の力を使うことを嫌がるだろうけれど。
 私の事情に巻き込んでしまうのは申し訳ないけれど、自分とのことが隠れ蓑になるだろう。
「さて、行きましょう。今日からは荒れるかもしれないわよ? 覚悟してね」










 結婚前提で『付き合う』んじゃなかったの!?
 職場について着替え終わった二人を待っていたのは、病院長だった。白髪に切れ長の目は力強く、医局長の父もおなじような顔だ。
さん、よろしく頼むよ」
 どこまでも自分の都合のいい行動をするが、君のことを大切にしたいと私に言ってきたよ。
 そう言った病院長を真っ直ぐに見詰めて、は言う。
「大切にしたいと言った口で、このことを私が聞かされたのは先週の金曜ですけれどね」
 病院長にきっぱりと言ったに、彼は驚きに目を見開いたあと、口元を手で押さえて笑った。耐えきれなくなったのか、腹を抱えて笑いだした病院長は、声をたてて笑い出す。
「さすがだよ。君こそアイツの手綱を握るに相応しい」
 の肩を軽く叩くと、病院長は次にを見る。
「お久しぶりです、病院長」
 ここは職場、今までに何度も会ったことがあるとはいえ、おじいさんとは呼べない。
 頭を下げるに「ちゃんと自分を持っているようだな」と声をかけ、にしたのと同じように肩を叩く。
のしがらみから抜けることは出来ないだろうが……幸せになりなさい。自分を見つめてくれる人と」
「――はい、ありがとうございます」
 もしかしたら、知っているのだろうか。ローと自分の関係を……。
 病院長は「引きとめて悪かったね」と言い「事務長に何か言われたら私に引きとめられたと言いなさい」と言い置き、事務室へ消えていく。
「――自分も事務室へ行くなら、先に言っておいてくれればいいのに」
 の言うことは最もだが、彼が事務長に前もって言ってしまえば何かあったのではないかと疑われるだろう。
 事務室へ入ると、病院長が事務長から何かを受け取っているところだった。
「今日は休みもいないから、シフト変更はないな」
「いえ、あの……」
「変更があるのか?」
「あ、いえ。ありません」
「そうか」
 病院長は受け取った紙を折りたたみドクターコートのポケットに入れると、こちらへ目を向けた。頭を下げた二人に「あとでな」と声をかけると、部屋を出て行った。そのあとすぐに、事務長が慌てたように出て行った。
「あの様子じゃ、今日のは整形じゃなかったみたいね」
「そうみたいだね」
 二人、顔を見合わせる。
 今日は今月で唯一、が整形外科の受付に行く日だ。いつも当日変更してもOKするだったから、今日もそのつもりだったのだろう。
「病院長のおかげね」
 ふふっとは笑って言って、右手をあげた。
「お昼にね」
「うん!」
 ぱちん、とハイタッチをして、は整形外科の受付へ、は内科の受付へ歩いて行った。





          



 
 エナメル様 (お題配布サイト)