都会に住み着き、二十年ばかりたって、長男が望
む大学に入れなかったとき、家族を連れて故郷へ行
くことにした。
かつて、私が中学生のとき、思いあまって学校を止め
ようとして故郷へ帰る途中、想い直した道のあたりにさ
しかると長男は、
「僕は、ここが好き。ここに来たらこまごましたことを考
えないようになる。気が修まる」
と言い、しばらくして、
「けれど、ここにずっといたら、そのことを気付かなくなる
かも知れない」と言った。
共に居たワイフは、山歩きが好きなので、
「そうね、山へ行くと今まで言えなかった愚痴を言ってし
まいたくなって言ってしまう。けれど、景色を見ながら話
しているうちに、景色に申し訳無いことをしているような
気になって恥ずかしくなる。ここでも同じやわ」
と言った。
私も、前に、ここで思いが変わり胸が修まった。その
ときは、変わって良かったとだけおもっていたのだが、
そののち、山河の「何か」が心のわだかまりを遠のか
せるように誘い掛け、なびかせようとしているようだ。
でも、そのように感じるのは私だけなのかと疑って、す
っきりとは受けとめていなかった。 なのに、二人は素
直になびいて受けとめたとおりを言った。それで良いの
だ。 「何か」は、良い方向へ誘いかけなびかせる。 |
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かつて、私の心が激しく動揺していたとき、「何
か」の誘いかけにより、私がなびいていったの
は、殊更だつたから目立ち、受けとめたときの印
象が強く残るようになった。
なのに、穏やかにしている常々、心情が大きく
変わらなくてもよいときには目立たず、その場の
印象が潜在してしまい、それが常だから、印象
が目だったときに疑うようになる。
「何か」は同じ。だが、感じ受けとめるのは、その
ときの心情に依って違ってくる。
今回、心の動揺が大きかった長男と、それほ
どではなかったワイフとでも違いがあった。
それで良い。なのに、このようになるのは自分
だけなのだろうか、人はどのようなのだろうか憶
測するとき、いわゆる雑念が入るときに疑問が
増してゆくのだろう。
心の若さ それほど深く考えることではないと思
いながら、長男が言った二言が頭に残った。
このとき、私は四十八歳。長男は十八歳で、
私が前にここで思いなおしたときと同じ年ごろだ
った。 その若人がここに来てすぐに、
「僕は、ここが好き。ここに来たら、こまごました
ことを考えなくなる。気が修まる」
と言った。その言いかたに、十代の直感と、感じ
たことを、すらりと言う素直さを感じさせられ「な
ぜ」と問うことができなかった。 私には、十代の
素直さがなくなっていた。 |