千一夜の館の殺人/芦辺 拓
事件の真相は、遺産相続が絡んだ事件の定石通り、遺産を一手に握るための連続殺人ですが、犯人自身が状況を誤認していたために事件の様相がひどくおかしなものになってしまったというのが秀逸です。確かに、遺産相続の要である久珠場博士本人の生死を誤認していれば、排除すべき障害となる人物が変わってくるのも道理。そして、解決場面における事件の全体像の反転が非常に鮮やかです。
実際には、いくら“仮想世界の久珠場博士”が精巧であったとしても、久珠場博士が生きていると思い込んでしまうというのは、やはり少々無理があるのは否めません。しかし、長年の海外生活を経ての客死ということで、国内での訃報がかなり簡単なものになっているという設定は、なかなかうまくできていると思います。また、遺言状の公開に出席した人物は犯人ではあり得ない(*1)という状況も面白いところです。
犯人の計画の中では、標的の一人である新島ともかをうまく操り、自分に変装させることでダミーの犯人に仕立て上げている点が実に巧妙です。特に、それが久珠場豊樹・由岐子殺しにおいて、“犯人←涼←(犯人に扮した)ともか”という奇妙な“追いかけっこ”の原因となり、また不可解な目撃証言を生み出しているところがよくできています。さらに、クライマックスにおいて鏡がボウガンで射たれたことが、ともかが犯人の正体に気づくきっかけとなっているのも見逃せません。
犯人の予期しないトリックの中では、久珠場雅重殺しにおける茶室の密室トリックが光っています。和室(茶室)ならではの純日本的なトリックでもありますし、非常にシンプルでありながら先入観によって絶大な効果を発揮する、優れたトリックというべきでしょう。ただ、333頁下段~334頁上段に記されたともかの疑問はもっともで、それに対する説明がない(ようです)のが気になりますが……。
“千一夜の館”の真の姿については、冒頭に付された「久珠場本邸全図」という大胆な手がかりがよくできています。ただ、これが折り込みという形になっているため、面倒で一度も開いて見なかったのが敗因(苦笑)でした。
また、“千一夜の館”(旧久珠場本邸)を復元して初めて解き明かすことができる、『千一夜物語』そのものを利用した暗号もユニーク(*2)。そして最後に、千一夜分のエピソードが揃った“『千一夜物語』完全版”が登場するという、できすぎといえばできすぎながら見事なオチが圧巻です。
ところで、本書にはさりげなく叙述トリックが仕掛けられていますが、個人的には今ひとついただけません。
“レトロ・ビル”はもとより、周辺の街並みにも人気の絶えた時刻、彼女は森江法律事務所の郵便箱に、一通の封書を投げ入れた。
(中略)
新島ともかの名を記したその封書は(中略)。
(中略)そのまま持ち去るも、中身をあらためてまた元へ戻すもその人影の思うがままだった。
(78頁)
この直前の場面からの流れによって、引用箇所中の“彼女”が新島ともかであり、“一通の封書”が森江春策宛の「休暇願」であり、“名を記した”が差出人名であるかのように誤認させられます。しかし実際には、是藤紗世子が新島ともかに宛てた呼び出し状を投函する場面であったことが示唆されています(346頁)。一見すると、なかなか巧妙なトリックです。
しかし真相がそうであったとすれば、当然ながら本来の時系列では「第一夜」以前の出来事であるわけで、この場面はカットバックで挿入されていることになります。そして、それがこの位置(新島ともかが「休暇願」を書いた場面の直後)であることに物語展開上の必然性はまったくなく(客観視点なので回想でもない)、ただ叙述トリックを成立させるためだけの配置であるところが、何とも美しさを欠いているように感じられます。
しかも、新島ともかが「休暇願」を書いた場面と連続していることで、ミスディレクションとしては非常に強力なものになっています。これに対しては、“突然送りつけられた「休暇願」とともに、新島ともかがふっつりと出勤してこなくなってから”
(80頁)(→すなわち「休暇願」は無事に森江の手に渡っている)というあたりが伏線といえなくもないかもしれませんが、強力すぎるミスディレクションに比してあまりに力不足(*3)で、結果としてはかなりアンフェアという印象が拭えません。
*2: 読者が解読することが実質的に不可能に近いのは残念ですが。
*3: そもそも、問題の場面では“人影”が封書を持ち去ったと断言されているわけでもないので、「休暇願」と解釈しても必ずしも矛盾は生じません。
2006.12.20読了