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  4. バベル消滅

バベル消滅/飛鳥部勝則

1999年発表 (角川書店)

 伊庭克典(殴殺)、木中稔(服毒死)、鈴木智子(転落死)、そして藤川志乃(刺殺未遂)――これら四つの事件には、“バベルの塔”のリンク〈1995年―1563年―1550年頃―それ以前〉、“学校”のリンク〈教員―用務員―事務員―生徒〉、そして〈同じバス〉のリンクを見出すことができます。

 田村正義はこれらのリンクをもとに、四つの事件を“一連の事件”ととらえた“解決”を行っていますが、その“解決”はミステリとしてまずまず面白いものになっていると思います。

 手がかりとされているのは藤川志乃が残した“ダイイングメッセージ”ですが、いくつかの解釈から書き順をもとに“W”か“E”に絞り込み、“E”に当てはまる江上康夫には動機がないと否定した上で、風見・エドガー・恭介を持ち出してくる手順が凝っています。ゲームとしてのメッセージ兼動機のカムフラージュという“バベルの塔”のリンクに関する説明はやや弱いようにも思われますが、“学校”のリンクと恭介の結びつきにはそれなりに説得力が感じられます。

 次に“ダイイングメッセージ”の解釈そのものを引っくり返し、オーエン・ハートを犯人と指摘していますが、ここでハートに当てはまらない“学校”のリンクを密かに廃棄しているのがあざといところで、解釈の、ひいては“解決”の恣意性がにじみ出ています。もっとも、〈同じバス〉という新たなリンクを提示しているあたりは巧妙ですし、“バベルの塔”と殺人の動機の背景――異なる言語――が密接に結びついた解釈は非常に秀逸です。

 しかして「終章」で明らかになる事件の真相は、いくつかの“ミッシングリンク”が単なる暗合にすぎず、四つの事件が“一連の事件”ではなかったという、事件の構図を根底から覆すものになっています。田村正義による“解決”がまずまず面白いだけに、その破壊力はなかなかのものといえるのではないでしょうか。

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 殺人でないものを殺人と見せかけて“連続殺人事件”を演出するというトリックには、某海外作家による長編*1などそれなりに知られた前例がありますが、本書の最大の特徴は“連続殺人事件”という見せかけの構図が一般に認識されることなく、田村正義の主観の中にしか存在しないという点でしょう。

 木中稔の死は自殺、鈴木智子の死は事故という形でそれぞれ一応決着していますし、最初の伊庭克典殺しについてはすでに犯人が逮捕されているわけで、“連続殺人事件”ではないことがはっきり示唆されているともいえるのですが、読者は田村正義の視点で描かれる「一章 バベル侵食――田村正義の受難」を通じてその主観に引きずられ、“隠された連続殺人事件”といういかにもミステリ的な構図を脳裏に焼きつけられてしまいます。それでも、見せかけの構図が捜査陣を含めて一般に認識されていない以上、読者に対して以外はミスディレクションとはなり得ません。

 先に前例として挙げた某海外作家による長編が、“連続殺人事件”の中に本命の殺人を紛れ込ませるという、アガサ・クリスティの某作品*2のトリックを発展させたものであるのに対し、本書ではまったく逆方向――“連続殺人事件”という“幻想”を実現させるためだけに“バベルの塔”・〈生徒〉・〈同じバス〉というリンクの条件を満たす藤川志乃が刺されたわけで、その本末転倒ぶりにはなかなか興味深いものがあります。そして、「終章」で佐藤潤一が示す、“バベルの塔の連続殺人の幻想が本物の殺人者を産んだ。(中略)犯人が実在したとたんにバベルは消滅した。”(291頁)という事件の実相が印象的です。

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 本書にはさらに、「終章」を除いた「序章」から「二章」までが、佐藤潤一が(現実をもとに)書いた原稿だったというメタ趣向が盛り込まれています。少々あざとく感じられるのも確かですが、田村正義の言動という手がかりはともかく、田村正と田村正を誤認させる叙述トリックや、「間章」に仕掛けられた叙述トリックなどは、メタレベルでしか解説できないわけですから、あくまでフェアに書かれていることを示すためには必須といえるでしょう。

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*1: ここで想定しているのは、(作家名)ウィリアム・L・デアンドリア(ここまで)(作品名)『ホッグ連続殺人』(ここまで)です。
*2: 長編(作品名)『ABC殺人事件』(ここまで)

2008.10.02読了