潮首岬に郭公の鳴く/平石貴樹
真相解明の糸口とされているのは、井戸の中の雪ですが、問題となる第二の事件の後の場面では、“前に山形警部と一緒に見た(*1)のとなにも変わらない。”
(172頁)とされるにとどまっている(*2)ため、井戸の中を目にした登場人物であればいざ知らず、読者には少々わかりづらいきらいがあります。その後にジャン・ピエールが、井戸の水道を使った人がいなかったかどうかを問題にしている(309頁)ので、井戸がトリックに使われたことは見当がつきますが、もう少し直接的に手がかりを示してもよかったのではないでしょうか。
それはさておき、第二の事件(柑菜殺し)のトリックは、座り込んだ状態の死体を雪がやんだ頃に後ろに倒すことで、雪がやんだ後の犯行に見せかけるアリバイトリックですが、俳句の“投頭巾”の見立てがトリックに使われているところがよくできていますし、(以下伏せ字)二枚重ねにした袋の外側を取り去る(ここまで)点が、『獄門島』の(以下伏せ字)釣鐘のトリック(ここまで)を連想させるのも面白いところです(*3)。
犯人が丸太を使って練習までしていることもあり、井戸のトリックが実行可能なのは岩倉家の人々に限られる中、外部からの足跡を偽装できるのは第一発見者のみということで、犯人がただ一人に絞られてしまう……のは、ややあっけなく感じられてしまう面もありますが、これはやむを得ないところでしょうか。
第一の事件(咲良殺し)では、見立てに使われた鷹のブロンズ像が、犯行現場の偽装、ひいては犯人のアリバイにも一役買っているのが見逃せないところです。また犯人が明らかになってみると、咲良死体をボートにくくりつけなかったことに対して、犯人が腰を痛めていたために屈むことができなかったと説明されるのも納得。
そして、第二の事件と同様に隠れた“足跡のない殺人”となっている第三の事件(彩芽・松雄殺し)では、被害者を“踏み台”にした足跡トリックそのものには既視感がある(*4)ものの、芭蕉の短冊額が見立ての装飾・殺害の凶器・ジャンプの踏み切り板と三つの役割を果たしているのが秀逸ですし、トリックの状況から被害者自身の協力、さらには松雄と千代子の父娘共通の利益という動機が浮かび上がってくるのがお見事です。
しかしてその動機の糸口となっているのが、自殺に見せかけて殺害された(*5)浦嶺竹代の存在で、松雄ではなく千代子の夫・祐平の愛人“アミン”だったという真相にまず驚かされます(“Takeyo Uramine”→“Take your amine”には苦笑を禁じ得ませんが……)。さらにそこから先、体外受精を利用してまんまと愛人との子を妻に三人も産ませた祐平の目論見が何とも強烈。と同時に、山形警部が言っている(340頁~341頁)ようにカッコウの托卵に通じるその真相が、本書の題名で大胆に暗示されているのに脱帽せざるを得ません(*6)。
最後に明らかになるのは、ジャン・ピエールの謎解きとは違って(*7)、松雄ではなく千代子が事件を主導したという真相で、千代子自身の言葉でそれを裏付ける心理が語られていきますが、女性ならではの動機――というよりも、自ら腹を痛めて子を産んだ母であるがゆえに、子への愛情が反転してしまったともいえそうな動機が、強く印象に残ります。
(以下、一部伏せ字)子/孫殺しという点では共通するものの、要は跡継ぎの問題――本書で千代子がいう“男の血”
(346頁)の問題である『獄門島』に対して、本書は大きく異なるようにも思われます。が、本書で事件の原因となった体外受精が、やはり跡継ぎの問題に端を発していることを考えると、本書は『獄門島』と根底を同じくしつつ、“男の血”にとどまらず“女の血”の側まで拡張してみせた“変奏曲”といえるのではないでしょうか(ここまで)。
“石ころみたいなのだけだね”(69頁)。
*2: 続けて
“ただはずれかけた屋根板や丸柱にところどころ雪が載って、ぽつりぽつりと水滴を落としているだけだ。”(172頁)とありますが、これはあくまでも井戸の外側の話なので、“井戸の中に雪がなかった”とまで読み取れるかどうかは疑問です。
*3: ついでにいえば、(以下伏せ字)井戸水の流出を動力に使った(ここまで)点は、横溝正史の別の作品(以下伏せ字)「本陣殺人事件」(ここまで)に通じるところがあるように思います。
*4: 被害者ではありませんが、少なくとも某国内作家の長編((作家名)島田荘司(ここまで)の(作品名)『斜め屋敷の犯罪』(ここまで))で似たトリックが使われています。
*5: 父親と弟にあてた遺書で
“浦嶺竹代”(151頁)とフルネームで署名されているのは確かに不自然で、ジャン・ピエールが
“比較的簡単でした”(337頁)というとおりではありますが、そうすると警察が自殺と判断しているのは……。
*6: さらにいえば、題名になっている割にカッコウがまったく出てこないこと自体が、本書におけるカッコウが(真相の)象徴であることを匂わせるヒントになっている、といえるかもしれません。
*7: ジャン・ピエールも謎解きで引用している(334頁)、
“血の繋がらない子供を一生懸命育てたとあとで知ったら、岩倉松雄、生涯最大の恥さらしになるところだった”(145頁)という言葉が、ミスディレクションとして機能している部分があると思います。
2029.11.22読了