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  4. 『ギロチン城』殺人事件

『ギロチン城』殺人事件/北山猛邦

2005年発表 講談社ノベルス(講談社)/講談社文庫 き53-4(講談社)

(2009.03.15)
 文庫化の際に加えられた修正を受けて、若干改稿しました。


 事件の発端である道桐久一郎の死は、『ギロチン城』という名前そのままの豪快なトリックで、(いい意味で)唖然とさせられます。作中で登場人物が謎を解明するのではなく、ローザ殺害という形でいきなり真相が提示されているのも、演出効果を考えれば正解でしょう。

 ノベルス87頁/文庫131頁に掲載された「『ギロチン城』 2F」の見取図に描かれ、さらにノベルス126頁・205頁・212頁・213頁/文庫192頁・295頁・315頁・325頁~326頁の簡略化された図でもしつこく(?)描かれている、左上の“北の塔”と右下の“南の塔”をつなぐ斜めの線という、それなりのヒントを得ることができる読者とは違って、そもそも作中の図面を見ることのない登場人物(特に頼科とナコ)にとっては、謎を解くのはかなり難しいのではないでしょうか。

 図面の“斜めの線”に対応する作中での説明――頼科とナコが入手できる手がかり――は、“回廊の内側は、コレクションルームのフロアで占められていて、ここも全体が斜めに分断されている(ノベルス87頁/文庫131頁)という“藍”の台詞くらいしかありません。そして、読者のように図面上の“直線”として見ることができるわけではなく、外観はあくまでも“壁”なのですから、それを凶器と見抜くにはあまりに巨大すぎるでしょう。

 他に手がかりとなり得そうなのは、サロンの天井の中央付近に残る“どす黒い不気味な染み”(ノベルス69頁/文庫103頁)でしょうか。その直前に披露されているナコの解説によれば、首を切られた際の出血が天井の高さまで届くとは考えにくい*1ので、天井に何らかの仕掛けがあると見抜くことができる可能性もあるでしょう。ただし、ここでは“血痕”とはっきり書かれているわけではありませんし、ナコにしても頼科にしてもそれを血痕だと確信しているわけでもなさそうなので、何ともいえないところです。

 むしろ、凶器の特殊な形状――普段は“壁”なのですからある程度の厚みがあると思われますし、なおかつ“目の前の巨大すぎるギロチンは、刃が完全な水平だった。”(ノベルス219頁/文庫335頁~336頁)とされています――を考えると、首の切断創が通常の刃物によるものとは大きく異なっている可能性が高いのですから、それを見逃した警察の無能さこそ責められるべきかもしれません。

*1: ナコの解説は少々わかりにくいですが、“血液が二メートル以上の噴水となって飛び散るそうだ。(中略)垂直方向に噴き出した場合、重力によって多少飛距離は縮むと考えられる。”(ノベルス69頁/文庫103頁)ということですから、立ったままの姿勢で首を切られた場合であっても、仕掛けられたギロチンの刃が見て取れないほど高い天井までは、とても届かないでしょう。

* * *

 一方、二階の回廊での殺人については、現場である回廊に入った四人全員が死亡して犯人が不在という、なかなか面白い不可能状況が演出されています。そしてそのために使われた、三つの部屋と三つの胴体を使い回すことで四つの部屋と四つの死体に見せかけるというトリックも、まずまずの出来だといっていいでしょう。とりわけ、死体の首を切ってすげ替えた理由は非常に秀逸ですし、二の頭部が置かれた部屋において発見者の目を引きつけるための工夫――死体と燭台の配置と血文字の書かれた絵画――も見事です。

 また、「首狩り人形」とともにプロローグ的に配置された「スクウェア」が、ミスディレクションとして機能しているところも見逃せません。現場である回廊と四人の被害者、そしてどこからともなく現れて消えた五人目――犯人――が“スクウェア”を連想させるのは確かですが、“スクウェア”というネーミングにとらわれている限り、真相は見えません。このあたりのネタの使い方が、非常に面白く感じられます。

 ただし、フェアプレイという点では少々気になるところがあります。ノベルス192頁/文庫295頁の図をみれば(具体的なメカニズムはさておき)回転移動を利用したトリックであることが一目瞭然なので、回廊の正確な構造がぎりぎりまで伏せられていたのも理解できなくはありませんが、廊下が曲がっていることを示唆するのが“歩いていると、頼科は何故だか眩暈を感じた。”(ノベルス109頁/文庫164頁)という文章くらいしかない上に、ノベルス87頁/文庫131頁及びノベルス126頁/文庫192頁では直線状の廊下が描かれたかのような*2が示されているのが、いただけないところです。

 また、ノベルス213頁/文庫326頁の「トリック解説図2」でDA間まで移動した犯人が、頼科たちがCの部屋からDの部屋を経てDA間の可動式廊下までやってくる間に、どうやってDの部屋へ移動したのか(「トリック解説図3」参照)がまったく説明されていないところも気になります。

 回廊での移動は原則的に左回りのみなので、DA間の廊下の側から扉を開いてDの部屋へ入ることはできないでしょうし、頼科たちがDの部屋から出る時にすれ違うことも難しいでしょうから、Aの部屋→Bの部屋→Cの部屋→Dの部屋と一周していったのだと考えられますが、早すぎるとDの部屋あたりで頼科たちに追いついてしまうおそれがある一方で、遅すぎると先に頼科たちがAの部屋に入ってしまってトリックが成立しなくなります。

 そもそも、扉が一度に一つしか開かないという構造から、頼科たちがどこにいるのかを把握し難く、タイミングよく可動式廊下を作動させること自体がかなり難しいのではないでしょうか。

 もう一つ、頼科たちはその後、知らぬ間にDA間からAの部屋、Bの部屋、Cの部屋を経てCD間まで移動させられたことになっています。が、いくら『首狩り人形』に気を取られていても、ほとんど暗闇に近い中に浮かぶ各部屋の燭台の明かりに気づかないというのは考えられないでしょう。

 もちろんBの部屋の燭台は消してあった(したがって「トリック解説図1」は問題ありません)としても、「トリック解説図3」をみると、Aの部屋の燭台は可動式廊下の通過する近くに置かれていますし、Cの部屋に入る時点では可動式廊下に乗った一同の前方(正面方向)に燭台が位置することになるので、その光が目に入ってしまうのではないでしょうか。

 「トリック解説図2」「トリック解説図3」の間に犯人が回廊を一周してAの部屋とCの部屋の燭台の火を消し、頼科たちが可動式廊下で一周している間にAの部屋へ移動して燭台に火をつければいいのかもしれませんが……。

*2: ノベルス192頁/文庫295頁の図と併せて考えると、外部から見て直線状である廊下部分の、内側に位置する曲がった壁(ノベルス192頁/文庫295頁の図で灰色に塗られている部分)が省略されているのであって、必ずしも“直線状の廊下が描かれている”とはいえないかもしれませんが、ノベルス87頁/文庫131頁及びノベルス126頁/文庫192頁の図だけをみればそのように解釈するのが普通であり、“曲がった廊下”という真相に思い至るのは困難でしょう。

* * *

 このように、“物理の北山”という異名の通り、本書には豪快な物理トリックが盛り込まれているのですが、しかし最大のポイントが首から上が藍首から下が悠(ノベルス228頁/文庫350頁)という、何とも異様な犯人の正体であることは間違いないでしょう。

 一人の人間に二つの名前が与えられているとはいえ、一般的な“一人二役”とは違って、『首狩り人形』に取りつかれた道桐久一郎の思想の到達点としての“人間の人形化”、さらにそれを実践する第一歩である“人間のパーツ化(いずれもノベルス228頁/文庫350頁)という発想に基づくものであり、道桐久一郎(=『世界』)の支配する『ギロチン城』という舞台にふさわしいといえるのではないでしょうか。

 しかも、“首から上”と“首から下”の分離が、単なる観念(概念)的なものにとどまるのではなく、認証システム上で別個のアイデンティティが与えられる(ノベルス177頁/文庫272頁参照)ことで、『ギロチン城』の内部において現実的な意味を持っているところが非常によくできています。裏を返せば、“藍”≠“悠”が成立し得るのは『ギロチン城』の内部のみであり、後述する犯人のトリックはこの特殊な舞台ならではのものといえます。

* * *

 本書には、この“首から上が藍、首から下が悠”という真相を隠蔽してそれぞれ別個の人間だとミスリードする、ユニークなトリックが仕掛けられています。読者に対して使われているのは叙述トリックなのですが、本書では作中の登場人物である頼科(及びナコ)もまた読者と同様にミスリードされており、叙述トリックと作中のトリックが複合した特殊なものになっています。

* *

 一見すると、本書の地の文は頼科の視点からの描写であり、頼科が認識した“事実”が記されているようにも思えますが、実際にはそうではありません。本書では三人称一元描写が採用されており、地の文は“客観視点からの描写+頼科の内面描写”になっています。つまり、地の文のうち頼科の内面描写を除いた部分には、一貫して(作中での)客観的な事実が記されているのです。

 そのような、客観視点からの描写に基づく地の文において、“藍/悠”の呼称は次のルールに従って記述されています。
  • 首から上の描写には“藍”を、首から下の描写には“悠”を使用する(以下、「ルール1」という)。
  • 代名詞は単数の“彼女”を使用する(以下、「ルール2」という)。
 まず「ルール1」は、“首から上が藍、首から下が悠”という事実に基づくものです。典型的な例としては、真相が明らかにされた後の、以下の文章が挙げられます。
 悠がゆっくりと藍に眼鏡をかける。
  (ノベルス229頁/文庫352頁)
 奇怪な文章ではありますが、“眼鏡をかける”という動作の主体は首から下の部分なので“悠”と、また“眼鏡をかける”という動作の対象(眼鏡をかけられる対象)は首から上の部分なので“藍”と、事実をそのままに記したものです。

 一方の「ルール2」は、“藍”と“悠”という二つの存在が一体になっているのではなく*3、一人の人間に“与えられた名前は二つに分かれていた(ノベルス228頁/文庫350頁)、すなわち分かれているのはあくまでも名前の方であって個体としては一人という、これも事実(あるいは“設定”というべきかもしれませんが)に基づくものです。一例として、以下の部分を挙げておきます。
 藍の表情が固まる。彼女は、突然現れた『雪』のことを凝視していた。そして何を思ったのか、突然扉を閉めようとする。
  (ノベルス226頁/文庫346頁)
 最初の一文では“藍”という固有名詞が記されており、次の一文の“彼女”も同じ人物を指していると考えられます。それを“そして”で受けている最後の一文も、“彼女は”という主語が省略されたものと考えるべきでしょう。ところが、首から上の部分である“藍”が“扉を閉めようとする”ことはできないのですから、“彼女”が“藍”(だけ)を指しているはずはありません*4。つまり、“凝視していた”“扉を閉めようとする”の両方の主体となり得る“彼女”は、“藍/悠”という一人の人間を指しているのです。

 地の文に記されているのが頼科の認識ではなく客観的な事実であることに気づかない読者は、自身と頼科が認識を共有していると思い込まされることになりますが、実際には上記のルールに従って地の文に記されている客観的な事実は、必ずしも頼科の認識と一致するわけではありません。真相が明らかになる以前の“藍/悠”が登場する場面において、頼科と(一般的な)読者の認識を一覧表にしてみると、以下のようになります。

[表1:頼科と読者の認識]
   頼科    読者    真相  
〈場面1〉
ノベルス71頁~73頁
文庫106頁~109頁
“藍”と“悠”
(二人)
“藍”と“悠”
(二人)
 “藍/悠” 
(一人)
〈場面2〉
ノベルス84頁~100頁
文庫126頁~151頁
“藍”
(一人)
“藍”と“悠”
(二人)
〈場面3〉
ノベルス101頁
文庫152頁~153頁
“藍”と“悠”
(二人)
“藍”と“悠”
(二人)
〈場面4〉
ノベルス153頁~161頁
文庫234頁~246頁
“藍”
(一人)
“藍”
(一人)
〈場面5〉
ノベルス169頁~170頁
文庫260頁
“藍”
(一人)
“悠”
(一人)

 このような、頼科と読者の認識のずれが、本書において“藍/悠”に関する真相を隠蔽するのに大きく貢献しているところを見逃すべきではないでしょう。

*3: もっとも、藍自身の認識はこちらのようですが。
*4: 最後の一文を、主語を省略せずに固有名詞を使って記述すれば、“そして藍は何を思ったのか、悠は突然扉を閉めようとする。”となるでしょう。

* *

 以下、これらの場面を引用しながら、本書に仕掛けられたトリックについて詳しく検討してみます。

〈場面1〉
 ごく小さなランプの明かりの中に、ぼんやりと見える、生きた人形……どこか人工的な輝きの映える黒髪の、微かな揺らめき。
「探偵さん方ね。ごきげんよう。いずれ出会うと思っていたわ」
「あなたは……」
 頼科が尋ねる。
「藍です」
『王』だ。
 藍の瞳が、澄んだ湖面のように、そこにある。
(中略)
「悠さんもいますか?」
【「ここにいるわ」
 藍が応えて、暗闇の中にある手を横目に見る。】

 暗闇の中で、悠が小さく手を上げ【て、本の山から一冊を抜き出そうとしていた】。細く、硬そうな印象の手だ。彼女は黒い長袖のブラウスを着ているせいか、ほとんど闇にその姿が溶け込んでいる。【もう片方の】手元に【は】折り畳まれた眼鏡があった。
『看守』というくらいだから、囚われの『王』を見張っているのだろうか、と頼科は思った。(後略)
(中略)
 悠は頼科たちの方は向かず、手元の本をとてつもない速度で繰っていた。
 ナコは先ほどから、目を細めて暗闇の中を見つめている。闇の中にいるはずのない何者かを探すように。
(中略)
私にも名前は、一応あるわ【名前、か】
 悠がふと、本をめくる指を止めた。手元の眼鏡の縁をなぞるように、そっと指を動かしている。
 部屋が静寂に変わる。
「名前に意味があるのならね【かしら】
 藍は憂鬱そうな表情で云った。
(中略)
「閉じ込められる?」
 悠が身体を起こして、眼鏡をブラウスのポケットに入れる。
「あなた方はどうなの? 外にいて、つらくないの?」
 そう問われて、頼科は何も答えられなかった。
  (ノベルス71頁~73頁/文庫106頁~109頁;
 取消線は文庫化の際に削除、【】内は追加; 改行の変更は省略)

 まず、“藍”と“悠”の初登場の場面です。ここでは、頼科(及びナコ)も読者もともに“藍”と“悠”の二人がその場にいると認識することになります。つまり、読者も頼科も人数を誤認することになるのですが、読者が地の文に記された“藍”“悠”という二つの名前による叙述トリックで騙されるのに対して、頼科は主に視覚的な錯覚によって誤認しています。

 まず、“彼女は黒い長袖のブラウスを着ているせいか、ほとんど闇にその姿が溶け込んでいる。”という記述から、“藍/悠”の姿はブラウスから露出する“首から上”と“手”以外はほとんど見えていない状態だといえます。しかも、“悠は頼科たちの方は向かず”という記述をみると、“藍/悠”は体を(頼科たちから見て)向こう側に向けたまま、顔だけ頼科たちの方へ向けるという姿勢をとっていることがわかります。そのような状況の下、頼科たちは、“藍”と名乗った“首から上”と、“悠さんもいますか?”という問いに応えた“手”とを、それぞれ別人のものだと解釈したと考えられます。

 これだけでは少々微妙な感じもしますが、文庫版では“悠さんもいますか?”という問いに対する“藍”の返事と視線によるミスリードが追加され、より錯覚を生じやすい状況となっています。

*
〈場面2〉
(前略)藍に呼び止められた。
「頼科さん」
 藍が世にも美しい笑顔を頼科に向けている。(後略)
『王』と『看守』。
 悠はソファに座っていた。(後略)
(中略)
「たとえよ。気にしないで。さあ、行きましょう」
「あの、悠さんは?」
「悠も行く」
 悠は手にしていたコーヒーカップを、投げやりな様子で硝子テーブルの上に置いた。(中略)彼女が立ち上がると、その裾と、スカートが大きく揺れた。
「待たなくていいんですか、藍さん」
「いいから。ところで二階にはもう行ったかしら?」
(中略)
「ところで、藍さんと悠さんは双子ではありませんよね?」
「違うわ。どうしてそう思う?」
「いえ、単に名前からそうなのかと思って。数字ではない名前がついているのは、藍さんと悠さんだけですし」
「安直ね」
 悠は大股で廊下をどんどん先に行ってしまう。
「見分けがつかないということはないと思うわ」
 藍が云った。
 悠がふと足を止めた。その拍子に、彼女と頼科の肩がぶつかった。すると悠は、飛び上がって大袈裟なほど、頼科から離れた。
「すみません、大丈夫ですか」
「ええ」悠は胸に手を当てる。「お兄様以外の男性に慣れてないから」
  (ノベルス84頁~85頁/文庫126頁~129頁)

 ここには、頼科と読者の認識のずれを利用した、非常に面白いトリックが仕掛けられています。

 作中の人物である頼科は、当然ながら、目の前にいるのが“藍”と名乗った人物一人であることを“知って”います。一方の読者は、地の文の記述から、“藍”と“悠”がその場にいることを“知って”います。つまり、頼科も読者も〈“藍”と“悠”/一人の人間〉という事実の一部だけをそれぞれ与えられ、欠落した部分を先入観によって個別に補うことで異なる誤認が生じているのです(下の表を参照)。

[表2:〈場面2〉のトリック]
真相
“藍”と“悠”一人の人間
[先入観]
一人に一つずつの名前


[先入観]
“藍”と名乗った人物(“悠”ではない)
“藍”と“悠”
二人
“藍”
(一人)
 読者  頼科 

 トリックによって生じる現象をみると、頼科にとっては“藍”と“悠”を〈“藍”という一人の人間〉だと思わされる二人一役トリックであり、読者にとっては一人の人間(“藍/悠”)を〈“藍”と“悠”という二人の人間〉だと思わされる一人二役トリックである、ともいえるでしょう。これは要するに、人数に関して事実を読者にのみ伏せた叙述トリックであると同時に、名前に関して事実を読者にのみ明かした“逆叙述トリック”になっているのです。逆叙述トリックが仕掛けられた作品は本書以前にもありますが、本書のように叙述トリックと逆叙述トリックがいわば二重になったトリックは例がないのではないでしょうか。

 この逆叙述トリックを支えているのが、一見すると頼科が認識した“事実”が記されているかのように思える叙述スタイルで、頼科の認識が読者自身のそれと同じであるかのように読者をミスリードすることによって、名前に関する事実を知らされているのが読者だけだということに気づかせない、という手法です。それほど難しくはないように思われる向きもあるかもしれませんが、少なくとも本書の場合には、頼科と読者にそれぞれ与えられる事実が大きく異なっているため、上に引用した部分でも、特に真相を踏まえてみると、以下のように若干の綻びが見受けられます。

「悠も行く」

 頼科の「あの、悠さんは?」という質問に対する“藍”の返答ですが、この後も地の文で“悠”の存在を読者に印象づけたい作者の都合は理解できるものの、このあたりの記述を苦しくしている最大の原因である上に、“藍”自身にとっては何らメリットがない(むしろデメリットがあるといえるかもしれません)という、少々問題のある発言です。

・読者にとっては、その場にいる“悠”自身の返答だと解釈できるので、問題ありません。
・頼科にとっては、その場にいない“悠”のことを尋ねた質問に対して、いささか不自然な返答となります。
・“藍”としては、事実をそのまま答えたにすぎないのですが、そもそも“藍”だけで行くことはできないことを考えれば、やや微妙な返答です。加えて、先の質問で頼科の誤認に気づくはずなので、頼科をそのまま騙すつもりであれば無用(ここで“いいから”とはぐらかせば十分)、逆に騙すつもりがなければ説明不足――という具合に、中途半端な反応といわざるを得ません。

「待たなくていいんですか、藍さん」

 上の「悠も行く」という“藍”の返事を受けて、頼科が“藍”にかけた言葉ですが、こちらは逆に読者にとっておかしなことになります。

・頼科としては、“藍”の返事を“悠も(合流して一緒に)行く”と解釈するのが妥当なので、すぐにコーヒーカップを置いて立ち上がった“藍”にかける言葉としては自然です。
・読者にとっては、“悠”がすぐにコーヒーカップを置いて立ち上がったことがわかっているのですから、注意深く読めばかなりおかしな発言だと思われます。
・“藍”は“いいから”と答えていますが、ここだけ見ればいいとしても、先の「悠も行く」とう言葉と整合しない感があります。

「見分けがつかないということはないと思うわ」

 「ところで、藍さんと悠さんは双子ではありませんよね?」という頼科の質問に対して“違うわ”と答えた後の、“藍”の言葉です。

・“藍”としては、“藍”と“悠”の見分けがつくと主張することで、頼科が目にしているの人間が“藍”であって“悠”ではない、と頼科を誤認させることができます。が、本来好きなように嘘をつくことができる立場の“藍”としては、不必要にフェアな発言であるようにも思われます。
・頼科にとっては、“名前”の話をしていたのに“外見”のことを説明されるのは少々かみ合っていないかもしれませんが、“双子”からの流れがあるので不自然ではないでしょう。
・読者にとっては、“悠”もその場にいることになっているのですから、“外見”については言わずもがなであり、若干の違和感を禁じ得ないところではあります。

 とはいえ、これらの部分もさらっと読めばさほど不自然さが目立つものではなく、なかなかうまく処理されているというべきではないでしょうか。

*
『王』と『看守』と『斧』が階段を上る。頼科は、後から彼女たちについていく。(後略)
(ノベルス86頁/文庫130頁)

 頼科の認識では“藍”と二の二人が階段を上っていることになるのですが、固有名詞に対応している役職名では『王』と『看守』が区別されるので、“『王』と『看守』と『斧』が階段を上る”というのも事実です。ここで重要なのが『斧』こと二の存在で、前述の「ルール2」を遵守する限り、二が合流していなければこの部分は“『王』と『看守』が階段を上る。頼科は、後から彼女についていく。”とせざるを得ないところ、“藍/悠”と二の二人“彼女たち”と表現することで、巧妙に不自然さが回避されています。

*
「悠お姉様、明かりはありますの?」
「ない」
(ノベルス88頁/文庫132頁)

 後に“藍”が“あなたたちの目の前で、何度か妹が私を悠と呼んだわ。それでも、あなたは呼び間違い程度にしか思わなかったようね。”(ノベルス230頁/文庫353頁)と指摘しているうちの一つです。しかしもちろん、“悠”がその場にいると認識している読者にとっては、何ら違和感のない台詞です。

*
「人間と人形の違いって、何かしら」
 藍が誰ともなしに尋ねる。
「人形は死ぬのが怖くないのではなくて?」二が云った。「死との距離があらゆる人間を人間たらしめる。そうでしょう? 悠お姉様」
 悠は二に背中を向け、静かに『首狩り人形』の部屋の扉を閉じた。
(ノベルス100頁/文庫151頁)

 これも頼科にとっての“呼び間違い”の一つ。“藍”の問いかけに対して答えたはずの二の言葉が、最後には“悠”に向けられていますが、二が“藍”への答に関して“悠”に同意を求めたと解釈することができるので、読者にとっては自然な状況だといえるでしょう。

* *
〈場面3〉
 二と悠が連れ立って食堂に入っていった。二が「悠お姉様悠お姉様」と楽しそうに声を上げているのが聞こえてくる。二は悠のことを相当慕っている様子だ。
 頼科とナコは彼女たちの後から食堂に入った。
 大きな木製の食卓が二つほどある。壁の仕切りの向こうにも、食卓が一つ置かれているが、それは二と悠に先に占領されているようだった。壁の仕切りのせいで、頼科からは、二人の姿が見えない。
(中略)
「もう一人の探偵さんも起きたのね。おはよう」藍がいつの間にか五の横に顔を覗かせていた。「三と四がいないのね。昨夜、夜更かししたみたいね」
 藍は周囲を見回して云う。(後略)
(ノベルス101頁/文庫152頁~153頁)

 ここでは、読者はやはり地の文の記述により“藍”と“悠”の二人がこの場にいると認識することになります。一方の頼科(及びナコ)は、二の“悠お姉様悠お姉様”という声だけ聞こえて直接姿が見えない前半部分において、まず“悠”が食堂に来ていることを知ります。そして後半部分で“藍”に話しかけられることで、“藍”と“悠”の二人の存在を認識しているのです。つまり、〈場面1〉とはまた違った形で(頼科にとっての)“一人二役”が成立しているといえます。

 この場面は、他に比べてあまり目立たないようにも思えますが、二階の回廊での事件が起きた後、次に引用する頼科とナコの推理の中で大きな意味を持ってきます。

「ライカ、朝食の時をよく思い出せ。食堂にいたのは誰だ?」
「みんないた……いや、三と四、あとは『死』がいなかった」
「そうだ。その三人を除いた全員がいた。(後略)
(ノベルス126頁~127頁/文庫193頁)

 “藍”と“悠”に関する真相を知っている『ギロチン城』の住人にとっては三・四・『死』を除いた全員が食堂にいたことは自明ですが、“藍”と“悠”を別個の人間だと考えている頼科とナコ(及び読者)にとっても、上の〈場面3〉のトリックがあることで、事前に回廊に忍び込んだ人物がいなかったという不可能状況が成立しているのです。

* *
〈場面4〉
 再び書斎を覗いてみると、意外な人物がそこにいた。彼女は机にうつ伏せるようにして、憂鬱そうな顔で鼻歌を歌っていた。それは哀しげな歌だった。
「藍さん」
 頼科は書斎の戸口に立ったまま呼びかけた。
「やあ、探偵さん」藍は頭を頼科に向けた。(後略)
(ノベルス153頁/文庫234頁)

 ここでは、頼科と読者が同じような事実を与えられた結果、同じ誤認――その場にいるのは“藍”だけで、“悠”はそこにいない――が生じています。頼科にとっては目にしたまま、“藍”と名乗った人物が一人でそこにいるわけですし、ここから始まる会話の中で“藍”が“悠は部屋で休んでいるはずよ”(ノベルス154頁/文庫235頁)と嘘をついていることで、“藍”にミスリードされていることはいうまでもないでしょう。

 そしてこの“藍”の嘘もさることながら、地の文に“藍”の名前だけが記され“悠”の名前が一切登場しないことで、読者も“悠”がそこにいないとミスリードされます。ところが、地の文には“藍/悠”の首から上に関する描写しかないというわけではありません。引用部分の冒頭からもわかるように、ここでは前述の「ルール2」が効果的に使われているのです。

 まず最初の一文で“意外な人物”という語句が、さらに次の一文で「ルール2」に基づいて“彼女”という単数の代名詞が使われることで、そこに一人しかいないという事実が地の文で保証され*5、“悠”がそこにいないという誤認が補強されるのは間違いないでしょう。しかも、“机にうつ伏せる”という(主に)首から下の描写と、“憂鬱そうな顔で鼻歌を歌って”という首から上の描写とが、一人の“彼女”に結びつけられることで、首から上と下の名前の分離という真相が、より強力に隠蔽されているのが秀逸です。

*5: 地の文を頼科が認識した“事実”だととらえていても、頼科の目の前に一人しかいないことは保証されるといっていいでしょう。

* *
〈場面5〉
 そこに立っていたのは悠だった。彼女は頼科を待ち構えていたかのように、廊下の真ん中に立ちはだかっていた。
「私を追ってきた?」
(中略)
 悠はわざとらしく肩を竦めて、廊下の奥へと歩いていってしまった。
(ノベルス169頁~170頁/文庫260頁)

 そこにいるのが“藍”一人だと頼科が認識するのは〈場面2〉〈場面4〉と同様です。しかし、先の〈場面4〉とは逆に地の文には“悠”の名前だけが記され“藍”の名前が一切登場しない上に、“彼女”という単数の代名詞が使用されることで、読者はそこにいるのが“悠”だけで“藍”はいないとミスリードされることになります。

 この場面に仕掛けられたトリックは、〈場面2〉と同様に頼科と読者の認識のずれを利用したものですが、そちらが([表1][表2]からもわかるように)主に人数に関する認識のずれであったのに対して、ここでは人数ではなく名前に関する認識のずれが生じているのです。

 ちなみに、〈場面4〉“そこにいた”(ノベルス153頁/文庫234頁)が“存在”を意味する――首から上と首から下に分けることができない――ために固有名詞を表記することができなかったのに対して、この場面の冒頭の“そこに立っていた”は(“悠はソファに座っていた”(ノベルス84頁/文庫127頁)と同様に)“首から下の状態”を指すと解釈できるので、地の文で“悠”と表記しても虚偽ではありません。

 またこの場面では、“悠”が頼科と会話していると読者が誤認させられるところも見逃せません。〈場面1〉〈場面2〉にも、“藍”の言葉だと明示しないことで、“悠”が発言しているとの誤認を誘う箇所はありますが、地の文に“藍”が登場しない、すなわち読者にとっては“藍”が存在しないこの場面では、ミスリードはより強力なものになります。そして、(〈場面4〉の“藍”と同様に)“悠”が独立した一人の人間であるという思い込みを強く頭に植え付けられてしまうのです。

 なお、この場面は次に引用する場面と併せて考えると、真相につながる最大の手がかりとなり得ます。

(前略)姿を見せていないといえば、悠さんもそうだけど」
「悠さん【姉様】も?」
「私はずっと姿を見ていない」
(ノベルス175頁/文庫268頁)

 これは頼科と『雪』の会話ですが、読者の認識では、直前に“悠”と会って会話をしたはずの頼科が、“悠”の“姿を見ていない”と発言しているわけですから、明らかに何かが間違っている*6ことがわかります。

 頼科が意図的に嘘をついているのではなく、また地の文にも誤りがないとすれば、地の文にはっきり“悠”と書かれていた人物を頼科は“悠”だと認識しなかったのですから、少なくとも地の文には頼科の認識した“事実”が記されているわけではないということになります。そして、〈場面2〉“待たなくていいんですか、藍さん”(ノベルス85頁/文庫128頁)という不自然な台詞や、地の文に一度も“藍と悠”とは一度も書かれていないことを考えると、“首から上”と“首から下”という途方もない真相には思い至らないまでも、〈“藍”と“悠”が同一人物である〉という“真相”を見抜くことは、不可能ではないかもしれません。

*6: 私の場合には、単純に作者のミス、すなわちノベルス169頁~170頁/文庫260頁の“悠”が“藍”の誤記なのだと解釈してしまいました(恥ずかしながら、真相が明かされてからもしばらくの間は)。

* *

 以上のように、“藍/悠”が登場する場面では周到に真相が隠蔽されています。それによって、“藍”と“悠”が別個の人間だと誤認させられた頼科とナコ(さらに読者)に対して、次に引用する場面に表れている犯人のトリックが見事に成立しています。

「ごく簡単な消去法だ。回廊の扉により、静脈パターンの認証がない人物は除外。目撃者であるメイド二人、部外者の僕らは除外。一は事件前のアリバイがあるので除外。ローザは事件直後、玄関に顔を見せているので除外。もう残るは悠だけなんだ」
(ノベルス218頁/文庫333頁)

 これは“真犯人”を指摘するナコの台詞ですが、ここで巧妙なのが“静脈パターンの認証がない人物は除外”と一まとめに片付けられているところで、その場にいるローザと『雪』――“藍”が除外されないことを知っている『ギロチン城』の住人――にとっても、違和感のない推理になっています。しかしその実、頼科とナコ(及び読者)は“藍”を除外して考えているわけで、“藍”とは別人である“悠”に罪をかぶせたい犯人の思惑通りとなっているのです。

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 真相が露見した後の、“私の首を切り落として”(ノベルス232頁/文庫356頁)という藍の台詞は、“藍”と“悠”の正体を考えれば必然というべきものであるとともに、あまりにも『ギロチン城』という舞台にふさわしいものです。『ギロチン城』という“世界”を作り上げ、自らの意思で(“藍/悠”に頼んで)自らの首を切り落として死んだ道桐久一郎は、やはりこのような結末――“藍/悠”が『首狩り人形』と化した末に、自ら首を切られることを望む――を見越して彼女に二つの名前を与えたのでしょうか。

2007.12.11読了