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堕天使拷問刑/飛鳥部勝則

2008年発表 ハヤカワ・ミステリワールド(早川書房)

 崩壊直前の美術館では、土岐不二男が事件をホラーとして読み解いた推理を披露し、その中では天使と悪魔による“第二次創世記戦争”という構図、さらに悪魔=堕天使である大門玲・鳥新康子・憂羅充が天使レミエルである江留美麗によって殺される“堕天使拷問刑”というユニークな“真相”が示されています。特に、玲・康子・充を悪魔にこじつける推理はなかなか面白いと思います。

 そして、その推理を受けた“君は“門番”で、そして死者の魂を管理しているのか”(401頁~402頁)という如月タクマの言葉を、美術館に現れた江留美麗が肯定するという、“第二次創世記戦争”のクライマックスが印象的です。“姥捨て”という町の秘密そのものには意外性はありませんが*1“君は“門番”で、そして死者の魂を管理しているのか”という問いに二重の意味を持たせるために用意された設定だと考えれば、やはりよくできているというべきではないかと思います。

 (ミステリとしては当然ながら)不二男の推理は誤っていたわけですが、その誤りが204頁~205頁で亜久が説明している(そして作者お得意の)図像解釈になぞらえられているのが面白いところです。

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 大門大造の怪死についてのタクマの推理は、霞流一を思わせる強烈なバカトリックですが、庭に置かれた漁船という無茶な小道具がうまく使われているところがよくできています。しかし、“網を巻き上げるモーターは、まだ生きてるということでしたよ”(10頁)という伏線が、“あの船のモーターは壊れていた”(424頁)とあっさり否定されてしまうところに絶句。もちろん、(後に亜久直人が指摘しているように)死体に網目が残っていなかったという証拠もあるにはあるのですが、いかに捨てトリックとはいえ大胆な捨てっぷりに脱帽です。

 そして明かされる、大蛇が“犯人”という真相にはこれまた絶句。通常のミステリでは考えられない真相ですが、“犯人”が実際に登場して大暴れしてしまっている(苦笑)だけに、納得せざるを得ないところでしょう。ちなみに、事件当時に“スリムだった”(436頁)か否かにかかわらず、壁を登って“壁の上部”(71頁)にある通風孔からの出入りが可能だったとは考えられないのですが、その点も含めてかの有名な古典*2へのオマージュということなのではないでしょうか。

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 玲殺害事件では、雨合羽による汗という伏線もよくできていると思いますが、やはり強烈なのは犯人の意図しないところで生じたアリバイであり、それを支えた間秀の変態行為でしょう。普通の死体というだけでも相当にアレですが、首無し死体を相手にするというのはあまりにも常軌を逸しているため、可能性を想定することさえできないのも当然といえるでしょう。一つ気になるのは、犯人・根津京香が犯行の直前に吸った煙草の臭いですが、これはその後にかいた汗の臭いにまぎれてしまったのかもしれません。

 充殺害と康子殺害は、まずデートの最中の犯行というのが何ともいえません。特に康子殺害については、二人きりでいるタクマの目の前での犯行という大胆な神経に、思わず唖然とさせられます。康子が薬で眠らされていたとはいえ、その絶命の気配にさえタクマが気づかなかったのは、それだけ目の前の京香に気を取られていたということでしょうか。ただ、絞殺される際に康子が失禁する可能性が高いことを考えると、実際には犯行に気づかれてしまうことになるでしょう。

 数年前の斬首事件については、そうそううまくいくとは思えないトリックではありますが、絶対に無理ともいえないところで、九歳の子供によるいたずら感覚の犯罪であることを考えれば妥当なところでしょうか。ちなみに、「taipeimonochrome ミステリっぽい本とプログレっぽい音樂 » 堕天使拷問刑 / 飛鳥部 勝則」“三人女の首切り死体には(文字反転)悪魔で666だから成る程ねエ、……と七十年代にホラー映画へドップリと浸かっていたマニアはニヤニヤしてしまうようなネタ”というヒントをもとに調べてみたところ、映画「オーメン」の一場面を元ネタとしたトリックのようです。

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 本書は、如月タクマの手による本編(「プロローグ」・「第一部」・「第二部」・「第三部」・「エピローグ」)と、“A先生”の視点によるメタレベルの「間章A」・「間章B」・「終章」という現在のパートが組み合わされています。さすがに“A先生=飛鳥部勝則”と短絡的には考えにくいものがあるのですが*3、“A先生”と美麗のキャラクターがあまりに違いすぎて、「終章」で明かされる真相には驚かされました。

 そもそも、一人称で書かれていながら再会が淡々としすぎている感はあるのですが、これについては“その時の私の複雑な感情を言葉にすることは難しい。/できるだけ冷静かつ客観的に、その後のいきさつを叙述してみよう。”(169頁)と、いわば“信頼できない語り手”であることを自ら宣言しているようにも受け取れます。その一方で、“私はまだ、青年の名前を確かめていない。”(172頁)という表現には、“A先生”が目の前にいる人物(如月タクマ)を知っていることが表れているともいえるでしょう。

 いずれにしても、物語の意味をまったく変えてしまう秀逸な趣向だと思いますし、“美麗はなぜ携帯電話の電源を切っていたのか”という謎の解答で幕を引くあたりも実に見事です。

*1: 大門松が姿を消した時点で、“姥捨て”という風習は見え見えでしょう。
*2: もちろん(以下伏せ字)アーサー・コナン・ドイル「まだらの紐」(ここまで)のことです。
*3: わかる人には理由もわかると思いますが、ここでは伏せておきます。

2008.05.02読了