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寅申の刻/R.ファン・ヒューリック

Judge Dee at Work/R.van Gulik

1965年発表 和爾桃子訳 ハヤカワ・ミステリ1844(早川書房)
「通臂猿の朝」
 密貿易の品目(31頁)はあからさまに薬屋を示唆していますし、元薬屋だった段{トウアン}“金がいりようになると、時たま同業の仲間んとこへ行ってた”(73頁)ことからも、薬屋の王{ワン}が容疑者として浮かび上がります。さらに、冷{ロン}の息子が目撃した死体を運ぶ男の風体が、僧九{センジウ}もさることながら王の息子にも合致すること、そして段の指四本をすっぱりと切り落とした凶器にぴったりの薬屋の刻み刃(35頁)とくれば、ほとんど犯人は見え見えだと思えます。
 しかし、最後に明らかにされる“なぜ事件が起きたか”という真相こそが、この作品の最大の見どころであることは間違いないでしょう。心ならずも密貿易に手を染める羽目になった王が、段に救われることになったまさにその時に起きた悲痛な事故には言葉もありませんし、精神を病んだ息子*1を懸命にかばおうとする王の姿にも胸を打たれます。そしてまた、全編を通じて陶侃の推理がクローズアップされることで、狄判事が見抜いた段の人物像がより強く印象づけられているのも見事です。
 そして結末で、“事件に対してくれぐれも私情をはさんではいかん。”と陶侃を諭しつつも、“自分で守れたためしがただの一度もない”(91頁)と言い切ってしまう狄判事は、やはり実に魅力的です。

「飛虎の夜」
 黄金が飛虎に渡っていれば、もはや飛虎が閔{ミン}の屋敷に攻め込んでくる理由はないわけですから、“下女の紫苑が黄金を盗んで飛虎のもとへ逃げた”という推測が誤りであることは明らか。そして狄判事が誘友{ギイユウ}“幽霊”を目撃したことを考えれば、棺の中身が誘女ではなく紫苑の死体であることまでは予想できるでしょう。
 その紫苑殺しについては、飾り帯の結び目という手がかりが秀逸。狄判事をもってしても“元通りに帯を結ぼうとしたがうまくいかない。”(148頁)と、凝った結び方であることがさりげなく強調されているのも巧妙です。
 盗まれた黄金の行方が結局わからないままというのは、ミステリとしてはやはり少々拍子抜けではありますが、誘女の燕{イエン}に対する痛烈なしっぺ返しとして印象に残ります。ちなみに私は、紫苑の死体が重かったこと*2が手がかりではないかと考え、“玉の肌には傷ひとつなく(中略)丸みのめだつ下腹”(148頁)という死体の様子にイヤな想像*3をしてしまったのですが、これはどうも穿ちすぎだったようです。
 飛虎に対する狄判事の切り札も、が出てきたところである程度見当はつきますが、“数撃ちゃ当たる”方式には苦笑を禁じ得ないところで、“書写稽古”(114頁)にも納得です。

*1: 冒頭の、“一人息子のできが悪く、年が明ければ二十歳というのに読み書きもろくにできません。”(20頁)という評が、そのような意味だったとは……。
*2: 閔家の執事・廖{リヤオ}の“いやあ、ばかに重かったねえ!”(127頁)という台詞があり、さらに狄判事が死体を検めた際にも“この死体はずっしり重い。あの老僕が(中略)重かったとこぼしていたのもわかる。”(148頁)とあります。
*3: だいたいお分かりかとは思いますが、(一応伏せ字)(胎児の代わりに)死体の腹の中(ここまで)にあったのではないかと考えてしまいました。

2011.02.07読了

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