敗北への凱旋/連城三紀彦
本書におけるミステリとしての仕掛けは、(1)寺田武史殺害、(2)寺田武史の暗号、そしてそれらの背景となる(3)鞘間重毅の犯罪、の三点でしょう。
- (1)寺田武史殺害
寺田武史を射殺した犯人は“中国人・玲蘭”だということで処理されたわけですが、それが本来の“玲蘭”=松本信子ではなく鞘間文香だったという人物入れ替わりトリックが使われています。しかし、“玲蘭”=松本信子と鞘間文香の入れ替わりが事件発生時ではなく、それより前にすでに行われていたというのが事態を複雑にしています。
戦後日本に引き揚げてきた“玲蘭”が松本信子として暮らしていたことで、殺された際に特定された身元も“松本信子”ということになったわけで、入れ替わりが発覚しにくい状況にあったといえるでしょう。また、すでに空襲で死んだことになっている鞘間文香としては、“玲蘭”を名乗ることに何の不都合もありません。そして、二人がそっくりだったというのが偶然ではなく、柚木が指摘するように
“必然”
(150頁)だったというのがまた何ともいえないところです。- (2)寺田武史の暗号
暗号は、ショパンの「葬送行進曲」、寺田武史自身による「九つの花」と「SOS」、そして「落葉」の詩という四つの部分に分けられていますが、いずれも暗号とは思えない美しい形に仕上がっているのが見事です。
とはいえ、「葬送行進曲」や「落葉」の×印で消された部分、あるいは「九つの花」の“ハ長調”や「SOS」の
“中間の十七小節はリズムも拍数もでたらめに狂っているんです”
(82頁)と指摘されている箇所のように、音楽家としては考えられないミスとも思える部分など暗号であるがゆえの不自然さが残っているところを手がかりに、それが暗号であることを見抜くのはさほど困難ではないでしょう。しかし、そこから先があまりに複雑にすぎて、米澤穂信氏による解説でも指摘されているように
“読者が解くことはまず不可能”
(192頁)なものになっています。もちろん、暗号作成者である寺田武史の意図からすればそれほどに難易度が高くなることも理解できますし、読者が解けないからといって直ちにそれが欠点だとも思わないのですが、(かなりの時間はかかっているとはいえ)作中で秋生鞆久が解読できていることが不自然に感じられてしまうのが難点です。問題は、安眠練炭さんも「一本足の蛸 - わたし負けましたわ」で
“探偵側のある人物はもしかすると『敗北への凱旋』の解決場面を先に読んでカンニングしていたのかもしれない(中略)探偵役が亜愛一郎か御手洗潔だったなら、この不自然さは相当減じられていただろう。”
と指摘していらっしゃる(*1)ように、秋生鞆久が解読する行為(もしくはその能力)に説得力が欠けている(ように感じられる)点にあるといえます。それによって、寺田武史がこの上なく厳重に隠したはずのメッセージを、名探偵でも何でもない一般人(というのは失礼な表現かもしれませんが)が意外にするすると解き明かしてしまった印象を与え、いわば暗号作成と暗号解読がアンバランスな状態になっているのがいただけないところです。致し方ないといえば致し方ないのですが……。
- (3)鞘間重毅の犯罪
軍人である寺田武史を戦場へ送り込んで殺害する、ただそれだけのために戦争を起こすという鞘間重毅の犯罪は、やはり衝撃的ではあります。特にその規模――たった一人の標的の巻き添えとなった犠牲者の数を考えると、慄然とさせられるものがあります。
とはいえ、殺人のカモフラージュのための戦争という構図には、かなり有名な前例(海外の短編(*2))があるために、衝撃がやや薄れているのは否めません。
さらにいえば、前例が一人の人物の意思で左右され得る局地戦であった(と記憶しています)のに対して、本書で扱われている“戦争”はより大規模なものであるがゆえに、鞘間重毅ただ一人の意思によって開戦が決定される性質のものではなく、いきおい“犯人”としての責任が少々弱くなってしまうところがあるように思われます。もちろん、作中でも指摘されているように
“鞘間が一個人として、開戦の意味をどう考えていたか”
(171頁)が重要ではありますし、戦争犯罪人とされた鞘間重毅と同様に寺田武史も鞘間文香も責めを負わねばならないというのも理解できないではないのですが……。
終戦の日、東京のどこかに生きているはずの鞘間文香に向けて、鞘間重毅が送った残酷なメッセージである夾竹桃が、鞘間文香ではなく名もない一人の少年の命を奪ったという皮肉。これは、若干形を変えてはいるものの、寺田武史を殺すために大東亜戦争を起こすという犯罪と本質的に同じものです。あるいはこの、一人の少年の死という形で鞘間重毅の犯罪が繰り返されてしまったことが、鞘間文香に寺田武史殺害を最終的に決意させたのかもしれません。
“これは暗号解読シーンでも思った。”とも記されています。
*2: いうまでもないかもしれませんが、(以下伏せ字)G.K.チェスタトン(ここまで)の短編(以下伏せ字)「折れた剣」(ここまで)です。
2007.08.22読了