逃げる幻/H.マクロイ
The One That Got Away/H.McCloy
最後に明らかにされる真相を踏まえてみると、発端から“ジョニー少年”を物語の中心に据えてあるのは、実に大胆な企みというべきかもしれませんが、“ジョニー”の注目すべき行動が度重なる家出(と“人間消失”)であり、しかもその背後に“異様な恐怖”の存在が示されていることで、事件に巻き込まれた被害者的に近い立場であるかのように印象づけられているのが非常に巧妙です。
また、ダンバー大尉の真の目的――逃亡したドイツ人捕虜の捜索という任務、さらに逃亡の詳しい経緯が読者に明かされるよりも先に、ダンバーがシャルパンティエとコテージの外国人(ヒューゴー・ブレイン)の二人に目をつけていることが示される(100頁~101頁)ために、すでに“ジョニー”には疑惑を向けづらい状態になっているのも見逃せないところです。
それはシャルパンティエとブレインの二人が殺害された後も同様で、最終章の直前、発見したピクト人の地下住居跡を調べる際に、ダンバーが“あそこに誰かがいるとすれば、それはおそらく殺人者です。”
(259頁)という(作者にしてみれば)きわどい台詞を口にしているにもかかわらず、すっかりおびえきった様子の“ジョニー”を疑うことは非常に困難といえるでしょう。“人間消失”の真相は、“ご当地トリック”(?)という点で興味深いとはいえ面白味に欠けるのは確かですが、このあたりの演出も含めて面白い扱い方だと思います。
一方、密室殺人の真相はこれまた脱力ものですが、蜂の存在を基にした推理で導き出されるところはよくできていますし、何より犯人の正体につながる有力な手がかりとして扱われているのが非常に面白いところです。
“ジョニー”の正体を示す手がかりとしては、ノートに描かれた“VIR”もよくできていて、まさかこんなところでオームの法則が出てくるとは思いもよらず、ウィリング博士が“電気工学”
(226頁)に言及してもなお、一向に気づかなかったのは不覚といわざるを得ません(苦笑)。
また、シャルパンティエのダイイングメッセージ(195頁)は、わざわざ原文が併記されている時点でそこに何か意味があるのは(邦訳された本書を読んでいる)読者にとっては明らかだと思われますが、“J'en ai”と“Johnny”の発音の類似は気づきにくいところではないでしょうか。
そして、“ジョニー”の算数問題で“小数点にコンマが使われている”
(180頁)という手がかりが秀逸で、“ヨーロッパ大陸ではコンマを使う。これはイギリスの子供にフランス人家庭教師をつける場合に生じる不都合な点のひとつ”
(81頁)という説明で周到に不自然さを打ち消しておいて、シャルパンティエの手紙(232頁)の中で実にさりげなく(*)、シャルパンティエがコンマではなく小数点を使っていたことを示してあるのがうまいところです。
真相が明らかになってみると、“ジョニー”が逃亡者であるがゆえの恐怖、そして家出を繰り返す行動にも納得がいきますし、“ジョニー”を疑いながらもかばおうとしたストックトン夫人の心境も印象深いものがあります。終戦後もまだ終わらない、戦争による悲劇というテーマを鮮やかに浮かび上がらせる、傑作です。
2014.08.30読了