GOTH 夜の章/僕の章/乙一
- 〈夜の章〉
- 「暗黒系」
少なくとも“僕”がいきなり喫茶店を訪れた時点で、確実にそこにいる店長が犯人であることは予想できると思いますが、その結論を導き出した“僕”の推理が秀逸。すなわち、犯人が落とした手帳が(森野に)持ち去られたにもかかわらず、犯人が新たな犯行に及んだことから、それを矛盾なく成立させる犯人の思考――
“手帳は誰かに拾われたが、内容は読めなかった。”
(42頁)をトレースするロジックが見事で、水溶性のインクで書かれているという手がかりをもとに、ただ一人夕立の最中に外出していた店長を犯人だと結論づける推理は、なかなかの説得力を備えていると思います。そして、連続猟奇殺人犯であることを見抜かれた店長の、あまりにも潔い退場が印象的で、〈探偵〉の側である“僕”の事件へのスタンスも相まって、独特の奇妙な読後感をもたらしています。
- 「犬」
ありがちといえばありがちな、犬を擬人化した叙述かと思わせて、実は人間である少女の視点での叙述だったという、人を犬だと誤認させる叙述トリック(*1)に脱帽。ミスディレクションの中心にあるのはもちろん、人間である“私”が犬をかみ殺すという異様な状況で、常識的な感覚とは正反対(*2)であるために、真相を見抜くのは容易ではないでしょう。
細かいところまで全般的に気を使って記述されていると思いますが、序盤の
“彼女にはじめて会ったとき、私には、いっしょに生まれた他の兄弟たちがいた。”
(51頁~52頁)のあたりは、少々あざといようにも思われます。一方、真相につながる伏線としては、犬をおびき寄せるのに使われた“からあげ”
(68頁)や“ソーセージ”
(72頁)が“私の分のごはん”
(97頁)だったことがありますし、クライマックスの“私が男よりも早く動けた(中略)それがおそらく運命をわけた”
(114頁)との記述をよくみてみると、“犬がナイフを拾って少女に渡した”とは考えにくい――“私”が自分でナイフを使ったと考える方が自然ではあります。- 「記憶」
眠るときに首に巻きつける紐のエピソードで、首吊り自殺で片付けられた“森野夕”の死に“森野夜”が関わっていた――さらにいえば“森野夜”が“森野夕”を殺した――ことを予測するのは難しくないと思いますが、それだけでも最後に明かされるにふさわしい十分な重さを備えているためにそこで思考停止してしまい、“どうやって自殺に見せかけたか”の方に気をとられてしまったのが不覚といえば不覚(苦笑)。
もちろん双子といえば入れ替わりは定番ではありますが、森野夕の方が死んだと見せかけることになかなか利点が見出せないため、真相を見抜きにくくなっているところがあると思います。が、自殺に見せかける偽装工作として、現場に残った靴跡をごまかすために靴ごと人間が入れ替わったという真相は秀逸。そして、一見すると単に稚拙とも思える、
“足の先まで肌色一色で、靴を描こうともしていない”
(162頁)森野夜の絵が、実は首吊りの作法(?)をより正しく表したものであり、それを知らなかった森野夕が靴を脱いで首を吊ったはずがない、とする推理もよくできています。- 〈僕の章〉
- 「リストカット事件」
“僕”が、まずごみ箱に捨てられていた人形から化学教師・篠原が“リストカット事件”の犯人だと見抜いた後、切断された手を冷蔵庫から盗み出したことで、〈探偵〉と〈犯人〉が逆転してしまうのが非常に面白いところ。二人の〈犯人〉がそれぞれ〈探偵〉をつとめるという構図は、某新本格ミステリに前例(*3)もありますが、そちらと違ってこの作品では二人とも〈犯人〉であることが読者に明かされており、二重の倒叙ミステリともいうべき形になっています。
事情を知らなければ“手”には見えない人形の手までが、他の手とともに持ち去られていたことを手がかりとして、〈犯人〉の所在を見抜いた篠原の推理にはうならされましたが、結局は“僕”の方が一枚上手。疑いを森野に向ける偽装工作もさることながら、カンニングのためのごみ箱すり替えトリックが、そのまま安全圏に身を置く仕掛けになっているのがうまいところです。
そして、篠原が誰を疑っているかをぎりぎりまで伏せておき、篠原と“僕”との対決だと思わせる作者の手腕は巧妙。結果としてとばっちりを食う形になった森野ですが、その顛末が「プロローグ」に伏線として示されている――
“僕はその場面をひそかに見ていたのだが”
(8頁)という記述には苦笑を禁じ得ませんが――ところにしてやられました。それにしても森野は、「犬」で犬嫌いのために事件をスルーすることになったのに続いて、狂言回しの役どころに落ち着いた感が……。- 「土」
拾った生徒手帳によってさらわれた少女を森野だと誤認させるトリックは、さすがに少々あざとすぎるようにも思われますが、そうでもしないと“僕”を事件に関わらせることができない――露見しづらく頻発することもない事件の性質上、例えば「犬」のような形で事件に関わるのは困難――ので、致し方ないところではないでしょうか(*4)。一方、犯人である佐伯の正体を警察官としてあるのは、サプライズにしてもあまり必然性がないようにも思えるのですが、それだけで顔も氏名も明らかになってしまう物的証拠――警察手帳が必要だったということかもしれません。
これまでのエピソードからみて、最後は単純に佐伯の自首で終わるとは思いませんでしたが、予想を超えた凄絶な結末は衝撃的。哀しくも美しい、しかしやはり異様な少年の行動は、このエピソードの幕切れとしてしっくりくるものといえるでしょう。
- 「声」
これまでのエピソードに登場した“僕”を、北沢博子殺しの犯人だと見せかけるトリックが仕掛けられていますが、これが実に周到。“僕”がそのまま登場する「プロローグ」の時点で、森野ならずとも“僕”に疑惑を向けるに足る怪しい言動を見せているのはもちろんのこと、森野と“僕”の間でそういう会話が普通に交わされているところからして、“僕”が犯人であっても不思議でない人物であることをはっきりと物語っています(*5)。
やがて登場する犯人の物腰は、読者が知っている“僕”のそれに通じるもので、その犯人が森野と一緒に下校している(162頁~163頁)ことで、ミスリードはより強力なものとなります。一方で、夏海の視点で描かれる神山樹の人物像は、読者が知っている“僕”からはまったくかけ離れたものです。確かに最初から、“僕”が森野以外の人々には表情や態度を“作っている”ことが示されてはいましたが、本書で直接描かれている“僕”の日常からは森野以外の身近な人物は――わずかに登場する妹を除いて――徹底的に排除されており、読者には“僕”の一部だけ――内面と森野に対する態度――しか直接には示されていないことが、最後のトリックに大きく貢献しているのです。
クライマックスでの犯人と神山樹の“対決”の結果を夏海は知ることができず、生き残って「エピローグ」に登場している“僕”の正体がぎりぎりのところまで伏せられたまま進んでいくのがまた効果的。現象だけみれば単純な人物誤認トリックではありますが、非常によく考えられていると思います。
*2: “犬が人をかんでもニュースにならないが、人が犬をかめばニュースになる”という有名な言葉、そのままともいえるでしょう。
*3: (作家名)西澤保彦(ここまで)の長編です(作品名は伏せておきます)。
*4: ラストシーンのことを考えれば、本当に森野を被害者にするわけにはいかないのももちろんでしょう。
*5: さらにいえば、森野が知っている以上の事実を知っている読者としては、より強く“僕”を疑わざるを得ないところがあるのではないでしょうか。
2012.05.28 / 05.30読了