愚者のエンドロール
[紹介]
とある廃村を訪れた六人の高校生たちは、そこで廃墟となった劇場を発見して内部を探索するが、やがて一人が鍵のかかった部屋の中で腕を切り落とされた死体となって発見された――神山高校2年F組の生徒たちが文化祭のために製作したビデオ映画は、残念ながらそこで途切れていた。シナリオを担当していた生徒が体調を崩し、“解決篇”が書かれないまま撮影は頓挫しているというのだ。“女帝”とあだ名される2年F組の入須冬美に依頼されて映画を観た古典部の面々――千反田える、福部里志、伊原摩耶花、そして折木奉太郎の四人は、「ミステリー」と仮称されるビデオ映画の“結末探し”に協力することに……。
[感想]
デビュー作『氷菓』に続く、〈古典部シリーズ〉の第二弾。“日常の謎”風の小粒な謎を積み重ねてメインの謎につなげるよう構成されていた『氷菓』に対して、本書では堂々“殺人事件”が物語の中心に据えられています――ただし文化祭のための自主制作映画の中の話ですが。というわけで本書は、“殺人事件”を作中作に落とし込むことによって、あくまでも高校生の“日常”の枠内で無理なく“殺人事件”の謎解きを扱うことに成功した、ユニークな作品といえます。
物語は、印象に残る新キャラクターである“女帝”こと入須冬美の依頼で、いわば“問題篇”だけが完成したミステリー(*1)映画に“解決篇”をつけるための“結末探し”に、『氷菓』での謎解きの実績を買われた折木奉太郎をはじめ古典部の面々が協力するという展開ですが、ひとまずはオブザーバーとして、一部のスタッフたちがそれぞれに提示する“解決”が妥当かどうかを判断することになります。すなわち本書では、「あとがき」に記されているようにアントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』にならった、“多重解決”の趣向が採用されています。
“映画の結末探し/『毒チョコ』風味”という大筋は、これも「あとがき」で挙げられている我孫子武丸『探偵映画』にかなり近いのですが、本書では“探偵役”一人一人の趣味嗜好が――さらには“「ミステリー」をどうとらえるか”という「ミステリー」観が、それぞれの“解決”に色濃く反映されているのが興味深いところで、“解決”に合わせて造形されたのではないかとも思える“探偵役”たちのキャラクターも相まってより印象的なものになっていると同時に、ミステリに対する批評的な姿勢が打ち出されている感があります。
それはもちろん、奉太郎ら古典部の面々の映画に対する立ち位置――映画制作の当事者ではなく、提示される“解決”を冷静に“批評”する立場によるところも大きいでしょうが、とりわけ物語の前半においては、ミステリとしての面白さは示される“解決”そのものよりもむしろ““解決”の誤りがどのように指摘されるのか”にあり、“真相解明の決め手”ならぬ“解決否定の決め手”に工夫が凝らされているなど、思いのほかマニアックなところも見受けられます(*2)。
このように、ストレートなミステリというよりも、ミステリ(の形式)を強く意識したメタミステリの性格が強い本書ですが、やがて奉太郎に“探偵役”が回ってくるのは誰しも予想するところでしょう。省エネルギーをモットーとする奉太郎が、“探偵役”を引き受けることになる経緯も見どころですが、前例のあるネタをうまくアレンジした解決もよく考えられています……と思っていると、奉太郎以外の三人――摩耶花、里志、えるにも思わぬ形の見せ場が用意されている、一筋縄ではいかない展開が圧巻です。
(メタ)ミステリとしての面白さもさることながら、特に終盤は青春小説としてもまったく目が離せないものになっており、どちらの面でも鮮やかな印象を残す結末――「エンドロール」はお見事。(『氷菓』よりは若干長いとはいえ)250頁ほどしかない短めの長編ながら、その中で様々な趣向が凝らされている、企みに満ちた傑作というべきでしょう。
*2: マニアックといえば、
“十戒も九命題も二十則も、守ったはずよ”(56頁)という台詞や、撮影の舞台となる劇場の見取図に
“途中でかすれて「中村青」までしか読めないが設計士の名前まで載っている”(116頁)といった小ネタも。
ちなみに、
“九命題”は寡聞にして知りませんでしたが、「二十則 十戒 九つの命題 条件」で紹介されています(「『愚者のエンドロール』(米澤穂信/角川スニーカー文庫) - 三軒茶屋 別館」経由で知りました)。また、
“中村青”についてはいうまでもないかもしれませんが、こちらを。
2012.05.23再読了 [米澤穂信]
【関連】 『氷菓』 『クドリャフカの順番』 『遠まわりする雛』
GOTH 夜の章/僕の章
[紹介と感想]
第3回本格ミステリ大賞を(笠井潔『オイディプス症候群』とともに)受賞した、乙一の代表作(という理解でいいでしょうか)。殺人や猟奇的な事件に強く惹かれる二人の高校生、森野夜と同級生の“僕”を主役にした連作短編集です。
微妙にタイプは違えども、いずれも人間の暗黒面に魅了されている二人は、(他の人々にはほとんどそれを見せない(*1)ものの)日常のやり取りからしてその“趣味”を前面に押し出したもので、そのために日常と猟奇的な事件が地続きになっている(*2)ような、独特の物語世界が展開されているのが目を引きます。
また、サイコスリラー的な世界の中に(本格)ミステリ的な謎解きや仕掛けがしっかりと、しかも少々風変わりな形で組み込まれているのも興味深いところ。作者自身も『GOTH 僕の章』の「あとがき」に“本格ミステリの要素を積極的に入れようと考えていました。”
と記していますが、前述の“日常と猟奇的事件の接近”は、サイコな趣味の人物たちを主役に据えることによって“ミステリな日常”(*3)を作り上げようとしたものといえるかもしれません。
なお、初刊の単行本は『GOTH リストカット事件』という題名で、一冊に六篇すべてが収録されていましたが、文庫化されるにあたって三篇ずつを収録した『GOTH 夜の章』・『GOTH 僕の章』の二分冊となり、作品の順序も若干変更されています(*4)。順番がわかりにくい題名となっていますが、必ず『夜の章』→『僕の章』の順にお読み下さい。
- 〈夜の章〉
- 「暗黒系」 Goth
- 森野夜がお気に入りの喫茶店で拾った手帳。そこには、世間を騒がせている連続猟奇殺人犯の犯行が克明に記されていた。その中の、まだ報道されていない犯行の記述をもとに、僕と森野は山の中で無残に切り刻まれた女性の死体を発見する。しかしそのまま警察に届けることなく……。
- 森野と僕の二人が、死体を発見して連続猟奇殺人犯の“世界”に耽溺する前半までは、ほとんどサイコスリラーの趣ですが、後半は一転して推理が中心。犯人の行動と思考をトレースしつつ、さりげなく配置された手がかりに基づいて犯人に迫る推理はお見事です。ラストの犯人の姿も印象的。
- 「犬」 Dog
- 決まった夜に家にやってきてユカをいじめる男。私とユカは、そんな夜にこっそり家を抜け出し、近所から小さな犬をさらうようになった。そしてユカは私に、さらってきた犬をかみ殺すことを命じるのだ。一方、近所の犬が次々と行方不明になる事件に興味を持った僕は、少女と犬を目撃し……。
- 森野の意外な一面にニヤリとさせられますが、少女と犬を主役とした物語は重くシリアスなものになっています。“僕”の事件への関わり方も興味深いところで、二つの視点が最接近するクライマックスは緊張感に満ちています。そして最後にさらりと明かされる“ある真相”には脱帽です。
- 「記憶」 Twins
- 不眠症を訴える森野は、眠る時に首に巻き付けるのにちょうどいい紐が必要だという。そんな森野から、子供の頃に首を吊って自殺した“夕”という名の双子の妹がいたことを聞き出した僕は、森野の祖父母が暮らす家を訪ねる。そこで、森野夕が亡くなった時の様子を聞くことになったが……。
- 〈夜の章〉の最後に配されているのは、森野夜自身がかつて体験した事件を扱ったエピソード。これも意外に(といったら失礼かもしれませんが)推理がよくできていると思います。しかしそれ以上に、重さを備えた真相が明かされることによって、森野と“僕”の奇妙な関係に若干の変化が生じているのが印象に残ります。
- 〈僕の章〉
- 「リストカット事件」 Wristcut
- 子供の頃から“手”に魅入られてきた篠原は、人形の手を切り取り、次には犬や猫の前足を、ついには人間の手首を切断するようになった。切り取った手はすべて大事に冷蔵庫に保管しておき、時おり眺めて楽しむのだ。その犯行はやがて“リストカット事件”と呼ばれるようになっていた……。
- “リストカット事件”の犯人・篠原の視点と“僕”の視点が交互に切り替えられ、〈犯人〉側と〈探偵〉側の双方の手の内が(ある程度)明かされた倒叙ミステリ風の頭脳戦が展開されているのが見どころ。結末にはある意味で苦笑を禁じ得ないところもありますが、よくできた作品であることは確かでしょう。
- 「土」 Grave
- 園芸を趣味にひっそりと暮らしていた佐伯は、何かに衝き動かされるように棺桶を自作し、近所の幼い少年を騙してその中に入れ、生きたまま庭に埋葬してしまった。それから三年が経ち、意識しないままに再び棺桶を作り始めた佐伯は、やがてある夜、髪の長い高校生の少女をさらって……。
- 本書で唯一全体が犯人の視点で描かれているせいもあって、その何とも異様な犯罪と犯人像が強調されて、独特の雰囲気に包まれた一篇となっています。ミステリとしては少々あざとく感じられる部分もありますが、それは致し方ないところでしょうか。何よりも、凄絶な結末のインパクトが強烈な余韻を残します。
- 「声」 Voice
- 廃墟となった病院跡で、女子大生・北沢博子の惨殺死体が発見された。突然姉を失って苦悩する妹・夏海は、本屋で声をかけてきた少年に、生前の博子から預かったというカセットテープを渡される。そこには殺される直前の博子の言葉が録音されていた。夏海はテープの続きを求めて……。
- 事件の被害者の側(遺族)に光が当てられた、本書の中では異色のエピソードで、そのために序盤からこれまでとは違った雰囲気で進んでいきます。とりわけ、“僕”や森野、あるいはこれまでの犯人たちとは明らかに一線を画した、ごく普通の人間であったはずの被害者の妹・夏海が、やはりある種の“暗黒”に魅入られていく姿に心を動かされます。スリリングなクライマックスを経ての結末には、ある意味感慨深いものも。連作の掉尾を飾るにふさわしいエピソードです。
*2: MKSuzukiさんの、
“(前略)日常の中で普通に人が死ぬ、そんな空気があるのですよね。”(元ツイート)との指摘で気づかされました。
*3: もちろん、若竹七海『ぼくのミステリな日常』の題名を意識したものですが、本書がそちらのような、いわゆる“日常の謎”ではないのはいうまでもありません。
*4: 『GOTH リストカット事件』には、「暗黒系」→「リストカット事件」→「犬」→「記憶」→「土」→「声」の順序で収録されています。
2012.05.28 / 05.30読了
言霊たちの夜
[紹介と感想]
前作『人間の尊厳と八〇〇メートル』で新境地を披露した作者が、またしても新たな一面を見せたユニークな連作短編集です。
題材とされているのは、“言葉”が原因となって引き起こされるドタバタ劇で、同音異義語などを駆使したナンセンスでブラックなギャグや、些細な発端から次第にエスカレートして思わぬ大事になってしまう不条理な展開に、ニヤリとさせられます。
収録された四篇は一応独立していますが、いずれもほぼ同じ場所で起きた一夜の出来事であり、背景でゆるくつながっているのが面白いところで、読み進めていくことで“何がどのように起こっていたのか”の全貌が少しずつ見えてくる趣向になっています。
- 「漢{おとこ}は黙って勘違い」
- 平和な土曜の夕方。田中優史は、恋人の美穂が夕食を準備してくれるのを待つ間、ラジオで“外務省のお食事券”のニュースなどを聞きながら、のんびり過ごしていた。そこへ、休日出勤している同僚の杉本から電話がかかってきて、社運をかけた一大プロジェクトの人選についてやり取りしていると……。
- “空耳アワー”的な聞き違いが大騒動を引き起こす作品。“お食事券”のようなおなじみの単純な聞き違いから、思い込みによる勘違いまで、文脈などお構いなしの意味の取り違え(*1)が無数に盛り込まれ、そこに“伏線”と“オチ”まで配されているところがよくできています。
あちらこちらでディスコミュニケーションを積み重ねた挙げ句にとんでもない事件に巻き込まれた主人公の、最後の台詞が何とも凄まじいもので、思わず乾いた笑いがこみ上げてきます。
- 「ビバ日本語!」
- 外国人相手の日本語教師・金田村藪彦は日々、日本語の難しさを痛感していた。同音異義語や敬語に慣用句と、複雑怪奇な日本語について生徒の質問攻めに遭い、最後には“東洋の神秘”を持ち出して何とか乗り切る。そんな綱渡りの授業を終えて、金田村は顔なじみのスミス氏と一杯呑みに行くが……。
- 自称・カリスマ日本語教師を主役に、外国語としての日本語(だけではありませんが)の難しさを描いた作品。作中で挙げられている日本語の用例がややこしいものばかりで、主人公が“東洋の神秘”という魔法の言葉に頼りたくなるのもわからないではありません(笑)。
一見するとやや唐突な感のある事件も、いわば“勘違い(*2)から出たまこと”になっているのが巧妙というか何というか。
- 「鬼八先生のワープロ」
- 文芸評論家・小田嶋二郎は、締め切り前日に愛用のワープロを壊してしまった。並外れた悪筆で手書きは無理、特殊な機種の代替品はなかなか見つからず、手を尽くしてようやく借りてきたのは、敬愛する作家・伴鬼八が亡くなるまで使っていたワープロだった。勇んで原稿を入力し始めた小田嶋だったが……。
- “ワープロ”ということでお察しの通り、誤変換(+タイプミス)を題材にした一篇。“伴鬼八”というネーミングでおわかりかと思いますが、全体的に“ある方向”へのバイアスがかかっているのが笑いどころです。と同時に、誤変換の元になる文章――評論として成立している(ような)下書きの段階で、それっぽい言葉が丹念に仕込んであるのに脱帽です。
誤変換によるイメージが引き起こした暴走の果てに用意されているオチは、あまりにもひどすぎるというよりほかありません(もちろんいい意味で/笑)。
- 「情緒過多涙腺刺激性言語免疫不全症候群」
- “俺”は子供の頃からの友人・浅井とばったり出会い、二人で食事をすることにした。だが、放送作家としてテレビ・ショッピングの台本を担当しているという浅井は、まるで職業病のように、何かにつけてやたらに大仰な発言やステレオタイプな表現を繰り返し、そのたびに“俺”の体はむずがゆくなっていく。そして……。
- これまでの三篇とは趣向を変えて、テレビ業界などで顕著にみられる誇大な/ステレオタイプな表現を俎上に載せた作品。狂言回しをつとめる放送作家のアレっぷりがあまりにも強烈ですが、主人公の口を借りて――作者自身の体験(*3)を下敷きにしたエピソードも交えつつ――風刺にとどまらないきちんとした批判になっているのがさすがというべきでしょう。
伏線を念頭に置けば、物語の展開はある程度予測できる部分もありますが、結末は予想を超えて壮絶。しかしそこにもまた伏線が用意されているのが周到で、特に(以下伏せ字)“あちらの事件”(ここまで)の使い方(*4)がお見事です。
*2: (以下伏せ字)「漢は黙って勘違い」での、“茉莉花茶”のエピソード(ここまで)のこと。
*3: 「フジテレビの韓流問題に関して テレビの偏向を叩くべき」を参照。
*4: これが、(以下伏せ字)「漢は黙って勘違い」ラストのテレビ放送(ここまで)という形で伏線になっているのが秀逸です。
2012.06.04読了 [深水黎一郎]
シンデレラの罠 Piege pour Cendrillon
[紹介]
目覚めたとき、わたしは記憶を失っていた。わたし――二十歳の娘ミシェル・イゾラは、突然の火事で大火傷を負い、顔にも皮膚移植を受けた末に一命を取り留めたが、一緒にいた友人ドムニカは焼死したという。何も思い出せないまま退院した私の前に現れた、ミシェルの後見人を名乗るジャンヌ・ミュルノという女性によれば、ミシェルとドムニカの名付け親、大金持ちのミドラ伯母さんが亡くなって、ミシェル――わたしに遺産が残されたという。だが、ホテルで宿泊カードに“ドムニカ”と署名してしまった私は、本当にミシェルなのか……?
[感想]
帯にもある“わたしはこの事件の探偵であり、証人であり、被害者であり、犯人なのです。”
という惹句が有名な本書は、例えばアガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』やアントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』などと同じように多くのオマージュ/バリエーションを生み出した、ミステリにおける“原型”の一つというべき作品です(*1)。“原型”であるがゆえに、今読んでみると色々と既視感を覚えるのは否めないところですが、それを割り引いても名作の名に恥じない、よくできた作品であることは確かでしょう。
信頼できない語り手――記憶を失った若い娘を主人公に据えて描かれるアイデンティティの混乱が本書の主題であることは、道具立てなどからも明らかですが、そのあたりはさすがに今となっては定番といえるかもしれません。しかし、一つ一つは情報量のあまり多くない、断片的な記述の積み重ねで読者を引き込んでいく筆力はさすがです。とりわけ、少しずつ語られていく主要登場人物――ミシェル、ドムニカ、ジャンヌ、そしてミドラ伯母さんの関係と、そこに浮かび上がってくる複雑な心理(*2)が印象的。
その、いわば事件の“火種”にあたる部分だけでなく、物語が進むにつれて少しずつ、事件が“どのように起こったのか”も明かされていきます。早くから予想できてしまう部分もあるのは否めませんが、特に中盤以降は思いのほか凝った展開が用意されており、サスペンスとして非常によくできていると思います。そしたまた、前述の〈探偵=証人=被害者=犯人〉という“一人四役”(*3)までどうやってたどり着くか、というのも興味を引かれるところです。
ネタがネタだけに、サプライズがさほどでもないのは確かですが、その読者への見せ方がなかなか秀逸で、しゃれた形の結末にはうならされます。ところが、新訳版巻末の平岡敦氏による「訳者あとがき」――その中で示されている本書の読み方には、目から鱗が落ちた思い。それを踏まえて読み返してみると、どこまでも一筋縄ではいかない作品というよりほかなく、感想を書くのも難しいのがアレですが(苦笑)、やはりおすすめの傑作です。
*2: 過去がおとぎ話のように綴られたプロローグ的な部分(「わたしは殺してしまうでしょう」)でもすでに、どこかいびつで不健全ともいえるその一端は表れています。
*3: もっとも、「訳者あとがき」でも指摘されているように、最初から“一人四役”を狙って書かれたものではないような印象を受けるのは確かです。
2012.06.26読了
絶海ジェイル Kの悲劇'94
[紹介]
音楽ジャーナリスト・波乃淵今の誘いを受けて、イエ先輩こと八重洲家康と恋人の渡辺夕佳は、絶海の孤島・古尊島を訪れた。イエ先輩に勝るとも劣らない天才ピアニストでありながらも戦時中に赤色華族として捕らえられ、そのまま獄死したとされる祖父・八重洲清康公爵が、密かに脱獄に成功して今なお生きているというのだ。だが、実はその古尊島こそが清康の投獄されていた地であり、まんまと罠にはまったイエ先輩は夕佳を人質にとられた上で、当時の状態が完全に再現された恐るべき一望監視獄舎{パノプティコン}に閉じ込められ、五十年前の清康の脱出劇を再現するよう迫られる。虜囚となったイエ先輩は、祖父の手口を解き明かすことができるのか……?
[感想]
『群衆リドル Yの悲劇'93』に続いてイエ先輩を探偵役とするシリーズ第二作。“雪の山荘”をはじめ本格ミステリのガジェット盛り沢山だった前作から一転、ジャック・フットレル「十三号独房の問題」やジャック・フィニイ『完全脱獄』などの系譜に連なる脱獄ミステリ――厳重に閉ざされた監獄という“不可能状況”から“いかにして脱出するか”を扱った作品となっていますが、そこには作者らしい独特の過激さが見受けられます。
物語はかなりシンプルで、発端からイエ先輩が虜囚となるまで一気呵成。監獄の施設や警備状況、果ては総勢五名とはいえ囚人たちまで――祖父・清康の代役であるイエ先輩に加え、唯一の生き残りである大炊御門侯爵や、他の囚人たちの子孫まで誘拐して――当時を再現するなど、首謀者の執念には凄まじいものがありますが、自ら当時の監獄長に扮してサディスティックな責めを加えるあたりは戦時中の亡霊に取り憑かれたかのよう。かくしてイエ先輩は、似つかわしくない屈辱的な仕打ちを受けながらも、他の囚人たちの命も背負って“脱獄パズル”に挑むことになります。
脱獄に限らず、いわば“ミッション・インポッシブル”的な“不可能状況”の攻略をテーマとした作品(*1)は全般的に、ハウダニットの視点と時制をずらして倒叙ミステリ風に仕立てたものととらえることもできるように思いますが、本書の場合は過去の再現という“縛り”がかけられていることで、完全にハウダニットになっているのがユニークなところ。そして、残された手がかりに基づいて清康の手口を解き明かしていく過程が、イエ先輩にとってはそのまま、会ったことのない祖父・清康の人となりを知ることにもつながっているところが、物語としてよくできていると思います。
ハウダニットでありながら「読者への挑戦状」が用意されているのが作者らしいところですが、全編にばらまかれた膨大な手がかりをつなぎ合わせて論理的に導き出される突拍子もない真相(*2)には、唖然とさせられつつも苦笑を禁じ得ないところがあります。ただし、好みが分かれるのは間違いないとしても、“常識ではあり得ない”や“常人には不可能”というのは(少なくとも本書については)批判として無力ではないでしょうか。というのも、(たとえ“ゼロ近似”であったとしても)“蓋然性が低い”というだけでは論理的に否定はできないのに加えて、イエ先輩(や清康)をあからさまに常人離れした能力の持ち主としてあるからです。
ハウダニットを論理的に解き明かそうとすれば、所定の容疑者を絞り込んでいって犯人に到達するフーダニットとは逆に、不可能の中に見出される唯一の可能性を積み重ねていく形にならざるを得ない(*3)わけで、厳密であるほど唯一可能な手段が見えやすくなるのは否めません。それでもなお読者に真相を容易には見抜かれないようにするための方策の一つとして、(数多くの手がかりに支えられつつも)読者が想定しがたい手段――常識的には蓋然性が低いがゼロではない――を持ってくるというのは、十分に理解できる戦略です。
そしてそれを成立させるために、イエ先輩と清康の“天才”が前面に出されているというか、“蓋然性がゼロでないことならば(ほぼ確実に)実現できる”という常人離れした能力が、一種の“特殊設定”として扱われているようにも思われます。超人的な能力ではあるものの、例えば“テレポーテーションで密室から脱出した”ような安直なものとは違って、“常人離れしたレベルで何ができるか”が綿密に組み立てられており、超人レベルのハウダニットといっても過言ではないかと思います。
要領よくまとめられた怒涛の謎解きの果てには、もう一つの「読者への挑戦状」に対応する真相も用意されており、それが印象に残る幕切れにつながっているところもよくできています。全体的にみると、前作よりもさらに独自の路線を突っ走っているようで、受け入れがたいという方も多いのではないかと思われますが、とにかく尖鋭的な作品であることは間違いないでしょう。個人的には大いに楽しませてもらいました。
2012.06.30読了 [古野まほろ]
【関連】 『群衆リドル Yの悲劇'93』