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匣の中の失楽/竹本健治

1978年発表 講談社ノベルス(講談社)
 本書のネタバレ感想を書くにあたっては、以下を参考にさせていただきました。ここに感謝いたします。

 お読みになった方はお分かりのように、本書は章ごとに(作中での)虚実が反転を繰り返す構成になっています。ただし、「序章に代わる四つの光景」(以下、「序章」)はそのまま「一章」に続き*1「終章に代わる四つの光景」(以下、「終章」)は「五章」を引き継いでいる*2と考えるのが妥当でしょう。つまり本書は、(「序章」「終章」を含めた)奇数章の系列と、偶数章の系列とに分かれています。

 これら二つの系列がどのような関係にあるのか――作中においてどちらが“現実”でどちらが“虚構”なのかについては、それこそ読者ごとに異なるような様々な解釈ができると思いますが、自分なりに少し考えてみます(注:「エアミス研読書会第7回(竹本健治『匣の中の失楽』)」の際の考えとはまったく違ったものになっていますが、ご了承下さい)

・奇数章が“現実”

  飛び飛びではあるものの「序章」から「終章」までつながっている奇数章を、作中での“現実”ととらえるのは比較的オーソドックスな見方でしょう。この場合、偶数章はナイルズの小説『いかにして密室はつくられたか』の一部として創作された“虚構”ということになります。

[図1:奇数章が“現実”]
現実序章一章三章五章終章
虚構二章四章

 作中での“虚構”となる偶数章については、「二章」“動機づくり”“ワトソン捜し”(いずれも198頁)、そして「四章」は甲斐に対する“殺人教唆”(455頁)と、“虚構”の作者であるナイルズにとって実利的な創作の動機が用意されており、しかもそれが“虚構”であることを利用した仕掛けになっていることで、偶数章が“虚構”であるとの解釈に説得力を与えています。

・偶数章が“現実”

 一方、偶数章を作中での“現実”とした場合には、奇数章がナイルズの創作した“虚構”ということになります。

[図2:偶数章が“現実”]
現実二章四章
虚構序章一章三章五章終章

 ここで、奇数章の物語と偶数章の物語が(直接的には)連続していないことを踏まえ、両者を切り離して比べてみると、「序章」「終章」を含んでいる上にミステリとして成立している――最後にほぼすべての真相が明かされる――奇数章の物語に対して、偶数章の物語は始まりも終わりも唐突ですし、それなりの謎解きと一応の結末があるとはいえ、ミステリとして成立しているとはいいがたいものになっています。

 つまり、偶数章の物語だけ取り出してみると、(ナイルズの意気込みとは裏腹に)“探偵小説の創作”としてはいささかお粗末といわざるを得ないわけですが、それゆえにより完成度の高い奇数章の方が創作物であり、偶数章が不条理な“現実”であると考えることもできるでしょう*3

 何より、雛子の両親の死、雛子と杏子の“退場”、倉野殺害、そして甲斐の死といった、偶数章の方が先行する出来事――奇妙なことに逆は見当たらないようです――の存在が見逃せないところで、ナイルズの小説が“現実”を先取りしたと考える方が面白いのは確かですが、やはり“現実”が小説に取り入れられたとするのが、ひとまずは現実的ではないでしょうか。

 こう考えてみると、どちらの解釈にも否定しがたいところがあり、奇数章と偶数章のどちらが“現実”でどちらが“虚構”なのか、決定することは難しく思えてきます。つまり本書は、作中でも言及されている*4“ルビンの壷”(→Google検索を参照)のように、見方によって“図”と“地”が反転する構造だととらえるのが妥当なのかもしれません。

[図3:図地反転構造]
序章一章二章三章四章五章終章

 しかしここで、その――おそらくは最も妥当な――モデルに、あえて異を唱えてみたいと思います。なぜかといえば、いずれの場合であっても章間で分断される作中の“現実”に対して、“虚構”として採用される部分を含む作中の小説『いかにして密室はつくられたか』は、「序章」から「終章」まですべてを備えていると考えられるからです。

 実のところ、「五章」「終章」についてはナイルズの原稿の存在が作中で明示されているわけではありません。しかし、奇数章が“現実”だと解釈した場合には、「終章」『いかにして密室はつくられたか』について問われたナイルズが“それは絶対、書きあげるさ”(464頁)と答えていることから、「三章」までの“現実”と同様に小説化される/されたと考えていいでしょう。逆に偶数章が“現実”だと解釈した場合には、「五章」「終章」は“虚構”となるわけですから、当然ナイルズの創作だということになります。

 奇数章と偶数章のどちらを“現実”と解釈した場合であっても、ナイルズによる『いかにして密室はつくられたか』は――“現実”とは違って――「序章」から「終章」までの全体にわたって存在することになる*5わけで、その一部(“現実”と解釈された部分)を完全に無視するかのような扱いには、少々釈然としないものを覚えずにはいられません。

 また、本書の各章そのものはいずれも作中の“現実”として(あるいは“現実”らしく)描かれており、それが次の章において“虚構”に追いやられるという意味で、奇数章と偶数章とはまったく無関係というわけではないのですが、上の[図3]では奇数章と偶数章の不連続性ばかりが強調されているように感じられるのも気になるところです。

 というわけで、本書『匣の中の失楽』について、以下のような構造を考えてみました。

[図4:二重螺旋構造]
作中の現実序章一章二章三章四章五章終章 → 『匣の中の失楽』
――――――××××――――――――――――――――――
作中の小説序章一章二章三章四章五章終章 → 『いかにして密室はつくられたか』

 お分かりのように、どちらも捨てがたい上の[図1]と[図2]をそのまま組み合わせたものを基本としていますが、それら二つの解釈は決して交わるものではないので、図中“×”で示した箇所は“交差”ではなく“ねじれ”の状態となるでしょう。したがって全体としては、「序章」から「終章」までがつながった“ライン”を二本ひねり合わせたような二重螺旋構造をとっていると考えることができます。そしてこの二重螺旋のうち、図でいえば上半分のみを見たものが『匣の中の失楽』であり、下半分のみが登場人物たちの読む『いかにして密室はつくられたか』であると考えれば、だいぶ収まりがいいように思います。

 そしてこのようなとらえ方をしてみると、本書は全体として竹本健治の作品『匣の中の失楽』であると同時に、作中の人物であるナイルズの作品『いかにして密室はつくられたか』でもある(少なくとも内容は同一)ということができるでしょう。それはとりもなおさず、本書が(作中では“想像できない”(288頁)とされている)現実で、同時に架空である”物語を体現している、ということになるのではないでしょうか。

 全編が“現実で、同時に架空である”という二重性によって、作中の“現実”を生きている登場人物はいざ知らず、作外に存在する読者にとっては“シュレーディンガーの猫”のごとく、それが“現実”なのか“虚構”なのか決定できないということなのでしょう。つまり、完全に“匣”は閉じているのです。

*1: 「序章」の最後の現実の屍体は、まさに白昼に、降臨の影を落としたのだった。”(31頁)という一文は、真沼寛が消失するだけ「二章」にはつながりません。
*2: 「終章」は、甲斐の死体が“蒼を通り越して、土色にまで変色してしまった”(457頁)ことや“あと東京へはどのくらいだろう”(463頁)という台詞などから、甲斐が東京都内で交通事故死した(347頁)とされる「四章」とは整合せず、“金沢の海で(中略)自殺したらしい”(456頁)死体が見つかったという「五章」のラストから続いていると考えられます。
*3: 偶数章に探偵小説的な結末がつけられていないことをもって、架空の「六章」の存在を想定する向きもあるようですが、個人的には「四章」の続きとしての「六章」は存在し得ないと考えます。「四章」の最後の部分は探偵小説ならぬ“現実”としてはあり得るもので、“記述者”の書きぶりもそれが“結末”であることを印象づけていますし、何より「架空に至る終結というタイトルが、そこで“終わり”であることを明示しているといえるのではないでしょうか。
*4: “「見方によって二種類の絵柄に見える絵があるよね。見たことがある筈だよ。中央に黒のシルエットで、花差しのような燭台のようなものがある。かと思えば、黒いバックに白抜きで、ふたりの横顔が今まさにキスをするかのように向かいあっているようにも見える。『いかにして密室はつくられたか』は、この二重構造によく似てるんだ」”(287頁)
*5: 実のところ、上に引用した“『いかにして密室はつくられたか』は、この二重構造によく似てる”という言葉自体、『いかにして密室はつくられたか』“図”と“地”の両方を備えることを意味している、ように思えます(本がすぐに取り出せないので、前後の文脈が確認できませんが……)。

2011.02.25読了