絶海ジェイル Kの悲劇'94/古野まほろ
謎解きの手順としては、ネタバレなしの感想にも書いたように、厳しい不可能状況の中でとり得る手段を積み重ねていく形になりますが、そこに清康の人物像――“無駄弾がひとつも無い”
(148頁)という特徴が大きく貢献しているのが見逃せないところです。一つ一つの行動がすべて、何らかの形で脱獄のために確かに使われたと保証されていることで、論理的な解明が可能になっているといえるでしょう。
- 「灯火と船艇」
まず目を引くのはイーゼルの扱いで、
“カンバスとイーゼルについてはそれぞれ一、遺留されていた”
(139頁)という事実に着目するのはまだしも、加工されていなかったことを“加工できなかった”ととらえて、紀州備長炭につなげてあるのに脱帽。先代山崎男爵の遺言で残されていたという“姥目樫”
(169頁)が、伏線として生かされているところもよくできています。また船艇を呼び寄せる手紙については、検閲で塗りつぶされることによって、すなわち他ならぬ“敵”自身の手でメッセージが完成するという皮肉が絶妙です(*1)。
- 「ロープと旗」
船艇での逃亡を前提とすれば、鉄扉の突破ではなく窓からの脱出が最短距離となるのは道理。そして、紀州備長炭の高熱があれば鉄格子を破壊できるというのも納得できるところです。とはいえ、新聞紙と日章旗を材料にしたパラグライダーで脱出するという豪快な手段には唖然とさせられるよりほかありませんが(苦笑)、(スカイダイビングをたしなんでいたこともあって)清康ならば絶対に不可能とまではいえない、というところでしょうか。
ロープの材料となる日章旗の持ち込みについては、波乃淵魂の半側空間無視という症状が大胆に利用されています。これについては、イエ先輩と穂積男爵とのやり取り(186頁~187頁)や、左半分しか描かれていない波乃淵魂の自画像(195頁)によって早い段階から示唆されていますし、読者に対してはさらに「古尊島からの手紙」の中に
“まだ右眼の方の調子が十分とはいえません”
(100頁)という手がかりも用意されているので、見当をつけることはさほど難しくはないでしょう。ただし、波乃淵魂と違って波乃淵今の方は(一時的に?)右眼が見えないというだけで、真正面から右に45度程度までは見えてしまうため、イエ先輩は清康と同じ手は使えないはず。もっとも、イエ先輩が清康とまったく同じ手順で脱獄したとは限らない――戦時中と違って、波乃淵今が指摘している(278頁)ような強引な手段も可能――わけですが……。
- 「パンと空輸便」
まず、ミュージック・ワイヤに関する三つの命題が秀逸。結論はある程度明らかですが、きちんと命題の形に仕立ててあることで、矛盾がわかりやすくなっています。
鳩については、伝書鳩などもありますし、比較的納得しやすいかと(*2)。また、監獄の食事としては明らかに異例であるパンが、うまく利用されていると思います(*3)。
- 「使者と珈琲」
さて、木製パレットに関する
“肘に載る程度のもの、三つ頭の酸漿草{かたばみ}形”
(140頁)との記述から、「別添3」(325頁)の形状に、ひいてはブーメラン(!)に思い至る読者がどの程度存在するのか大いに気になるところですが(苦笑)、オーストラリアという手がかりもありますし、監獄長を無力化するために必須となる、監視台まで届いて無事に回収できそうな道具といえばそれしかないのも確かではあります。これについては、投下が成功したかどうかを判別できる仕掛け(“リトマス紙”)も周到に用意されているので、確実に手元に戻ってくる熟練の技を前提とすれば、納得するしかないといったところでしょうか。
パラグライダーなどの道具は海の藻屑と消えますが、破壊された鉄格子が唯一の痕跡として残ることになります。それを波乃淵今が、“脱獄劇とは無関係だ(中略)憲兵側がやった様なのでな”
(116頁)とあっさり片付けてしまっているのはいかがなものかと思いますが、それも大炊御門侯爵の“房の鉄扉が開いた”
(143頁)という証言に引きずられてのことかと思われます。
というわけで、“脱獄パズル”を解き明かす上で最大のレッドへリングとなっているこの証言が、大炊御門侯爵の有罪を決定づけているのが印象的。もちろん、「読者への挑戦状」が用意されているように、その時点で(山崎男爵殺しも含めて)動機などから推測することは可能だと思いますが、独居房の位置の偽装がそのまま山崎男爵殺しの真相に直結しているところが秀逸です。
*2: 謎解きの中で、
“猿は諸般の事情により説明しないが”(313頁)とあるのに思わずニヤリ。
*3: 作中では伏線として回収されていませんが、先代亀井伯爵が鶏肉を食べないようになった(156頁~157頁)のは、鳩に対する感謝の念の表れでしょうか。
2012.06.30読了