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聖女の毒杯/井上真偽

2016年発表 講談社ノベルス(講談社)

 まず「第一部」では都合五つの仮説が検討され、(上苙の代わりに)八ツ星少年がそのすべてを否定しています。

〈奇数番殺害説〉 (アミカが犯人)
 交互に盃の向きが変わる飲み方を利用した、“飛び石毒殺”を合理的に説明できる仮説で、その分思いつきやすいともいえますが、盃の銀彩と浮き彫りがうまく使われているところなどはよくできています。

〈時間差殺人説〉 (翠生と紀紗子が犯人)
 被害者たちが倒れたのが演技だったというのは少々苦しいところですし、介抱するふりをして毒を飲ませたというのも面白味のない仮説ではあります。

〈一人前犯行説〉 (アミカ/花嫁/キヌアが犯人)
 一連の犯行と見せかけて、三人がそれぞれ独立して犯行に及んだという、まずまず愉快な仮説。動機の有無はさておき、独立した殺意がバッティングしたことについては、あえて晴れの舞台を選んだという説明をつけることもできるように思います。

〈犬故意乱入説〉 (花嫁と双葉が犯人)
 一見すると無茶ですが、犬が酒好き(苦笑)であることはしっかり示されているので、タイミングを誤らなければそれなりにうまくいくかもしれません。

〈酒毒混入説〉 (全員が共犯)
 某海外古典――というよりも、“不可能状況に対する身も蓋もない回答”という意味で、国内の某問題作*1を思い起こさせる仮説です。

 これだけの数の仮説構築が可能となっているのは、いうまでもなく砒素の摂取経路が特定できないためですが、その大きな要因である“証拠隠滅”――事件発生直後、警察の捜査を待たずして酒器を洗う行為は、いくら何でも無理矢理なご都合主義といわざるを得ません。いくら国宝級とはいえ、酒器である以上はしばらく放置しても傷むはずはなく、それこそ証拠隠滅の意図でもなければあり得ない話で、本来ならば(犯行方法が不明だとしても)酒器を洗ったアミカと双葉が真っ先に疑われてもおかしくないでしょう。

 それはさておき、犯行の“手段”と“機会”ではいずれの仮説も否定できないことから、“動機”に関わる濡れ衣を着せる相手に着目して仮説を否定していく手法が採用されているのは、なかなか面白いところです。特に、アミカ・キヌア・紀紗子が予定より早く帰宅したという形で、三人に砒素を盗む機会を用意しつつ、それを予測できなかった花嫁の犯意を否定する材料としてあるのが巧妙です。

*

 「第二部」に入ると前作と同じように、仮説を提示する“敵”とそれを否定する上苙(と八ツ星少年)という対決の構図が展開されますが、本書ではさらに、「第一部」ラストのフーリンの独白がユニークな効果を添えているのが秀逸です。

〈八ツ星の反証の穴〉 (花嫁が犯人)
 最初のエリオの仮説は、結婚式前日のアミカの体調不良が予測不能ではなく、花嫁による人為的なものだったとして「第一部」での八ツ星の反証を崩そうとするもので、ピザという思わぬ小道具が使われているのが面白いところです。

 それに対して、上苙が燃やすゴミの日という意表を突いた手がかりを持ち出し、食べ残しのピザの行方を検討した末に、犬が食べたという愉快な結論にたどり着くのがお見事。“よく拾い食いするんですが、そのくせ胃が弱くてすぐ腹を下して”(25頁)というところまでしっかり書いてある*2のが周到で、実に意外で鮮やかな推理といえるでしょう。

〈“毒婦の花嫁”説〉 (花嫁と双葉、もしくは俵屋家の女たちが犯人)
 リーシーが提示する仮説は、某海外古典*3でも使われていた砒素耐性によるトリックですが、設定により蓋然性を度外視できることを生かして、俵屋家の女たちが一家揃って砒素耐性だったという無茶な仮説になっているのがすごいところ。しかも、八ツ星少年の反論を受けるとすぐさま“犯人”と“標的”を入れ替え、花嫁まで砒素耐性だったという結論に持っていくのがリーシーらしいというか何というか(苦笑)

 花嫁が犯人だとすれば、命を狙われた俵屋家の女たちが砒素耐性を明かさないのはおかしい、という八ツ星少年の否定は妥当。そして同じ理屈は、逆に花嫁が標的だった場合でも成り立つような気がするのですが……それはさておき、回し飲みの順番が回ってこなかったために蚊帳の外に置かれていた感のある花嫁の伯母が、ここにきて重要な手がかりとしてクローズアップされるところがよくできています。そして、上苙から八ツ星少年へのほのぼのとしたヒントに苦笑。

〈“黄金の衝立”説〉 (家政婦が犯人)
 次にエリオが提示する仮説は、結婚式に参加していなかった家政婦が犯人とする“二階から目薬”トリックで、それだけ聞くと荒唐無稽なバカトリックという印象が拭えないのですが、エアコンによる横風*4に対して透明な細長い管、被害者たちの視線に対して光源や金屏風によるグレア現象、自然光の不安定さに対してアトロピンの散瞳作用と、二重三重の対策を用意してある周到な“謎解き”には圧倒されます。
 ただし、後にエリオ自身が口にしているように“花嫁父からは花嫁の砒素が検出されている”(245頁)*5のであれば、事前には花嫁の砒素を盗む機会がなかった家政婦には犯行が不可能で、(次の〈酒器に細工説〉とともに)仮説が成立する余地がないはずですが……。

 対する上苙は、酒で濡れていた花嫁の足袋を手がかりに、家政婦がゴムサンダルを履いて“カズミ様の祠”まで往復していたというアリバイを証明し、エリオの仮説を完膚なきまでに打ち砕いてみせます。この時点では、家政婦が結婚式の最中にわざわざ屋敷を離れて祠へ向かう理由がまったく見当たらないので、このアリバイはまさに青天の霹靂といっていいでしょう。

〈酒器に細工説〉 (家政婦が実行犯・フーリンが黒幕)
 さて、「第一部」ラストの犯人は、このヤオ・フーリンなのだから。”(129頁)という独白――“犯人の自白”によって幕を開ける意外な展開が、本書の目玉であることは間違いないでしょう。犯人探しをするシェンを相手にした倒叙ミステリにも通じる攻防や、物語が進むにつれて少しずつ示されていく“真相”のヒントもさることながら、“奇蹟”ではあり得ないことが(読者には)明示されている中で、奇蹟を証明しようとする探偵・上苙がどのように対処するのかが最大の見どころ。そして最後には、(実行犯でないとはいえ)自覚のある“犯人”の犯行すら否定してみせるという、前作とはまた違った離れ業が用意されているのに脱帽です。

 しかしながら、ここで説明されている酒を上下二層に分ける毒殺トリックは、かなりの無理があるといわざるを得ません。上苙は“カクテルなどでもよく使う手法”(227頁)としていますが、カクテルグラスと違って浅く広い形状の盃では、酒と水の界面が遥かに広くなる上に、傾けて戻しただけで中身が大きく動くことになります。そのため、一人目の花婿が“豪快に傾けて飲んだ”(43頁)時点で酒と砒素入りの水がだいぶ混じるはずですし、続いて(花嫁を間に挟んで)花婿の父が飲んだ後はなおさらで、(飲む量の問題もあるでしょうが)狙った人物だけに砒素を飲ませるのはまず不可能でしょう。

 これが、いわば“火のないところに煙を立てる”ような“仮説”にすぎないのならともかく、実際には実行されなかったとはいえ、フーリンが黒幕として計画を立て、計画通りに実行されたと確信していたトリックとしては、あまりにも確実性に乏しいのは否めません*6。つまるところ、これは“犯人”の導入による副作用であって、“犯人”が存在することで“普通のミステリ”に近づいた分、このシリーズならではの“利点”が損なわれているといえるのではないでしょうか。

 また、先の〈家政婦犯人説〉で検討した家政婦のアリバイを踏み台にして、酒器の仕掛けを回収する機会がなかったとする否定は鮮やかではあるものの、前述の“あり得ない証拠隠滅”に支えられているのが難点。しかも、“事件後アミカは酒器を仕舞うのをしばらく忘れていたが、「月の間」にいたときに思い出し、急いで小間に戻り納戸に仕舞った(表の一六時五〇分)。このとき双葉も洗うのを手伝った。”(84頁)という記述によれば、被害者たちが倒れた一六時四五分(79頁/232頁の表を参照)からわずか五分の間に、アミカは大座敷から「月の間」へ、再び大座敷から台所へ、そして酒器を洗って(おそらくはきれいに水気を拭き取って)納戸に仕舞うまでを済ませたことになるわけで、時間的に(絶対不可能とまではいえないにしても)かなり苦しいところですし、印象としてはそれこそ“慌てて証拠隠滅を図った”以外の何物でもありません。

〈犬だけ殺害〉 (エリオが犯人)
 犬の首輪の鈴に仕込まれた罠はなかなかよくできていて、犬が水を飲むときに仕掛けが発動しないよう、飴を油脂でコーティングしてあるところなどは周到です。回し飲みの場面で“犬は盃に首輪の鈴ごと顔を突っこむと”(45頁)としっかり書かれているので、シェンが犬と晩酌する際にも鈴が酒に浸る蓋然性は高いでしょう。

 少々気になるのが、(作者としては当然ですが)殺人事件に合わせて砒素が用いられている点で、一発で確実に致死量を摂取させなければならない――下手をすると犬だけが死んで疑われることになる――この仕掛けが、“致死量はおよそ百から三百ミリグラム、(中略)溶解速度は若干遅い”(65頁)砒素でうまくいくとエリオが確信できるのかどうか、やや疑問ではあります。

*

 「第二部」では最終的に、“奇蹟+エリオによる犬殺害”という結論に落ち着いていますが、前作をお読みになった方が当然予想されていたように、「第三部」では“奇蹟”を否定する〈最後の真相〉が明らかにされています。見落としがあったとはいえ、花嫁の伯母の再登場と“真実を、知りたいですか?”(251頁)という一言だけを手がかりに、“花嫁の父が犯人”という真相とその手口を解き明かす上苙は、さすがというべきかもしれませんが……。

〈最後の真相〉 (花嫁の父が犯人)
 花嫁の父はまず、“被害者”の一人ということで盲点といえなくもないかもしれませんが、例えば撲殺などと違って、服毒が自身でも実行可能なことは明らかですから、少なくとも毒殺をめぐるフーダニットにおいて自殺の可能性が検討すらされないのは、あまり例がないように思います。というわけで、フーダニットが前面に出されている中で、上苙がこの可能性を見落としておきながら“奇蹟”を謳うのは、さすがに釈然としないものがあります*7

 とはいえ、“花嫁の父が犯人”という仮説を否定するには砒素の入手と毒殺の不可能性に言及せざるを得ない一方、それを打破する二つのトリック――花嫁の伯母の一人二役と、花嫁道中での替え玉――を積極的に示唆する手がかりはなく、(上苙の謎解きにも表れているように)“花嫁の父が犯人”と確定したことをほぼ唯一の根拠として導き出されるわけですから、事前に可能性を検討して“花嫁の父にとっての不可能性”を強調するわけにはいかない*8、という作者の事情も理解できるところではあります。その意味で、「第一部」で八ツ星少年に“事前に花嫁の砒素を入手可能なのは(中略)アミカさん、キヌアさん、紀紗子さん、それと花嫁自身、その四人に限られそうです。”(75頁)と、砒素の入手可能性を通じて花嫁の父を暗黙のうちに除外させているのは、なかなか巧妙というべきかもしれません。

 ところで、花嫁の伯母の告白をひとまず無視して「第二部」までの情報をもとに、“花嫁の父の自殺”の可能性を念頭に置いて考えてみると、否定しがたいもう一つの仮説が浮かんできます。作者も気づいていながらスルーした可能性はありますが……。

〈別解〉 (アミカが犯人/花嫁の父が自殺)
 〈最後の真相〉で、花婿と花婿の父を殺害する手段として“毒盃説”が採用されていることで、お気づきになった方もいらっしゃるかもしれませんが、花嫁の父の自殺を“別の事件”として切り離してみると、〈奇数番殺害説〉――アミカが二人分の砒素を盃に仕込んで花婿とその父を殺害した――が成立します。この場合、アミカの予定では花婿の父で“打ち止め”だったのですから、自身が酒を飲んだことが否定材料にならないどころか、“自分も危うく死ぬところだった”という状況を演出できる――むしろ飲まなかった方が(体調不良という理由もあるにせよ)「毒入りだと知っていたのではないか?」と疑われかねないように思います。

 一方、花嫁の父が砒素を入手した手段は、上苙が解明したトリックをそのまま採用してもいいのですが、アミカが花嫁の砒素を盗んだことで“量が減った”のは説明がつくので、気づかれない程度の少量であれば(一人分の致死量“およそ百から三百ミリグラム”(65頁)ならば大丈夫でしょうか)結婚式前日よりもさらに前、花嫁が実家にいる間に盗むことも可能で、苦しいトリックを弄する必要もなくなります。また、自分だけが死ぬのであれば、少なくとも花嫁に疑いがかかることはなかったと考えられる*9ので、花嫁の砒素を使っても不自然ではないでしょう。
* * *

*1: (作家名)清涼院流水(ここまで)の長編(作品名)『コズミック』(ここまで)
*2: “燃やすゴミの日”の件も含めて、読者に対しては明示されているものの、八ツ星少年が知り得たかどうか、また(一見すると事件に関係なさそうなので)そこまで上苙に伝えるものかどうか、少々疑問の残るところではありますが……。
*3: (作家名)ドロシイ・L・セイヤーズ(ここまで)の長編(作品名)『毒を食らわば』(ここまで)
*4: “その反論はすでに八ツ星から受けている”(202頁)のであれば、リーシーの“横風に煽られれば一発ですね?”(201頁)という問いに対する答えがおかしいような気が……。
*5: これについては、家政婦犯人説を成立させるために曖昧なままにしてあったのだと思われますが、最後にボロが出てしまっているのが何とも。
*6: フーリンは“多少殺し損ねてもまた別の機会を狙えばいい”(229頁)と独白していますが、“狙った相手以外の人物が死んでもかまわない”とまで考えていたかどうか、大いに疑問です。飲む酒の量が少ない女たちだけが助かることを期待できなくもないかもしれませんが、それなら実効性が怪しげな仕掛けを酒器に施すまでもなく、最初から酒に砒素を混入しておいた方が、仕掛けを回収する手間も必要なくなります(上苙が仮説を否定する材料もなくなりますが)。
*7: この点、前作ではあくまでも(一応伏せ字)“リゼに犯行が可能だったか否か”(ハウダニット)が焦点となっていたため、“別の犯人”という可能性が盲点となってもおかしくなかった(ここまで)、といえるように思います。
*8: 一度は“花嫁の父には不可能”と否定しておきながら、新たな手がかりが追加されることもなしに“この方法ならば花嫁の父にも可能”と結論をひっくり返すことになり、「最初の検討は何だったのか……」というアンフェア感が生じるので、それよりは“可能性の見落とし”の方がまだ傷は浅いと思われます。
*9: 自殺だと露見してもかまわないかもしれませんが、キヌアかアミカが疑われることもあり得たでしょう。花嫁については、花嫁の父だけを殺す手段がない……はずのところ、犬の乱入で少々怪しくなる感はありますが、花嫁の父には予測できない事態なので致し方ないかと。

2016.07.13読了