キリサキ/田代裕彦
最初の『キリサキ』は誰なのか、そして《俺の体》に入っているのは誰なのか――といったあたりを明示的な謎として物語は進んでいきますが、《俺》が霧崎いづみの姿で《俺の体》を呼び出して殺そうとするクライマックスに至って、考える暇がないほど次から次へと意外な真相が持ち出されるのが圧巻です。とはいえ、一つ一つ考えてみると、どうも気になるところが……。
- [1]《俺の体》に入っていたのは《俺》だった
物語中盤ですでに
“《誰か》は《俺》だ。”
(159頁)という確信が示されているものの、《俺》自身もいづみの体で体験した“記憶の復活”が、それなりに効果的なミスディレクションとなっています。そしてもちろん、序盤にナヴィが実に何気なく語っている“時間理論”――“向こうの世界”での時間のありようが重要な手がかりとなっているため、真相にたどり着くのはやや難しいかもしれません。もっとも、《俺》が“自分がどのように死んだのか”をほとんど気にかけないのが、読んでいてかなり不自然(*1)で目立っており、またメインの謎の一つとして扱われてもおかしくないそれがほぼ完全にスルーされていることから、そこに作者が隠しておきたい“何か”があることは予想できるので、《俺》がまだ死んでいないという可能性に思い至ることもできなくはないでしょう。
それでも、“被害者=犯人”という奇妙な真相をユニークな形で成立させてあるのは確かで、特殊設定をうまく使ったSF/ファンタジーミステリならではの魅力的な解決といえます。
- [2]霧崎ひとみの体には別人の精神が入っていた
ここでナヴィは(次の[3]と同じく)《知識》を披露していますが、読者には推理が可能で、《俺》が思い返している手がかり――
“他の人間は私を認識していない(中略)から、見えない”
(45頁)という設定を裏返した、“ひとみにはナヴィが見えていた”ことをさりげなく示すエピソードが秀逸。このケーキショップの場面、最初にさらりと“隣に座るひとみ”
(194頁)と書かれた後、ナヴィには言及されないまま進んでいき、最後の一行になってようやく“正面に座るナヴィ”
(198頁)と書かれる(*2)ことで、手がかりの存在が隠蔽されているのがお見事です。しかし、これも面白い真相ではあるのですが、“ひとみ”の立場からすると少々おかしなところがあるような……というのも、後に明かされるように
“いづみが邪魔だった”
(281頁)ので自殺に追い込んだとすれば、“いづみ”の復活という計算外の事態への対処が必要になるわけで、そのためには何をおいても、“いづみ”の体に入っているのがどのような人物なのかという情報が必要でしょう。つまり、“いづみ”(《俺》)の目の前ではナヴィを“見ないように努力”
(262頁)するとしても、《俺》の目の届かないところでナヴィに接触を図ろうとするのが自然だと考えられます。もちろん、ナヴィの目的からすればそれをはねつけることになるでしょうが、それでも真相が明かされる際のナヴィと“ひとみ”の台詞は違ったものになってくるはずで、少なくとも“ひとみ”がナヴィを無視し続けてきたかのような発言が出てくるのは、いささか不自然ではないでしょうか。
- [3]霧崎ひとみの体に入っていたのは『キリサキ』だった
後に刑事たちの疑念――特に鋏の写真への反応によるもの(300頁~301頁)――が示されているように、またナヴィが指摘している
“チョキンとか切られちゃうのかな”
(130頁)という言葉のように、細かい手がかりをもとに誰が『キリサキ』なのか読者が見当をつけることも不可能ではないかもしれませんが、実際のところはかなり難しいでしょう。刑事たちのパートは“いづみ”の方が疑われていると読者をミスリードするように注意深く書かれています(*3)し、《俺》のパートでは《俺》自身がまったく“ひとみ”を疑っていないことで、真相が見えにくくなっています。いずれにしても、決め手とまではいえないこともあって、ナヴィは“推理”ではなく《知識》の披露という形で真相を示していますが、この場で《俺》と“ひとみ”の双方を納得させる上では効果的。どのみち、ナヴィが“ひとみ”(『キリサキ』)をひとみの体に案内したことはすでに《知識》として提示されていますし、《俺》が“二、三、四番目の『キリサキ』”であることも《知識》として“ひとみ”に示さなければならないのですから、まずまず妥当な手順といっていいでしょう。
“最新の『キリサキ』”については、“二、三、四番目の『キリサキ』”である《俺》がその時点まで生きていたために少々ややこしいことになってはいますが、凶器が鋏であったことですっきり否定されているのがうまいところです。
- [4]霧崎ひとみの体に入っていたのは《俺》の姉だった
これに関しては、事前に真相を推理可能な手がかりは見当たりませんが、上記[3]の段階で明かされている、ひとみの死体の傍に姉の死体があったという事実が、ショッキングな真相を補強して受け入れさせる強力な伏線――というには直前すぎるかもしれませんが――として機能しているのが巧妙です。
- [5]ナヴィは死んだ後の霧崎いづみだった
手がかりも伏線もなく、完全に予想外の真相ですが、『キリサキ』を追い詰めようとするナヴィの行動からすれば納得できるところがありますし、《俺》といづみの完全な入れ替わりという結末が――定番ながら、それゆえに――しっくりくるのは確かです。が、私見ではこの真相が大きな問題。
ナヴィ=いづみだったとすると、《案内人》は生き返る体を選ぶことができる(39頁)にもかかわらず、いづみは《俺》の姉――『キリサキ』の精神をひとみの体に案内したことになります。もちろん、その時点では『キリサキ』としての犯行はなされていないのですが、ひとみと一緒に不審死を遂げた人物――場合によっては殺人犯かもしれない人物であることはわかるでしょうから、何の警戒もせずそのままひとみの体に案内するというのは、いくら何でも心情的に不自然といわざるを得ません。
いづみは自殺する前に、『キリサキ』の精神が入った“ひとみ”と出会っているのだから、『キリサキ』の精神をひとみの体に案内せざるを得なかった――という、時間SFではおなじみのタイムパラドックスの回避と考えることもできるかもしれませんが、作中ではタイムパラドックス関連の話はまったく出てこないので詳細は不明。単純なタイムトラベルとは違うので、タイムパラドックスが生じない可能性もあるかもしれません。
それでも一応、タイムパラドックスが生じ得るとして考えてみると、自分が何者なのかを“ひとみ”がいづみに明かしていたとは思えないので、いづみの経験は“自殺するまで“ひとみ”が生きていた”にとどまり、したがって急死したひとみの体に“誰か”の精神を案内する必要はあるとしても、それが『キリサキ』でなければならない理由はないのではないでしょうか。いづみが自殺した事実は動かせない(*4)までも、前述のように殺人犯かもしれない人物であるわけですから、(本書でそうなっているように)“ひとみ”に汚名を着せる羽目になる危険は冒せないのではないかと思うのですが……。
このあたりは、特殊設定の自由度が高い――いわば“緩い”まま、あれもこれもとやりすぎてしまったことによる弊害といえます。例えば、『キリサキ』をひとみの体に案内したのが別の《案内人》だったりすれば、この問題は解消されると思いますが、そうすると今度は[2]~[4]に問題が生じることになり、あちらを立てればこちらが立たずという有様です。
最後にもう一つ、“《異常な人間》のせいで死んだ人間には寿命が残っている”というナヴィの推測が正しければ、“最新の『キリサキ』”の被害者である杉山理恵にも寿命が残っているはずなのですが、そこがまったく無視されているのも気になります。『キリサキ』を追い詰めようとするナヴィ(いづみ)にとっては、『キリサキ』の犯行がなかったことになっては困るのではないか、ということもありますし……。
*2: これがないと、(ケーキショップでは考えにくいかもしれませんが)“隣の席”しかないカウンターの可能性もありますし、そもそもナヴィがその場にいるのかどうかわかりません。
*3: “いづみ”(《俺》)が実際に“二、三、四番目の『キリサキ』”であることも、ミスリードに貢献しています。
*4: 実のところ、“ひとみ”の体に入っていたのが誰なのかいづみが知らない場合には、『キリサキ』(《俺》の姉)ならばいづみが自殺することになる、という保証もありません。
2013.01.30読了