凶宅/三津田信三
クライマックスで明らかになる〈ヒヒノ〉らの正体には驚かされました。“この山に棲んでいる”
(50頁)という表現がミスディレクションとなっているのももちろんですが、序盤に“ヒヒノは週末にならないと休みがもらえない、まるでサラリーマンではないか”
(73頁)という大胆なヒントが示されているにもかかわらず、この時点では翔太が〈ヒヒノ〉と“人影”を同一視しているためにあっさり否定されているのが巧妙です。
言葉遊びの域を出ない奇妙な名前のルール(317頁)には脱力ですが、翔太に視点が固定された“一人称的な三人称”により、ほぼ一貫して“父”・“母”・“姉”と名前を意識させない叙述で真相が隠されているのも秀逸。逆にいえば、池内桃子の日記の中で“お父さんがかけた表札がある。池内圭次、昌子、圭一、桃子、梨子、栗子と家族の名前と、その読みまで書かれている。”
(150頁)と、わざわざ家族全員の名前が示されるという不自然な記述が、名前が手がかりであることを示唆しているといえるかもしれません。
一方、家の中に現れた“人影”については、幽霊――過去の死者だと散々ミスリードした上で明かされる、これから死ぬ家族の未来の姿だという真相が面白いと思います。桃子が和室以外でも人影を目撃したにもかかわらず、自殺したのが祖父だけだったというのは、他の自殺者が出る前に引っ越したということかと思われますが、いずれにしても(〈ドドツギ〉らの件も含めて)、桃子の日記が手がかりであると同時にミスディレクションにもなっているのが見逃せないところです。
〈ヒヒノ〉らが家族の別人格であり、“人影”が家族の未来の姿ということで、二つの怪異が同一でもあり別個でもあるという微妙な関係として設定されているのが興味深いところ。またこれに関して、「『凶宅』(三津田信三/光文社文庫) - 三軒茶屋 別館」の“三津田版ドッペルゲンガー”
という解釈になるほどと思わされました。
事態が一応の終息をみせた後の、“昨日の夜、羊のハネタが出たよ”
(348頁)という最後の一行が非常に秀逸で、明かされた際には脱力ものと思われた言葉遊びをうまく生かして、何が起きているのかを鮮やかに、かつスマートに示しているのが見事です。