舞面真面とお面の女/野﨑まど
本書は、「一月 一○日」の章で一旦は謎が“現実的に解明”された後、最後の「一月 一二日」の章では面が妖怪だったという“オカルトな真相”が提示される、二段構えの構成となっています。現実的な謎解きの後にオカルトな結末を用意するという趣向そのものについては、ミステリファンであればいくつもの前例(*1)を挙げることができると思いますが、それらの大半がどんでん返し/サプライズを狙ったものであるのに対して、本書はそれとはやや違ったところがあるように思われます。
例えば、面を被った“みさき”の不自然に時代がかった口調(*2)や、面の口元におちょこを持ってきただけで“飲んでいる”という奇妙な振る舞い(93頁・他)など、随所に“真相”を匂わせる部分がありますし、“みさき”の“これはな、妖怪の面なんだよ”
(198頁)という台詞などは必要以上に露骨――伏線の一つであるとしても、ストレートな“妖怪”という言葉ではなく、もっと濁した表現ができるはず。また一方で、“封じられた超自然的な存在を解き放つ”というストーリーが定番だとはいえ、わざわざ作中で“熊さん”にそれらしいことを口にさせているのは、作者が“真相”を隠そうとしているにしては解せないところがあります。というわけで、妖怪という“真相”そのものはサプライズを狙ったものではないのではないかと思えます。
むしろその“真相”が比較的予想しやすかっただけに、個人的にはその手前に用意された“現実的な解明”の方に少々意表を突かれました。まず、“心の箱”を壊して開けたこと自体は半ば手詰まりによるところもあるでしょうが、“心の箱”に何も入っていなかった(ように見える)ことの解釈から、“体の石”の豪快な処理につながっていくあたりはなかなか面白いと思います。また、他に該当しそうな“面”が登場していないこともあって、“みさき”が謎解きに絡んでくることはどう考えても必然ではありますが、遺言状がクイズであることを前提として、“みさき”を解答の“判定人”と位置づける推理――面を利用した入れ替わりも含めて――が秀逸です。
しかして、真面が導き出した解答、すなわち“箱を解き 石を解き 面を解け”に対して“何をすべきか”(特に前の二つ)については、妖怪という“真相”が提示されても正解のまま(*3)だというのが異色。謎そのものの違いによるところもあるでしょうが、この種の趣向では概して最後に提示されるオカルトな結末が、現実的な謎解きを根本から瓦解させる(*4)ものとなっているわけで、本書はそれらの“どんでん返し”(もしくは“卓袱台返し”)とは違った味わいとなっています。もちろん、“箱を解き 石を解き 面を解け”がクイズではなくストレートな“命令”であり、“解け”の意味するところが“解明”ではなく“解放”であり――といった具合に、解答の前提や意味合いは変わってくることになりますが、最終的には“よきものが待っている”についての結果まで同じことになっているのが何ともいえません。
つまり本書は、現実的な謎解きがオカルトな“真相”でひっくり返されるというよりも、現実的な謎解きにオカルトな“真相”が付け足される形であって、しかもそれによって物語の枠組みだけが拡張される――ミステリからオカルトへ完全に移行するのではなく、ミステリがオカルトミステリに変化する――という趣向が凝らされているととらえることができるのではないでしょうか。
そして枠組みの拡張のキーが、ごくごくシンプルではあるものの、手がかりをもとにしたロジカルな推理によって導き出され得るものとなっているのが面白いところ。“みさきは、人差し指で面のケチャップをざっと拭った。”
(204頁)というその手がかりは地味ではありますが、何かが付着していないかどうか確認するためであれば人差し指だけを使うのは不自然なので、面に感覚があることを示す手がかりとしてフェアに示されているといっていいでしょう。
三隅ただ一人を常人の立場からのいわば“立会人”として残し、他の登場人物を一切排して真面と“お面の女”との対決を描いた「一月 一二日」の章は、それまでとは打って変わってスリリング。遺言に従って“面”を解いたのみならず、自身の“面”も解いて“あちら側”に踏み出した真面の姿に、何ともいえない感慨のようなものが残ります。
*2: キャラを立てるだけのためにしては、ここまでする必要はないように思われます。
*3: もちろん、そうでなければ“面”に対する“引っかけ”は成立しないわけですが。
*4: 特に、(人間にとっての)不可能を可能にすることで、ハウダニットに関する推理を完全に無効化してしまうのが典型です。
2010.05.11読了