ネタバレ感想 : 未読の方はお戻りください
  1. 黄金の羊毛亭  > 
  2. 掲載順リスト作家別索引 > 
  3. ミステリ&SF感想vol.231 > 
  4. 月明かりの男

月明かりの男/H.マクロイ

The Man in the Moonlight/H.McCloy

1940年発表 駒月雅子訳 創元推理文庫168-12(東京創元社)

 コンラディとディートリッヒがナチスを挟んで逆の立場にあるために、二人の被害者に共通する動機が見当たらないのがまず大きなポイントですが、終盤になって、この問題を解消するために――犯人自身による“偽の解決”として――“コンラディ偽者説”まで持ち出されるのが面白いところ。収容所にいた割には体に拷問などの痕跡が見当たらないことや、アメリカに来てからの研究内容の乏しさなど、“偽者説”につながる“伏線”が序盤から用意されているのが周到です。

 しかして、そのコンラディの実験の秘密が中核に位置する“真の動機”が非常に秀逸。クロム酸を扱いながら*1も、癌の研究とはかけ離れた(ように見える)画期的な人工クロム鉄の製法が飛び出してくるところからして予想外ですが、天然のクロム鉄鉱石を不要とするその研究成果が引き起こす、“クロム鉄鉱山”(127頁)を主力とするサザーランドの鉱業会社の株の暴落という思わぬ余波*2が、非常によくできています。

 この余波がさらに、終盤に一つの謎となっている、関係者たちが揃いも揃って――最初に提案したプリケット博士自身でさえも――嘘発見器検査を拒否する異常事態にも関わってくるのも見逃せないところ。すなわち、拒否するよう関係者に指示したサザーランドの思惑が、劇的な形で正体が判明する“姿なきタイピスト”――密かにてんかんを持病に抱えていたホールジーを守るためと思わせて、当のサザーランドにも動機があったことを隠すという、二段構えの仕掛けになっているのが周到です。

 ……ということで、経済的な損失を防ぐためにコンラディの研究を葬り去るという動機が浮上してくるわけですが、それが直接の影響を受けるサザーランドにとどまらず、いわば間接的な損失を被る――鉱業会社の株という形での大学への寄付(146頁~147頁)から資金を受け取ることになる――人物の中に犯人が隠されているのが実に巧妙。もっとも、作中に配置された数々の手がかりに加えて、そもそもコンラディ殺しとの関連が薄そうなエイミーが殺された時点で、夫のソルトに疑いが向いてしまうのは避けられないところではありますが……*3

*

 さて、ウィリングが最初に指摘する犯人の手がかりは、北側の窓を割ったのはあなたですか?”(58頁)という失言。事件の前に(フォイルの視点で)現場周辺の位置関係が説明されている*4とはいえ、見取図でもなければ把握しづらいきらいはありますが、チャペルとホールの間の小道を歩いて図書館へ行き、図書館からホールへ来たと証言し(59頁)中庭の北側を通っていないはずのソルトが、割れた窓を確認するのは確かに不可能です*5

 (順序は前後しますが)失言でいえば、自殺と発表されているディートリッヒの死に関して“ディートリッヒを殺したのも彼女でしょう”(237頁)と口にしてしまった方がわかりやすい……はずなのですが、その直前に落とされた“コンラディ偽者説”という“爆弾”の陰に隠れている感がありますし、他の関係者(フェンロー)がすでにディートリッヒの死の状況を知っていた(208頁)ことも、ソルトの失言の重要性を隠蔽するのに一役買っているところがあるように思われます*6

 そして“月明かりの男”の目撃証言については、警備員のウッドマンはプリケットを、プリケットはサザーランドを、そしてソルトはエイミー(これについては後述)を、といった具合にそれぞれ“誰を指しているのか”がやけにあからさまな一方、かなり早い段階で三人とも嘘をついているね”(83頁)と断定されているので、どのような扱いになるのか困惑させられるところですが、エイミーを“犯人”に擬したソルトの“無意識の嘘”*7から、ソルトのエイミーに対する憎悪が暴かれるのが鮮やか。そこからさらに、エイミー殺し発覚前後のソルトの言動が読み解かれていくところもよくできています。

 ところで、ソルトの証言した“犯人”の服装は“薄青色の長いドレスです。靴はハイヒールでした。黒っぽいコート(後略)(60頁)というもので、事件前にフォイルが目にしたエイミーは確かにそれらしい服を着ている*8のですが、ウィリング博士が出会ったギゼラの姿が“着ているのはたぶん黒っぽいコートと薄青色のドレスだろう”(64頁)と、証言そのままに描写されている――それでいて、ホールに着いてみると“紫色の質素な手織りのスポーツコート”はともかく“ワンピースの生地は白いシルクのジャージー”(68頁)になっている*9――のは、さすがにあざとく感じられます。エイミーについてはあまり早く読者の注意を引きたくなかった、と同時に、一度ギゼラに読者の疑いを向けておきたかった、というのはわからないでもないのですが……閑話休題。

 そして最後の決め手とされているのは、コンラディの“遺書”に残った“母国(ho;e country)”(93頁)などのタイプミスですが、とりわけ邦訳の場合にはその部分だけ原文を表記する必要があるため、それが手がかりとして使われることが見え見えになってしまうのは否めません*10。しかも、フォイルは“暗闇でキーを叩いたせい”(93頁)としているものの、おなじみのQWERTY配列(→Wikipedia)では離れたところにある“m”と“;”の打ち間違いはまずあり得ないわけで、QWERTY配列とは異なるキーの配列――言語の問題であることまで、早い段階で十分に予想できるのではないかと思われます。

 そうすると、それがフランス版の配列(→「AZERTY配列 - Wikipedia」*11とまではわからなくても、フランス語用のポータブル型レミントン”(137頁)が出てきた時点で犯人も明らかになりそうなところですが、ここではあくまでもソルトとオーストリアとのつながりを否定する材料という形で、本などとともにフランス語に焦点を当ててあるために、タイプライターが目立たなくなっているところがあるように思います。そう考えると、“オーストリアからの亡命者”という被害者の設定を巧みに利用した仕掛け、というべきかもしれません。

*1: コンラディの鼻孔の間の炎症(95頁)が、実際にクロム酸を使っていたことの裏付けとなっている(168頁~169頁)のがうまいところです。
*2: さらに、フェンローが語っている(329頁~330頁)ように、中国を取り巻く諸外国の動きに及ぶ影響まで考えられているのに脱帽。
*3: ソルトは“ギゼラが犯人だと気づいたため”と主張しています(238頁)が、後の作品にも登場するギゼラが犯人ではあり得ないことを抜きにしても、エイミーが“ギゼラ犯人説”の前提となる“コンラディ偽者説”に思い至るとは考えられないので、これは明らかに無理筋でしょう。
*4: “向かいの南側にはチャペル。西側、すなわち図書館の正面には三階建てのレンガ造りの建物。”(18頁)
*5: ソルトの立場からすると、わざわざ割れた窓に言及する必要はないと考えられるので、やや不自然に感じられる部分もありますが。
*6: フェンローはスカッシュコートに“わたししかいなくて”(211頁)としているので、ソルトが同じようにスカッシュコートの空調を介してディートリッヒに関する話を聞いた可能性はないのですが、“もはや極秘情報ではない”ように印象づけられるのが巧妙です。
*7: ウッドマンとプリケットが“ぼんやりと見えた人物”について証言したのに対して、ソルトの場合は“そもそも見ていない人物”についての証言なので、“無意識の嘘”といえるのかどうか、少々気になるところではありますが、罪を着せる人物の選択に関しては無意識だった、ということになるでしょうか。
*8: “サファイア色の長いウールのコートと(中略)青いハイヒール”(37頁)“薄青色のスカート”(39頁)
*9: 最初は暗がりで見間違えたにしても、ソルトの証言そのままの“薄青色”というのは、少々いただけないところではあります。
*10: といいつつ、これ見よがしに原文がすべて表記されているディートリッヒの“遺書”(202頁)の方は、アルファベットに間違いはなくコンマとピリオドが入れ替わっているだけという、地味な“間違い探し”になっているところにニヤリとさせられます。
*11: ウィリングの説明の中で“フランス型のセミコロンはアメリカ型の小文字の“m”の位置”(345頁)とあるのは、“フランス型の小文字の“m”はアメリカ型のセミコロンの位置”の間違いではないでしょうか。

2017.09.10読了