ハサミ男/殊能将之
本書でまず目につく仕掛けはやはり、語り手の“わたし”――〈ハサミ男〉の正体に関する叙述トリックで、“わたし”(女性)を男性だと誤認させる性別誤認トリックと、“わたし”(安永知夏)を日高光一だと誤認させる人物誤認トリックとが組み合わされたものになっています。
性別誤認を支えているのは、“わたし”に関する描写の徹底した中性化(*1)という定番の手法ですが、特に会話についてはよく考えられていて、例えば仕事先では若いアルバイトの立場であるなど、他者との会話は(中性的な)丁寧語で通しても不自然ではない状況ばかりになっています。一方〈医師〉とのやり取りは、そのモデルとなった父親への反発もあってか、父親相手の口調(498頁)と対照的になるのもうなずけるところです。そしてもちろん、シリアルキラーとしての“わたし”にマスコミが与えた〈ハサミ男〉という呼称が、性別誤認に大きく貢献しているのがうまいところです。
“わたし”が女性であることを示唆する伏線としては、まず“トイレで用を足した後、立ちあがった”
(66頁)という記述があり、洋式便器に腰を下ろして小用(*2)を済ませたことから、(一概にはいえないものの)少なくとも女性である可能性が匂わされているといえます。また、樽宮由紀子の服装を見て“豊富なワードローブがうらやましかった。”
(70頁)と独白しているのも、一般的な男性ではあまり出てこない発想ではないかと思われます。加えて、本筋とはまったく関係ありませんが、作中で二度にわたってSF作家ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア――正体を隠して男性の名前で作品を発表していた(*3)――の名前が登場している(133頁/209頁)のは、作者からのしゃれたヒントでしょう。
人物誤認の方は、“わたし”のパートで日高の存在を隠すとともに、警察――磯部刑事の視点で描かれたパートでは安永知夏の存在を隠し、樽宮由紀子の死体の発見者という共通点を利用して、“わたし”=日高だと見せかける“二人一役”トリック(*4)になっています。特に警察のパートでは、“わたし”は死体の発見者として序盤(「第一章」)にごくわずかに登場するにとどまり、安永知夏という名前すら出てこない有様。一方で、目黒西署の刑事たち(磯部刑事を除く)の企みもあって日高が“容疑者”としてクローズアップされてはいるものの、事情聴取などの描写は省略されて“わたし”のパートで巧みに“代用”されているのが見事です。
“わたし”と日高が別人であることを示唆する伏線はちょっと見当たりませんが、“わたし”が女性であることがわかれば自動的に日高でないことは明らかなので、前述の伏線で十分といってもいいのではないでしょうか。私は残念ながらそこまで知った状態で読みましたが、作者自身もインタビューで“半分くらいの読者は分かるだろうと想定している”
と語っている(*5)ようで、勘のいい読者は叙述トリックを見抜くのもさほど難しくないかもしれません。しかし、そこにもう一つの“罠”が……。
というのも、本物の〈ハサミ男〉である“わたし”が樽宮由紀子殺しの犯人ではないことが序盤で明示されているわけで、“わたし”=日高と見せかける叙述トリックに引っかかっている限り、読者は日高に疑いを向けようがない、ということになります。裏を返せば、磯部刑事視点のパートでの扱いはさておき読者にとっては、叙述トリックを見抜くことではじめて日高が樽宮由紀子殺しの容疑者として浮上することになるのですから、そこで“日高から疑いをそらすための叙述トリック”だと考えてしまってもおかしくはないでしょう。
つまり、叙述トリックに気づいてメタ的な読み方をすることで、作者の狙いが“日高が犯人という真相を叙述トリックで隠蔽する”ことにあると思い込まされ、結果として真犯人から目をそらされることになる――叙述トリックを見抜くことでかえって真相が見えにくくなる、実にユニークな仕掛けといえるのではないでしょうか。
もちろん、“わたし”が目をつけた容疑者――樽宮由紀子とハンバーガー店に行った“ブランド品らしきスーツを着た四十歳前後の男性”
(50頁)は、描写からみて明らかに日高とは別人なのですが、問題の人物が“わたし”の探偵活動の中ではまったく浮上してこないのがくせもので、“わたし”の方が“的を外して”いるのではないかと思わされるところがあります。その点は、堀之内の作戦が功を奏したといってもいいでしょう。
警察の捜査活動が一貫して磯部刑事の視点で描かれることで、目黒西署の刑事たちの堀之内への疑いがしっかりと隠されているのも、実に巧妙なところ。「第十三章」の慰労会では数々の手がかりが列挙されていますが、“信頼できない語り手”ならぬ“騙されている語り手”をうまく使うことで、それらの手がかりを目立たせないようにしてあるところがよくできています。
それにしても、ハッピーエンド(?)を迎えたかと思えば、不穏な気配を漂わせるラストは……(苦笑)。
*2: いささか尾篭な話で恐縮ですが、“わたし”が血便を疑っている様子がないことから、小用のみと考えていいでしょう。
*3: 詳細は「ジェイムズ・ティプトリー・Jr. - Wikipedia」を参照。
ちなみに、作中で〈知ってるつもり!?〉のサブタイトルとされている「男たちの知らない女」は、ティプトリーの代表作の一つです(短編集『愛はさだめ、さだめは死』に収録)。
*4: 拙文「叙述トリック分類#複数を一人と誤認させるもの(二人一役)」を参照。
*5: 「ユリイカ」1999年12月号掲載のインタビュー →「taipeimonochrome ミステリっぽい本とプログレっぽい音樂 » ハサミ男 / 殊能 将之」で引用されている箇所を参照。
2013.04.10読了