ネタバレ感想 : 未読の方はお戻りください
  1. 黄金の羊毛亭  > 
  2. 掲載順リスト作家別索引 > 
  3. ミステリ&SF感想vol.149 > 
  4. 最後のトリック

最後のトリック/深水黎一郎

2007年/2014年発表 河出文庫 ふ10-1(河出書房新社)/(『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』講談社ノベルス(講談社))

 “読者が犯人”という仕掛けの前例として、作中では“犯人を読者にしちゃった”(57頁/ノベルス50頁)作品(→国内作家T.M.の作品[作者名→作品名を表示]のようです)や“登場人物の一人がくるりと振り返って読者を告発する”(57頁/ノベルス50頁)作品(→国内作家N.H.の作品[作者名→作品名を表示]のようです)が挙げられていますが、前者は特定の読者だけを犯人とするものであり、また後者では“犯人”という言葉の意味が拡大解釈されている――読者が直接手を下したわけではない――と考えられます。

 これらの作品を超えるべく、本書では不特定の読者全員を(ある程度)直接的な犯人とするという目標が設定されているのですが、それを達成するのが至難の業であることは明らかでしょう。そもそも、作者は読者に対して“読む”こと以外の行為を期待することはできない*1のですから、いかにして読者に直接手を下させるかというのがまず大きな問題となります。本書ではそれをクリアするために、読者の“読む”という行為そのものを“犯行手段”としてしまう、コロンブスの卵のようなアイデアが採用されているのが秀逸です。

 実のところ、読者の行為を“犯行手段”とする仕掛けには国内作家T.K.の作品[作者名→作品名を表示]という前例もあるのですが、そちらは[仕掛けの内容を表示]というものであり、やはり“犯人”という言葉の意味が拡大解釈されているととらえるべきでしょう。また、国内作家K.T.の作品[作者名→作品名を表示]では、[仕掛けの内容を表示]というユニークな仕掛けによって、読者の行為が犯行に直結している点で本書に近いものがあるのですが、犯行が“読む”ことから切り離されているために、場合によっては読者以外も――“読む”までに至らなくとも――犯人となり得るのが惜しいところです。

 それらの前例に対して本書の仕掛けは、超能力(の一種)という特殊設定に負っているとはいえ、“読む”という読者の行為をそのまま“犯行手段”とするもので、読者に手を下させるという点では“究極のトリック”(ノベルスカバーの紹介)“このジャンルの、文句なくナンバーワン”(ノベルス帯の島田荘司氏による推薦文)といった惹句は決して大げさではなく、本書を超える作品は生まれないのではないか*2とさえ思えます。

 そして本書の仕掛けのもう一つのポイントとなっているのが、作家である“私”を取り巻く“現実”をそのまま小説に投影するという設定の、擬似ノンフィクションともいえる形式で、特に改稿された『最後のトリック』では“私”=深水黎一郎であることが作中で明示されています*3。これによって、作中に描かれている“現実”が作品外に投影されることになるわけで、その“現実”にはもちろん被害者となる香坂誠一の存在も含まれています。つまり、作中で有馬が作品外の存在である読者を、無理やり作品の中に引っ張り込んで、しかもそれを犯人にしてしまうなんて、そんなこと不可能に決まっている”(56頁/ノベルス48頁~49頁)と指摘している問題を、逆転の発想――読者を作中に引っ張り込むのではなく、被害者の方を作品外へ引っ張り出す――で解決しようとする試みなのです。

 つまるところ本書の仕掛けは、犯人としての読者が小説を媒介にして“現実”の“香坂誠一”を“殺害”するというものです(下図参照)。あるいは、読者による“殺害”の顛末を記録した小説であるこの作品そのものが、“殺害”の凶器となっているといえるかもしれません。いずれにしても、作品外の読者が作品内の被害者を“殺害”するといったメタフィクション的なものとはまったく異なり、読者と被害者がともに作品外という同じ位置に立脚していると考えることができるわけで、“読者が犯人”という仕掛けとしては(おそらく)例を見ない、非常によくできたものといえるでしょう。

[現実]
読者
[“現実”]
“香坂誠一”
↓読む↑被害
[小説]
香坂誠一

*1: 気まぐれな読者相手では、それすらも必ずしも期待できないのはいうまでもありませんが。
*2: “読む”という読者の行為と“殺人”とを本書の仕掛け以上に緊密に結びつけることはおそらく不可能だと思われるので、(細部の改良はあり得るとしても)核心部分は本書のバリエーションにしかなり得ないのではないでしょうか。
*3: 単に“深水黎一郎”の名前が出ているだけではなく、“このトリックを実現するためには、深水黎一郎はそれまで、そこそこ読める本格推理小説を、何冊かは上梓しておく必要があった。”(344頁)と、より説得力を持たせるような記述がなされているのが見逃せないところです。

*

 ただし厳密にいえば、新聞連載という作中の設定と、河出文庫(または講談社ノベルス)としての刊行という現実との、発表形態の齟齬による問題もないではありません。

 現実とは異なる、新聞連載による発表という設定が本書で採用されているのは、少なくとも書籍としての発表では不可能なメリットを生じ得る、以下の二つの特性があるからではないかと考えられます。

(1)発表媒体の特性

 新聞の場合には、基本的に日々刊行されるために、書籍と比べて読まれるタイミングがかなり限られるという特性があります。そのため、例えば香坂誠一が“死んだ”後になってようやく問題の文章を読むような、“犯人”から除外される読者が生じにくいというメリットがあります。また、仕掛けの発動による香坂誠一へのダメージが一斉に集中することになるわけで、自分の書いた文章を読まれるだけで心臓停止に至るという真相の説得力が(多少なりとも)高まっているといえるのではないでしょうか。

(2)発表形式の特性

 連載という形式によって、最初に問題の文章が発表されてから結末が掲載されるまでにタイムラグが存在することになり、“私”は香坂誠一の死を確認してから結末を執筆することができるので、作中で香坂誠一を“殺害した犯人”として読者を告発できることになります。

 新聞連載という設定なしで、最初から書籍として発表された形をとるならば、香坂誠一の死は刊行の後でなければならず、作中でそれを描くことは不可能になります。そうすると、“この小説をここまで読んできた、読者であるあなた、あなたが香坂誠一を殺したのだ。”(343頁/ノベルス305頁)という決めの文章も、せいぜい“あなたが香坂誠一を殺すことになるのだ。”くらいが限界となり、告発の迫力が減じてしまうのは否めないでしょう。

 とはいえ、この作品が新聞に連載されたという事実はないのですから、本書の読者は現実と小説との間に“新聞連載”という虚構を、ひいては“新聞の読者”という架空の存在を想定せざるを得なくなります。また同様に、香坂誠一が新聞連載の途中で“殺害”された――読者が本書を読む前に香坂誠一はすでに“死んでいる”――ことから、その存在を本書の読者と同レベルの“現実”まで引き上げることはできず、“新聞の読者”と同レベルにとどまることになります(下図参照)。

      [現実]
読者
[“現実”]
新聞の読者
[“現実”]
“香坂誠一”
↓読む↑被害
[小説(新聞連載)]
香坂誠一

*4
[小説(河出文庫/講談社ノベルス)]
香坂誠一

 そう考えると、香坂誠一を“殺害”した“読者”とは現実に存在する本書の読者ではなく*5、あくまでも“新聞の読者”ということになり、結局は――人数の多寡はあるにせよ――作中で言及された“犯人を読者にしちゃった”(57頁/ノベルス50頁)作品と同様に、一般的な読者ではなく特定の(そして架空の)読者のみを犯人とするにとどまっている――“本書を読んだ読者は犯人ではない”と反論する余地が残されているように思います……ノベルス版の『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』では

*4: アイヨシさん(「三軒茶屋 別館」)が“本書のテキスト内において本書の真相を説明している部分がありますが、これは伏線の説明を具体的にページ数を指定して行なわれています。しかし、こうした具体的なページ数を示しての説明など、新聞誌上の連載で出来るはずがありません。”「『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』(深水黎一郎/講談社ノベルス) - 三軒茶屋 別館」より)と指摘していらっしゃるように、新聞紙上に掲載された状態の(仮想的な)この作品と講談社ノベルスで刊行されたこの作品とは、テキストそのものも完全に同一ではあり得ません(なお、改稿された『最後のトリック』ではこの問題は解消されています)。
*5: 市川尚吾氏は「e-NOVELS 週刊書評第277回「現在進行形の罠」」(注:残念ながらリンク切れ)にて、“《覚書》に記された内容、天文少年のエピソードは、実は作者である深水黎一郎氏の実際の経験に基づくものなのではないか。”という思いつきをもとに、本書の読者が犯人となり得る可能性を指摘していらっしゃいますが、これについてはやはり“保留”としておきます。

*

 改稿された『最後のトリック』では、“もし誠一が、未来のあなたの読書を感知していたら?”(345頁)と香坂誠一の感応能力を“拡張”することで、“新聞の読者”のみならず本書の読者をもしっかりと“犯人”の射程にとらえてあるのが(少々ずるい気がしないでもないものの)巧妙です。さらに、“まるで強靱なラクダの背骨を、最後に乗せた一藁が折るように”(345頁)と、ダメージの集中ではなく蓄積による死*6が示唆されることで、時期的な問題――香坂誠一の死と、読者が本書を読むタイミングのずれ――が完全に無効化されて、“本書の読者が(も?)犯人である”といわざるを得ない状況が構築されているといっていいでしょう。

 もちろん、新聞連載という虚構がそのまま残っている以上、前述の擬似ノンフィクション形式の効果も十全とはいえない部分がありますが、現在はデビュー当時と比べて本書の作者・深水黎一郎の露出が増えてきたこともあって、どのみち作中の“私”と現実の深水黎一郎氏を完全に同一視することはできない*7のですから、完全な虚構でも現実でもなく両者が入り混じった、いわば“現実に寄り添った虚構”ととらえるのが妥当でしょうし、それでも“読者が犯人”という仕掛けが成功しているのは確かだと思います。

 なお、『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』では“手紙の最後の部分”(347頁/ノベルス309頁)にまとめられていた“後日談”が、『最後のトリック』ではもう少し前に移されて、結末がよりすっきりと余韻の残るものになっているのが印象的です。

*6: 改稿前の『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』のネタバレ感想では、仮に新聞連載という設定を使わず書籍としての刊行が初出とした場合、作中で香坂誠一の死を明示できない(死のタイミングが明確でない)ことを逆手にとって“例えば、文章を読まれることによるダメージが香坂誠一の体に蓄積されていき、いずれは死に至るというような設定にすれば、単行本のすべての読者に“自分が犯人かもしれない”と思わせることができるかもしれません。”、とも書いていたのですが……。
*7: 私の知る限りでは少なくとも一箇所、明らかに現実の深水黎一郎氏と違う部分があります。

*

 最後に、“読者が犯人”ネタに挑戦した本書以外の作品を、知る限りリストアップしておきます(順序は適当)。ただし、私自身も未読のものがありますので、確実性に欠けている点はご了承くださいませ。

2007.08.08 『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』読了
2015.01.14 『最後のトリック』読了 (2015.01.16改稿)