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片桐大三郎とXYZの悲劇/倉知 淳

2015年発表 (文藝春秋)
「ぎゅうぎゅう詰めの殺意」
 気になるところが多すぎるので、箇条書き風に。
・推理の問題
 片桐大三郎は、乃枝に満員電車に乗っている演技をさせることによって、“被害者のコートとスーツの上着、ワイシャツにも、ほぼ一直線上の位置に注射針の貫通した痕跡が残って”(29頁)いたことを、犯人による偽装工作だと断じています。が、残念ながらこの推理には大きな問題があるといわざるを得ません。

 まずはやはり吊り革の問題で、被害者が山手線の車内で吊り革をつかんでいた描写はありませんし、“乗車率三百パーセント”(6頁)の満員電車の中にあっては、吊り革をつかむことができる乗客は一部にすぎないので、“被害者が吊り革をつかんでいたことが確実”とまではいえません。さらにいえば、標準的な身長の成人男性の場合には、吊り革をつかむ際にも腕(肩)をあまり上に持ち上げる必要はないでしょう。そうすると、被害者が実際にはどのような姿勢だったのかわからないので、コートがずれていたかどうかも定かではない――にもかかわらず、“どちらかというと小柄な方”(6頁)の乃枝に吊り革をつかむ演技をさせて、つまりはコートのずれがより大きくなる状況を恣意的に設定してあるわけで、手がかりに基づかないインチキくさい“実証”で推理の説得力を高めてあるのが姑息です。

 また、“被害者が吊り革に摑まらずに、ただ立っていた場合でも同じ”(93頁)とされていますが、これはもう明らかに一概にはいえない、としか。吊り革の場合と違って、コートの前をきちんと留めていればそれほどずれないようにも思われますが、いずれにしてもコートがずれるか否かまったく確実なことはいえないはずで、結局のところ、“毒を注射された時に被害者はコートを脱いでいた”というのは正しいかも知れないし間違っているかもしれない、ということになるでしょう。

 余談ですが、仮に“満員電車の混雑で必ずコートがずれる”とした場合、(混雑具合には多少差があるかもしれませんが)最終的には“ぎゅう詰めの満員電車になった”(98頁)西武池袋線の社内で、犯人が“人混みに紛れて(中略)列車の揺れるどさくさの中”(99頁)犯行に及んだ際に、スーツの上着は(コートと違って*1)ずれない、というのはおかしな話で、“ほぼ一直線上の位置”にあるスーツの上着の穴もまた、偽装工作という結論になりかねないのですが……。

 “犯行時、被害者はコートを着ていなかった”という推理は確かに意外ではあるものの、その意外性は、上述のように手がかりが不十分な状態で、あやふやな可能性を“事実”だと断定して推理の前提とすることによって生み出されたものなので、説得力に乏しいきらいがあります。これがまだ不可能犯罪のように、“他に合理的な仮説を想定する余地がほとんどない”状況であれば、“可能な”仮説が示された時点でそれなりの説得力が備わるともいえますが、この事件については無差別殺人という合理的な解釈もありますし、そちら以上に説得力があるとはいえないでしょう。

 もっとも、この事件の場合には“無差別殺人では困る”という警察の意向を受けての捜査協力であり、“山手線車内の激しい混雑の中で特定の被害者を狙うことはできない”という一種の不可能状況に対して、無差別殺人ではない可能性を示した(だけ)と考えれば、説得力が乏しくても問題ないということなのかもしれませんが。

・前例の問題
 これは瑕疵というわけではないのですが、片桐大三郎が指摘する“些細だが重大な矛盾点”――衣服がずれていたはずなのに犯行の痕跡が一直線になっている、という矛盾点は、某海外古典の短編((作家名)ジョン・ディクスン・カー(ここまで)(作品名)「絞首人は待ってくれない」(『幽霊射手』収録)(ここまで)ほぼそのままなので、そちらを知っていると面白味が薄くなってしまうのは否めないところです。しいていえば、衣服がずれる(可能性のある)状況として、現代の満員電車を持ってきたところが新しい、といえなくもないかもしれませんが……。

・偽装工作の物理的な問題
 片桐大三郎の推理では、犯人が山手線車内での犯行に見せかけるために、注射器でコートに穴を開けたとされています。ここで、“注射した背中の位置は、やった本人だからよく覚えている。”(104頁)とありますが、特に目印があるわけでもない背中、しかも犯行時のスーツの上にコートを着た状態で、さらには(片桐大三郎の推理によれば)30分近く前に針を刺した箇所が、すぐにわかるのか疑問ではあります*2。つまり“ほぼ一直線上”が可能かどうかということですが、これはまあ人目を気にせずコートをめくって確認してもいいかもしれません。また、犯人は適当に針を刺したつもりで偶然一直線上になったということもあり得ますが、それを採用する場合には当然ながら、推理が“当たった”のもまったくの偶然ということになるので、あまり救いにはならないのではないでしょうか。

 さて、乗客が降りる際に被害者がホームに倒れ、乃枝が躓いて転倒し、被害者に声をかけて様子を調べ、“おろおろする乃枝に、やっと一人の男の人が声をかけて”(9頁)、被害者の脈を調べてから、乃枝が駅員に知らせに行き――そこからようやく偽装工作が始まって、最後に注射器を車内に放り込む……これだけのことが起きる間、“二、三分に一本”(70頁)のはずの山手線が、ホームにずっと停車したまま待っていてくれたというのは、何とも都合のいい僥倖だと思います。いや、まさか犯人が、注射器を捨てるのは後続の別の電車でもかまわない、などと考えるとは……。

・偽装工作の心理的な問題
 片桐大三郎は、山手線車内での犯行に偽装することで捜査を攪乱できるメリットを挙げています(102頁)が、果たしてそれは、目撃者として捜査に協力すること間違いなしの乃枝に、自分の顔を覚えられる危険を冒すに足るものなのか――これが、犯人と被害者との間に接点のない無差別殺人であればまだわかるのですが、無差別殺人でない場合、すなわち犯人が捜査線上に浮かぶ可能性がある場合には、どう考えてもメリットに比べてリスクが大きすぎるので、犯人がよほどの阿呆だったということでもなければやりそうにない工作なのは確かでしょう。

 しかして、いざ偽装工作を実行するにあたっては、乃枝が立ち去った後に、おそらくはまず手袋をはめてから注射器を取り出し、被害者のコートに穴を開ける――場合によってはコートをめくって傷の位置を確認しながら――という不審な行動を、乗り降りする客や乗車待ちの客が大勢いる目の前で、いつ誰かが声をかけてきてもおかしくない中、やらなければならないわけで、これに対しては他ならぬ片桐大三郎自身の(別の事件での)言葉を引用しておきましょう。
犯人にとっては、見られていたかもしれないという可能性だけで、充分に危機感を覚えていい条件だ。そんな状況なのに(中略)殺人に及ぼうとする犯人がいるものだろうかね
  (215頁~216頁)
 それでも犯人が偽装工作を実行したとすれば、さすがに誰か一人くらいはそれを不審に思う目撃者が出てくるはずだと思われるので、“乃枝以外に目撃者は一人も出ていない”(104頁)ことが、ホームで露骨に不審な行動を取る人物がいなかったことを裏付けている、ともいえるのではないでしょうか。

・警察の問題
 警察が片桐大三郎に相談を持ちかけてきた時点で“発生から五日も経っている”(33頁)上に、無差別殺人に絞って捜査を行っているわけではないにもかかわらず、被害者の間接的な関係者である容疑者が、謎解きの時点でもまだ捜査線上に浮かんでいない節があるのは、いささか無能すぎるようにも思われます。

 それはまだいいとしても、最後に容疑者を任意同行したところで、電話での報告だけで済ませているのは論外。任意同行すれば犯人が自白してくれる、という甘い(?)見通しがあるのかもしれませんが、まずは何をおいても、目撃者である乃枝を呼び出して容疑者に面通しさせなければ、お話にならないでしょう。

「極めて陽気で呑気な凶器」
 まず、片桐大三郎の謎解きよりも前に、犯人があからさまになっているのが気になるところで、その原因はもちろん、被害者からの電話と死体発見との間にわずか二分間*3しかないところにあります。片桐大三郎も“二分の間にこれだけのことをするのは、ちょっと無理があるだろう”(169頁)と指摘しているように、電話の時点で被害者が生きていたとすれば、犯人が短時間ですべての作業をこなすのは不可能となるわけですから、被害者がまだ生きていたとする久川里美の証言は偽証にほかならないことになり、その久川里美が犯人である蓋然性が非常に高いのは明らかです。

 にもかかわらず、“これという手掛かりもないまま、ずるずると一ヶ月が過ぎてしまいました”(139頁)という警察は、信じがたいほどの無能といわざるを得ません。しかし片桐大三郎の方も、二分間では無理”という条件を持ち出しておきながら、電話の後で犯人が物置部屋に侵入した可能性だけを否定しつつ、“もう犯人は物置部屋に入っていた、と考えるのが一番理に適っている”(169頁)ふざけたことをぬかしているのが大きな問題。犯人が電話より前に物置部屋に入っていたというだけでは、“二分間では無理”とされている作業――“侵入し、ウクレレを取り、被害者を撲殺し、足跡の拭き掃除をして、さらに凶器の指紋まで拭き取ってから逃走”(169頁)のうち、最初の“侵入し”だけしか省略できないのですから、依然として無理であることは明らかなはずです。

 このあたりに気づいても、片桐大三郎の推理でも最終的に“久川里美が犯人”という同じ結論になっているので問題ない――とお考えの読者もいらっしゃるかもしれません。しかし……久川里美が犯人だとすれば、被害者がアトリエを出る際に行き先を告げなかったとする証言(164頁)信用できないことになるわけで、被害者が物置部屋に行くことを久川里美に告げたとすれば、その後しばらくたってから(龍仁少年がいなくなった後で)、なかなか戻ってこない被害者の様子を見に行って、つまりは物置部屋で事件が起きた、という仮説が成り立ちます。凶器がウクレレだったことも、それこそ被害者が絵のモチーフにしようと手にとって眺めていたところを、被害者の手から奪って頭を殴りつけた、ということで説明がつくでしょう。はい、これでQ.E.D.……あれっ?

 ……すでにお分かりかとは思いますが、片桐大三郎の推理――“③犯人はなぜ物置部屋に入ったのか”(211頁)から始まってアトリエが現場だと結論づける推理は、前述の久川里美の証言が真実であることを前提としている(214頁)もので、それを前提から外した場合には“被害者が物置部屋にいることを犯人が知り得た”可能性が残ることになり、物置部屋が犯行現場である可能性を全否定できず、作者の意図した“解決”に導くことができなくなってしまいます。つまり、早い段階で久川里美が犯人であることが露見して証言に疑義が生じると、作者にとって非常に都合が悪いことになってしまうわけで、それを防ぐために片桐大三郎は――作者の代理人として――謎解きの手順をねじ曲げている、といえるでしょう。

 かくして、(可能性がゼロではないにせよ)本来ならば推理で導き出されないはずの“解決”が示されると同時に、上述の“別解”の可能性が読者の目から隠蔽されることになっており、もはや詐欺的な手法といっても過言ではないように思います。そして、最終的に被害者からの電話の証言が偽証だったと確定することによって、ざっくり書くと、
久川里美の証言Aは信頼できる(根拠はない) → 〈中略〉 → 久川里美の証言Bは信頼できない(根拠はある)
という具合に、(別の証言なので直接矛盾はしないものの)何とも気持ちの悪い流れになっているのが、ある意味で面白い……というか何というか。

 ということで、片桐大三郎の推理は文字通り砂上の楼閣としか思えないので、細かいところに気をつけて読む気力も萎えてしまいますが、とりあえず、“犯人は知らずに、偶然あの部屋のドアを開けた”(222頁)という偶然の可能性を否定する一方で、(確かに意表を突いて面白くはあるのですが)よりによってそのタイミングで被害者が突然立ち上がって歩いていったという“偶然”を採用するのは、いかがなものかと思わないでもありません。

 推理についてはこのくらいにしておくとして、“(他の適した物品を押しのけて)なぜウクレレが凶器だったのか?”という魅力的な謎から、ホワイダニットの色合いが薄れていって“たまたまそこにあったから”という妥当な理由に落ち着いてしまうのは、さすがに肩透かしの感があります。まあ、どう考えても合理的な理由は思いつかなさそうなので、仕方ないといえば仕方ないのかもしれませんが、それならば、現場に他の物品を用意して凶器の不可解性を高めたのは逆効果といわざるを得ないでしょう。

 ちなみに、ウクレレの“弦もボロボロに錆びて”(126頁)といった記述は、被害者がウクレレを絵のモチーフにしようとしたという推理を補強するために、(見た目はほぼそのままでも)音が鳴らない状態(225頁)にしておく必要があったということなのでしょうが、そのためにあえてウクレレでは普通でないスチール弦を使うのは、本末転倒というか……もちろん、単に作者が勘違いしていた可能性もありますが。

「途切れ途切れの誘拐」
 まず、事件の真相はなかなか面白いと思います。どこからどう見ても身代金目的の誘拐事件だったものが、“主”と“従”の逆転によって鮮やかに構図を一変させるのが見事ですし、最後に浮かび上がってくる恐るべき凶器の、あまりにも常軌を逸した発想のインパクトはやはり強烈です*4。また、序盤に描かれている“ユニークな選挙”の候補者たちを伏線(?)とした“田中某”という犯人には、ニヤリとさせられるところがあります。

 しかしながら、真相から逆算して考えてみると、このような事件を演出したことによる“副作用”として、犯人の不合理な行動が浮上してきます。犯人が赤ん坊の遺体を持ち去った理由について、片桐大三郎は“ただ凶器を隠匿しようとした”(326頁)と説明していますが、いくら特殊な凶器といっても犯人の身元につながるわけでもないのですから、隠匿の必要性は皆無といっていいでしょう。そうなると、犯人は最初から営利誘拐に偽装するつもりだった*5と考えるべきかもしれません……が、しかし。

 そもそも、遠藤亜里沙と赤ん坊の遺体が一緒に残された現場を目にした場合、赤ん坊が“凶器”だとは考えづらいのですから、少なくとも“犯人はわざわざ赤ん坊まで殺した”*6、すなわち犯人は(例えば貴島夫妻に対する深い怨恨など)赤ん坊を殺す動機を持っていた、ととらえるのが自然ではないでしょうか。そう考えると、犯人が遠藤亜里沙を狙ったことから目をそらそうとすれば、赤ん坊の遺体を現場に残していくのがベストだといえるので、この作品は根本的なところで成立しないということになるのです。

 そして、例によって(?)推理にもやや難があります。まず、犯人が遠藤亜里沙の携帯電話を使おうとしなかったことが“決定的に不自然”だとされていますが、序盤に“パスワード”(241頁)の話も出ているように、今どき他人の携帯電話を簡単に使えるのが当たり前だとは考えにくいので、“決定的に不自然”などといえるはずはないでしょう。また“途切れ途切れの電話”の方も、選挙カーが原因というところまでは妥当だと思いますが、単純にうるさいから(電話が聞こえづらくなるから)という理由で十分だと思われるので、犯人の名字が“田中”だとする推理はそれこそ“恐ろしく薄弱な根拠しかない”(319頁)というべきでしょう。

 片桐大三郎が、このような怪しげな推理だけをもとに(終わった事件ではなく)進行中の“誘拐事件”に介入するクライマックスには、正直なところどん引きです。推理が当たっていた場合には、このような形で事件を止めるのがベストだということは理解できますが、推理が外れれば最悪の結果を招く恐れがあるハイリスクなギャンブルにしか見えません。もちろん、所詮は現実離れしたフィクションの話ですから、“(根拠が薄弱でも)探偵役の推理は絶対に正しい”ことを“お約束”として受け入れれば、問題はないのかもしれませんが、それならばもう“推理”の代わりに占いでもしていればいいのではないでしょうか。

 また、片桐大三郎が電話に口を挟む内容も気になるところ。事件の真相を匂わせるのは“いくら引き延ばしたところでお前のやったことはゴマ化せんのだぞっ”(296頁)程度にすぎず、あとは紋切り型の台詞ばかりで、それだけで犯人が恐れ入るかといえば、大いに疑問です。どちらかといえば“田中”の方が効果的だと思われますが、これは片桐大三郎自身が“当たったのはただのまぐれだ”(319頁)としていますし、それが外れていた場合には、“お前のやっていることは全部お見通しだ”(296頁)と言われたところで、何が“全部お見通し”なのかとかえって開き直られるのがオチではないでしょうか。というわけで、ミステリとしての演出は抜きにして、できるだけ貴島夫妻にショックを与えないように、かつ本気で犯人を止めようとするならば、(“田中”は口にせずに)例えば“遠藤亜里沙が目当てだったことはわかっているんだ”のような言葉が適切だったのではないかと思われます。

「片桐大三郎最後の季節」
 まず、推理の中で検討されている犯行手段、すなわち原稿をキャビネットの穴から掃除機で吸い取るというバカトリックには苦笑を禁じ得ませんが、幻のシナリオが駄作だったと仮定することで、乱暴すぎる盗難が成立しないこともないようになっているのがうまいところです。

 そして、割れた灰皿が放置されていたことなどから耳の聞こえない人物が犯人という結論に至る推理は見ごたえがあり、特に犯行時刻を絞り込んで見回りのアナウンスと組み合わせるあたりは秀逸です。このように、“片桐大三郎が犯人”と読者をミスリードしておいてから、片桐大三郎がまだ耳の聞こえていた頃の出来事だったという仕掛けを明かす手際が、実に見事です。

 実のところ、冒頭から“乃枝”の名前が出てこないのもさることながら、ノートPCで片桐大三郎に会話を伝える描写がなかったり*7、逆にその場の会話が片桐大三郎に聞こえている様子の場面――例えば、八乙女についての説明を“番頭さん”から引き継ぐ箇所(347頁)――があったりするので、「ぎゅうぎゅう詰めの殺意」での、銀子が“乃枝の仕事の前任者だった”(11頁)という記述と併せて、気をつけて読めばわかりやすいようにも思われますが、よくできた仕掛けであることは確かでしょう。

 真相が明かされて“事件”が一段落したところで、片桐大三郎の耳が聞こえなくなり始める結末も絶妙。“片桐大三郎の物語”としては描かれて当然ともいえる“事件”ですし、役者としての“最後の季節”ということで題名にも合致します。何より、(以下、エラリイ・クイーン『レーン最後の事件』の内容に関わるので、一応伏せ字)『レーン最後の事件』をミスディレクションに使った結果として、『レーン最後の事件』から遠ざかった印象があるので、それに対して最後に一種の“悲劇”を持ってくることで、収まりがよくなっている(ここまで)感があり、印象的な幕切れになっていると思います。

*1: “コートの生地は固いから、スーツの上着やワイシャツなどと違って、肩ごと全体的に上に上がるはずなのだ。”(92頁)というのは誤りで、それこそ吊り革をつかんだ状態では、スーツの上着もコートと同じように上に上がります。
*2: 犯行時と違って被害者が倒れていることも、針を刺した箇所がわかりにくくなる要因となり得ます。
*3: 作中では、“2:07”の電話の後、死体発見が“2:09”(いずれも168頁)とされていますが、久川里美は電話を受けてから“一分もたたないうちに”(165頁)物置部屋に行ったと証言しているので、微妙にずれがあるような……他に死体発見の時刻を確定させる記述はあったでしょうか?
*4: 商業出版ではない作品で類似の前例があったので、個人的には“初体験”ではないのですが、やはり凄まじい発想であることは間違いありません。ちなみにそちらの作品は、実現可能性に疑問が残るものの、“凶器探し”がメインとなっている点で、この作品と比べると筋は悪くないと思います。
*5: “犯人が事件を営利誘拐に偽装しようと思い立ったのは、夜が明けてからのことだったろう”(326頁)という片桐大三郎の推測とは違ってきますが。
*6: 遠藤亜里沙の直接の死因を踏まえると、どちらかといえば赤ん坊を殺すことが主たる目的のような印象を与えそうです。
*7: 一つ前の「途切れ途切れの誘拐」の終盤、乃枝が“耳”の役割を放棄した状態が続いているのは、このあたりの叙述に違和感を持たせないように、読者を“慣れさせておく”意図もあるのかもしれません。

2015.10.28読了