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もう誘拐なんてしない/東川篤哉

2008年発表 (文藝春秋)

 まず、狂言誘拐の中心となる身代金受け渡しの方法については、“……橋……海峡……ロープウェー……”(111頁)というご当地三題噺ともいうべき発想*1が面白いと思います。もちろん警察が介入しないからこそ可能な方法だとは思いますが、関門海峡という舞台がうまく生かされていますし、身代金を奪おうと待ち構える犯人の隠れ場所が橋の真下という盲点であるところはよくできています。

 しかし、その身代金受け渡しの方法がさらに、メイントリックであるアリバイトリックの布石となっているところが見事です。橋を間に挟むことで“犯人側”(翔太郎と絵里香)と“被害者側”(皐月)の視点が完全に分断されている――少なくとも直接の接触がない――のが最大のポイントで、それによってどちらの側も受け渡しの相手が“偽物”であることに気づくことなく、結果として時刻のずれが表面化しにくなっているのです。

 そして、身代金受け渡しの後に“犯人側”(翔太郎と絵里香)と“被害者側”(皐月)が合流することで、それぞれが別個に経験した“身代金受け渡し”という出来事が重ね合わされることになるのが非常に秀逸で、“午前三時に身代金の受け渡しが行われた”という翔太郎と絵里香の思い込みが皐月という“別の視点”から補強(保証)されるわけですから、真相を見抜くのは非常に難しいのではないかと思います。

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 実際のところ、本書のメイントリックは純粋にアリバイトリックとしては思いのほかシンプルで、(すぐに思い出せませんが)おそらく似たような前例もあるかとは思います。が、それを“狂言誘拐”というプロットに組み込んだところが本書の眼目でしょう。

 誘拐ものにおいては、リアルタイムで進行する事件を“犯人側”と“被害者側”の双方の視点から並行して描写するという手法がポピュラーであるわけで、一つの出来事――例えば身代金受け渡し――が双方の側から二度にわたって描かれることも珍しくありません。本書ではこれを逆手にとって、実際には二度行われた“身代金受け渡し”をそれぞれ描きながら、一度の身代金受け渡しが二度にわたって描かれたように見せかけることに成功しているのです。

 そしてもう一つ、本物の誘拐ではなくあくまでも“狂言誘拐”である点も重要です。本物の誘拐であれば、身代金受け渡し後に“犯人側”と“被害者側”の双方から情報が持ち寄られることはない――翔太郎が皐月と話し合うこともなく、人質である絵里香が“犯人側”の事情に精通することもない*2――ので、アリバイトリックの中心となる“午前三時の時点では梵天丸の貯蔵庫に高沢の死体がなかった”という誤認も生じ得ません。“狂言誘拐”であるがゆえに翔太郎・絵里香・皐月の三人が顔を合わせて状況を話し合うことができ、結果としてアリバイトリックが成立している点を見逃すべきではないでしょう。

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 事態をややこしくしているのが、皐月が竹村印刷所から持ち出した三千万円分の偽札です。早い段階で偽札の存在が明らかになり、それが身代金と絡んでくることが予想される中、皐月が身代金に相当する三千万円分の偽札を確保し、それを身代金として使うアイデアが二度にわたって示される(121頁〜123頁、135頁〜136頁)ことで、そちらの偽札が効果的なレッドヘリングとなっているのがよくできています。さらにその偽札の存在のせいで、皐月が念入りに身代金をチェックする(147頁)ことになっているのがうまいところで、“あらため”が行われた結果、偽札が使われた可能性が(表向き)排除されるために竹村謙二郎殺しの意味もわかりにくくなっています。

 実際には、(やや説明不足ながら)皐月が“ただしケースの中身は偽札――おまえが竹村謙二郎を殺して奪った偽札だ。”(251頁)と指摘しているように、一度目の“身代金受け渡し”で使われた偽札は、皐月が持ち出して平戸に保管させた“三千万円”とは別物で、山部が竹村を殺した際に――皐月が竹村の死体と偽札を発見するよりも前に――持ち出した*3ものだと考えられます。山部は竹村が偽札を作っていることを事前に知っていた、ということなのでしょう。

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 解決への手がかりについては、梵天丸の往復にかかった時間や電光掲示板に表示された潮流など、これまた関門海峡という舞台が生かされているところがよくできています。そして、翔太郎の情けない写真が最後の決め手となっているのも面白いところです。

 ただ、解決場面まで翔太郎と皐月の二元中継となっているせいか、どうも駆け足に感じられるのが残念なところ。また、物語そのものも中途半端なところで終わっている感があるのですが、こちらは狂言誘拐からのつながりで警察が介入しないまま進んでしまっているため、後日談が非常に書きにくいということは十分に想像できるので、致し方ないかもしれません。

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*1: ただし、この方法は実際には山部が考えたものであって、引用した場面で甲本が思いついたわけではないのが残念なところですが。
*2: そもそも、絵里香が“犯人側”の一味であるからこそ身代金受け渡しに立ち会えているのであって、本当に人質であれば考えにくいことでしょう。身代金受け渡しの方法とアリバイトリックのことを考えれば、受け渡しの際に人質の無事を皐月に確認させることは不可能で、わざわざその場に連れて行くメリットが見当たらないからです。
*3: “犯人”から脅迫電話がかかってくるよりも前ですが、身代金の額は山部自身が決めて甲本に指示したものですから問題ありません。

2008.02.17読了

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