殺人者と恐喝者/C.ディクスン
Seeing is Believing/C.Dickson
まず第一の事件(アーサー殺し)は、犯人が直接自らの手を汚すことなくヴィッキーにアーサーを殺させるという、いわゆる“操り”トリックになっています。しかもその“操り”自体、催眠術の実験の手順をそのまま利用した、いわば“ただ乗り”になっているのが面白いところです。
そして、短剣に近づいたのがそのヴィッキーだけであり、彼女以外には短剣をすり替えることが不可能だったようにみえるところも見逃せません。犯人が部屋の外から窓越しにすり替えを行うことによるアリバイの確保に加えて、“操り”の対象であるヴィッキーの容疑が濃厚になる(*1)わけで、非常に効果的なトリックといえるでしょう。
とはいえ、さすがにマジックハンド(*2)を使ったというのはあんまりな気もしますし、原書房版『殺人者と恐喝者』の解説で森英俊氏が指摘しているように手がかりや伏線が十分とはいえない(*3)のも難点ではありますが、室内にいた人間がすり替えを行った形跡がまったくないことを考え合わせれば、あるいは真相を見破ることも不可能ではないかもしれません。
一方、第二の事件(ヴィッキー毒殺未遂)の犯行手段そのものは、単純な“早業トリック”で面白味を欠いていますが、ストリキニーネによる症状を破傷風に見せかけるというアイデアが非常に秀逸で、催眠術の実験絡みで使われたピンをうまく取り込んであるところが見事です。
しかし、本書の最も重要な仕掛けが殺人者(ヒューバート)と恐喝者(アーサー)の立場を誤認させるトリックであることはいうまでもないでしょう。実際には“殺人者が恐喝者を殺害した”というありふれた構図であるにもかかわらず、両者の立場を入れ替えてみせることで、“殺人者アーサー”を殺害する動機のない“恐喝者ヒューバート”は容疑を免れることになっているのです。
この立場の誤認は、作中では(ヒューバートの嘘で補強された)ヴィッキーの思い込みに端を発していますが、さらに読者に向けては以下のような、冒頭の地の文の記述による仕掛けが用意されています。
ある真夏の夜、グロスターシャー州のチェルテナムで、アーサー・フェインはポリー・アレンという名の十九歳の女性を殺害した。
それが事実として認められた。すなわち――
(7頁)
これは、少なくとも登場人物の視点ではない(*4)地の文に仕掛けられた、アーサーが“殺人者”だと誤認させる叙述トリックです。フェアプレイを重んじる立場からすれば“嘘”があってはならない地の文において、いわば作者自らが“アーサー=殺人者”だと保証しているように見せかけたトリックで、拙文「叙述トリック分類」では[A-2-7]役割の誤認の数少ない例の一つとして想定しているものです。後にH.Mが指摘している(276頁)ように、実際には“ヒューバートによって認められた”(ことが一部省略されている)にすぎない、ということではあるのですが、限りなくアンフェアに近い、あざとすぎる仕掛けであることは確かでしょう。
原書房版の森英俊氏の解説によれば、原文は“That was the adimitted fact”
となっているようですが、それをストレートに訳した原書房版(森英俊訳)の“それは認められた事実であった。”
(同書5頁)では、“事実であった”という語句の印象が強すぎて、かなりアンフェアに感じられてしまいます。一方、創元推理文庫新訳版の“それが事実として認められた。”
では逆に、アンフェア感はやや薄まっているものの、“事実として認められた”とわざわざ書かれていることから、それが“事実ではない”ことがわかりやすくなっているのは否めません。
個人的には、長谷川修二訳『この眼で見たんだ』(別冊宝石63号)の“という訳なのである。”
(同書6頁)という絶妙な意訳が好みですが、こちらは以下に引用する解決場面が不自然なことになっているのが残念。
「いいかね、夫が殺人者であるというあんたの知識は『認められた』事実だった。
その通り。しかしだ、それは誰によって認められたのかな?
(高沢治訳『殺人者と恐喝者』(創元推理文庫新訳版)276頁)
「な。お主の良人が殺人者であるという知識は、『という訳』だというのに過ぎんのじや。
「そうなのじや。だが、誰がいつたのじやな?
(長谷川修二訳『この眼で見たんだ』(別冊宝石63号)134頁)
これはそもそも、作中の登場人物であるH.Mが、認識し得ないはずの叙述トリック(冒頭の地の文の記述)(*5)を解説するという反則気味の場面ですが、それでも“『認められた』事実”という正確な(?)表現であればまだ偶然一致することもないとはいえないところ、“『という訳』だ”では(文章がおかしいだけでなく)H.Mがそのような表現をすること自体が不自然きわまりない――冒頭の地の文を意識したとしか考えられない――といわざるを得ないでしょう。
いずれにしても、この叙述トリックがいわば“やらかしてしまった”ものであることは衆目の一致するところでしょうが、それもまた読者を騙すためには手段を選ばない、カーらしさの表れであるように思います。
*2: ちなみに、長谷川修二訳『この眼で見たんだ』(別冊宝石63号・1957年)では
“不精ばさみ”という何とも凄まじい訳語になっており、さすがに時代が感じられます。というか、当時はこれで読者にも意味が通じたのでしょうか。
*3: 森英俊氏の解説で挙げられている手がかりのうち、
“H・Mがピンを腕に突き刺すトリックを実演している際の「彼は右手をのばして、なにかを押すように指を動かした」(一三〇頁)なる表現(注:創元推理文庫新訳版では(原書房版306頁)という箇所については、確かに作中の解決場面に“卿は右手を突き出し、何かを押すような指遣いをした”(134頁))”
“「わしはこのささやかな仕掛けを」彼は続けた。「木曜に、痛まずに腕にピンを突き刺すトリックの話をしているときに最初に思いついた。”(同書286頁;創元推理文庫新訳版では294頁)と記されてはいますが、その前後でピンを腕に刺す話しかされていない以上、読者に対する手がかりとするのは相当に無理があると思います。
*4: 客観視点ではなく、作者の視点とみるべきでしょうか。
*5: 作中の登場人物は、当然ながら自身が登場している小説そのものを読むことはできない(作中作を除く)ので、自身の独白以外の“地の文”、ひいては叙述トリックを認識することができず、したがってそれを解説することもできません。
2000.09.03 『この眼で見たんだ』読了
2008.03.09 原書房版『殺人者と恐喝者』読了 (2008.03.17改稿)
2014.02.04 創元推理文庫版『殺人者と恐喝者』読了 (2014.02.09改稿)