海外作品は読みにくいのか?

2001.09.26 by SAKATAM



はじめに

 読書が好きな方の中には、国内の作品は読むけれど海外の作品は苦手だ、という方が結構いらっしゃるのではないかと思います。私自身、ある時期から海外ミステリをほとんど読まなくなってしまいました。再び読むようになったのはここ2年ほどのことです(ところが、海外SFはそれなりに読み続けていたのでした。これについては後述します)。実際に読んでみると、特に古典作品などには非常に面白い作品がたくさんあり、今までほとんど読まずにいたのが非常にもったいなく思えました。そこで、海外作品に対する苦手意識について考えたことをあれこれ書いてみようと思います。皆様のお役に立てれば幸いです。




読みにくい理由

 これについては、みけさん「またたび横丁」)による「海外作品が苦手な方へ」にわかりやすくまとめられていますので、そちらを読んでいただければ済むのですが、私なりに気がついたことを記しておきます。

1.登場人物の名前
 外国人の名前はどうしてもなじみの薄いものが多い上に、大半は片仮名で書かれるために字面で判別しにくいという問題があります(例えば私自身が最も苦しんだのは、A.バークリー『毒入りチョコレート事件』のユースティス・ペンファーザー卿とベンディックス氏でした)。ならば漢字で書かれた中国人の名前が判別しやすいかというと、これまたそうではないように感じられます。結局は慣れの問題としかいえないのかもしれませんが、逆に多少気合いを入れて読めば何とかなるのではないでしょうか。

2.背景
 海外作品は日本の読者を想定して書かれているわけではなく、本来は特定の国の読者を対象とするものです。したがって、物語の背景となる風物など、読者が当然知識を持っているという前提で、詳しく書かれないことが多いと思います。このあたりは、知識がある方が楽しめるのはもちろんですが、知識がなくても物語を理解する障害にはならない場合が多いので、外国の雰囲気を楽しむつもりで大半は思い切って読み飛ばしても構わないでしょう。

 しかし一部のミステリでは、その直接書かれない“背景”が中心となる謎に関わってくる場合があるので注意が必要です。
 私自身が遭遇した典型的な例としては、E.クイーン『チャイナ・オレンジの秘密』があります。 この作品の中心となる謎は、密室内の殺人、そして室内の家具等がすべて逆さまにされていたのはなぜか、というものです。しかし、前者はともかく、後者の謎は大多数の日本人には解くことができないでしょう。また、『エラリー・クイーンの事件簿2』に収録されている「『生き残りクラブ』の冒険」も同様です。以下、これらの作品の真相に言及しますので、未読の方はご注意下さい。
『チャイナ・オレンジの秘密』
(以下伏せ字)“キリスト教の聖職者はカラー(襟)が逆になった服を着ている”(ここまで)という事実が鍵になっている。

「『生き残りクラブ』の冒険」
 謎を解く手がかりとなっているのは、(以下伏せ字)“米国では消火栓は赤色、郵便ポストは緑色に塗られている”(ここまで)という事実である。
 どちらの作品においても、これらの事実は解決場面まで伏せられています。クイーンの想定した読者にとっては、これらの事実は自明なものだったからでしょう。しかし一般的な日本人読者はその知識を持たないため、解決が唐突に感じられてカタルシスが得られません。このような作品は何とも致し方ないので、不運だったとあきらめるしかないでしょう。

 もう一つ、アルファベットの綴りが重要になる場合というのもありますが、こちらは元の単語なり文章なりが付されていることがほとんどだと思います。逆にそれによって真相がわかりやすくなってしまうという弱点もありますが、これまた仕方ないでしょう。

 ところで、この“背景”についてはミステリよりもSF(や異世界ファンタジー)の方が圧倒的に有利です。多くのミステリと違ってもともと現実と異なる世界を舞台にしているため、作中での背景の説明が前提となっているからです。したがって、この点に限っていえば海外ミステリよりも海外SFの方が読みやすいといえるでしょう。ミステリ好きで海外作品が苦手な方は、例えばR.J.ソウヤーの作品やI.アシモフ『鋼鉄都市』などのミステリ風味のSFから入るのも一つの手かもしれません。

3.翻訳の文章
 これは必ずしも翻訳者の責任とばかりはいえないかもしれませんが、翻訳作品の独特の文章が苦手だという方もいるでしょう。しかし、国内作品がすべて読みやすい文章で書かれているとはいえないはずですし、日本語になってさえいれば意味を把握することは可能であるはずです(もちろん誤訳は論外ですが)。特にミステリやSFなどは本来、読者に(多少なりとも)考えることを要求する種類の小説ですから、それを好む読者にとっては少々堅い文章でも意味を把握しながら読み進めることはさほど困難ではないのではないでしょうか。



海外作品を読む意義

 私が海外作品を読む理由は、単純に面白いからです。面白くない作品を無理に読む必要はないと思いますし、それで得られるものもおそらく少ないでしょう。しかし、仮に1冊読んだ本が面白くなかったとしても、海外作品すべてが面白くないわけではありません。むしろ面白い作品がたくさん埋もれているのが実状で、海外作品だというだけでそれらを敬遠してしまうのは非常にもったいないと思います。

 また、特にミステリの場合には科学技術などと同じく過去からの蓄積をもとに発展してきた側面があるわけで、最新の科学技術を理解するために基礎を学ぶ必要があるように、海外の古典を読むことで国内作品もより楽しめるようになるといえるのではないでしょうか。今でも読み継がれている古典などは、現在でもある程度通用する面白さを持っているのは間違いない、ということもあります。

 少しでも興味のある方は、ぜひ一度海外作品を手にとってみて下さい。




おまけ:原書への挑戦

 海外作品を読み慣れてくると、原書を読んでみたいという欲求に駆られる方も出てくるでしょう。私はまだ10冊ちょっとしか読んだことがありませんが、その経験からいえることをいくつか記しておきます。

 まず、英語の勉強というよこしまな動機ではおそらく続かないでしょう。なぜなら、普通に勉強をした方が楽だからです。英語の勉強という目的だけで読み通すには、本1冊という分量は長すぎます。むしろ雑誌や新聞の方が役に立つでしょう。似たような理由で、邦訳が入手できる作品も難しいと思います。どちらも、どうしてもその原書でなければならないという切実な欲求が欠けてしまうのです。したがって、“読みたい”という動機が最も強くなる、好きな作家の未訳作品がいいでしょう。私の場合、最初に読んだ原書はR.J.ソウヤーの未訳作品(当時)である『さよならダイノサウルス』でした。

 題材が決まったら次は実際に読むわけですが、できる限り辞書は引かないことをおすすめします。翻訳するわけではないので、いちいち日本語に置き換える必要はありません。前後のつながりである程度想像がつきますし、しばらく読み進んでからわかる場合もあります。むしろ、辞書を引くことによって読むリズムが乱されるという弊害を避けるべきではないかと思います。

 それから、しおりは必須です。字面で内容を判断しにくいので、しおりがないとどこまで読んだのかがすぐにわからなくなってしまい、いたずらに何度もページをめくる羽目になります。

 最後に、よほど英語に堪能な方以外は日本語の本を読むより時間がかかるのが当然です。私の場合、日本語よりも5倍ほどはかかります。決して焦らず、少しずつ読み進んでいくのがいいでしょう。

 原書を読むのは決して楽ではありませんが、読む前に想像するほど難しくもありません。どうしても読みたい本であれば必ず読み通せると思います。怖がらずに、ぜひ一度挑戦してみてはいかがでしょうか。



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